|
●平泉エッセイ |
●Hiro's Twitter ●皇居周辺の景観 ●芭蕉の視点ブログ ●Hiro's Videos ●Hiro's Interviews ●Hiro's Opinion blog ●Hiro's Web アルバム ●宇治平等院 考 ●鎌倉関連エッセイ |
●高野山エッセイ |
---|
鎌倉大仏の周囲はいつの世も人々の集う場所だった (佐藤弘弥2011年夏撮影) |
||
鎌倉大仏と災害都市「鎌倉」 1 鎌倉の代表的景観というものを考えてみる。吾妻鏡を読むと、随所に「大地震」、「大風」「洪水」という表記が目に付く。1333年に北条高時が自害して鎌倉幕府が存在した150年の間、さながら鎌倉は災害常襲地帯そのものだ。 三方を山に囲まれている鎌倉という中世都市が、いかに、災害の多い場所だったか分かる。「大地震」や「大風」、「洪水」という記載も目につく。こうした中で、私は当時鎌倉に住んでいた住民が、深沢という都市鎌倉への西の玄関に当たるような地域にあって、地震が起これば、激しく揺すられ、その後に津波がくれば波をかぶる深沢の大仏(鎌倉の大仏)の凛とした姿が、どれほど鎌倉の庶民に勇気を与えたのではないかと想像する。 災害都市鎌倉にあって、この大仏がどんな存在だったか、考えてみたい。 大仏が造られたのは、吾妻鏡の嘉禎4年(1238)3月23日の条に、「深沢里大仏事始」記載がみられる。「浄光という僧が、全国を勧進して廻り、この計画を推進したようだ。 この「浄光」だが、静岡で生まれたという出自以外、どのような生涯を送った人物だったか、分かっていない。それでも「浄土の光」と類推される僧名は、いかにも浄土宗系の僧侶と思わせる名だ。 さて同年(1238)5月18日の条には、「深沢里の大仏の御頭(おぐし)を挙げ奉る。周は8丈」とある。この時、木像の大仏に、頭部が差し込まれて、大仏が完成したことになると思われる。周8丈は、周囲ではなく、坐像が立ち上がった時、8丈(24m)となり、坐像は、およそその半分の相当すると解釈されている。 浄光が、当地にどのような思いで、この大仏を建立しようとしたのか、その謎を解く文書が伝わっている。「古今集秘妙」にある「新大仏勧進進上人浄光跪言上」というものだ。内容は、北陸、西国に向かい新大仏の勧進に歩くに当たって、鎌倉幕府から命令書を書いて欲しいとのお願い状だ。 肝心な部分を、現代語に訳して掲載してみる。 「祈るのは、この大仏が東国繁栄の本尊であることです。すでに東国を助成するとのご命令をいただいておりますが、東国に西方浄土の極楽の教主である阿弥陀如来を建立して、どうにか西方(北陸、西国を指す)での勧進を成し遂げたいと思います。(一人より)5銖の銅貨ひとつを集め、これによって、八丈の大仏を建立したいと思います。・・・これは愚僧の微力によりものではなく、(目に見えぬ)大菩薩の助力によって、皆さまを煩わすことなく、民も憂うことなく、諸国の財政の負担ともならず、東海道、東山道より始め、山陽道、山陰道に至っています。さらにに勧進を続け(北陸、西国に向かい)たいと思います。あまねく諸国に、お取り計らいをいただけば、きっと勧進は成功裡に進むことと存じます。たとえ西海の波の上にあっても、勧進で頂戴した5銖銭を失うことなく、北陸の高山に登り雲に包まれたとしても、必ず勧進の望みを果たす覚悟でおります。そこで重ねて、(北陸、西国の諸国に)ご命令書を発していただくことを、お願い申し上げます。」 この文書を発した年が重要である。延応元年(1239)九月だから、吾妻鏡に「大仏事始」が記載された年から、一年後のこととなる。それに、浄光という人物が、大仏を東国の繁栄のために鎌倉の地に建てたいとの思いが強烈に伝わってくる文書だ。しかもこの中で,その仏について、はっきりと「阿弥陀仏」と表記しており、最初から大仏は木像ではなく、金銅仏を造るという計画があったように見える。一人から5銖銭を一個預かり、それを集積し、溶かして大仏を一刻も早く完成したいと読める。 ところで、この大仏が、当初木像の阿弥陀仏であったことは、東関紀行(とうかんきこう:作者不詳)により、記録が残されている。仁治3年(1242)10月のことであるが、この時、鎌倉には、既にお堂に入った大仏が存在したようだ。作者は、奈良の大仏と比べて、奈良大仏の10丈よりは小さい八丈の阿弥陀仏で金銅・木像の違いはあるがありがたいと記している。またその時点ですでに仙人が住むような一二楼の構えの御堂があったともある。またこの作者は、鎌倉の寺の中で、鶴岡八幡宮、永福寺、勝長寿院をのべているが、その中でも頼朝が平泉の二階大堂を模して造った永福寺には、いたく感動した様子で「、鳳凰を思わせる瓦が日に輝いて、林地の様子なども印象深い」と記している。 その後、吾妻鏡によれば、建長四年(1252)8月17日の記載で、深沢で金銅の8丈の釈迦如来像を鋳造し始めると、記されている。ここで木像が金銅製に、そして阿弥陀仏が釈迦仏に変わったことになる。これは誤記とも言われ、大仏の謎として語られている。確かに、大仏の向きが南に向いているなど、誤記説は安易に否定できるものではない。 歴史家上横手雅敬氏は、大仏阿弥陀説の有力な支持者だが、それによれば、阿弥陀仏が本地垂迹説(神仏習合説日本の神は仏教の仏と同体とする考え方)の八幡神に当たり、8丈という大きさも、この八幡から来ているとする説だ。 私は、浄光が、先の「跪言上」という文書の中で、阿弥陀仏を造ると言っているのを、素直に受け取りたいと思うが、まあ、大仏が阿弥陀仏であるか、釈迦仏であるかよりも、この大仏がこの地に750年以上存在し続けて、大風や地震や津波などの災害に遭いながら、その度に毎に被災者となった鎌倉の庶民を励まし、復興の希望の光りとなってきたという事実の方が大事な気がする。ここで、大仏の周囲で、繰り広げられた災害救済の歴史を吾妻鏡で紹介してみたいと思う。(つづく) |
||
○源義経略伝 ●運命としての源義経 ●源 義経年表 ●義経と藤沢 ●その後の静御 前(改訂版) ●平泉の景観 を守る事の意味 ●平泉 に平和の思想 を視る |
|
||||||||||||
|
|||||||||||||
●点と点を結びつける天才ジョブス ●石巻・熊谷秋雄インタビュー ●鎌倉「面掛け行列」考 ●平泉に夏の雲湧く ●頼朝の寺永福寺 ●宇治平等院考 ●災害と日本人 ●陸前高田一本松の奇跡 ●陸前高田から桜開花の便り届く ●すべてが想定外・東日本大震災 ●映画「ウォールストレート」を観る ●相撲スキャンダルを紐解けば ●映画「ソーシャルネットワーク」 ●オバマの2011年一般教書演説 ●宇多田ヒカル小論 ●21世紀のビルゲーツが現れた ●2011年を地方分権元年に ●COP10の翌日クマが一斉蜂起 ●カンボジア・アンコール遺跡をゆく ●民主党代表選と中空構造論 ●中央区明石小学校が解体される ●多田富雄氏「寛容」をめぐって ●石割桜の謎 ●穴八幡神社と五木寛之伝説 ●ジョン・レノンと歌右衛門の邂逅 ●さよなら歌舞伎座 ファン殺到 ●信州飯田の桜紀行 ●東京スカイツリーは慰霊碑だ ●春の清澄庭園を歩く ●ホタル飛び交う外堀に ●世界遺産フォーラム・in飯田 ●春の旧芝離宮庭園を歩く ●藤田まこと氏逝く ●立松和平氏逝く ●新聞社も淘汰の時代?! ●キリン・サントリー統合断念 ●トリックスター朝青龍引退 ●春の淡雪と吉田兼好の人生観 ●今トヨタに何が起こった?! ●オバマの金融規制法案に期待 ●黄門さんの庭園が台無し ●スーザン・ボイルの歌と人生 ●世田谷ボロ市の夜 ●2010年民主党政権はどうなる ●日本全体が「草食系社会」だ ●2010年マツイ・ヒデキに期待する ●箱根芦ノ湖の月 ●本田美奈子メモリアルコンサート ●横浜の称名寺を歩く ●森繁久彌翁大往生 ●ホームラン打者に覚醒したマツイ ●北鎌倉の円覚寺探訪 ●浅田真央不調脱出の戦略とは ●キース・ジャレットの新譜を聴く ●義経やすらぎの里栗駒 ●イチロー九年連続200本安打 ●白雪恋し富士の山 ●社民党は政権に参加すべきでない ●イチロー二千本達成の秘密 ●エドワード・ケネディの死に思う ●擬制の民主主義よさようなら ●イチローVsバーランダー対決 ●中尊寺薪能の夜2009 ●ユネスコ委員会松浦氏談 ●高館上空黒雲の暗示 ●平泉登録延期の現場をゆく ●源義経850年祭 ●清衡の心・平泉写真展 ●イチローWBC最後の安打と禅 ●千田孝信前中尊寺貫首を偲ぶ ●2年後平泉は世界遺産になるか ●NHKドラマ「白洲次郎」を観る ●オバマ大統領就任演説を読む ●大晦日の栗駒をゆく ●長崎幻視行 ●くりはら田園鉄道を撮る ●毛越寺の小さな秋 |
五 十嵐敬喜先生との共著「平泉から鎌倉へ」が刊行されます。本書は2011年11月、法政大学で開催された世界遺産シンポジウム「平泉から鎌倉へ 鎌倉は世界遺産になれるか?!」に加筆したものです。本シンポジウムでは、平泉と鎌倉から、世界遺産登録に関わってきたお二人の専門家(平泉=千葉信胤氏、鎌倉=玉林美男氏)をお呼びし、平泉の世界遺産登録の
経験を踏まえて、鎌倉の世界遺産登録登録の可能性を探ると共に、最新推薦書の問題点を議論しました。
|