義経やすらぎの里   スタンプラリー
2009年9月13日 
 

JA栗っこ栗駒ふれあい店に仮安置されている源義経公奥都城の石碑
(佐藤弘弥09年9月13日撮影)

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9月の爽やかな風の吹く中で、源義経850年祭のフィナーレを飾る義経の胴塚と伝承のある宮城県栗原市栗駒沼倉にある判官森周辺を古道を歩くスタンプラリーが開催された。

主催は、義経の研究家で10年前に藤沢市白旗にあったとされる首塚と、沼倉の判官森の500キロの道程を歩き通した菅原次男氏らが組織する「源義経公生誕850年祭実行委員会。(共催は、義経ゆかりの寺「栗原寺」。後援は「栗原市教育委員会、JA栗っこ、河北新報社)

当日、秋晴れに下、スタート地点に当たる判官森のある栗駒小学校前の「JA栗っこふれあい店」には、朝9時から、約60名の参加者が集合した。主催者の挨 拶や判官森や万代館など7つのスタンプ押印場所などの説明の後、午前10時に約六キロを歩く「義経やすらぎの里スランプラリー」はスタートした。

一行は、栗駒小学校前にある白旗社と貴船社の存在を伝える石碑を拝み、義経鞭桜(よしつねむちさくら)を見た後、小学校の背後にある里山判官森に登った。



栗駒小学校の背後にある判官森に向かうスタンプラリー参加者たち


同地は、義経の友人沼倉小次郎高次の領地とされ、文治5年4月30日に奥州藤原氏第四代藤原泰衡によって殺害された後、首と胴は分離され、首は鎌倉に、胴 はこの判官森に鎮められたと伝えられてきた。判頂には、鎌倉期と思われる五輪塔と江戸時代に建立された供養碑がひっそりと立っている。

思えば菅原次男氏は、10年前、源義経の首と胴が810年間、分離されたままになっていることを思い、これを合わせて一体にすることを発願した。

文治5年(1189)6月13日は、腰越の浜で義経の首実験が行われた日である。その日から810年の同日、義経の首塚があったとされる神奈川県藤沢市白旗神社に菅原氏の顔があった。

氏の発願は、たちまち藤沢白旗神社の故近藤正宮司と氏子の人々の共鳴を得た。その橋渡しをしたのは、藤沢市在住の郷土史家平野雅道氏である。(以後、菅原氏と平野氏は盟友関係を結び、本日のスタンプラリーにも、平野氏は未明に藤沢を発って、判官森に駆け付けられた。)

1999年6月13日、白旗神社では、盛大に「源義経鎮霊祭」が開催された。神事により、判官森の土と首塚の土は合体されて、これを御霊土とした。菅原氏 は、この土を義経公の御遺骸として朱色の笈に負い、自らは白装束の山伏姿で、藤沢から沼倉の判官森の500キロを徒歩にて運んだ。しかもこの間43日は、 吾妻鏡に記述された義経の首が運ばれた期間43日間(1999年6月13日ー7月25日)に合わせたものである。まさにこれは、悲劇の武者源義経を追憶す る鎮魂の旅であった。



判官森の義経公胴塚前で菅原次男氏の講義を聴く参加者たち


実は、昨年6月、この地を岩手・宮城内陸地震が襲った。この判官森の南側斜面も、一部崩落した。崩落箇所は、修復されたが、地震の爪痕は、駒ノ湯温泉などの被災地から20キロほどの距離にある判官森周辺にも及んでいる。

駒ノ湯温泉の前には、菅原次男氏の経営する新湯温泉「くりこま荘」があった。幸い駒ノ湯温泉から、200mの高台にある「くりこま荘」は、奇跡的に災害を免れた。それでも周辺の道路は寸断され、営業停止に追い込まれて、一年3ヶ月が経過している。

菅原氏は、この一年、喪に服す思いでマスコミに登場することも少なかった。恩人でもある「駒ノ湯温泉」で多数の死傷者が出たことが原因だ。しかし、今菅原 氏は、傷ついた五湯(栗原市花山地区「湯ノ倉温泉」、「湯浜温泉」、「温湯温泉佐藤旅館」、栗駒耕英地区「駒の湯温泉」、「くりこま荘」)の経営者と協力 し、「栗駒五湯復興の会」(08年12 月6日正式発足)を組織した。準備段階で、菅原氏らは、同じく地震災害で、壊滅的な被害を受けた新潟県旧山古志村の被災地を訪問し、復興に向けた人々の執 念に刺激を受けた。09年に入ると、復興に向け、栗原市佐藤勇市長に陳情を行った。市長は、五湯復興の会に、全面支援することを約束した。徐々に復興への 道に光が射し始めている。駒ノ湯温泉では、行方不明だった二人の遺 体が7月1日発見された。

本来の道ではないが、「くりこま荘」のある耕英地区までの道も確保されつつある。今年の10月の紅葉の時期には、栗駒山の艶やかな紅葉の木々の回廊をこれまで支援してくれた人々に見せたいと菅原次男氏は語る。

「義経スタンプラリーは、栗駒が地震災害から立ち直りつつあることの象徴であり、お世話になった人々への感謝の意」と菅原氏は力強く語った。その表情にも復興への並々ならぬ決意のほどが伺えた。



スタンプラリー参加者は判官森の麓から北に続く小道を岩の目館跡、万代館跡を目指して歩く


判官森を下ると、山裾から黄金色の田園が栗駒山に向かって長く続いていた。今年は冷夏と言われ、稲の作付けが心配された。だが8月に日照時間が確保され、ひとめぼれ、ササニシキなどのブランド米は、自らの豊作を誇るように頭を垂れていた。

判官森から、里山はまるで屏風のようにして岩の目館、万代館と続いている。これらの館跡は、すべてが都市「平泉」を守る天然の要害だった。そこからの血管のように伸びる古道は、もちろんすべて黄金の都市「平泉」へ繋がる道だった。

しかし今、かつての黄金の都の緩衝地帯だったという面影を栗駒沼倉の里から感じることはできない。

万代館は、沼倉小次郎高次の居館であったと言われる場所だ。そこから栗駒山から沼倉の里を流れ下る三迫川の向こうを見ると、菅原氏が古代時代には、朝廷軍 と蝦夷軍が対峙した国境線だったと推測する山の尾根が万里の長城のように南北に伸びている。その正面にひとつの尖った山が見える。実はこの山は、菅原氏が 見張りの地であったと推測する地点だが、昨年の地震で崩落している。丁度、崩落した時、農作業をしていて、これを目撃した女性がいる。彼女は、いつも見て いる里山が音もなく崩れ去るのを見て、腰が抜けて動けなくなったということだ。



08年6月の内陸地震で崩落した山が痛々しい


この山の南には栗駒山の頂上に本宮のある駒形根神社の里宮が鎮座している。かつて、この社に朝廷軍の坂上田村麻呂がやってきて、阿弖流為率いる蝦夷軍を討 伐を祈願したと言われる古社だ。少し北方には、長林という地名の場所がある。そこには奥州藤原氏の時代に長林寺という寺が置かれていた。江戸期に火災で焼 失したが、この寺には義経の遺品などが納められていたと伝えられている。そこから更に北に行けば白岩城と呼ばれる館があったと伝えられる。この白岩城は、 鎌倉幕府の地頭だった葛西氏の家来であった沼倉飛騨守(沼倉小次郎高次ぎと同族であるかは不明)の居城と言われるが、豊臣秀吉による奥州仕置きにより、滅 ぼされている。今は「城内」という地名のみ残っている。つづく




馬頭観音や山の神の祠が無造作に並べられてある

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一行が第六のポイントである「釘ノ子」に着く頃、それまで小降りだった雨の雨脚が強くなった。朝には、あれほど晴れていた空が、俄にかき曇り、雨が降った原因について、誰かが「やはり義経さんが泣いているな」と言った。

確かに、義経関係のイベントを行う時には、雨が降るケースが非常に多い。平家物語や義経記を読んでも、義経という人物は、敵とみた人間に対しては、情け容 赦ない荒武者振りを遺憾なく発揮するのだが、自分の身内となると、情に厚く涙もろいところがある。例えば、屋島合戦では、自分のところに飛んで来た矢の前 に立ちふさがり、義経の身代わりとなって命果てる佐藤継信に向かって、おろおろと泣きながら、その忠臣振りを褒め、自らの名馬「太夫黒」を弔いのために地 元の民に遣わせた、というエピソードがある。それを間近に見た臣下たちは、口には出さなかったが、この人物のためならば、命を落としてもいいと、思ったと 平家物語の作者に書かせている。ある種のデフォルメ(意図的変形)ではあるいと思うが、実際の義経にも、そのような信義に厚い性格だったことは間違いなか ろう。要は泣き上戸なのである。

菅原氏は、この釘ノ子の地名を「公家の子」の転訛(てんか)だと見ている。つまり公家のご落胤が、この地に住んでいたのではというのだ。それは、この地か ら三迫川を一キロほど北に遡ったところに、「都田」という地名があり、この近くに「勅使屋敷」があったとの伝承が残っているところからの発想である。

確かに先ほど紹介した駒形根神社は、桓武天皇から正五位を、清和天皇から正一位を拝受している。その時、都からの勅使が、「都田」の勅使屋敷付近に宿舎を置いた可能性があると菅原氏は推測している。

三迫川を挟んで都田の対岸は、滝ノ原地区だが、そこには「上田」の地名
が残っている。これは「都田」が公家の田んぼであるのに対し、駒形根神社の荘園を意味する「神の田」ではないかとの考えられるのである。釘ノ子付近は、日照田と呼ばれる集落である。

この地では、つい昭和三〇年代まで、毎年縁日に「市」が立っていたようだ。市には、海の幸、山の幸が並べられて賑わったとのことである。

今では、釘ノ子には、NTTドコモのアンテナ塔が立ち、野原各所に立っていたはずの馬頭観音や山の神を象ったと思わせる像を彫った石が並べられていた。か つてこの地は、馬の産地であったと伝えられる。春に栗駒山の麓に放った若駒が実りの秋になって、駆け下りて来た光景が脳裏を過ぎった。また農耕馬田んぼを 行き交い、木材などを運ぶ馬車が田園をぬって歩く姿が思い出された。

釘ノ子の炭屋家では農業の傍ら馬車による運送を生業としていたという。前の畑には、ソバが植えられていて、丁度ソバの花が満開だった。淡く白いソバの花と黄金色の田んぼのコントラストが美しかった。



コスモスやススキが群生する小道

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さらに、そこから第七ポイントの桑畑までは直線で300mの距離だが、裏の農道を通って行くと、コスモスや薄(すすき)が群生する桃源郷のような地点が あった。正面に見えるはずの栗駒山は、雲に覆われて見えなかったが、彼方に「桑畑」の集落が見えた。この付近は、縄文遺跡が発掘されている場所である。


「上遠野秀宣(かどのひでのぶ)」という江戸末期の人物が書いた「栗駒山紀行」というものがある。上遠野秀宣は、栗原市一迫の大川口地区の領主だった。こ の人物が若い頃、病気になり、駒形根神社に病気平癒の祈願をしたところ、無事健康を取り戻した。後に、39歳の頃の文久2年(1862年)栗駒山の頂にあ る奥宮にお礼参りをした時の3泊4日の旅の記録が「栗駒山紀行」である。

この古文書だが、1976年(昭和51年)に柴崎徹氏(仙台一高山の会所属)によって翻刻され、「山岳・第七十年」(日本山岳会)に紹介されている。

最近では、東北の山岳ガイドであり民俗学た登山史の研究者である深野稔生(ふかのとしお)氏が「上遠野秀宣栗駒山紀行」(無明舎出版08年11月刊)とし て、上遠野が歩いた登山道を、実際に歩き、写真と原文、現代語訳、解題で構成した本を刊行し話題となっている。

この古書の桑畑に一泊した記録を、訳してみよう。

岩ヶ崎の黄金寺から「西に向かって田舎道を15、6里ばかり行ったところにある 桑畑という山里に着いた。この場所は栗駒山の麓に辺り、山高く、谷は深く、雲が近く感じられ、右を見ても左を見ても、山また山、谷また谷と言った風情のと ころだ。朝になれば軒先に見知らぬ鳥が来て囀り、夕方ともなれば、猿の遠ぼえが聞こえて来るような物寂しいところだ。この地からは、馬に頼ることも出来な いため、「馬返し」と言われる場所である。ここから須川温泉の湯元に行くにも、出羽の秋田に山越えするのも、「強力(ごうりき)」をしている里の者に頼ん で荷物を背負ってもらい行くことになる。そこでまずここで一夜を明かそうと思い、旅人が泊まるという家に停泊した次第である。何事につけて、里では思いも つかぬことが多いものだ。

桑畑にて朝を迎えて20日の朝、山に登る支度をして、一首。

うき世をばよそにへだてて住む宿の庭に見なれぬ鳥の声々
(大意:それにしても浮世の里の喧噪を離れた山の宿の庭には見なれぬ鳥たちの声が溢れていることだ)

北に20丁(二キロちょっと)ばかり行くと玉山(たまやま)という二、三つの家が連なる地区があった。桑畑よりも、いっそう山が深く、田んぼが少しあって、畑も多少見えたので、一首。 

ここもまたうき世はなれぬしるしには垣根にひらく朝顔の花
(大意:玉山の山の奥深くに来ても、ここが人の住む場所であることの徴は、垣根があって、そこに人が植えたはずの朝顔が咲いていることだ)(後略)】
(現代語訳は佐藤弘弥)




終着点桑畑が見えてきた

当時、桑畑の佐藤家では、農業と造り酒屋を営んでいた。上遠野秀宣は、この佐藤家に宿泊したようだ。桑畑から栗駒山までの道程は、都田を通り、三迫川にせ り出した川台渓谷と呼ばれる断崖状の細道を行くために、馬は利用できなかった。そのために、地域の住民の強力を頼んで、荷物を運んだのである。尚、この川 台渓谷のある山の中段には、源義経が自身の守り本尊である不動尊を勧請したという伝承のある御俯金不動尊(おふがねふどうそん=不動神社)が祀られてい る。

桑畑には「宮地」と呼ばれる地名があり、そこには明治まで速日神社の社殿があった地とされる。明治政府の号令によって、一村一社の政策によって、この社 は、駒形根神社に合祀されて「招魂社」となっている。この社の前では昭和初年まで「アッテロさん」を祀り、女性たちが集まって酒盛りなどをする信仰があっ たとされる。菅原次男氏は、この「アッテロ」が阿弖流為に対する敬意が民俗信仰として伝承されてきたのではと推測する。尚、この社の内陣から「奉斎阿麻弖 流意深呵美御霊」(ほうさいあまてるいふかみみたま)と書かれた供養符が発見されている。

供養符は、謹んで「あまてるいふかみ」公の御霊にお仕えしますと解釈できるが、この「あまてるいふかみ」なる人物が菅原氏の言うように「阿弖流為(アテルイ)」を指すかどうか、多くの問題が残るが、今後の多方面からのアプローチが期待される。



速日神社の前にアッテロさん像


現在、速日神社は、社殿のみ再興され、今回の義経スタンプラリーの第7番目の最終ポイントになった。その社殿の前には、早朝、10数年前に菅原次男氏らが、木に掘った阿弖流為の頭像が安置されていた。

義経の胴塚の里である栗駒沼倉に、蝦夷の英雄「阿弖流為」信仰が重なり、程よい疲労感と共に、ふしぎな感慨に耽ったスタンプラリーだった。再興された速日 神社の小さな社殿の前で手を合わせると、147年前に上遠野秀宣が登頂した栗駒山の雄姿は望めなかったが、あれほど降っていた雨が、さっと上がり、秋の日 が射してきた。(了)
 義経スタンプラリー写真集
2009年7月25日源義経公850年祭の記録

2009.9.15 佐藤弘弥

義経伝説

思いつきエッセイ