古都鎌倉の「円覚寺」探訪



円覚寺参道 右に方丈左に妙香池、正面に仏日庵
(佐藤弘弥10月10日撮影)



北鎌倉の円覚寺に向かう。北鎌倉駅に着いたのが、10月10日午後2時半過ぎ。線路伝いに鎌倉方面に歩を進めると、50mほどで左に総門がある。右の踏切を渡ると、左右に白鷺池があり、かつての参道が、線路と直角に伸びている。

この円覚寺の境内を分断する横須賀線の線路は、東京の海軍省と横須賀の鎮守府を結ぶために、帝国陸海軍部のツルのひと声で明治22年に開通したものだ。

もちろんその当時は、廃仏毀釈の時代であり、ましてや「文化的景観」に配慮するような考えなどあるはずもない。

夏の名残の日が眩しく木々を輝かせる中、ひっきりなしに通る電車と信号機の「チンチン」という音が、やたらとうるさい。

真新しい御影石の門を通り、石段を登って、総門をくぐる。さすがは鎌倉老若男女さまざまな人が、300円の拝観料を払い、三門(山門)に向かう。この三門は、江戸期に再建されたものだが、文豪夏目漱石が、小説「門」で舞台にしているように円覚寺の象徴的存在である。



総門下の参道


漱石は「門」(明治43年=1910年)の中で、円覚寺をこのように表している。

「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の悪寒(さむけ)を催した。・・・ことごとく寂寞(せきばく)として錆び果(は)てていた。」(青空文庫より引用)

漱石自身は、円覚寺の杉木立が醸し出す陰翳に強い印象をもっている。同時にそれが俗世と寺領を分かつ結界(けっかい)となっていることを意識している。それが門の主人公宗助にも反映しているようだ。

この小説「門」の4年前に書いた小説「草枕」(明治39年=1906年)では、円覚寺について、このように記している。

「・・・たしか円覚寺(えんがくじ)の塔頭(たっちゅう)であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄(き)な法衣(ころも)を着た、頭の鉢(はち)の開いた坊主が出て来た。余は上る、坊主は下る。すれ違った時、坊主が鋭どい声でどこへ御出(おいで)なさると問うた。余はただ境内(けいだい)を拝見にと答えて、同時に足を停(と)めたら、坊主は直(ただ)ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。」(青空文庫より引用)

この夏目の筆致だが、一瞬の出来事で、まるで禅問答のような絶妙の「呼吸」がある。

その後に続く下りは、「禅を心得ていたからと云う訳ではない。禅のぜの字もいまだに知らぬ。ただあの鉢の開いた坊主の所作(しょさ)が気に入ったのである。」となる。

漱石は、現代における円覚寺の本質を見事に言い当てているかのようだ。

そう言えば、余談だが、「草枕」は英訳され、二十世紀におけるクラシックピアノの世界で孤高の天才と言われたグレン・グールドの愛読書だったという。グールド(1932-1982)は、世捨て人のように俗界と距離を置き、演奏会もなかなか開かないような奇人と呼ばれる人物だが、草枕の境地に居たと思えば、なるほどと肯(うなず)ける。



三門



円覚寺の三門の前に立つ。江戸時代に再建されたものだが、シンプルな美しさがある。「山門」の立札が見えた。

「三門」の本来の意味は、「三解脱門(さんげだつもん)」である。簡単に言えば、解脱(覚り)にいたるた三つの瞑想の手順を示す門ということになる。その三つ手順とは、この世にあるあらゆるものが「空」であると看過し、さしたる特徴もない「無相」であることを知り、無意味な願望をから自由になる「無願」にいたる過程を象徴している。

すなわち覚りにいたる過程は、「空」→「無相」→「無願」の順である。


禅宗のもっとも有名なテキストに「無門関(むもんかん)」がある。これは宋代の無門慧開(むもんけいかい:1183-1260)が、古来から伝わる48の公案をまとめた禅書である。この禅書の教えて言えば、その冒頭の自序で「この道(覚りいたる道)に門はない。門がないから無門の関というのである。」と謳っている。

少しして、さまざまな疑問が私の中で渦巻いた。

ひとつ目の疑問。大雑把に、中国から移入された中国禅が、その後日本文化のエッセンスを吸収しながら、日本人の価値観にまで影響を与えるような独特の発展を遂げたのだろう・・・?

ふたつ目の疑問。具体的に、何故、若くして日本のリーダーとなった北条時宗は、日本語もろくにできない南宋の禅僧「無学祖元(1228-1286)」を鎌倉に招き、国際宗教都市と思わせるような環境をこの北鎌倉山ノ内に、円覚寺を開いたのか?

時宗の生きた時代、寺内では、日本語と中国語が飛び交っていたという。中国は、空前の世界帝国に発展する「元」に政治的圧力を受け、そのこともあって、自由に禅の教えを広める可能性のある日本を目指すような流れが中国の僧侶の側にあったのかもしれない。

鎌倉五山の第一座「建長寺」を開山した「蘭渓道隆(1213-1278)」は、自らの意思で日本に渡来した禅僧だった。彼は一時、京都の建仁寺の寺僧となったこともあったが、時宗の父時頼の熱心な誘いによって、建長寺の隆盛を築いた人物であった。



仏殿前で幼稚園の運動会が開かれていた



三門を過ぎて、さらに参道の登っていくと、仏殿の前から可愛らしい子供たちの合掌の声が聞こえてきた。寺の中には幼稚園があり、その運動会かお遊技会のようであった。

円覚寺という禅寺の中で、まさか無垢な子供たちの声を聞くことなど、予想だにしていなかったので、笑みがこぼれた。周囲を見れば、外国人の幼児が、自分に近い年齢の子供たちにうれしくなったのか、日本語など無視して、自分なりに聞こえて来るメロディーに合わせて大声で歌っていた。

その目には、恥ずかしいなどまったくない。ただただ、聞こえてくる歌声に合わせて唸っているのだ。これが子供の特技で、言葉を覚える第一歩は、言葉というよりも、聞こえてくるイントネーションに合わせて唸ることなのだろう。

かつて、ジョン・レノンが、オノ・ヨーコと行った歌舞伎のセリフのイントネーションにいたく感動し、憶えたてのセリフのイントネーションをひたすら唸っているをテープを聞いたことがある。

ジョンの天才は、子供のそうした特性というものを失わずにもっていることにあるのかもしれない。

さて三門の次に仏殿が来るのは、配置として、ちゃんとした意味を持っている。仏殿は、三門の三つの瞑想を通して、自由になった三昧の境地(解脱)を象徴しているということである。

それは、この世を「空」であると看過した上で、「願いなし」の心境にいたることである。ジョン・レノンの成功物語を禅の三門の覚りのプロセスで考えてみることにしよう。



仏殿の天井には前田青邨作の白龍図が描かれている



ジョンにとって、「空」の意味を知るきっかけは、オノ・ヨーコという存在だった。ロック・バンド「ビートルズ」をもって、文字通り信じられないような「商業的成功」をおさめた影で、ジョンの魂は、ホントにこれで良いのか、思いをもっていた。しかし次から次と訪れるに忙殺されていた。コンサートや新しいアルバム作りがそれだ。

ジョンは、後のインタビューでヨーコから人生を教わった、という語ったことがある。二人の出会いのきっかけは、確か、ジョンが、1966年、ロンドンで開催中のヨーコの作品展に訪れた時からだった。ヨーコは、人気絶頂のジョンを、そっけなく扱った。ジョンは、ヨーコの作品を見た。脚立が置いてあり、天井に小さく書いてある字を見るという趣向だ。

本当に奇妙な作品だった。ジョンは脚立を昇り、天井に書いてある小さな字を虫眼鏡で覗く。すると、そこに「YES」と書いてあった。ジョンは考える。「YES」は人の子「イエス」を意味し、また「はい」という単純な意味にも、さらにあなたの考えた通りでいいよ。つまり「YES」という肯定的意味にもなる。ジョンはハッとした。ここである種の「悟り」が生じたのかもしれない。

まさに「人生が「空」であることを薄々感じていたジョンが、ヨーコという前衛アーティストとの出会いによって、はっきりと本質としての「空」を観想することができたのである。

ヨーコとの出会い以降、ジョンにとって、ビートルズは意味のないものとなった。ジョンの変貌振りに、盟友であるポールは、「ゲット・バック」(戻ってこいよ」という意味深長な歌を作って、まるで心変わりをした恋人を追うように、ジョンがビートルズに戻ることを促した。これはまたヨーコへの当てつけでもあった。

ジョンは、まるでそんなポールを相手にしなくなった。その瞬間、ビートルズは、バラバラとなり、その最初のアルバムが「ホワイト・アルバム」と言われる二枚組のアルバムだった。これまで、ビートルズの曲のほとんどは、ジョンとポールの共作がほとんどだったが、このアルバムでは、二人は別々に曲を作り始めた。

発売当初、散漫な曲の寄せ集めとして、評価の低かったアルバムだが、このアルバムこそが、自らのアイデンティティと一個の人間に回帰しようとして苦闘したジョン自身の最初の取組として稀に見る傑作である、というのが、私の評価である。

所詮ジョンの魂は、アイドルグループのようなものに満足する本質をもっていない。ジョンは生来の詩人であり、何よりも自分自身でいなければ、生きていけない感性をもつ反抗的人間だ。

いつもジョンは安穏でありきたりな生き方を拒否し、自分自身であろうとする。たとえそれで、少数者あるいは孤立してでも、彼はそうするのだ。世界中でフランス五月革命(1968)と呼ばれた学生運動全盛の中で、多くの若者たちが「革命」を叫んだ時、彼は「レボリューション」(ホワイトアルバムにも所収)を発表し、「君たちは、革命が必要だというが、ボクは破壊には反対だ。」あるいは「毛沢東の写真をもっていて(その運動が)共感される訳がない」と歌った。

この歌によって、ジョンは「反革命」あるいは「保守的」だ、と戦闘的な若者たちからは盛んに揶揄されたものだ。一方では、ローリングストーンズのボーカルミック・ジャガーは、「悪魔を哀れむ歌」を歌って、革命派の教祖のような存在になった。

今になって二人の政治的先見性について比較するのは無意味だ。ただジョンの放った暴力革命の非暴力と平和のメッセージが、より現実的な取組として世界中で評価されていることを否定することはできない。

私はこれをジョンが、ヨーコの問いである「YES」の文字によって、世界が「空」であることを覚ったことの証明ではないかと思う。世界が「空」であることを悟った上は、その中でさまざまに起こる歴史の流れをも「空相」と読み切っていた。

だからこそ、ジョンは醒めきった心の眼で「君たちは革命、革命というけれど」とその運動の行く末を心配し、その代わりに、非暴力と平和の運動を「ラブ&ピース」として対置させたのである。後にそのことは「イマジン(1971)」という歌に結実させた。ジョンは、この作品によって、「世界中の人々が平和に暮らす姿を想像してみよう」という清浄なイメージの世界を全世界に向けて発信した。ジョンはメージ(想像力)の力によって、世界に変化をもたらすことができるかもしれない。そのように確信し、この「イマジン」という達観した歌が生まれたのだと思う。

円覚寺の仏殿は、1964年に再建されたもので、真新しい感じがする。ご本尊は宝冠の釈迦如来。天井には、前田青邨作の白龍図がある。この白龍のイメージから、ジョン・レノンのように悟りにいたる者があるかもしれない。



方丈の前庭にある百観音は私たちか?



仏殿を過ぎ緩やかなスロープをさらに行くと白木の面影が残る勅使門が見える。もちろん一般の参詣者は、この門をくぐることはできない。右にある通用門を通ると方丈という伽藍が聳えている。方丈とは、住職(住持)の居住空間であったが、多くの宗教行事がこの建物の中で催される。「方丈」という言葉の由来は、かつて釈迦の弟子に維摩(ゆいま)という人物が、方丈(四畳半)の居間で修行に励んだことから来ているとされる。この人物は、出家をせず在家のままで仏道修行(菩薩道)に励み「維摩経」という経典が遺されているような人だ。

ところが今や「方丈」と言えば、円覚寺だけではなく、おおよその禅寺においては、だだっ広いスペースを取っている。つまり方丈は狭いことを感じさせる意味から、今では宇宙の無限を感じさせるような領域となっている。これは鎌倉の五山第一の建長寺でもそうである。

かつてこの空間には、開山無学祖元が座し、蒙古来襲に頭を悩ませる北条時宗がやってきて、さまざまなインスピレーションを授かった空間であったかもしれない。方丈には、本尊として聖観音菩薩が安置されている。

円覚寺の方丈の前庭には、百観音(菩薩)並んでいる。これは江戸時代に造られたものを、明治期に高僧の誉れ高い今北洪川禅師(いまきたこうせんぜんじ:1816-1892)が、三門の左に位置する塔頭(松嶺院)から移したものとされる。さまざまな表情の菩薩が立っていて、見ていて飽きない。溌剌としている者。憂鬱そうな表情の者。苦悩を抱えながらも、踏ん張っているような者。口をへの字にして耐えているもの。首を傾げて据わっている者。これは私たち凡夫ではないか?ふと、そのように思った。これはきっと、今北洪川禅師が、未来に生きる者すべてに「問いかけ(公案)」を行ったのである。

そもそも観音菩薩とは、悟りを開こうとして、一所懸命に努力している者を指すのである。すると私たちは皆、観音菩薩ということになる。そんなことを思いながら、この前庭を歩いていると、円覚寺そのものが、身近に思えてきた。さすがに山岡鉄舟や鈴木大拙などの傑物に影響を与える洪川禅師だと唸ってしまった。



国宝「舎利殿」は間近で拝むことができない


方丈の横の門を抜けて三門から山頂にある黄梅院までほぼ450mばかり真っ直ぐに伸びる参道に出る。とにかく直線的で巾の広い参道だ。

右に方丈左に妙香池、正面に仏日庵を見ながら、なだらかな坂道を行く。妙香池は、夢窓疎石の設計と呼ばれるが、その後に寺が衰退した時期があり当時の姿を留めているかは不明だ。方丈の背後にも妙香池とややシンメトリーな配置で池が掘られ、大きな錦鯉が一匹悠然と池を泳いでいた。方丈の後ろに池を抱くように長く伸びた建物は、シンプルな美しさがある。

円覚寺を歩きながら、思ったことは、真っ直ぐなイメージだ。三門、仏殿、方丈と直線で結ばれた伽藍にしても、その横に総門の横から、ひたすら真っ直ぐに山頂の黄梅院まで伸びる参道にしても、直線的なのだ。これは南宋時代の禅宗の伽藍の特徴ということだ。よく見れば、自然の地形を受け入れながらも、この直線的な道や伽藍を配置することで、抜けの良い景観が構築されているようにも思われる。ただこれは好みの問題もあるが、私にとっては、このような造けいは、自然に逆らうようで好みではない。

妙香池に近づくと、国宝の「舎利殿」の方から、読経が聞こえてきた。これは源実朝が宋の能仁寺から譲り受けた仏牙舎利(ぶつげしゃり)を、後に円覚寺に遷して、ここに舎利殿を建立したものだという。時宗の廟である仏日庵の前を曲がり、細長い参道を行くと、読経の声は大きくなった。ここは一般公開がされておらず、門を潜ることが許されていない。寺のパンフレットにも、「唐様式を代表し、その最も美しい建造物として国宝に指定」とあるが、間近で見れず残念だ。



時宗の墓所「仏日庵」の瀟洒(しょうしゃ)な佇まい



北条時宗(1251-1284)の墓所が仏日庵である。実に瀟洒(しょうしゃ)なスペースである。派手な造りもなく、質実剛健な鎌倉武士らしい、いや禅道を極めたというべきか、少しも飾り気のない時宗らしい廟というべきかもしれない。

この円覚寺の開基、時宗は、北条得宗家に生まれ合わせ、事実上の最高権力者である執権(しっけん)となるべく、父時頼に育てられた。折りから世界帝国を築き上げつつあった元の日本をこの帝国内に囲い込んでしまおうとの野望を二度に渡って打ち砕き、国難を救った政治能力は見事というしかない。

一方円覚寺の開山は無学祖元(1226-1286)という南宋の禅僧だ。この人物は、時宗の招きによって、元帝国に祖国を征服される目前、日本に渡ってきた(1279)。この人物の来日は、ある意味では今の言葉で言えば政治的亡命に近いものだったかもしれない。祖元には、自身が修行していた能仁寺元の兵士に首に刀を突きつけられながら、心乱すことなく、逆に偈(げ)を唱えて仏の真理を説き、その気に圧倒された兵士は、立ち去ったというエピソードがある。

元という武力を背景にした帝国に対する祖元の思いは、時宗の心理にも、勇気を呼び起こし、悩む時宗に対し、「(時宗殿)悩むことなかれ。春夏の間、博多は混乱するけれども、一風が起こり、(元の)艦隊は、この風により、掃討されるでしょう。」(1281年1月の祖元談)と語ったとされる。

この言葉は、ある種の予言で、この言葉を俄に信じることはできないが、ともかく元軍は、弘安4年(1281)7月30日(陽暦8月15日)台風と思われる嵐に遭って日本征服の野望を打ち砕かれたのである。

時宗と祖元。不思議な縁で結ばれたふたりである。禅の言葉に「卒啄同時(そったくどうじ)」という言葉がある。これは卵の内でヒナが、生まれ出ようと殻を本能で突くと、その音に呼応して、親鳥が殻の外から卵を突く様をいう。丁度、時宗と祖元の関係には、そのような関係が成り立つのではないかと、ふと思った。

弘安の役から一年後(1282)秋、時宗は、この円覚寺を開いた。その開山の趣旨は、元との戦で亡くなった人々の御霊を敵味方の区別なく供養しようとの祈りである。

私はこれを、奥州藤原氏初代藤原清衡が抱いた中尊寺開創の時の理念(敵味方の区別なく戦没者を弔う)に連なる思考だと考える。

もちろん時宗の前には、鎌倉幕府初代源頼朝が、奥州との戦争において亡くなった御霊を敵味方なく弔う目的で創建した「永福寺(ようふくじ)建立事業があった。この時、頼朝は中尊寺に詣でて二階大堂にお詣りし、その壮大な平等思想に心酔したとされる。

時宗は、奥州との戦争以降最大の危機にあった鎌倉の平和を守りきったことの祈念碑として、また頼朝の永福寺に連なる平等思想による文化の継承を計る意図があったのではないだろうか。時に北条時宗32歳であった。



仏日庵廟所は北条時宗三代の「金色堂」!?


仏日庵を廻りながら、さまざまなことを思う。人の命は儚いものだ。当時、空前の世界帝国を作り上げた蒙古軍(元)を撃退し、国難を救った時宗は、この戦争で亡くなった御霊の弔いを済ますと、34歳の若さで、急逝してしまったのだ。

仏日庵は、世界中を席巻した蒙古軍を撃退した総司令官の墓所としては、いささか小さなものだ。しかし時宗という為政者は、日本の中世期の権力者として、自分の墓所を古代の大王たちのような大規模なものを構想する感性を、はじめから持ち合わせていなかったようだ。

本当のところは、対蒙古戦で、疲弊しきった当時の経済状況が、荘厳華麗な墓所の造営を許さなかったのか。あるいは、無学祖元に薫陶を受けた禅の教えそのものが、華美な御廟の建設を許さなかったと考えることも可能だ。

寺僧に時宗の御遺骸について尋ねると、仏日庵の廟所の下に、小さな石の石室があり、そこに息子の貞時(第九代執権)、孫の高時(第14代執権)と共に、日本歴史上稀代のヒーロー時宗は、枕を並べて永遠の眠りについているそうだ。

 考えて見れば、この小さな御廟は、平泉の金色堂と同じ発想で造られている。金色堂は、初代清衡、二代基衡、三代秀衡の御廟である。もちろん、黄金の装飾はないが、時宗は禅の教えに忠実に、身ひとつで成仏を遂げている。そんな気がした。


黄梅院本堂前に無造作に置かれている宝冠の千手観音像


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仏日庵を出て、参道の坂を登り、黄梅院の門を潜る。円覚寺の一番奥になる僧院(塔頭)である。この寺は、北条氏が滅んだ後、足利尊氏 (1305-1358)が室町幕府を開き、当時尊氏が篤く帰依した夢窓疎石(1275-1351)の塔頭である。(北条氏の鎌倉時代、若き頃の夢窓疎石 は、この円覚寺や建長寺などで修行に励んでいた。)

日本が世界帝国「元(蒙古)」の植民地になることを防いだ北条時宗であったが、彼の死後(1284)、鎌倉幕府は滅ぼされて、半世紀後の1336年に足利政権が誕生したことになる。

言ってみれば、黄梅院の門は、隣り合わせの仏日庵と黄梅院を隔てる、樹木の年輪のようなもので、鎌倉と室町の時代を分かつ徴なのである。

ふと私の中で、思いもかけない発想が浮かんだ。日本と中国の歴史的関係のことであった。

日中関係を歴史的に辿れば、概ね良好な関係を維持してきた。ところが、その中国が、蒙古(元)によって征服され、日中関係には新たな関係性の構築が必要になった。

元が建国されるまで、中国のそれぞれの時代の皇帝たちは、島国日本を直接支配することなど、最初から念頭になく、良好な距離感をもって、国家としての日本との交流を続けてきた。

逆に言えば、日本の政治と文化は、中国の恩恵を限りなく受けて、育ってきたということもできる。遣隋使や遣唐使などが頻繁に行き来し、日本には、中国から宗教や政治や建築など、世界最先端の文化が入ってきたのである。

その中で、鎌倉時代の後期において、南宋から入ってきた禅宗の文化は、政権中枢の権力者たちが、積極的に帰依した結果、この時代の精神に影響を及ぼしばかりか、このころから生成される茶道や能楽や作庭など、日本文化の質に大きく関わるまでになっていった。

時宗に請われ鎌倉にやってきた無学祖元(むがくそげん:1226-1286)は、祖国南宋を、元軍に占拠され、日本にやってきた。おそらく祖元は、祖国を思いながら、祖国日本の危機に立ち向かう若きリーダー北条時宗に、禅の教えを通じて、大いなる侵略者に立ち向かう心の有り様を説いたはずだ。

若き頃、円覚寺に学んだ世界的仏教学者鈴木大拙の名著「禅と日本文化」の中に、祖元と時宗の元との戦いに備える時の問答が次のように記されている。

「生涯の一大事がとうとうやって参りました」
「いかにしてそれに向かわれる所存か」
「喝(カーッ)」
(「禅と日本文化」岩波新書 1940年 42頁)

「喝」と大声で発したのは、もちろん時宗である。祖元は、時宗の覚悟を感じて「時宗殿はまことの獅子の子。こんな時こそ、よく獅子は吼えるものです」と言って喜んだという。

私たちは、とかく目先のことで、人間を判断しがちだが、時宗と祖元の二人の関係性の中に、日中の文化交流の歴史という根源にまで遡って考えれると、また別の感動が湧き上がってくる気がするのである。

時宗は、まさに蒙古軍襲来という国家存亡の危機に際して現れた日本の天才的リーダーということができる。しかも彼の偉さは、蒙古軍との勝利後に、戦勝に奢らず、戦没者を弔うことを忘れなかったことである。


追補
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最後に、時宗の円覚寺創建の思想について、もう一度考えを整理してみたい。考えてみれば、フビライ率いるモンゴル帝国は、この時期、中国の南宋や朝鮮半島を配下に収め、世界にまたがる巨大帝国を築いたのだが、領土的野望は、止まることを知らず、その矛先を日本列島にまで向けたのであった。

大きな歴史の流れの中で考えれば、南宋の数多くの知識人たちは、モンゴル人の圧政を逃れ、日本に渡ってきた。その中のひとりが円覚寺創建の中心人物、無学祖元(1226-1286)である。

祖元は、臨済宗の大家である。禅の精神は、自らの煩悩を見つめ、すべてが空であることを悟って、そこから自由になることである。祖国「南宋の滅亡」すら、時の流れの中にあっては、「無」そのものになる。無学祖元は、国家存亡の危機にある日本国の若きリーダーであった時宗を励まし、先に説明したように「(時宗殿)悩むことなかれ。春夏の間、博多は混乱するけれども、一風が起こり、(元の)艦隊は、この風により、掃討されるでしょう。(つまり「あなたは勝つ」)」と、説いたのである。

無学祖元に何らかの閃きがあったのかもしれない。もちろん、歴史だから後講釈を誰かが付け加えた可能性もある。ともかく、時宗は、南宋生まれの中国人僧侶の励ましによって、元の領土的野心に屈しなかったことは事実である。そして、この若きリーダーの決断が、日本中の武将の心をひとつにした。そして元の二度に渡る壱岐、対馬、博多への侵略行為を撃退することとなった。

問題は、その後に、この戦争によって亡くなった戦死者を敵味方の別なく平等に弔うために、円覚寺を創建しようとした精神である。この元帝国との戦いは、単にモンゴル人との戦いではなかった。それは征服された中国や朝鮮の人々が、思いがけなく、日本占領の戦争の先兵に駆り出され、やむなく戦って尊い命を落とした側面が強い。このことを誰よりも理解していたのは、南宋から亡命同然の形で、日本にやってきた無学祖元が一番知っていることである。

また幼き時より、帝王学を教えられて育った時宗にとって、鎌倉政権を樹立した源頼朝が、奥州合戦で戦死した者の魂の救済のために、永福寺を建立したことを知っていたはずである。おそらく、時宗の発案に無学祖元は、諸手を挙げて賛同の意を示したはずだ。

改めてこの時期の日本と鎌倉を思った。この時期の鎌倉は、国際都市の様相を呈していたはずだ。建長寺や円覚寺のある山ノ内周辺では、中国語や日本語が飛び交っていたに違いない。

円覚寺を廻りながら、元寇の役において、日本を奇跡の勝利に導いた北条時宗のリーダーシップもさることながら、時宗を支えた無学祖元という人物に強く惹きつけられるのを感じた。


2009.10.11-11.13 佐藤弘弥

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