![]() ![]() (佐藤弘弥10月10日撮影) 1 北鎌倉の円覚寺に向かう。北鎌倉駅に着いたのが、10月10日午後2時半過ぎ。線路伝いに鎌倉方面に歩を進めると、50mほどで左に総門がある。右の踏切を渡ると、左右に白鷺池があり、かつての参道が、線路と直角に伸びている。 この円覚寺の境内を分断する横須賀線の線路は、東京の海軍省と横須賀の鎮守府を結ぶために、帝国陸海軍部のツルのひと声で明治22年に開通したものだ。 もちろんその当時は、廃仏毀釈の時代であり、ましてや「文化的景観」に配慮するような考えなどあるはずもない。 夏の名残の日が眩しく木々を輝かせる中、ひっきりなしに通る電車と信号機の「チンチン」という音が、やたらとうるさい。 真新しい御影石の門を通り、石段を登って、総門をくぐる。さすがは鎌倉老若男女さまざまな人が、300円の拝観料を払い、三門(山門)に向かう。この三門は、江戸期に再建されたものだが、文豪夏目漱石が、小説「門」で舞台にしているように円覚寺の象徴的存在である。 ![]() 2 漱石は「門」(明治43年=1910年)の中で、円覚寺をこのように表している。 「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の悪寒(さむけ)を催した。・・・ことごとく寂寞(せきばく)として錆び果(は)てていた。」(青空文庫より引用) 漱石自身は、円覚寺の杉木立が醸し出す陰翳に強い印象をもっている。同時にそれが俗世と寺領を分かつ結界(けっかい)となっていることを意識している。それが門の主人公宗助にも反映しているようだ。 この小説「門」の4年前に書いた小説「草枕」(明治39年=1906年)では、円覚寺について、このように記している。 「・・・たしか円覚寺(えんがくじ)の塔頭(たっちゅう)であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄(き)な法衣(ころも)を着た、頭の鉢(はち)の開いた坊主が出て来た。余は上る、坊主は下る。すれ違った時、坊主が鋭どい声でどこへ御出(おいで)なさると問うた。余はただ境内(けいだい)を拝見にと答えて、同時に足を停(と)めたら、坊主は直(ただ)ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。」(青空文庫より引用) この夏目の筆致だが、一瞬の出来事で、まるで禅問答のような絶妙の「呼吸」がある。 その後に続く下りは、「禅を心得ていたからと云う訳ではない。禅のぜの字もいまだに知らぬ。ただあの鉢の開いた坊主の所作(しょさ)が気に入ったのである。」となる。 漱石は、現代における円覚寺の本質を見事に言い当てているかのようだ。 そう言えば、余談だが、「草枕」は英訳され、二十世紀におけるクラシックピアノの世界で孤高の天才と言われたグレン・グールドの愛読書だったという。グールド(1932-1982)は、世捨て人のように俗界と距離を置き、演奏会もなかなか開かないような奇人と呼ばれる人物だが、草枕の境地に居たと思えば、なるほどと肯(うなず)ける。 ![]() 3 円覚寺の三門の前に立つ。江戸時代に再建されたものだが、シンプルな美しさがある。「山門」の立札が見えた。 「三門」の本来の意味は、「三解脱門(さんげだつもん)」である。簡単に言えば、解脱(覚り)にいたるた三つの瞑想の手順を示す門ということになる。その三つ手順とは、この世にあるあらゆるものが「空」であると看過し、さしたる特徴もない「無相」であることを知り、無意味な願望をから自由になる「無願」にいたる過程を象徴している。 すなわち覚りにいたる過程は、「空」→「無相」→「無願」の順である。 禅宗のもっとも有名なテキストに「無門関(むもんかん)」がある。これは宋代の無門慧開(むもんけいかい:1183-1260)が、古来から伝わる48の公案をまとめた禅書である。この禅書の教えて言えば、その冒頭の自序で「この道(覚りいたる道)に門はない。門がないから無門の関というのである。」と謳っている。 少しして、さまざまな疑問が私の中で渦巻いた。 ひとつ目の疑問。大雑把に、中国から移入された中国禅が、その後日本文化のエッセンスを吸収しながら、日本人の価値観にまで影響を与えるような独特の発展を遂げたのだろう・・・? ふたつ目の疑問。具体的に、何故、若くして日本のリーダーとなった北条時宗は、日本語もろくにできない南宋の禅僧「無学祖元(1228-1286)」を鎌倉に招き、国際宗教都市と思わせるような環境をこの北鎌倉山ノ内に、円覚寺を開いたのか? 時宗の生きた時代、寺内では、日本語と中国語が飛び交っていたという。中国は、空前の世界帝国に発展する「元」に政治的圧力を受け、そのこともあって、自由に禅の教えを広める可能性のある日本を目指すような流れが中国の僧侶の側にあったのかもしれない。 鎌倉五山の第一座「建長寺」を開山した「蘭渓道隆(1213-1278)」は、自らの意思で日本に渡来した禅僧だった。彼は一時、京都の建仁寺の寺僧となったこともあったが、時宗の父時頼の熱心な誘いによって、建長寺の隆盛を築いた人物であった。 ![]() 4 三門を過ぎて、さらに参道の登っていくと、仏殿の前から可愛らしい子供たちの合掌の声が聞こえてきた。寺の中には幼稚園があり、その運動会かお遊技会のようであった。 円覚寺という禅寺の中で、まさか無垢な子供たちの声を聞くことなど、予想だにしていなかったので、笑みがこぼれた。周囲を見れば、外国人の幼児が、自分に近い年齢の子供たちにうれしくなったのか、日本語など無視して、自分なりに聞こえて来るメロディーに合わせて大声で歌っていた。 その目には、恥ずかしいなどまったくない。ただただ、聞こえてくる歌声に合わせて唸っているのだ。これが子供の特技で、言葉を覚える第一歩は、言葉というよりも、聞こえてくるイントネーションに合わせて唸ることなのだろう。 かつて、ジョン・レノンが、オノ・ヨーコと行った歌舞伎のセリフのイントネーションにいたく感動し、憶えたてのセリフのイントネーションをひたすら唸っているをテープを聞いたことがある。 ジョンの天才は、子供のそうした特性というものを失わずにもっていることにあるのかもしれない。 さて三門の次に仏殿が来るのは、配置として、ちゃんとした意味を持っている。仏殿は、三門の三つの瞑想を通して、自由になった三昧の境地(解脱)を象徴しているということである。 それは、この世を「空」であると看過した上で、「願いなし」の心境にいたることである。ジョン・レノンの成功物語を禅の三門の覚りのプロセスで考えてみることにしよう。 ![]() 5 ジョンにとって、「空」の意味を知るきっかけは、オノ・ヨーコという存在だった。ロック・バンド「ビートルズ」をもって、文字通り信じられないような「商業的成功」をおさめた影で、ジョンの魂は、ホントにこれで良いのか、思いをもっていた。しかし次から次と訪れるに忙殺されていた。コンサートや新しいアルバム作りがそれだ。 ジョンは、後のインタビューでヨーコから人生を教わった、という語ったことがある。二人の出会いのきっかけは、確か、ジョンが、1966年、ロンドンで開催中のヨーコの作品展に訪れた時からだった。ヨーコは、人気絶頂のジョンを、そっけなく扱った。ジョンは、ヨーコの作品を見た。脚立が置いてあり、天井に小さく書いてある字を見るという趣向だ。 本当に奇妙な作品だった。ジョンは脚立を昇り、天井に書いてある小さな字を虫眼鏡で覗く。すると、そこに「YES」と書いてあった。ジョンは考える。「YES」は人の子「イエス」を意味し、また「はい」という単純な意味にも、さらにあなたの考えた通りでいいよ。つまり「YES」という肯定的意味にもなる。ジョンはハッとした。ここである種の「悟り」が生じたのかもしれない。 まさに「人生が「空」であることを薄々感じていたジョンが、ヨーコという前衛アーティストとの出会いによって、はっきりと本質としての「空」を観想することができたのである。 ヨーコとの出会い以降、ジョンにとって、ビートルズは意味のないものとなった。ジョンの変貌振りに、盟友であるポールは、「ゲット・バック」(戻ってこいよ」という意味深長な歌を作って、まるで心変わりをした恋人を追うように、ジョンがビートルズに戻ることを促した。これはまたヨーコへの当てつけでもあった。 ジョンは、まるでそんなポールを相手にしなくなった。その瞬間、ビートルズは、バラバラとなり、その最初のアルバムが「ホワイト・アルバム」と言われる二枚組のアルバムだった。これまで、ビートルズの曲のほとんどは、ジョンとポールの共作がほとんどだったが、このアルバムでは、二人は別々に曲を作り始めた。 発売当初、散漫な曲の寄せ集めとして、評価の低かったアルバムだが、このアルバムこそが、自らのアイデンティティと一個の人間に回帰しようとして苦闘したジョン自身の最初の取組として稀に見る傑作である、というのが、私の評価である。 所詮ジョンの魂は、アイドルグループのようなものに満足する本質をもっていない。ジョンは生来の詩人であり、何よりも自分自身でいなければ、生きていけない感性をもつ反抗的人間だ。 いつもジョンは安穏でありきたりな生き方を拒否し、自分自身であろうとする。たとえそれで、少数者あるいは孤立してでも、彼はそうするのだ。世界中でフランス五月革命(1968)と呼ばれた学生運動全盛の中で、多くの若者たちが「革命」を叫んだ時、彼は「レボリューション」(ホワイトアルバムにも所収)を発表し、「君たちは、革命が必要だというが、ボクは破壊には反対だ。」あるいは「毛沢東の写真をもっていて(その運動が)共感される訳がない」と歌った。 この歌によって、ジョンは「反革命」あるいは「保守的」だ、と戦闘的な若者たちからは盛んに揶揄されたものだ。一方では、ローリングストーンズのボーカルミック・ジャガーは、「悪魔を哀れむ歌」を歌って、革命派の教祖のような存在になった。 今になって二人の政治的先見性について比較するのは無意味だ。ただジョンの放った暴力革命の非暴力と平和のメッセージが、より現実的な取組として世界中で評価されていることを否定することはできない。 私はこれをジョンが、ヨーコの問いである「YES」の文字によって、世界が「空」であることを覚ったことの証明ではないかと思う。世界が「空」であることを悟った上は、その中でさまざまに起こる歴史の流れをも「空相」と読み切っていた。 だからこそ、ジョンは醒めきった心の眼で「君たちは革命、革命というけれど」とその運動の行く末を心配し、その代わりに、非暴力と平和の運動を「ラブ&ピース」として対置させたのである。後にそのことは「イマジン(1971)」という歌に結実させた。ジョンは、この作品によって、「世界中の人々が平和に暮らす姿を想像してみよう」という清浄なイメージの世界を全世界に向けて発信した。ジョンはメージ(想像力)の力によって、世界に変化をもたらすことができるかもしれない。そのように確信し、この「イマジン」という達観した歌が生まれたのだと思う。 円覚寺の仏殿は、1964年に再建されたもので、真新しい感じがする。ご本尊は宝冠の釈迦如来。天井には、前田青邨作の白龍図がある。この白龍のイメージから、ジョン・レノンのように悟りにいたる者があるかもしれない。 ![]() 6 仏殿を過ぎ緩やかなスロープをさらに行くと白木の面影が残る勅使門が見える。もちろん一般の参詣者は、この門をくぐることはできない。右にある通用門を通ると方丈という伽藍が聳えている。方丈とは、住職(住持)の居住空間であったが、多くの宗教行事がこの建物の中で催される。「方丈」という言葉の由来は、かつて釈迦の弟子に維摩(ゆいま)という人物が、方丈(四畳半)の居間で修行に励んだことから来ているとされる。この人物は、出家をせず在家のままで仏道修行(菩薩道)に励み「維摩経」という経典が遺されているような人だ。 ところが今や「方丈」と言えば、円覚寺だけではなく、おおよその禅寺においては、だだっ広いスペースを取っている。つまり方丈は狭いことを感じさせる意味から、今では宇宙の無限を感じさせるような領域となっている。これは鎌倉の五山第一の建長寺でもそうである。 かつてこの空間には、開山無学祖元が座し、蒙古来襲に頭を悩ませる北条時宗がやってきて、さまざまなインスピレーションを授かった空間であったかもしれない。方丈には、本尊として聖観音菩薩が安置されている。 円覚寺の方丈の前庭には、百観音(菩薩)並んでいる。これは江戸時代に造られたものを、明治期に高僧の誉れ高い今北洪川禅師(いまきたこうせんぜんじ:1816-1892)が、三門の左に位置する塔頭(松嶺院)から移したものとされる。さまざまな表情の菩薩が立っていて、見ていて飽きない。溌剌としている者。憂鬱そうな表情の者。苦悩を抱えながらも、踏ん張っているような者。口をへの字にして耐えているもの。首を傾げて据わっている者。これは私たち凡夫ではないか?ふと、そのように思った。これはきっと、今北洪川禅師が、未来に生きる者すべてに「問いかけ(公案)」を行ったのである。 そもそも観音菩薩とは、悟りを開こうとして、一所懸命に努力している者を指すのである。すると私たちは皆、観音菩薩ということになる。そんなことを思いながら、この前庭を歩いていると、円覚寺そのものが、身近に思えてきた。さすがに山岡鉄舟や鈴木大拙などの傑物に影響を与える洪川禅師だと唸ってしまった。 ![]() 7 方丈の横の門を抜けて三門から山頂にある黄梅院までほぼ450mばかり真っ直ぐに伸びる参道に出る。とにかく直線的で巾の広い参道だ。 右に方丈左に妙香池、正面に仏日庵を見ながら、なだらかな坂道を行く。妙香池は、夢窓疎石の設計と呼ばれるが、その後に寺が衰退した時期があり当時の姿を留めているかは不明だ。方丈の背後にも妙香池とややシンメトリーな配置で池が掘られ、大きな錦鯉が一匹悠然と池を泳いでいた。方丈の後ろに池を抱くように長く伸びた建物は、シンプルな美しさがある。 円覚寺を歩きながら、思ったことは、真っ直ぐなイメージだ。三門、仏殿、方丈と直線で結ばれた伽藍にしても、その横に総門の横から、ひたすら真っ直ぐに山頂の黄梅院まで伸びる参道にしても、直線的なのだ。これは南宋時代の禅宗の伽藍の特徴ということだ。よく見れば、自然の地形を受け入れながらも、この直線的な道や伽藍を配置することで、抜けの良い景観が構築されているようにも思われる。ただこれは好みの問題もあるが、私にとっては、このような造けいは、自然に逆らうようで好みではない。 妙香池に近づくと、国宝の「舎利殿」の方から、読経が聞こえてきた。これは源実朝が宋の能仁寺から譲り受けた仏牙舎利(ぶつげしゃり)を、後に円覚寺に遷して、ここに舎利殿を建立したものだという。時宗の廟である仏日庵の前を曲がり、細長い参道を行くと、読経の声は大きくなった。ここは一般公開がされておらず、門を潜ることが許されていない。寺のパンフレットにも、「唐様式を代表し、その最も美しい建造物として国宝に指定」とあるが、間近で見れず残念だ。 ![]() 8 北条時宗(1251-1284)の墓所が仏日庵である。実に瀟洒(しょうしゃ)なスペースである。派手な造りもなく、質実剛健な鎌倉武士らしい、いや禅道を極めたというべきか、少しも飾り気のない時宗らしい廟というべきかもしれない。 この円覚寺の開基、時宗は、北条得宗家に生まれ合わせ、事実上の最高権力者である執権(しっけん)となるべく、父時頼に育てられた。折りから世界帝国を築き上げつつあった元の日本をこの帝国内に囲い込んでしまおうとの野望を二度に渡って打ち砕き、国難を救った政治能力は見事というしかない。 一方円覚寺の開山は無学祖元(1226-1286)という南宋の禅僧だ。この人物は、時宗の招きによって、元帝国に祖国を征服される目前、日本に渡ってきた(1279)。この人物の来日は、ある意味では今の言葉で言えば政治的亡命に近いものだったかもしれない。祖元には、自身が修行していた能仁寺元の兵士に首に刀を突きつけられながら、心乱すことなく、逆に偈(げ)を唱えて仏の真理を説き、その気に圧倒された兵士は、立ち去ったというエピソードがある。 元という武力を背景にした帝国に対する祖元の思いは、時宗の心理にも、勇気を呼び起こし、悩む時宗に対し、「(時宗殿)悩むことなかれ。春夏の間、博多は混乱するけれども、一風が起こり、(元の)艦隊は、この風により、掃討されるでしょう。」(1281年1月の祖元談)と語ったとされる。 この言葉は、ある種の予言で、この言葉を俄に信じることはできないが、ともかく元軍は、弘安4年(1281)7月30日(陽暦8月15日)台風と思われる嵐に遭って日本征服の野望を打ち砕かれたのである。 時宗と祖元。不思議な縁で結ばれたふたりである。禅の言葉に「卒啄同時(そったくどうじ)」という言葉がある。これは卵の内でヒナが、生まれ出ようと殻を本能で突くと、その音に呼応して、親鳥が殻の外から卵を突く様をいう。丁度、時宗と祖元の関係には、そのような関係が成り立つのではないかと、ふと思った。 弘安の役から一年後(1282)秋、時宗は、この円覚寺を開いた。その開山の趣旨は、元との戦で亡くなった人々の御霊を敵味方の区別なく供養しようとの祈りである。 私はこれを、奥州藤原氏初代藤原清衡が抱いた中尊寺開創の時の理念(敵味方の区別なく戦没者を弔う)に連なる思考だと考える。 もちろん時宗の前には、鎌倉幕府初代源頼朝が、奥州との戦争において亡くなった御霊を敵味方なく弔う目的で創建した「永福寺(ようふくじ)建立事業があった。この時、頼朝は中尊寺に詣でて二階大堂にお詣りし、その壮大な平等思想に心酔したとされる。 時宗は、奥州との戦争以降最大の危機にあった鎌倉の平和を守りきったことの祈念碑として、また頼朝の永福寺に連なる平等思想による文化の継承を計る意図があったのではないだろうか。時に北条時宗32歳であった。 ![]() 9 考えて見れば、この小さな御廟は、平泉の金色堂と同じ発想で造られている。金色堂は、初代清衡、二代基衡、三代秀衡の御廟である。もちろん、黄金の装飾はないが、時宗は禅の教えに忠実に、身ひとつで成仏を遂げている。そんな気がした。
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