平泉 世界遺産登録延期の現場を歩く         高館からの景観  




平泉高館

(09年5月3日 佐藤弘弥撮影)


高館からの景観は平泉バイパスによって壊された

09年5月3日、平泉の高館山に登った。山とは行っても、高館は、標高100mもない里山である。これまで平泉では、この地が源義経終焉の地と言われてきた。義経が亡くなったのが、文治五年(1189)閏4月30日だから、820年と5日後の参詣ということになる。

代々この地には、名だたる文人墨客がやってきては、義経のために詩歌を吟じ、舞を奉納した。俳聖松尾芭蕉もその中の一人だ。奥の細道の旅は、義経を慕う芭蕉の東下りだったという見方がある。現に、芭蕉の江戸から奥州へ向かう経路及び平泉から踵(きびす)を返し出羽を抜け、北国街道を越えて西国へ至る旅路は、義経記に伝わる義経の奥州逃避行の道筋とぴったりと符合する。

芭蕉が奥州への旅を己の芸道の完成を意識していたことは疑いのない事実だ。芭蕉は、元禄2年(1689)5月12日、大雨の中を一ノ関に到着し、晴れ上がった翌日13日、芭蕉はときめきながら「平泉、平泉」と念じつつ、平泉にやってきた。真っ先にやってきたのが、ここ高館山だった。そしてあの歴史的な句が口を突いて出たのである。

夏草や兵どもが夢の跡

茫洋とした山河と田野を眺めながら、感涙に浸った芭蕉は、この場に茫然と立ち尽くした。そして奥の細道のクライマックスと言われる平泉の下りが幾度も幾度も推敲に推敲を重ねて出来上がった。日本文学史上の金字塔の誕生だった。

以来、この地は平泉第一の景勝地と言われるようになった。ふしぎにこの山に登ると、誰もがため息をもらす。それは義経と芭蕉と己の人生を重ね合わせるためかとも考えられる。

もちろんみる者を圧倒するような景色が拡がっていることもある。しかし今、その景色はまったくと言っていいほど失われてしまった。原因は「平泉バイパス」が、自然を遮って堤防とバイパスの役割を負わされ、造営されたからである。

高館に登れば、すべてが一目瞭然となる。北上川の領分を固定化され、バイパスが高館を掠めるように北に延びて遙か彼方で国道四号線に繋がる。平泉の慢性的な渋滞緩和と洪水を防ぐという目的があるとは言え、平泉の世界遺産登録にとって、平泉随一の景勝地高館は、コアゾーンである柳の御所の北にあって、柳の御所跡、無量光院(これもコアゾーン)と一体の土地柄というべきである。つまり、バッファゾーンというよりも、コアゾーンに準じる重要地域とみるべき地域である。

またバイパスからの騒音は、想像以上にひどい。このことから考えても、二年後の世界遺産入りにとって、柳の御所跡のコアゾーンは、かなり危険な賭という他はない。

2009.5.7

義経伝説
思いつきエッセイ