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鎌倉大仏の周囲はいつの世も人々の集う場所だった
(佐藤弘弥2011年夏撮影)
 鎌倉大仏と災害都市「鎌倉」


鎌倉の代表的景観というものを考えてみる。吾妻鏡を読むと、随所に「大地震」、「大風」「洪水」という表記が目に付く。1333年に北条高時が自害して鎌倉幕府が存在した150年の間、さながら鎌倉は災害常襲地帯そのものだ。

三方を山に囲まれている鎌倉という中世都市が、いかに、災害の多い場所だったか分かる。「大地震」や「大風」、「洪水」という記載も目につく。こうした中で、私は当時鎌倉に住んでいた住民が、深沢という都市鎌倉への西の玄関に当たるような地域にあって、地震が起これば、激しく揺すられ、その後に津波がくれば波をかぶる深沢の大仏(鎌倉の大仏)の凛とした姿が、どれほど鎌倉の庶民に勇気を与えたのではないかと想像する。

災害都市鎌倉にあって、この大仏がどんな存在だったか、考えてみたい。

大仏が造られたのは、吾妻鏡の嘉禎4年(1238)3月23日の条に、「深沢里大仏事始」記載がみられる。「浄光という僧が、全国を勧進して廻り、この計画を推進したようだ。

この「浄光」だが、静岡で生まれたという出自以外、どのような生涯を送った人物だったか、分かっていない。それでも「浄土の光」と類推される僧名は、いかにも浄土宗系の僧侶と思わせる名だ。

さて同年(1238)5月18日の条には、「深沢里の大仏の御頭(おぐし)を挙げ奉る。周は8丈」とある。この時、木像の大仏に、頭部が差し込まれて、大仏が完成したことになると思われる。周8丈は、周囲ではなく、坐像が立ち上がった時、8丈(24m)となり、坐像は、およそその半分の相当すると解釈されている。

浄光が、当地にどのような思いで、この大仏を建立しようとしたのか、その謎を解く文書が伝わっている。「古今集秘妙」にある「新大仏勧進進上人浄光跪言上」というものだ。内容は、北陸、西国に向かい新大仏の勧進に歩くに当たって、鎌倉幕府から命令書を書いて欲しいとのお願い状だ。

肝心な部分を、現代語に訳して掲載してみる。

祈るのは、この大仏が東国繁栄の本尊であることです。すでに東国を助成するとのご命令をいただいておりますが、東国に西方浄土の極楽の教主である阿弥陀如来を建立して、どうにか西方(北陸、西国を指す)での勧進を成し遂げたいと思います。(一人より)5銖の銅貨ひとつを集め、これによって、八丈の大仏を建立したいと思います。・・・これは愚僧の微力によりものではなく、(目に見えぬ)大菩薩の助力によって、皆さまを煩わすことなく、民も憂うことなく、諸国の財政の負担ともならず、東海道、東山道より始め、山陽道、山陰道に至っています。さらにに勧進を続け(北陸、西国に向かい)たいと思います。あまねく諸国に、お取り計らいをいただけば、きっと勧進は成功裡に進むことと存じます。たとえ西海の波の上にあっても、勧進で頂戴した5銖銭を失うことなく、北陸の高山に登り雲に包まれたとしても、必ず勧進の望みを果たす覚悟でおります。そこで重ねて、(北陸、西国の諸国に)ご命令書を発していただくことを、お願い申し上げます。

この文書を発した年が重要である。延応元年(1239)九月だから、吾妻鏡に「大仏事始」が記載された年から、一年後のこととなる。それに、浄光という人物が、大仏を東国の繁栄のために鎌倉の地に建てたいとの思いが強烈に伝わってくる文書だ。しかもこの中で,その仏について、はっきりと「阿弥陀仏」と表記しており、最初から大仏は木像ではなく、金銅仏を造るという計画があったように見える。一人から5銖銭を一個預かり、それを集積し、溶かして大仏を一刻も早く完成したいと読める。

ところで、この大仏が、当初木像の阿弥陀仏であったことは、東関紀行(とうかんきこう:作者不詳)により、記録が残されている。仁治3年(1242)10月のことであるが、この時、鎌倉には、既にお堂に入った大仏が存在したようだ。作者は、奈良の大仏と比べて、奈良大仏の10丈よりは小さい八丈の阿弥陀仏で金銅・木像の違いはあるがありがたいと記している。またその時点ですでに仙人が住むような一二楼の構えの御堂があったともある。またこの作者は、鎌倉の寺の中で、鶴岡八幡宮、永福寺、勝長寿院をのべているが、その中でも頼朝が平泉の二階大堂を模して造った永福寺には、いたく感動した様子で「、鳳凰を思わせる瓦が日に輝いて、林地の様子なども印象深い」と記している。

その後、吾妻鏡によれば、建長四年(1252)8月17日の記載で、深沢で金銅の8丈の釈迦如来像を鋳造し始めると、記されている。ここで木像が金銅製に、そして阿弥陀仏が釈迦仏に変わったことになる。これは誤記とも言われ、大仏の謎として語られている。確かに、大仏の向きが南に向いているなど、誤記説は安易に否定できるものではない。

歴史家上横手雅敬氏は、大仏阿弥陀説の有力な支持者だが、それによれば、阿弥陀仏が本地垂迹説(神仏習合説日本の神は仏教の仏と同体とする考え方)の八幡神に当たり、8丈という大きさも、この八幡から来ているとする説だ。

私は、浄光が、先の「跪言上」という文書の中で、阿弥陀仏を造ると言っているのを、素直に受け取りたいと思うが、まあ、大仏が阿弥陀仏であるか、釈迦仏であるかよりも、この大仏がこの地に750年以上存在し続けて、大風や地震や津波などの災害に遭いながら、その度に毎に被災者となった鎌倉の庶民を励まし、復興の希望の光りとなってきたという事実の方が大事な気がする。ここで、大仏の周囲で、繰り広げられた災害救済の歴史を吾妻鏡で紹介してみたいと思う。(つづく)

 

 
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五 十嵐敬喜先生との共著「平泉から鎌倉へ」が刊行されます。本書は2011年11月、法政大学で開催された世界遺産シンポジウム「平泉から鎌倉へ 鎌倉は世界遺産になれるか?!」に加筆したものです。本シンポジウムでは、平泉と鎌倉から、世界遺産登録に関わってきたお二人の専門家(平泉=千葉信胤氏、鎌倉=玉林美男氏)をお呼びし、平泉の世界遺産登録の 経験を踏まえて、鎌倉の世界遺産登録登録の可能性を探ると共に、最新推薦書の問題点を議論しました。

私は、報告や議論の中で、以下のような話をしました。「武家の古都」というステレオタイプの視点を一旦捨てて鎌倉社会を見直すと別世界のように見えます。特に北鎌倉に展開された建長寺、円覚寺に象徴される禅仏教と極楽寺の真言律宗が行った貧民救済や港湾管理などまで展開した歴史に着目すると鎌倉文化の本質が見えてきます。

都市論の系譜で言うと、奈良・鎌倉は古い内陸型の都市であり、鎌倉に先行す る武士政権の都市である平泉は内陸型の.奈良・京都と海面型の福原・鎌倉を繋ぐ中間的(過度的)な都市であると考えられます。そこで中世都市の系譜としては「平泉ー福原ー鎌倉」になると結論付けました。この三都がともに日宗貿易 を志向したことは大事な視点であり、清盛の開創した福原と鎌倉の都市構造が極めて似ていることも指摘しました。また鎌倉という都市を襲った災害史を年表 にして、いかに鎌倉が災害常習地帯であるかを明らかにしています。この考察の過程で鎌倉大仏に光を当てて、なぜこの鎌倉大仏が鎌倉文化の象徴的な構築物で あるかを明らかにしていきます。是非一読ください。

主な内容
●鎌倉は都市とよべないのか?
●「武家の古都」が登録推薦書で「CITY」でなく「HOME」と訳される理由
●平泉から鎌倉へ受け継がれたもの
●承久の乱で鎌倉がどう変わったのか
●ずっと災害に襲われてきた「災害都市鎌倉」
●平清盛の開いた福原は鎌倉のモデル都市だった
●鎌倉にはハンセン病専門病棟があった
●鎌倉大仏の創建と災害

巻末資料
鎌倉災害年表
ユネスコ世界遺産登録基準

鎌倉の世界遺産登録推薦書準備書
御成敗式目


〔別冊〕 私たちの世界遺産

平泉から鎌倉へ
鎌倉は世界遺産になれるか
五十嵐敬喜(法政大学法学部教授)、佐藤弘弥(日本文化研究家) 共著
公人の友社 定価(本体1,800円+税) 2012年2月5日発行



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著作と責任/佐藤弘弥
最終更新日:2014/03/26 Hsato


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