NHKドラマ「白洲次郎第一話を観る



白洲次郎・正子邸「武相荘」玄関の佇まい
(佐藤弘弥撮影)


2月28日9時、NHKのドラマ「白洲次郎」第一話を見た。正直、どうにもしっくり来ない。

今、白洲次郎の生涯が、ある種の伝説化していく過程にあることは明らかだろう。おそらく後50年もしたら、戦後の日本を設計した無位無冠の人物として、現 在の坂本龍馬以上の歴史的評価がなされる可能性が高い。人物としてのスケール感も、既存の日本人のワクを遙かにはみ出している。龍馬と比べても、まったく 遜色ない。語学の才能、容姿の面では、誰がみても、白洲次郎が上だ。

大体、近い時代の人物のドラマ化の場合、実際の人物の方がドラマや映画の役者よりも遙かに魅力的なもので、知っていれば知っているほど、ドラマや映画に違和感を持つことが多いものだ。

かつての70年代の反体制のヒーローゲバラが、最近再びスポットライト当たっている。盛んに映画化などがされているが、本物とはだいぶ乖離が進んできて伝 説化されて、どうもツルンとした誰にでも、受け入れ可能な人物に作り替えられているような気がして、一切近づく気がしない。そこには活字メディアの「売ら んかな」の意図が透けて見えるからだ。

昨今の白州次郎・正子ブームも、どうもゲバラブームと同様、活字メディアの商業ベースの意図が見えて来て白けてきて鼻につく。

今 回のNHKの白洲次郎も、だいぶ物足りなかった。一番は、役者の魅力だ。英語の発音で、役者を決めたような感じもするが、表情にスケール感がない。白洲次 郎には、天衣無縫の大らかさと柔軟さがあったのだが、演技の一生懸命さばかりが目立って、底の知れない白洲次郎の人格的スケールが微塵も感じられなかっ た。英語力はともかく、もっと表情豊かな演技のできる役者はいなかったのか。

白洲次郎について、考えてみる。白洲次郎の人格を考えると、これからの日本と日本人の生き方に大いに参考になる。それだけに、ドラマ化するとしたら、どう してこのような人間が、あの戦争の時代に突然出現したのか、時代背景をキチンと考える必要がある。その上で、敗戦を予期し、敗戦後のことまで、考えて、時 代を生きたひとりの人物の先見性という側面を描き切って欲しい。

そのためにも、もっと軍部の暴走の跡をもっとしっかり描ききらなければダメだ。またこの戦争は、1929年にニューヨークで起こった金融恐慌にも深く関係 し、次郎の父の破産は、この金融恐慌によって起こったものである。これは現代の政治経済状況と似通っている。これにより、白洲次郎の時代性が浮き彫りにな る。残念ながら、父の破産が父自身の個人的人格によってもたらされた破綻という意味合いでしか描かれておらず、イギリスで歴史学をさらに深く学ぼうとして いた白洲次郎の運命の変転の事情が曖昧にしか描かれていないのは残念だ。

本物の白洲次郎さんには、根っからの楽観主義というべきか、いい意味で独特のいい加減精神のようなものがある。しかしその中には、サムライのような原理原 則が貫かれている。彼はそれをプリンシプルと表現した。彼の生涯には、必死さの中に風格とか余裕というものを感じさせる何かがある。それが彼の生き方を人 一倍「粋」なものにしている秘密だろうか。もしかするとこれが白洲次郎という人物の人生に触れた者を「カッコイイ生き方だな」と納得させるエッセンスかも しれない。

残り二話があるが、白洲次郎の平和思想(ヒューマニズム)の一端とダンディズムの奥にある白洲次郎プリンシプル(原理原則)が画かれていることを期待したい。



NHKドラマ「白洲次郎」第2話を観る



武相荘
(09年3月7日 佐藤弘弥撮影)

NHKドラマ「白洲次郎」第2話を観た。

第2話は、次郎がアメリカとの戦争において、最後は首都東京が焼け野原になるのでは?という直観から、住居を相模と武蔵の国の間に位置する鶴川(現町田市)の農家の住居を購入して移転し、自らは農民となって、自給自足に専心するという姿が描かれている。

次郎のビジネスマンの父文平も、昭和の金融恐慌後没落した後は、九州大分県の片田舎で農民になって亡くなったというが、白洲家には、そうした大地への郷愁というべきか、農業への強い愛着が遺伝子として受け継がれているのかもしれない。



長屋門から母屋方向を見る

この第二話では、東条英機が総理大臣になる前に総理大臣の地位にあった近衛文麿が登場する。近衛は影のある貴族として、日本を英米との戦争に巻き込んでは ならないという思いを持ちながら、国内世論と軍部の暴走に待ったをかけれない優柔不断な悲劇の人物として描かれる。もはや名優の域に達したような「岸辺シ ロー」が良い味を出し好演している。

しかしながら、ここで描かれた近衛像に対しては、日米開戦にいたる過程における戦争責任や大政翼賛会の組織化など、このドラマでは、平和主義者としての近 衛文麿に対する「美化」傾向が見られた。この辺りは歴史的評価が定まっているとは言えず、やや安易な演出の気がした。

吉田茂については、原田芳雄が、実に本人の特徴を掴んだ重厚な演技を展開している。その演技で、なるほど吉田茂とは、こんな人物だったのだろうと、想像力をかき立てられるような演技だ。このドラマ全体が、原田芳雄の演技で引き締まり救われている。

結局、白州次郎という人物が、突如として歴史の表舞台に登場し、活躍できた背景には、欧米流の自由主義と個人主義を身をもって体得している吉田茂という政 治家が存在したことによるものだ。これを明治維新で移し替えれば、勝海舟と坂本龍馬の関係にも比較し得るのではないかと思われる。

戦争反対を訴える吉田茂は、暴走する軍部をチャンスを見て失権させようと試みるが、憲兵に逮捕されてしまう。内閣に入った近衛も、軍部の力を削ぐことはできず、戦況は泥沼の様相を呈してくる。

ここで、「新聞は何故、本当のことを伝えないのか」というセリフがあった。これは軍事政権の大本営発表という虚偽の報道しか流されない状況を、情けなく思う次郎の嘆きだ。

ともかく、白洲次郎は、当時の軍部の暴走を憂いこれを終始ストップしようと画策した数少ない政治家吉田茂のサロンに出入りする英傑だったことになる。

だとするなら、もう少し、シナリオも白洲と吉田の関係性を浮き立たせるものにすべきではなかったか。白洲と吉田の関係性こそが、このドラマの縦糸であり、もうひとつの横糸として次郎と正子の関係とすべきだったのではないだろうか。




武相荘の前に赤い笠が置かれ年配紳士がそこに座ると
白洲次郎が甦ったような錯覚にとらわれた


演出で気になったのは、次郎が天皇陛下のクリスマスプレゼントを吉田茂の名代としてマッカーサーに届ける最後のシーン。

マッカーサーが、思慮を欠いた陰険な人物に描かれている点だ。

その為にふたつのエピソードが描かれる。ひとつは戦犯の疑いのある近衛文麿に、新憲法草案を練り上げる話をしながら、アメリカ国内の世論を見て、これを取り消したこと。二つ目は、天皇のクリスマスプレゼントに対しぞんざいな態度を取ったこと。

演出意図としては主役の次郎との対立軸を作り、次郎の名ゼリフを引き出すための複線として、そうしているかもしれない。

そのシーンをふり返ってみる。

天皇のクリスマスプレゼントを抱え執務中のマッカーサーに持ってくる白洲次郎ら一行。

忙しいのか、「その辺においておけ」というマッカーサー元帥に対し、
「あまりに失礼ではありませんか。私たち戦争に負けたのであって、奴隷になったのではありません」と、次郎が切り返す。

マッカーサーの表情のアップ。
「苦虫をかみつぶしたような表情」

これで第3話へ「つづく」となる。

このような表情を最後にマッカーサー役の役者にさせたのは、このドラマ全体の品を落としている。

このように最高権力者マッカーサーに毒づいて、「従順ならざる唯一の日本人」と、アメリカの関係者が言ったという「白洲次郎」を表現するつもりなのだろうが、リアリズムに欠ける演出だ。

現実のマッカーサーは、本当に有能な軍人であり、政治家であり、アメリカ大統領に推されるほどの人物だ。そのような次郎の最大の好敵手としてマッカーサーを演出することによって、次郎の存在が一際輝くことになったはずで、実に残念な演出だった。

2話まで観て、劇画タッチの大げさな演出がどうしても鼻につく。もう少しリアリズムを重視した演出は無理なのだろうか・・・。



鈴鹿峠方向から見る


第3話は、夏頃になるという。それにしても、随分ずれ込みが激しいものだ。シナリオの練り上げに苦労しているのだろうか。時間をかけても、いい映像に仕立 て上げて見せてくれれば異存はない。そのためにも、縦糸である「吉田茂と白洲次郎」の関係性を明確にして、彼らの関係が日本国憲法の成立にどのように関 わったのか。また横糸である次郎と正子」の関係の中で、妻正子が、政治と対極にある芸術と文化の世界で、自身のライフワークを見つけ、活き活きと水を得た 魚のように生き始めるのか。縦糸と横糸を見事に紡ぎ切ってもらいたい。

第3話が、21世紀に生きる私たち日本人にとって、汲めども尽きない水瓶のように生きるヒントが溢れてくるような映像になることを期待したい。 (佐藤弘弥記)

2009.3.10 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ