NHKの番組「宇多田ヒカル〜今のわたし〜」(2010年1月15放送)を見た。宇多田ヒカルについては、ほとんど触れたことがない。15歳で颯爽と登場 した天才少女も、27歳になるという。この間、アメリカの名門コロンビア大学に入学(後に退学)したこともあった。その後、若手映画監督と結婚し、離婚も 経験した。今、宇多田は、単なるポップ歌手というよりは、日本中の羨望を一身に集める時代の寵児というべき存在である。

私はこの番組で、ひとつのことを気づかされた。それは宇多田ヒカルという一人の個人の自分(自己)との立ち位置(関係)についてだ。

宇多田は、昨年秋に突然、音楽活動の無期限休止宣言をした。この直後、宇多田は彼女独特の表現で「何もできないおばさんになりたくない」と言ったいう。ま たこの番組では、「これまで芸能界という狭い世界で、生きてきたが、それ以外の生活する力とか、他者の思いを汲むということをしてこなかった。そのことに 気づいて、しばらく社会活動(ボランティア)をして、大きくなって、戻ってきたい」と語った。

同意できる。その理由は、多くの芸能人は、忙しさの余り、また周囲の過剰な演出や取り上げ方によって、自分を見失ってしまいがちだ。アメリカのポップの女 王マドンナがかつて行ったインタビューなどを聞きながら、自分を見失っていると感じた。それは仕方がないのかもしれない。周囲が、女王というよりは、神の ごとく扱い、収入も破格の金額になる。自分は何でも叶えられる特別な人間と思ってもふしぎはない。

マドンナを尊敬し、マドンナの道を行こうとした「ブリトニー・スピアーズ」は、その典型だったかもしれない。彼女の場合は、ある種の「アイドル症候群」と も言うべき悲劇であったと思う。つまり、アイドル(ポップスター)というバスに乗ったままでいると、自分(自己)と見かけの自分が分離してしまうのであ る。

ブリトニーの場合も、確か16歳で自作の曲を発表し、天才少女として登場した。デビュー当時は、アメリカの普通の音楽付きの少女だったが、アメリカのポッ プス界の過剰な装飾を纏って、まるで別人のようになった。マドンナのようなセクシャルな存在を目指したのは、おそらく本人の決断というよりは、アメリカの ポップス界の強烈な風圧があってのことだろう。これによって、彼女は自分を見失ってしまった。

バスを降りる勇気がなければ、自分と虚像としての歌手宇多田ヒカルが分離する。きっと彼女は、そのように感じて、昨年無期限休止宣言を発したと思われる。

番組は、一貫して宇多田ヒカルの素顔が照射されていた。彼女個人は、化粧もナチュラルメイクである。このことは、彼女自身が、極力自己と同一でありたいと思っていることの反映だろう。もっと分かり易く言えば、どこまでも、自分であり続けたいと願っているのだと感じだ。

今回の休止宣言は、彼女にとって、人間としての充電期間として、是非とも必要なものだった思う。再び帰って来る時には、さらに素敵な歌をひっさげて戻ってくることを、ゆっくり待ちたい。宇多田ヒカルは、新たな日本女性の可能性の発露である。

2011..1.18 佐藤弘弥

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