盛岡石割桜の謎を解く 

1 石割桜縁起


盛岡に石割桜というふしぎな桜がある。誰もがその前に立つと、感嘆のため息をつく。

無理はない。何しろ花の時期には、巨大な直径7m、周囲21mもある巨大な花崗岩の中心がふたつに割れていて、そこから幹回り4.6m、樹高10.8mの エドヒガン桜が、東西17m、南北に12.8mの規模で花をつける。この桜を見るため、開花の時期には、全国から人がやってくる。

今現在も、この巨木は、石というより岩を年々数ミリの規模で、割り続けているという。何という驚くべき生命力。生きんがために、岩も割るという行為を自然に行うこの桜を見る時、私はこのふしぎな花に象徴されているものを思った・・・。

人間は、地球という巨大な球形の岩石に命を受けた限りある生き物だ。百年にも満たない限られた寿命の中にあって、人間はこの巨大な岩石を割り、そこから生きる糧をもらって生き、そして死ぬ運命にある。つまりこの桜は、私たち人間と似ているのだ。

この石割桜の歴史は、350年とも400年とも言われる。厳密に言えば310年ほどと推測される。その根拠となる、古文書がある。(参考文献「岩手の不思議事典 P208)

かつてこの石割桜のある場所は、南部藩主の分家にあたる北監物(南部済揖=なんぶさいしゅう)という人物の屋敷であった。北家の家臣の日記によれば、宝永 5年(1708)7月8日の条に、同年6月17日、晴れた日の午後2時頃、突如雷鳴が数回響き、広間の柱が揺れ、夜まで大雨が降った。見渡すと柱が裂け、 土台の石が割れていたという。このことを雷神への信心のなさによるものと考えた北家は、直ちに庭に雷神堂を建てて、祈ったというのである。この土台石こそ が、現在の石割桜のある場所と推定される。

古来より、わが国では、雷が落ちた樹木や場所を、雷神が寄り付いた場所として神聖視する話は良くある話だ。このような場所を依代(=憑代:よりしろ)と呼 び、神霊が乗り移った物として、樹木や、岩石などを祀るのである。この盛岡の石割桜の岩石は、その時以来、この周辺の人々にとって、雷神の依代として特別 に神聖な場所となったと考えられる。


2 石割桜を守った人


石割桜という桜を実際に見て、本当にふしぎな巨樹だと思って、さまざま調べて来ると、もっとふしぎに感じたことがある。それはこれほどの桜なのに、伝説のようなものが語り継がれていないことだ。

普通であれば、あり得ないような虚言も含め、神仏や歴史的人物などに絡めた伝説を衣のように纏っているものなのに、それらしいものが一切見つからない。

唯一、語り継がれているのは、昭和7年(1932)9月2日、目の前にある盛岡裁判所が火事になった時のエピソードである。歴史的に見れば、つい最近の出来事で、伝説というものではない。当時の新聞は、「物言わぬ石割桜を火焔から救った人」として、大きく報道している。

「裁判所が火事だ」の声に、一人の老庭師が、駆け付けてきた。身内の結婚式から自宅に戻った庭師の藤村治太郎翁(造園業「豊香園」2代目)であった。藤村 翁は、地元の消防団員でもあった。このままでは、石割桜に火が回って焼失してしまう、と、とっさに、自ら着ていた半纏を水で浸し、必死で放水をする他の消 防団員と声を掛けながら、桜に火が回るのを防いだ。それでも、石割桜の裁判所寄りの幹と枝先には、火が押し寄せ、危ない状況だった。何度も何度も水を掛 け、火を自らの身を挺して延焼を防いだ。何とか火が消えた。でも裁判所寄りの幹と枝は瀕死の状態であった。この時、藤村翁の前歯は、数本折れていたとい う。

それからが大変だった。藤村翁は、何とかこの大樹を救おうと、石の割れ目に肥料を与え、火災によって幹の裂けてしまった部分には、雨による腐食が進まぬよう、粘土を詰めて、蘇生処置を施した。

ほどなくやってきた冬には、岩手山から吹き下ろす風雪から樹木を守るために、幹や枝を藁で巻いて労(いたわ)った。このようにして、石割桜というふしぎな 桜は、私たちのいる今日に受け継がれたのである。もしも一人の庭師の桜に賭ける思いがなかったら、石割桜を私たちは目にしていなかったかもしれない。

藤村翁の造園会社「(有)豊香園」(本社 盛岡市本町通二丁目)は、今も、この石割桜のいわゆる桜守を無償で続けている。翁が言い残した次のような教えを社是として守っているからだ。

曰く「石割桜は、岩手の宝・・・手入れをするのに絶対お金を頂戴してはならない」

3 石川啄木と石割桜

岩手の生んだ天才歌人石川啄木(1886ー1912)に、石割桜を描写した小説がある。啄木にとって盛岡は多感な少年時代を過ごした母なる町である。

「幅広く美しい内丸の大通り、師範学校側の巨鐘が、澄み切つた秋の大空の、無辺際(むへんさい)な胸から搾(しぼ)り出す様な大梵音(だいぼんおん)をあ げて午後の三時を報じた時、自分は恰度その楼の下を西へ歩いていた。立派な県庁、陰気な師範学校、石割桜で名高い裁判所の前を過ぎて、四辻へ出る。と、雪 白(せっぱく)の衣(きぬ)を着た一巨人が、地の底から抜け出でた様にヌツと立つて居る。

これはこの市で一番人の目に立つ雄大な二階立(にかいだち)の白堊館(はくあかん)、我が懐かしき母校である。盛岡中学校である。(後略)」(「葬列」初 出は「明星 十二号」1906(明治39)年12月発行。「全集 三巻 小説 筑摩書房」所収 青空文庫版の原文から現代表記に修正して引用)

「内丸の大通り」とは、現在の中央通りである。かつて、啄木の母校盛岡中学(現盛岡一高)は、岩手銀行本店のある一角にあった。現在は、盛岡中学は、移転 し、北から南に、岩手銀行本店、裁判所、県庁、そして岩手県公会堂が一直線に並んでいる。広くて風の抜ける気持ちの良い盛岡の大通りである。

啄木の記した、「雪白(せっぱく)の衣(きぬ)を着た一巨人が、地の底から抜け出でた様にヌツと立つて居る。」というところ、盛岡中学の建物を描写した箇 所であるが、私はこれはまるで、満開時の石割桜ではないかと思った。特に「地の底から抜け出た様にヌツと立つて居る。」という辺り、満開の石割桜を連想さ せる。まさに、開花期を迎える石割桜は、固い花崗岩を割って地底から現れた白い巨人の風情がぴったりである。

ところで、啄木の代表的歌集「一握の砂」に、上の小説の原形になったと思われる啄木の中央大通りと石割桜を詠み込んだ短歌が三首ある。(順としては、「一握の砂」の172から174に当たる。)

 盛岡の中学校の
 露台(バルコン)の
 欄干(てすり)最(も)一度我を倚らしめ

 神有りと言ひ張る友を
 説き伏せし
 かの路傍(みちばた)の栗の樹の下

 西風に
 内丸大路の桜の葉
 かさこそ散るを踏みてあそびき


最初の歌は、自分の通った盛岡中学を懐かしんで詠んだ歌。次に、この通りを歩きながら、この世に神が居るということを言う友人に、科学的に言えば、など と、道端の栗の木の下で反論するやや理が勝ちすぎる少年期の啄木の生の姿が伺える。季節は秋である。岩手山から吹き下ろしてくる秋風は、二人を石割桜のあ る辺りに導く。石割桜は、風を受けて、「かさこそ」と音を立てている。夏の頃青々と茂っていた石割桜の葉に黄色や橙(だいだい)色のが交じってきているの が見えるようだ・・・。

啄木の石割桜への思いが、自身の少年時代の想い出と重なってイメージ化されているところが実に面白い。

4 石割桜と天満宮

石割桜と天神堂の歴史について、少し考えてみる。

一話で説明したように、南部家の分家北監物邸に落雷があったのが、宝永5年(1708)6月17日の午後2時頃であった。それから夜まで大雨が降り。気付 くと、柱が裂け、土台石が割れていたという状況だった。通常、落雷は高い樹木に落ちたりするものである。現在石割桜の場所に、どんな高い建物が建っていた かは分からない。あるいは高い樹木が存在したかもしれない。落雷の翌年、天神堂が建てられたのであるが、さて奇妙なことに気がついた。天神様といえば、す ぐに連想されるのが、文字通り天神様と呼ばれる菅原道真(845−903)を祀る天満宮のことである。

先に紹介した石川啄木の小説「葬列」には、この盛岡にある天満宮のことが描写されている。盛岡天満宮(盛岡市新庄町 5-43)は、石割桜から東南の方角に1.5キロほどの距離にある。

啄木は、この天満宮(※注1)の参道の前にある猿とも犬ともつかぬ実にユニークな狛犬(※注2)に触れ、「そのまた顔と言ったら、けだしこれ天下の珍と言 うべきであらう、ただ極めて無造作に凸凹をこしらえただけで醜くもあり、馬鹿げてもいるが、よく見ると実に親しむべき愛嬌のある顔だ。全く世事を超脱した 高士の面影(おもかげ)、イヤ、それよりも一段(もっと)俗に離れた、俺は生れてから未だ世の中というものが西にあるか東にあるか知らないのだ、といった 様な顔だ。」(「葬列」初出は「明星 十二号」1906(明治39)年12月発行。「全集 三巻 小説 筑摩書房」所収 青空文庫版の原文から現代表記に 修正して引用)とユーモラスに書いている。

<※注1>天満宮は、もちろん学問の神さま菅原道真(845−903)を祀った社である。当代一の学者でもあった道真は、天皇の信任を得て右大臣にまで出 世したが、藤原時平の讒言によって九州太宰府に流され、不遇の内に亡くなる。すると京都で、時平の館などで落雷が続き、これは道真が天神となって復讐を遂 げているとの噂が広まったのである。以来、菅原道真の御霊を鎮めるために、太宰府や京都の北野に天満宮が創建され、全国各地にも末社が拡がっていったもの である。

<※注2>石屋をしていた高畑源次郎という人物が、天満宮に病気平癒の御礼に自ら彫って明治36年6月に奉納した狛犬。

この盛岡天満宮が、現在の杜に落ち着いたのは延宝7年(1679)であった。ここから計算すれば、北監物邸の天神堂は、天満宮の創建から30年後に、建てられたものということになる。

ところで、天満宮の社内には、割れた石の間に生えた石割梅という名物木がある。梅の木は、さほど大きくはないが、盆栽と同じことで、相当の樹齢とも考えら れる。そこで、盛岡天満宮に取材し、鱒沢昇氏(盛岡天満宮盛岡菅公会会長)に伺った。お話しでは、「石割桜ほど古くはないかも。樹齢は百年ほどでは」とい うことだった。2代目、3代目の梅ということも考えられる。

石割梅の横には、銭湧石(せんゆうせき)というものもある。これは割れた二つの石の間から古銭が出土したということから、銭が湧く石と命名されたものであ ろう。考えて見れば、この社を訪れた参詣者が、石の間にお賽銭として小銭を投げ込んだものが貯まり、後の世に拾得されたものと推測される。

割れた石の間に、花を植えるという石割桜の発想は、実はこの天満宮の石割梅から来ているという可能性は捨てきれない。もちろん推測の域を出ないが、天満宮 の石割梅だったところを、北監物邸では天神堂の石割桜として意識的に置き換えて祀ったのかもしれない・・・。ともかく啄木が、石割桜の謎解きに一役買って くれた気がした。

つづく

石割桜写真集

2010.05.8- 佐藤弘弥

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