「平泉」の町に平和の思想を視る

            
-祈りの古都「平泉」再生への試論-

五十嵐 敬喜(法政大学法学部教授)     
佐藤 弘弥(平泉景観問題を考えるHP 主宰)

 
目次
プロローグ黄金の都市  1過疎の町平泉 2平泉と黄金 3藤原三代  4都市平泉の特質 5平泉が滅んだ日 6祈りの 都市の意味 7平泉の未来像を求めて 8芭蕉の観た景観 9美の破壊と継承 エピローグ祈りの都市の再現 増補「美と祈り」の復権

中尊寺金色堂(2003年4月26日 佐藤弘弥撮影)
資料写真

何をもて世界遺産 と云うべきや清衡公の祈りも知らで


プロローグ 黄金の都市 

あなたを、これから奥州の古都平泉に、案内しよう。

今から814年前、辺境とみなされていた奥州の地に、黄金の蓮華のごとき都が花開き、往時には、10万人(注1)という人々が都大路を行き交っていた。その規模は、京の都に次ぐものだったとい う。しかし歴史は残酷だ。都市平泉の栄華は、わずか百年という短さであった。それから瞬く間に、800年以上の歳月が流れた。まさに光陰は矢のごとしであ る。21世紀に入った今日、かつて偉容を誇った黄金の都市平泉は、わずか人口9千人の過疎の町と化している。この凄まじいまでの落差はなぜ起こったのか。 かつての古都平泉の栄華の面影は、中尊寺の金色堂や復元なった毛越寺の浄土庭園の前に佇む時、沸々と脳裏に甦ってくる。数年前から平泉では、世界遺産登録 にちなみ、古都の景観を破壊するとして「平泉バイパス問題」(いわゆる平泉景観問題)が内外から巻き起こった。それがどうしたことか、2003年5月現 在、古都平泉の命ともいえる「景観論争」は、そっちのけとなり、全国各地で巻き起こっている市町村合併特例法の期限切れ(平成17年3月)を目前にしての 「合併騒動」の大波(?)にゆれている。
 

1 過疎の町平泉

本年3月14日、増田岩手県知事は、平泉町の千葉町長、高橋町会議長らを直接、知事室に呼び、一関市を中心と する一関地方任意合併協議会(現在、一関市、花泉町、東山町、川崎村で構成。会長は一関市長)に参加するよう強く要請した。すると事態は急展開を見せ始め た。そもそも千葉町長は、県の役人だった人物だが、知事の発言を「重く受け止める」として、一関市を中心とする大規模合併を議会内外で熱心に説くように なった。一方、町議会側は「歴史的かかわりが深い衣川村との合併論議を優先」(高橋議長)との姿勢を崩さない。町民の意見も複雑である。賛成43%に反対 40%ときっ抗した格好で一進一退が続いている。(注2)

こうした中で、人口は、グラフのように推移しており、過疎化の流れは食い止められそうにない。

今後の平泉町の人口推移予想
(平泉町広報誌「ひらいずみ」2002年一月号NO534より)

観光の方はどうか。結論から言えば、平泉を訪れる観光客の状況は芳しくない。下の表とグラフが如実に語るよう に、東北屈指の中尊寺と毛越寺を抱えていながら、年々減少の一途を辿っている。平泉を訪れる観光客の足取りは、平泉を観た後、花巻温泉に宿泊し、さらに盛 岡に足を伸ばすというコースだ。逆に盛岡や花巻から、平泉を観て、松島に宿泊するというコースもある。要するに平泉周辺は、単なる通過点になってしまって いる。その原因は単純だ。この周辺に、魅力のある宿泊施設がないということだ。これは県や町などが、長期的展望を持った観光開発をやって来なかったツケが 回っていると指摘しておきたい。

こんな声もある。「平泉には甘えと油断があった。観光資源が多すぎて、何もしなくても観光客が来た。(大手旅 行業者の弁)」確かに奥州藤原氏の黄金の古都のイメージは、日本経済が右肩上がりで成長している時には、絶対的な権威があった。しかし高度成長期は、終わ りを告げ、日本経済は失われた10年といわれるほどの停滞期に突入した。たとえ平泉であっても、黙っていても観光客が訪れるようなバラ色の時代は過ぎたの だ。さらにこの周辺に、若者たちの就職口は、絶対的に少ない。若者は、就職口を求めて、近くは仙台や盛岡、遠くは東京などの首都圏に行くことになる。その 結果、平泉は、典型的な過疎の町と化してしまったのである。

観光客の推移表
(資料:観光商工課調べ)


平泉周辺地域の観光客の推移グラフ
(資料:観光商工課調べ「平成15年一関地方振興方針」より転載)




平泉において、最後に残されている希望が、「世界遺産登録」というテーマだ。これについては、町内外からも地 域活性化の切り札として支援の輪が拡がりつつある。(注3)さて「世 界遺産」が、過疎にゆれる平泉とその周辺地域にとって真の意味で救世主になれるであろうか。これが今回のテーマである。平泉が周辺地域に、大いに期待され る要因は、日本でも有数の観光資源としてのいわゆる平泉ブランドが評価されてのことだ。
 

とりあえず、平泉は、なぜ世界遺産にノミネート(注4されたのか、ここから考察を始めてみよう。
 

注(1)佐貫利雄「成長都市の条件」。月刊「地域づくり」1999.04 (第118号)。
「今から九百年前の日本人口は一千万人にすぎなかった。その当時における二大都市は、京都と平泉であった。京都が約十六万人、平泉が約十五万人であっ た・・・」
荒木伸介 角田文衛 他著「奥州平泉黄金の世紀」。新潮社1987年5月25日刊。
「今日、平泉町の人口は約一万人である。しかし八百年前には十数万人と推定されている。」

注(2)「合併を考える会」が2月27日に実施した市町村合併に関する町民アンケートを指 す。
尚、平泉一帯をめぐる市町村合併については、岩手日報社の文字通り詳しい「市町村合併」 という特集記事があるので参照されたい。

注(3)2003年1月24日。宮城県気仙沼市の有志が「平泉町世界遺産登録支援気仙沼市 実行委員会」結成。募金で集めた約270万円を平泉町に寄贈。同年5月、岩手県大船渡市でも「支援推進委員会」結成見込である。

注(4)2000年秋 平泉はユネスコ世界遺産条 約の「文化遺産」として世界遺産暫定リスト入りを果たした。ユネスコ世界遺産条約は、正式には、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」と呼ば れる。1972年、第17回ユネスコ(国連教育科学文化機関)総会で採択された。加盟国の拠出によって、遺産の修復や保護にあたる。その趣旨は「文化遺産 及び自然遺産を人類全体のための世界の遺産として損傷、破壊等の脅威から保護し、保存することが重要との観点から、国際的な協力及び援助の体制を確立する こと」である。 日本は先進国としてはかなり遅れて、1992年9月に批准した。遺産条約の締結国数は、2002年10月現在で175カ国である。また2003年7月現 在、世界遺産リストに登録された文化遺産は582、自然遺産は149、複合遺産は23の総計754件となている。世界遺産は、「文化遺産」、「自然遺 産」、「複合遺産」(文化と自然の要素を兼ねているもの)に分けられる。尚、2001年より、口承及び無形遺産の傑作」についてのリストが作成されること になり、今後は「無形遺産」が追加されているので、世界遺産は今後4つになることになる。平泉がノミネートされている文化遺産の登録基準は以下のように なっている。

文化遺産の登録基準  
1.人間の創造的天才を表す傑作であること 。
2.ある期間、あるいは世界のある文化圏において、建築物、技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に大きな影響を与えた人間的価値の交流を示しているこ と 。
3.現存する、あるいはすでに消滅してしまった文化的伝統や文明に関する独特な、あるいは稀な証拠を示していること。
4.人類の歴史の重要な段階を物語る建築様式、あるいは建築的または技術的な集合体、あるいは景観に関するすぐれた見本であること 。
5.ある文化(または複数の文化)を特徴づけるような人類の伝統 的集落や土地利用の一例であること。特に抗しきれない歴史の流れによってその存続が危うくなっている場合。
6.顕著で普遍的な価値をもつ出来事、生きた伝統、思想、信仰、 芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連があること。


 
 

2 平泉と黄金

かつて平泉は、神秘に満ちた魅惑的な都市であった。かのマルコポーロが、「東方の海中に島があり、その国王は 純金の宮殿に住んでいる」と「東方見聞録」で語たったのは、中尊寺金色堂の偉容の反映ともいわれる。世界の人々は、日本という島国のイメージを平泉という 都市に、なぞらえ、「黄金の国・ジパング」として夢見ていたのである。

平泉は、藤原清衡(1056-1128)によって建都された。都市平泉造営の物質的根拠は黄金であった。周知 のように日本で最初に金が産出したのは、平泉を南下すること80キロほどの地点に位置する宮城県涌谷町黄金山付近であった。西暦749年(天平21)春、 この地で突如として金が湧いた。陸奥国守の百済王敬福が、九百両(12.65kg)ほどの黄金をすぐさま聖武天皇に恭しく献上すると、帝は大いに喜び、元 号を天平から天平感宝と改めたという。歌人大伴家持は、この大慶事に「天皇(すめらき)の御代栄えむと東なるみちのく山に金花咲く」と寿いだ。

しかしこの朝廷側の慶事は、日本列島の東北部に元々住んでいた先住民にとっては、不幸の始まりであった。黄金 の産地として東北地方の領土的価値は一気に急騰し、一種のゴールドラッシュが起きた。こうして辺境と見なされていた東北は、血なまぐさい戦場と化していっ た。征服を目論む側は、東北の先住民を中国の異民族の呼称にならい「エミシ」と、侮蔑の言葉で呼んだ。しかし彼らは、元々固有の言語を持ち、日高見国と呼 ばれる国家(?)を持つ誇り高き人々であった。つまり平泉周辺の地域は、大和の兵士たちと東北の先住民が対峙する境界線上に位置していたことになる。
 
 

3 藤原三代

藤原清衡は、元々北上川を遡ること30キロ余りの江刺郡豊田を根拠地としていた。豊田の館は、清衡の父藤原経 清が造営した館であったが、清衡にとっては、辛い思い出がある地だった。後三年の役(1086年)の戦の折、この館が敵方に奇襲され、彼の妻や子供たちが 焼き殺されたのである。九死に一生を得た清衡だったが、つくづくと戦争というものの本質を実感したはずだ。(注 5)

そしてこの悲惨な清衡の戦争体験が、平泉という都市を建設するにあたって決定的な引き金になったと推測され る。

清衡は、嘉保ないし康和年間(1094-1104)、まず北上川の畔の段丘に今、柳の御所(平泉館)と呼ばれ る政庁を構えた。周囲には掘を巡らせるなどして、万が一の戦闘への備えも忘れなかった。しかし彼の真骨頂は、この新しい都を信仰の力で徹底的に浄化し、 36年という長い戦乱により命を落とした数多の生類の御霊を鎮めこの地に平和の楽土を出現させようと思い立ったことだ。そして長治二年(1105)小高い 関山に中尊寺堂塔伽藍群を次々と造営していった。

二代基衡(1100?-1157)は、父の意志を受け継ぎ、毛越寺一体を整備し、都市平泉の空間を南に大きく 拡大していった。毛越寺から東にメインストリートを整備。中尊寺から花立を越えて毛越寺に伸びる道路も整備した。また北上川から衣川の水路が整備されるな ど都市平泉は、飛躍的な発展を遂げたと思われる。清衡時代には、まだどこかに漂っていた軍事都市の面影は、こうして急速に商業都市のそれに変わっていっ た。こんな平泉の最盛期の都市景観を、吾妻鏡では、「観自在王院の南大門の南北路、東西より数十町に及び、倉町を造り並び、また数十宇の高屋を建つ。同院 の西に面して南北に数十宇の車宿あり」と記している。当時の栄華が彷彿と偲ばれる情景だ。観自在王院とは、基衡の妻が毛越寺の東に建てた寺院で、毛越寺と 対の構造をしていた。

三代秀衡(1122-1187)の頃には、平泉館と言われる政庁柳の御所の一層の充実と清衡の目指した平和の 楽土の実現という都市建設の思想の徹底化が見られる。それは柳の御所と伽羅御所の西側に造営された無量光院に象徴される。無量光院は、京都宇治の平等院を 模し、金鶏山と関山を借景として造営されたた鶴翼の美しい寺院である。その規模は、宇治の平等院を上回るとものであることが、最近の発掘調査によって証明 されている。さしずめこの平泉の平等院は、祖父清衡と父秀衡の眠る関山の金色堂を閑かに拝しながら、同時に、日が西に没する様を観想するための新しい聖地 であった。残念ながら、この寺院は、今は焼亡し、遺っているのは、美しい曲線に縁取られた中島の曲線と寺院の跡に並ぶ礎石の配置だけである。秀衡は、祖父 清衡の意志を受け継ぐ気持ちを表する為か、寺院の壁面に自らで狩猟の図を描いた吾妻鏡は伝えている。

秀衡の時代には、都市の範囲も、衣川のさらに北方から西光寺のある達谷周辺や長島地域の方にまで、大きく拡が り、人口も更に増えたと思われる。清衡以来100年にして、聖都平泉はピークを迎えた。
 
 

往時の平泉の創造図(作成:板垣真誠 監修:入間田宣夫)
(高橋富雄他著「図説奥州藤原氏と平泉」より 河出書房新社 1993年)

 
注(5)清衡は、戦争の落とし子とも言える悲惨な子供時代を送った。父経清は、平将門の乱を平定 した藤原秀郷の後胤で、陸奥守・藤原登任の郎従として、亘理郡(宮城県)に赴任した武者であった。経清は奥六郡で権勢を奮うエミシの末裔安倍頼時の娘を妻 に迎えたことから、鎮守府将軍の源頼義に疑われ、安倍氏方に走り、「前九年の役」(1051-1062)で安倍氏一族と共に敗死を遂げる。清衡の母は、源 氏を助けた出羽の俘囚長の清原氏へ再嫁し、当時八歳の清衡もこれに従い、清原家の中で成長する。この後、清原家の中で内紛が発生。これが後三年の役 (1083-1087)である。青年となった清衡は、父源頼義の跡を継いで源氏の棟梁となった陸奥守源義家の加勢を得て、奥羽一体を巻き込んだ足かけ36 年にも及ぶ大戦争(前九年・後三年の役=1051-1087)の最後の勝利者となる。


4 都市平泉の特質-苑池都市

さてそれでは、この平泉に出現した「浄土」は、どのような都市であったのか。気鋭の考古学者前川佳代は、発掘 調査にかかわりながら平泉は「苑池的都市構造」があった、ときわめて魅力的な考察を行った。少し長文になるがその主張を見てみたい。
 

「都市平泉の一面は、四神相応の地を選び、浄土思想や自らの理念に基づいて創り上げた広大 な苑池空間である。ここでいう「苑池」とは現代用語の庭園より規模が大きく、古代都城に付属した「苑」に類似した広大な領域に、山や池、寺や邸宅などを配 置した空間を指す。

平泉の苑池は、北は関山、東は北上川、南は太田川に囲まれた範囲(平泉中心区)で、中尊寺境内はもちろん のこと、金鶏山や塔山を背景に、花館廃寺と花館溜池、鈴沢池、毛越寺、観自在王院、無量光院、柳之御所、伽羅御所などが散在している景観をいう。

苑池の構想時期は12世紀第2四半期で二代基衡の治世にあたり、金鶏山の設定(注6)と、平泉の主な池が造成される。苑池の構成は、北宋の名園「艮岳」に類似する。

平泉の苑池の意義は、浄土・神仙世界の具現化、そして王城鎮守という意識であったと考える。(中略)浄土 思想が加味された苑池空間である平泉中心区を彼岸とすると、北上川をはさんだ東方地区は此岸である。」

(「平泉の苑池」平泉文化研究年報 第1号平成13年3月31日岩手県教育委員会)
注(6)金鶏山の築山の時期は清衡期に遡ると言われる。


苑池は、単なる観賞用や信仰上の理由から配置されたものではないことは自明だ。治水や防衛の都市機能としての役割も 担っていた。そのことを前川は次のように指摘している。
 

「平泉は、西の山際が迫る地形ゆえ、池は降雨の時に沢水が急激に都市域に流入しないための 水溜的機能を有す。また鈴沢池に近い溝は池に向かって勾配が下がるため、排水施設と考えられる。そして汚染物を北上川へ流すまでに沈殿させ、浄化させるよ うな機能も想定できる。そして反対に、北上川が氾濫したときなどは、鈴沢池や猫間が淵は自然遊水池となり、都市域を保護したものと推測される。」(前掲 「平泉の苑池」)


往時の都市平泉のイメージ、それは大きな極楽の大池に沢山の蓮華の花が咲き誇っている極楽そのものだ。花とは中尊寺 や毛越寺の大小数々の堂宇・宿坊のことであり、一族郎等の宿館の立ち並ぶ様のことを指す。その中心には、都市平泉の西方に燦然と輝く金色堂がある。そこに は一心に浄土をこの平泉に出現せしめようと「祈り」仏となった初代清衡の「祈り」がある。
 
 

平泉の苑池復元想定図(矢印は流路)
(「平泉の苑池」 前川佳代 平泉文化研究年報より)




5 平泉が滅んだ日

頼朝はこの都市を攻めようと決意し、全国に大号令をかけ28万人の大群を率いて攻め込んだ。今や平泉という都 市には、秀衡という卓越した政治家も、軍事的天才義経もない。朝廷の許可(宣旨)も無きまま、鎌倉を出立した頼朝は、わずか1か月で平泉に着く。

文治五年(1189)八月二十一日。その時をもって、平泉は花が散るようにして滅び去ってしまった。その日の 情景を、「吾妻鏡」 (平泉「寺塔已下注文」)は、このように記している。

 
「21日、雨、暴風が甚だしい。(中略)泰衡は、平泉館を過ぎてなお逃亡した。泰衡は息も絶え絶えに急いで自宅 の前に差し掛かったのだが、しばらく逗留することも出来ずに、部下を遣わして、館内の高屋、宝蔵などに火を放たせたのであった。その為に、高き梁(はり) や柱という柱の構え、三代続いた旧跡は失われ、麗しき金昆玉などの貯えは、たちまちのうちに灰燼と化してしまった。」
鎌倉の征服軍は、平泉館の南西の角にある付近というから、おそらく秀衡や泰衡の館の跡と言われる伽羅御所の一角に、 泰衡が遺して言った宝物の一部を発見する。その豊かさに彼らは唖然とするばかりだった。折から秋雨が激しく降っていた。しかし奥州の最後の御館(みたち) 藤原泰衡は、館内の高屋、宝蔵などに火を放ち、北へと逃亡し去っていた。翌日、頼朝は鎌倉勢の総大将として、平泉に意気揚々と凱旋をした。そして焼け落ち た平泉館に入る。吾妻鏡の滅びの段は続く。
 
「22日 雨甚だしい。午後四時頃、(頼朝公は)泰衡の平泉館にお着きになった。館の主は すでに逐電しさり、家屋は灰燼となって消えていた。館の周辺の数町には、寂しさがただよっていて人っこ一人居ない。軒を連ねていたはずの城郭は皆消え去 り、ただ焼土だけが拡がっている。その中を秋風は飄々と幕を叩いて吹いている。」(現代語訳佐藤)
その日、頼朝は、鎌倉勢の総大将として、平泉に意気揚々と凱旋をした。焼け落ちた平泉館に入る。やはり雨が激しく 降っていて、館の周辺には、寂しさがただよっていた。こうして栄華を誇った黄金の都市平泉は、一瞬にして滅びた。見渡しても、人っこ一人居ない。軒を連ね ていたはずの城郭は皆消え去り、ただ焼土だけが拡がっている。その上を秋風は、飄々と吹き渡り、幕を叩いていた。何と凄まじい光景だろう。
 
 

柳の御所跡(北上川は100mほど東に移動した)
(2003年4月26日佐藤撮影)
資 料写真

6 祈りの都市の意味-中尊寺供養願文を読む

佐貫利雄の説によれば、往時の平泉は、京都に並ぶとも劣らぬ大都市であった。それにしても、繁栄を極めた平泉 が、何故こんなにも簡単に滅ぼされてしまったのか。秀衡死後、その繁栄にいささか翳りが見えていたとはいえ、それでも奥羽全土から兵をかき集めれば、鎌倉 軍の28万には及ばずとも、相当の兵が集められたはずだ。もう少しまともな闘いが出来てもよさそうだ。それが阿津賀志山(福島県国見町)の合戦以外戦らし い戦もしないまま、鎌倉軍はあっさりと聖都平泉に入城してしまう。そして黄金の都は、まさに一瞬にして滅び去ってしまったのである。いったいこの原因はな にか。

この点に関しては、これまで歴史学から、必ずしも説得力のある説明がないように見える。そこで私たちは、ここ にひとつの仮説を提示したい。それは初代清衡が、この都市にある祈りをもって、創建したことに起因するということである。それは現代の都市のあり方に対し ても大きな示唆を与えることになるであろう。

すでに見たように、かってこの地一帯は、奥州の民と大和朝廷が対峙する要衝の地であった。それが清衡の経験し た36年にも及ぶ大戦争(前九年・後三年の役)を経て、いつしか伽藍が甍を並べる、祈りの聖都になっている。これが平泉を主戦場にできない決定的な要因 だったと考えられる。

そこでまず平泉の往時の都市平泉の地形というものを見ておこう。江戸時代に描かれたと思われる古地図(注7)は、幾つか伝わっているが、どの地図を見ても、いささか軍事的機能が弱く映って しまう。もちろん私見ではあるが、そのことは都市鎌倉の地図と比べると一目瞭然である。

平泉都市新旧概略図
(岩波写真文庫「平泉1952」より)





注目すべきは、当時の平泉の地形、とりわけ北上川と柳の御所や一族の居館の跡と言われる配置である。現在では 長年の反乱や侵食などで北上川は政庁跡と言われる柳の御所の直前を流れているが、昔は200mないし500mほど東側を流れていたと言われている。また柳 の御所の北端に位置する高館に沿って衣川が流れていたが、これは7〜8mの川幅であった。とすると防御には、ふたつの川はさほど役立ちそうもない。もちろ ん柳の御所も空堀(?)や猫間が淵のような穿った池に取り囲まれてはいるものの、戦に備えての本格的な城柵とは、性格が違うようだ。

では清衡は、どんな理由で、豊田から平泉に何故都を遷したのか、これを解く鍵が「中尊寺供養願文」という清衡 が起草させた願文である。このテキストを読みながら、清衡の心を読み解いてゆくことにしよう。清衡は、中尊寺を時の白河天皇の御願寺(ごがんじ:天皇の勅 によって建てられた寺)として創建した。

願文はこんな下りで始まる。

「敬白 建立供養し奉る。鎮護國家大伽藍一區(区)の事。」
 まずここでは「堂塔」とそこに奉納した「仏像」を列挙し、ついで二階の「鐘楼」についてこのように述べている。
「二階の鐘樓。(中略)(この鐘の)一音が及ぶ所は、千界に限らず、苦しみを抜き、楽を与 え、生きるもの皆に普く平等に響くのです。官軍の兵に限らず、エミシの兵に限らず、古来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持 つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく殺されて来ました。命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりま すが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなき命を奪われものの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります。」(現代語訳佐藤)。
この短い願文の中に、清衡という人物の慈愛に満ちた心が溢れている。彼の心の中には、もはや敵も味方もない。人間だ けではなく、鳥獣や魚に至るまで、これまで罪もなく苦しみのうちに亡くなっていった御霊を弔い、彼らをすべて極楽往生させたいという徹底的な平和思想が貫 かれているのが判る。

 では平和都市とはどの様な都市か。
 

「大門三棟、築垣三面、反橋一道(二十一間)、斜橋一道(十間)、龍頭鷁首(りゅうとうげ きす)の画船二隻、左右楽器、太皷、舞装束の三十八人がこれに付き添います。これを造るに当たっては、築山をして地形を変え、池を掘って水を引き入れた。 草木と樹林を宮殿楼閣の中に配置し、この中で世の人を楽しみとする歌舞を催し、民衆の仏への帰依を讃えようと思います。そのようにすれば、たとえ砦の外の 蛮族でも、『この世にも極楽はある』」と言うでありましょう。」


清衡は京都をひとつの都市設計のモデルとし、最先端の土木技術を導入し、本気でこの地にこの世の「極楽浄土」を造ろ うとした。苑池都市は平和都市の具体的な設計であったのである。極楽浄土とはもちろん仏教の説く極楽世界を指す。
 

「千部の法華経に、千人の読経者。これ(法華経)について、私(清衡)は志を忘れずに、多 年に渡り僧侶に書写させてきたのであるが、同時にこれを一日に転読させ、一人で一部、千人で千部を唱和し尽くそうと思います。集った蚊の羽音は、雷鳴を成 すと言う。千僧の読経の声は、きっと天に達するでありましょう」

「五百三十口の題名僧。これは、530人の僧が、別々に軸の題名を揚げ、五千餘巻の部帙(ぶちつ)を見せ る。手毎に捧を持ち、紐を開きて、煩いを無くすのです」

清衡が、豊田から平泉に遷都した大きな理由は、国家を軍需型の国家から仏教思想を中心とした商業型の国家を目指した からではないか。前九年後三年の役の大戦を終えて、膨れあがっていた奥州の兵士を僧侶として吸収しようとした可能性もある・・・。

そしていよいよ、清衡が願文に託した思いが、明らかになる…。
 

「善根を尽くすその本意は、偏に鎮護國家を祈る為であります。どうした縁があったのか、私 は東北のエミシの酋長に連なる家に生まれながら、白河法皇が統治される戦のない世に生れ逢い、このように長生きをして平和の時代を恩恵に浴して参りまし た。そして我がエミシの里では争い事も少なく、捕虜を住まわせた土地や、戦場だった所も、よく治まっております。さてこの時代にあって、私は、分不相応に も、祖先の残した事業を引き継ぐこととなり、誤って、エミシの酋長の立場に座ることになりました。今や出羽や陸奥の人の心というものは、風に草がなびくよ うに従順でございます。粛愼(しゅくしん)やユウ婁(ゆうろう)のような海外の蛮族もまた、太陽に向うひまわりのように懐いております。なすがままに治め て三十年以上、この間にも、時を享受しつつ、毎年の租税を納めることに励んで参りました。(中略)ところが私は、既に「杖郷の齢」(じょうきょうのよわ い:60才)を過ぎてしまいました。人の運命というものは、天にあるものではございますが、(中略)与えて戴いたご恩に報いることを思えば、善行を積む以 外にはないと思い立ちました。

そこで、租税として貢いで後に残ったものを調べ、残っている財貨を洗いざらいなげうって、吉と占いに出た 土地に、堂塔を建て、純金を溶かして、佛経を書写させた次第です。

経蔵、鐘樓、大門、大垣などを建て、高い所には築山を施し、窪地には池を掘りました。このようにして(平 泉の地は)、「龍虎は宜しきに叶う」という「四神具足の地」となりました。エミシも仏善に帰依することになり、まさに、この地は、諸佛を礼拝する霊場とい うべきではないでしょうか。

…(中略)諸々の大臣も武官文官も、全国津々浦々の民百姓は、みな今の世を楽しみ長生きをして、平泉の地 に天皇のご命令による御願寺ができたことを祝い長く祈ることでありましょう。

…(中略)宝歴三年、陽光の春三月の良き日に合わせて、占いもみな吉と出ております。千五百人の僧を招 き、八万十二の一切経を読呪いたします。

鉄の牢獄から地獄の世界に至るまで。犬畜生と生まれ、虫けらととなり輪廻の苦しみにあるものさえ、善き報 いを受けて、限りない利益恩恵を得るでありましょう。 敬白。

天治三年三月二十四日 弟子正六位上藤原朝臣清衡 敬白。」

おもてむきは御願寺を建立し、国家安寧を祈るという形式をとっているが、この願文の奥に込められた清衡の本意は、戦 争と平和の両方の時代を経験した人物の生きとし生けるものに対する深い慈愛の念である。

これこそが、清衡の本音であり、世界に誇るべき平和都市の理念ではなかろうか。ここには京都の設計思想とひと 味違う味付けがなされているのがかいま見れる。この理念があるからこそ、平泉は世界遺産に相応しい都市といえる。

ここに至り、泰衡は何故頼朝と一戦を交えなかったのか。何故巨大都市が一瞬にして滅びたか、ようやく分かって きた。

さらに平泉には、平和の聖都平泉を強く印象付ける口承も残っている。それは実は、源義経は、川の向こうで殺さ れたというのだ。確かに吾妻鏡でも、義経は衣河館で殺されたことになっている。ところが、衣河館と高館はいつしか混同されるようになった。ふたつの館は明 らかに違う場所にあった。それで最近では研究者の間でも、義経の最期の地は、どうもここではないということが言われるようになった。確かにふたつの館につ いて、吾妻鏡を熟読すれば、明確に区別して記述していることが分かる。この区別の意味は重要だ。吾妻鏡の記者たちは、明らかに実景を見て書いているのであ る。高館は地形から見ても、平泉館(柳の御所)と一体化した館であり、衣河館ではない可能性は極めて高い。
 
 

真冬の衣川
(2001年1月 佐藤撮影)
資料写真




衣川は、安倍一族の寺院や邸宅が並んでいた一等地であり、現在でもその政庁とされる並木御所や秀衡の母堂が花 を植えたとされる室樹址(むろきあと)、金売吉次の館跡などが並んでいる平地である。

衣河館は、泰衡の祖父にあたる藤原基成の館であったとされる。では普段義経はどこに住んで居たかといえば、一 番可能性が高いのが高館である。このことが混同を呼ぶ原因であったのだろう。次に普段高館に居る義経が、川向こうの衣河館に渡った理由は歴史の謎である が、敢えて仮説を述べれば、そこには義経の首を是が非でも取らなければならない泰衡とその後見人であった祖父藤原基成の苦肉の策とも言える陰謀があったと 思われる。

また何よりもそんな陰謀を巡らせた本当の理由は、聖地である平泉での殺生は、どんなことがあっても許されない との宗教的強制力が働いていたとも考えられる。義経はこの陰謀に対し、一切抵抗しなかった。もはや自己の運命というものを予感していたのだろう。弁慶を筆 頭とする郎等たちは、主君の一大事に駆けつけたが、時は既に遅く、衣川にて皆討ち死にをして果ててしまったのである。

永訣の月(源義経最期の肖像
村山直儀作(2002年 油彩・カンヴァス・90.9×72.7)




文治五年四月三十日(1189)。希代の英雄は、聖地平泉の高館ではなく、川向こうの衣川であっさり果てたの である。ところで衣川に雲散寺という古刹が今でもひっそりと立っている。亡くなった義経とその妻子の遺骸はここに安置されたと思われる。そこには義経奉納 とされる運慶作の不動明王像と義経の位牌(江戸期に製作?)が安置されている。寺伝によれば、文治二年(1186)平泉へ再び下向した源義経公は、乳母の 菩提のため当寺へ不動明王像を奉納安置し、翌文治三年には下向の時に随行してきた民部卿の禅師頼然が導師となり、北の方を中興開基として復興したといわれ る。住僧となった高僧頼然は、張り裂けそうになる思いをこらえつつ、自刃した義経と北の方の冥福をこの寺で祈ったのだろうか・・・。

こうして、泰衡がなぜ頼朝と武士らしく一戦を交えなかったのか。なぜ巨大都市が一瞬にして滅び去ったのか。よ うやくわかってきた。まさに平泉は、戦争をしない、してはならないという清衡の平和への祈りをもって造られた聖都だったのではないか。ところがこの世界の 都市の歴史にもまれ稀な平和都市平泉は、皮肉にも、戦争をしないという一点で造られ、その理念のために滅び去ってしまったのである。

しかし物理的な意味で、平泉は消えても、その魂は永遠の命を得て杉木立の奥で息づいている。光り輝く金色堂は 今も訪れる人々を圧倒する。毛越寺の池は、かってここで遊んだ貴族たちの曲水の宴を髣髴(ほうふつ)させる。三代秀衡の建設した鶴翼の無量光院。今これは 礎石と中島の土塊が田野の中にあり涙を誘う。高館の高みに佇み眼を閉じると、往時の栄華が偲ばれ、風が運ぶ平泉の山河の匂いで胸一杯になる。そこには、か つて義経が妻子と暮らした名残が残り、芭蕉は廃墟に感じて美しき美の都を観た。読者の皆さんには、是非この地を訪ねて、ご自身の眼で確かめていただきた い。
 

注(7)平泉の古地図に関し、必ずしも往時の平泉の実像を伝えるものではな いとの指摘もある。


7 平泉の未来像を求めて-世界遺産登録と河川改修計画

イラク戦争、そして北朝鮮不安。長引く不況。そして世界に例のない高齢化社会の到来。リストラ、倒産、借金地 獄、そして自殺者の増大など、過去にも増して危機が深くなってきた。このような波は確実に平泉をも襲っている。冒頭に見たようにこのままでは消滅するとし て企画されているのが合併だ。そしてもうひとつ期待されているのが「世界遺産」登録だ。
 

ユネスコの世界遺産条約は、本来開発の危機にある有形無形の遺跡や文化財を保全するために制定されたものであ り、過疎化の町をそのブランド力によって救うために制定されたものではない。そのため私たち現世の人がなすべきことは二つある。ひとつはその文化とは何 か、を正確に伝えること、もうひとつはその文化を破壊しないことである。

ところが残念なことに、平泉ではそれが取り残されたまま世界遺産登録が進められようとしている。それは後世に 悔いを残し、世界遺産の名誉を傷つけることになるかも知れない。

世界遺産の精神と、真っ向から衝突していると思われるのが「一関遊水池計画と国道4号平泉バイパス工事」だ。 そもそも、一関遊水地計画は、昭和22年、23年と続いた台風による大洪水を契機にして策定された治水計画である。平泉バイパスは、この一関遊水地計画の 一環として、1981年(昭和56年)、当時の建設省によって策定された全長5.8キロほど道路のことであるが、同時にこのバイパスには、平泉町の慢性的 な交通渋滞の解消という目的も付加され話がややこしくなった。それにしても、この計画には疑問が多い。

平泉の工事中の写真と完成予想図
国土交通省発表「平泉の歴史環境と調和した地域景観をめざして」(2002.8)より

 (完成予想図。平泉バイパスは、平 泉・高館環境検討委員会の提言を受け、堤防の最高部よりも下に造られることになった。
しかし上の写真のように、平泉随一の景観が損なわれることに変わりはない)
資 料写真
 

進む平泉バイパス工事
(柳の御所前、2002年8月佐藤撮影)
資 料写真

平泉は、東に北上川、北に衣川、南を雄田川に囲まれている。このうち北上川は、川の流れが百メートルほど、東 側に移動させられつつある。これは昭和63年(1988)に、バイパス工事の原案が平泉の政庁であった柳の御所を串刺しに通過することで、工事に待ったが かかり、設計が変更されたためだ。

これによって貴重な柳の御所という歴史遺産を残すことには成功したが、この地の西北に位置する高館からの景観 が大きく損なわれるということに気づく人は少なかった。高館は、稀代の英雄「源義経終焉の地」にして俳聖松尾芭蕉が「夏草や」と詠嘆した平泉第一の景勝地 である。確かに高館景観問題が、内外で取り上げられてから、景観に配慮する委員会などの立ち上げによって、堤防の高さ、植栽などについて微調整が行われた が、それでも景観を著しく損なう、という本質は変わらない。

論点はふたつである。

ひとつは堤防が治水に役立つかということ。もうひとつがここで言う景観とは何か、ということである。

まず堤防から見て見よう。世界の治水工事の趨勢から言えば、そもそも頑丈な堤防を作るということそれ自体が、 時代遅れになっている。堤防が高く造られれば、それだけ下流への川の流れが急激となり、河床は高くなり、モグラたたきのように、堤防は下流までドンドンと 高くそして頑丈に造らなければならなくなる。

昨年(2002年)7月の台風六号による被害は、奇しくもそのことを証明した。この日、平泉衣川の河口付近で は、四号線まで水が溢れる事態が発生した。しかしこの台風の最大の被害は、下流の狭窄部の砂鉄川付近で起こり、そこから水が逆流し、東山地域で被害を出し たのである。現在行われている一関遊水池計画工事が進めば、更にこの傾向は強くなるだろう。

昨年8月ヨーロッパでも、大洪水が起こった。この洪水は千年に一度や二千年に一度といわれるような大雨によっ てもたらされたものであり、まさに天災という以外にないのであるが、それでも被害を拡大させたのは人災であった。しかし人災といっても国土交通省がいうよ うにダムや堤防が完全ではなかったからというのではない。その反対である。ここが日本の議論とすれ違っている。

2002年12月に長良川河口堰に反対する市民たちの要請に応じて来日し、各地で千年に一度の大洪水とまでい われるヨーロッパの大洪水の報告を行ったドイツの河川環境専門家のカール・アレクサンダー・ジンク氏は洪水被害の原因を次のように指摘した。

第一に、洪水防止システムが時代遅れになってしまっていること。たとえば古い堤防、誤った 貯水池管理、貧弱な警報システムなど。
第二に、洪水常習地帯に道路や新しい建物の建設が安易に進められていたこと。
第三に、水が自然に溜まって、時が来れば流れて行くような洪水をやり過ごす遊水地が少なくなっていたこと。
第四に、上流にダム建設が進められて、川底が水路化されていたために流れが加速されたこと。
第五に、道路の舗装化が進み、雨水の浸透率が低下したこと。


そこで、ドイツ政府もこのことを認め、今後ダムや堤防ではなく堤防に穴を開けて自然に水が流れて行く氾濫原を用意す る、とした。もっと言えば、ドイツでは、川を自由に蛇行させることこそ最大の治水対策である、としたのである。

一貫してダム建設に反対してきている天野礼子が、2002年8月に平泉で行われた小さなシンポジウムで指摘し たように、「この北上川の高館直下の草むら(夢の跡)こそこの氾濫源なのである。」ここでは通常田や畑が耕される、あるいは葦の草原であったりするが、い ざ洪水のときはプールとして水をため、洪水を緩和するのである。水が引けばこここそ養分を含んだ良好な土壌となる。

初代清衡から始まった苑池都市計画は、実は平泉の都市内部にとどまることなく、北上川の氾濫をも射程に入れた スケールの大きい国土計画でもあった。このような観点からいえばそもそも治水論として先ずこの堤防計画が誤っていたと言わざるをえないであろう。

またこのバイパス計画は、当初から交通渋滞の緩和を上げていた。特に中尊寺付近での交通渋滞はひどく、これが 地域住民の願いであるかのように言われていた。しかし藤原まつりの時や年末年始の混雑は別として、東北縦貫自動車道といういつでも空いている立派な高速道 路を使うようにすれば、渋滞は起こらないであろう。そもそも東北道は、幹線道路として、国道4号線の交通緩和の目的があったはずだ。それが利用されないで 空いているのは、高い料金を取られるからだ。これを安く、できれば無料にすれば、たちまち平泉の交通渋滞など無くなってしまうに違いない。既存の高速道路 を空いた状態にして、別の6キロにも及ぶ巨大な橋脚の平泉バイパスを作るなどという計画はまさしくバブル時代の破産した発想としか思えないのである。
 
 

8 芭蕉の観た景観

どのように考察しても、平泉のバイパス工事は、時代錯誤の無駄な公共事業である。これによって柳の御所の西北 の段丘にある源義経の最期の地とされる高館からの景観は間違いなく破壊されるであろう。そこで、関係者に再考を促したい。あなた方が破壊しようとしている 場所は、清衡の祈りが込められた聖地である。そしてそこは今から500年前に、稀代の英雄源義経が生き、そして亡くなった場所でなのだ。それから300年 ほど時が流れ、俳聖松尾芭蕉が、この地に訪れた。彼は感興を催し、「夏草や兵どもが夢の跡」と詠嘆した。誰に聞いても、「高館は平泉第一の景勝地」とい う。

そこで芭蕉が見た高館からの景観を「おくのほそ道」の記述にそって考えてみよう。
 
 

4年前の高館の景観
(1999年8月28日佐藤撮影)

現在の高館の景観
(2003年7月5日)
資 料写真1   資料 写真2

芭蕉は、元禄二年(1689)5月12日(新暦6月28日)、雨をついて一関に到着そこに停泊した。翌日、雨 は上がり、初夏の奥州路を、真っ直ぐに高館にやってきた。
 

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山の み形を残す。まず高館にのぼれば、北上川は南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南 部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、巧妙一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草 青みたり」と笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。夏草や兵どもが夢の跡(後略)」


芭蕉は、一関から初恋に心揺れる少年のようにして、ただ「平泉、平泉」と念じながら、歩いてきた。なだらかな丘の道 を越え、彼方に平泉の景観が目に入る。芭蕉は、現在の四号線沿いの道を真っ直ぐに来て太田川を渡り、「大門」があったとされる毛越寺には寄らず、秀衡の館 の跡と言われる伽羅御所跡と柳の御所跡と過ぎ、無量光院の跡を横目で見ながら、まず高館山に向かった。

高館の小高い丘を登り、そこから眼下に大河北上川を見る。「ここは稀代の英雄源義経が自害して果てたなのだ」 だ、という思いが芭蕉の心を揺さぶっていた。奥羽山脈から吹き下ろしてくる薫風は、夏草のむせ返るような匂いを運んで、その感傷を一層掻き立てたことだろ う。眼下に見えるのは夏草の青さと大河の淀みない流れ、その後ろに束稲山、更に遠くには奥羽の連山がかすんでいる。

高館に登って芭蕉がイメージとして観たもの。それはまず、偏に山河とそこに生い茂っている夏草の逞しさだっ た。ただし、芭蕉は眼前にある平泉の山河というよりは、その奥にある清衡の平和への夢想(祈り)にこそ強い感動を覚えた。彼は高館からのパノラマの中に、 永遠なるものの美しき本領を垣間観たのである。

中尊寺旧さや堂脇にある芭蕉像
(2002年6月 佐藤撮影)
資料 写真

「夏草や兵どもが夢の跡」
もはや、この高館からの景観を台無しにする平泉バイパス工事は、芭蕉が観た永遠の美を破壊していることは誰の目にも 明らかだ。
 
 

9 美の破壊と継承

平泉の町民は、バイパスが大切な平泉の景観を破壊することを誰よりも知っている。しかし今はこれに対して異議 申立てをする人は殆んどいない。町は建設促進を声高に訴え、中尊寺や毛越寺もこれに表向き異をとなえることはない。これには幾つも原因がある。最大の原因 は、慢性的に襲ってくる洪水被害に対する恐れだ。先に見たように堤防は不完全なものではあるが信奉者は多い。国土交通省もお得意のガス抜き委員会「平泉・ 高館環境検討委員会」(2001年六月発足 篠原修委員長 東京大学工学部土木工学科教授)を立ち上げ、対処する。

その結果、昨年(2002年)暮れに、「新衣川橋-高館橋間(約2キロ)の高さを計画より1m-3.8m低く する。又柳之御所史跡指定地付近は1.1mほど低くなる。更に新計画ではのり面はひとつとし、植樹によって自然な景観にする。尚、植栽は盛り土工事後に検 討。」とされた。これで国土交通省側は、高館の景観に配慮したとお墨付きを得て、平成19年全線開通を目指すのである。

このようにして平泉は表向き「沈黙の町」となってしまった。しかし耳をすますと、かすかに「洪水が心配」、 「農地はどうなる」、「渋滞の解消にも役立つ」、「景観が損なわれて平泉は変わった」、「こんなに騒がしいのなら、前のままでいい、世界遺産もいらな い」、「今さら何をいったところで」、「国土交通省は良くやってくれる」、「バイパス問題は終わった。それより合併問題だ」などの声が聞こえてくる。

ほんとうに平泉バイパスは、このままでよいのか。最後にもう一度、平和都市「平泉」の意義を確認しておきた い。吾妻鏡によれば、平泉が都市としての機能を失ったのは、先に見たように、文治五年(1189)八月二十一日のことであった。けれども平泉を造った清衡 の思いは、すぐに心ある宗教者によって守られている。

吾妻鏡の文治五年九月十日からの段を引用してみよう。これは実に感動的な場面だ。
 

 「十日、今日、奥州関山中尊寺の経蔵別当の大法師心蓮が、二品(源頼朝)の滞在されてい る場所に参上して、愁いながら、次のように申しました。

『中尊寺は、…みなこれ藤原清衡公が建設されたものです。ありがたいことに鳥羽院の御願寺として…、寺領 をご寄附くださり、また国家鎮護の御祈祷をする場所となって来ました。…まさに厳粛な霊場であります。ですからどうか、今後とも苦境に陥ることのないよう にお取りはからいください。今回の奥州合戦により、中尊寺領に住んでおりました民百姓らは、恐れをなし、みな逃亡してしまいました。できるだけ早く、寺領 安堵の御命令を出していただきたい…』

すぐに二品(頼朝)は、清衡、基衡、秀衡三代の間に、建立した寺塔の事などを、訊ねになり、平泉のことを 細大漏らさず報告しなさいと言われた。これによって・・・所領安堵の御奉免状を下されたのでした。そして逃亡した民百姓らには、ただちに土地に戻るべきと の命令を下された。

十一日、平泉の寺々の住職のうちの源忠巳講、心蓮大法師、快能などが再び参上。(頼朝は)寺領の事につ き、清衡の時より勅願による国家鎮護の御祈祷所として役割を果たしてきたので、今後もまた相違なく励みなさいとの文書を下さったのでありました。(中略)

十七日、清衡以後三代が造立する堂舎の事につき、源忠巳講、心蓮大法師らが報告書を献上。・・・二品(頼 朝)は、たちまち感心なさられ、寺領の件は、これをすべて寄附されて、「国家鎮護の御祈祷を怠らぬようにしなさい」と云われました。このことをすぐ紙に書 いて毛越寺の円隆寺南大門の前に書状として張り出すようにとご命令なされました。僧侶たちはこれを拝見し、口々に安心して暮らすことができると言い合った とのことです。

その書状には、
『平泉内の寺領においては、先例に任せて、寄附する所となった。堂塔はたとえ荒廃の地であったとしても、聖なる 仏の法灯を絶やさぬための務めであるから、地頭らはくれぐれもそれを妨害することのないようせよ』と書かれてありました。」

(現代語訳佐藤)
清衡の「祈り」は受け継がれた。わずか泰衡が逃亡し、二十日と経ぬうちに、心ある平泉の人々は、勇気を奮い、祈りを 込めて、初代清衡の灯した法灯を守り抜いた。だからこそ平泉は、未来永劫において、清衡の平和への思いを込めた不滅の法灯を灯す美の聖地となり得た。そし てこの美と祈りの力こそが、芭蕉をこの地に引き寄せ、そして若き宮沢賢治を魅了したのである。

毛越寺(大泉が池)
(2002年11月 佐藤撮影)
資料 写真

その賢治に次のような作品がある。
 

文語詩 中尊寺〔一〕

 七重の舎利の小塔に    
 蓋なすや緑の燐光     
 大盗は銀のかたびら    
 おろがむとまづ膝だてば  
 赭のまなこたゞつぶらにて  
 もろの肱映えかゞやけり  
 手触れ得ね舎利の宝塔   
 大盗は礼して没(き)ゆる  

現在この詩は、宮沢賢治の筆跡のままに、詩碑となって、金色堂の入場門の脇に建立されている。もちろん大盗とは頼朝 のことであろう。結局、彼は平泉の祈りと美の力に感服し、静かに去って行くしかなかった・・・。
 
 

エピローグ 祈りの都市の再建

藤原清衡の平泉建都の「祈り」はけっして抽象的なものではない。過疎の町平泉の風景の中には、世界精神に通じ る美と祈りが眠っている。かつて京都を凌ぐほどの賑やかだった都市平泉は、戦争の悲惨を知る清衡の祈りが物質化した平和の都市であった。我々は願文に込め られた清衡の思いを強く想起し、この建都精神を受け継いでゆくべきである。人類の永遠の夢は恒久平和である。都市平泉は明らかにこの世界精神に連なってい る。それは今日の世界でも最大級の価値があたえられる可能性を持つ。

読者は、ハー グ条約(1954年)(注8をご存じだろう か。これは当該地域を文化財保護地区に指定することによって、武力戦争による破壊から文化財を守ることを目的にした国際条約だ。2002年現在、日本など 一部の国を除いて世界103カ国が批准している。平泉はまさにハーグ条約に該当する都市である。

さらにジュネーブ条約(1949 年)(注9)もある。この条約は戦闘に加わらない住民の保護、戦争に 於ける戦病者の保護・捕虜の取り扱いなどを定めている。1977年に、この条約にふたつ議定書が追加された。その第一議定書の中に、「無防備都市」 の概念がある。無防備都市とは、すべての戦闘員ならびに移動兵器・移動軍用機材が撤去されていること、当局または住民によって敵対行為がなされていない地 域を指す。

すなわち無防備地域は、すべての戦闘員ならびに移動兵器・移動軍用設備が撤去されていること、当局または住民 によって敵対行為がなされていない等の条件を満たした場合に境界を明確に定めて宣言することができる。そして議定書は、「いかなる手段によっても紛争当事 国が無防備地域を攻撃することを禁止する」としている。第二次大戦中、パリ、ローマ、フィレンツェ、ベネチアがこの「無防備都市」を宣言したことがもとに なっている。

無防備都市への攻撃は手段を問わず禁止される。「適当な当局」の解釈に異論もあるが、たとえば、市町村などの 自治体が相手国に通告し、通告された国は、その受領を通報して当該地域を無防備地域として取り扱うということになる。ジュネーブ条約には、日本を含め国連 加盟国189国全部が加盟しているが、まだどこにも適用された事例はない。清衡の平和への祈りによって建都された歴史都市「平泉」こそそのような資格をも つ世界有数の無防備都市といってよい。

最後に清衡の祈りを現代に甦らせればこんな言葉になるであろうか。
 

美しい都市は戦争できない。
美しい都市はバイパスを拒否する。
北上川を堤防による囲い込みから開放し、自由に蛇行させる。
高館一体は遊水池として自然に戻し、水鳥たちの憩うサンクチュアリ(聖域)とする。
平泉町内部に住宅を取り戻し、北上川を含め遺跡全体を再度美しい水の都として再現する。
この地は世界遺産に登録される歴史都市には留まらない。
国際紛争が頻発する現代にあって、平和の意味を世界に問う世界有数の平和都市となる。


21世紀の市民は、自治体や宗教界とともに、藤原三代の祈りを受け継がなければならない。そして観光客に対しても平 泉に来て、なるほど「平和」の意味がよく解った、と納得させなければならないのである。了
 

注(8)武力紛争の際の文化財の保護のための条約(ハーグ条約)

第4条(文化財の尊重)
1 締約国は、武力紛争の際に破壊又は損傷を受ける危険がある目的に自国及び他の締約国の領域内に所在する文化財、その直接の周辺及びその保護のために使 用される施設を使用しないようにすることにより、並びにその文化財に向けていかなる敵対行為をも行わないようにすることにより、その文化財を尊重する事を 約束する。
3 締約国は、また、文化財のいかなる形における窃盗、略奪又は横領及び文化財に対するいかなる野蛮な行為をも禁止し、防止し、及び必要があるときは停止 させることを約束する。
4 締約国は、文化財に対し復仇手段としていかなる行為をも行ってはならない。
第8条(特別保護の付与)
1 動産文化財を武力紛争の際に防護するための避難施設、文化財集中地区及び他の非常に重要な不動産文化財は、次の要件を満たす場合には、その数を限定し て特別保護の下に置くことができる。
(a)大きい工業地区または攻撃を受けやすい地点たる重要な軍事目標から妥当な距離に所在すること
(b)軍事上の目的に使用されていないこと
6 特別保護は、文化財が「特別保護文化財国際登録簿」に登録されることによりその文化財に対して与えられる。

注(9)国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(第一議定書)
(1949年8月12日のジュネーブ諸条約に追加される国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する議定書(追加議定書I))

第59条(無防備地域)
1 紛争当事国が無防備地域を攻撃することは、手段のいかんを問わず、禁止する。
2 紛争当事国の適当な当局は、軍隊が接触している地帯の付近又はその中にある居住地で敵対する紛争当事国による占領のために解放されているものを、無防 備地域と宣言することができる。無防備地域は次のすべての条件を満たさなければならない。
(a)すべての戦闘員並びに移動兵器及び移動用設備が撤去されていること。
(b)固定した軍用の施設又は営造物が敵対的目的に使用されていないこと。
(c)当局又は住民により敵対行為が行われていないこと。
(d)軍事行動を支援する活動が行われていないこと。
4 2に規定する宣言は、敵対する紛争当事国に通告するものとし、できる限り明確に無防備地域の境界を定めかつ記述するものとする。宣言が通告された紛争 当事国は、当該宣言の受領を通報し、2に定める条件が実際に満たされている限り、当該地域を無防備地域として取り扱う。

出典:大沼保昭・藤田久・ほか編集『国際条約集2000年版』(有斐閣2000年)
HP版への増補-「美と祈り」の復権

本原稿脱稿後、驚くべきことが起こった。

ひとつはヨーロッパで起こった。それはヨーロッパ・欧州連合(EU)が、現在草案策定 中の、憲法草案(注10に、「神」の規定をおくこ とを正式に決めたことである。2003年6月、ギリシャで行われた同会議では、EUのアイデンティティを確立するために、「神」の規定を前文に盛り込む否 かをめぐって、激しい議論が交わされた。バチカンを抱えるイタリアは、賛成に回り、政教分離を主張するフランスは反対の立場を採った。さらにはイスラムな ど他の宗教を信じる国々の発言もあり、賛否は交錯した。その結果、「神=宗教」の規定は、「前文」には盛り込まれなかったが、人々の生活のために欠かせな いとして、個別条文の中に明示されることになった。換言すれば、EUは、単なる経済圏の統合を越えて、市民の心の結びつきまでも視野に入れた新憲法を手に したことになる。こうして、「神=宗教」の規定は、ヨーロッパ統合のシンボルとなったのである。

もうひとつは日本で起こった。それは公共事業の御本家と目される国土交通省が、これまでの日本の行政には、あ まりにも「美」の観念がなさすぎたとして、「美しい国づくり政策大綱」(2003年7月)注 11を公表したことである。その大綱で、わが国土交通省は、空中電線、テトラポット、スカイラ イン、看板、コンクリート塀などの美的景観の喪失を次々に槍玉に挙げ、このように都市が醜くなった原因と責任が自らにある、との反省の上に、いずれ早急に 景観保全基本法を制定し、あわせてあらゆる公共事業に景観基準を適用する、と宣言している。これは本稿で論じた「一関遊水地計画」と「平泉バイパス工事」 にも大きく関わる問題である。今後の成り行きを注視してゆきたい。

いずれこの二つについては、「美と祈り」に関する価値観の変化として、詳しく紹介したいと思うが、ここでは簡 単に次の三点を指摘しておきたい。

1 神はヨーロッパだけでなく日本にも必要である。これまで日本の政治と宗教の不幸な関係は、現憲法の「政教 分離の原則」を「不磨の大典」としてしまい、相互の会話すら困難にした。ヨーロッパでは、今後すべての加盟国および将来の加盟国で「憲法と神」の関係が、 国会あるいは国民投票の中で議論される。日本もよい意味でもう一度、神(宗教)の問題を取り上げなければならない。

2 美はこれまで抽象的、主観的なものだという理由で、これまた神と同様、憲法あるいは政治の世界から遠ざけ られて来た。その結果日本は世界でももっともつまらない国のひとつになりつつある。さすがにあの国土交通省ですらこれではまずい、と自覚した。然るに市民 はいまだ沈黙し、また現世のご利益だけを欲している。

3 私たち「美と祈り」の研究グループは、神と美が深く関係していることを知っている。ヨーロッパの美しさは 教会なしには考えられない。そこでは美は常に宗教と祈りのなかにこそある。日本の醜さは神の衰退とパラレルである。また美しさは平和の基礎であることを学 んだ。ヨーロッパでの神の復権は、あの「9・11テロ」、そしてイラク戦争に対する反省から出てきている。日本では、神は平和について語ろうとせず、活動 しようとしない。

平泉は本稿で指摘した通り、世界に誇るべき神の町(聖都)である。しかしながら北上川の河川改修工事はそれを 損ねていないか。かつて俳聖松尾芭蕉を感嘆させた高館の美の景観は、「何故」、「誰により」、「どこへ」、消えたか。現在の平泉の景観は、世界遺産の候補 地として相応しいか。合併は聖都の存続に役立つか。聖都において「温泉付き分譲住宅地販売」(注12)は美しいか。景観条例も未整備のまま、世界遺産登録の素晴らしさばかりが喧伝され過ぎてはいないか。肝心の市民は今後どのように生 きようとしているのか。等々、大いに気になっているのである。

2003年11月16日

五十嵐 敬喜
注(10)EU 憲法草案。元フランス大統領ジスカール・デスタン委員長率いる約100名のスタッフからなるコンベンションが16ヶ月かけて作成したもの。 2003年6月、ギリシャのテッサロニキで欧州連合(EU)首脳会議が開催され、加入諸国のアイデンティティを確立するために神の規定を盛り込んだ同草案 が承認された。EUは、2003年5月をメドに調印を目指すとしている。尚、現在、EU現在15か国であるが、2004年度には、東欧諸国など10カ国が 加わり、加入国25カ国体制になる見込み。そうなるとEUは、共通通貨ユーロを持ち、人口四億五千万人で世界第三位、総生産は米国と肩を並べる規模とな る。

注(11)美しい国づくり政策大綱(2003 年7月)。その前文は以下の通り。(下線は佐藤が付した)

戦後、我が国はすばらしい経済発展を成し遂げ、今やEU、米国と並ぶ3極のうちの1つに数えられるに至った。戦後の荒廃 した国土や焼け野原となった都市を思い起こすとき、まさに奇蹟である。国土交通省及びその前身である運輸省、建設省、北海道開発庁、国土庁は、交通政策、 社会資本整備、国土政策等を担当し、この経済発展の基盤づくりに邁進してきた。その結果、社会資本はある程度量的には充足されたが、我が国土は、国民一人 一人にとって、本当に魅力あるものとなったのであろうか?。

都市には電線がはりめぐらされ、緑が少なく、家々はブロック塀で囲まれ、ビルの高さは不揃いであり、看板、標識が雑然と立ち並 び、美しさとはほど遠い風景となっている。四季折々に美しい変化を見せる我が国の自然に較べて、都市や田園、海岸における人工景観は著しく見劣りがする。 美しさは心のあり様とも深く結びついている。

私達は、社会資本の整備を目的でなく手段であることをはっきり認識していたか?、量的充足を追求するあまり、質の面でおろそかな部分が なかったか?、等々率直に自らを省みる必要がある。また、ごみの不法投棄、タバコの吸い殻の投げ捨て、放置自転車等の情景は社会的モラルの 欠如の表れでもある。もとより、この国土を美しいものとする努力が営々と行われてきているのも事実であるが、厚みと広がりを伴った努力とは言いがたい状況 にある。

国土交通省は、この国を魅力ある国にするために、まず、自ら襟を正し、その上で官民挙げての取り組みのきっかけを作るよう努力すべきと 認識するに至った。そして、この国土を国民一人一人の資産として、我が国の美しい自然との調和を図りつつ整備し、次の世代に引き継ぐという理念の 下、行政の方向を美しい国づくりに向けて大きく舵を切ることとした。このため、本年1月から省内に「美し国づくり委員会」を組織し、延べ11回に のぼる議論を積み重ねてきた。課題は多々あるが、「美しさ」に絞って、それも具体的なアクションを念頭に置きながら、この政策大綱をまとめた。これを契機 に、美しい国づくり・地域づくりについて、国民一人一人の広範な議論、具体的取り組みへの参画が促進されることを期待する次第である。

注(12)平 泉での温泉付き分譲住宅地販売。金鶏山裏手(西側)の塔山付近の温泉付き宅地造成地を指す。この場所は、中尊寺境内と毛越寺境内の中間にあたり、 かつては中尊寺の支院が所有していた。往時、修験の道場や、経塚などもあったと伝えられる聖地である。昭和40年代に、列島改造ブームにのって、「平泉タ ワー」(?)や小規模な遊園地が造られたが、数年の内に倒産。以降、荒地となって放置されていたが、平泉出身で関東に本社を置く宅造業者が、世界遺産にな るという先見があったどうかは不明だが、宅地開発や景観に対する条例の未整備を突く形で開発した分譲地。景観条例の策定が待たれる。


2003.11.12 -2003.11.14 Hsato

後 記

○この論文は、2003年5月に脱稿したものです。

○この論文は、『BIO-City』)(ビオシティ) No.26に掲載されたものを一部加筆訂正したものです。   

○この論文は、五十嵐敬喜法政大学教授と佐藤弘弥が共同にて執筆したものです。

○この論文を本サイトで掲載するにあたり、五十嵐先生と(株)ビオシティ様の了解を得ました。

○内容については、ビオシティ版と若干の異同があります。これについては原本を元に佐藤が修正したもので、その責任は、すべて佐藤にありま す。

○平泉の歴史の流れを探る時には、「古都平泉変 遷年表」を参照ください。

○最後に、岩手日報社に「平 泉世界遺産への道」という時系列に世界遺産ノミネートからの景観問題の動きを追った記事があるので、当論文と併せてお読みいただけば、この問題が 一層お分かりいただけると思います。

2003年11月12日 佐藤弘弥記
無料ホームページ ブロ グ(blog)

<関連リンク先>
平泉景観問題トップ
義経伝説
平 泉エッセイ
奥州デジタ ル文庫
参考文 献リスト