「吾妻鏡」文治五年九月十七日より

平泉「寺塔已下注文」


凡例
  1. 底本は、新訂増補国史大系版「吾妻鏡」(黒板勝美  国史大 系編修会編 吉川弘文館 昭和七年刊)を使用。
  2. 読み下し文を作成するに際し、全譯「吾妻鏡」(永 原慶二監 修 貴志正造訳新人物往来社1976年刊)と龍肅訳注「吾妻鏡」岩波文庫(1940年刊)を参考とさせていただいた。
  3. 誤記誤訳など間違いを発見の時はご一報いただきま すようお 願いします。
2003年3月吉日
佐藤弘弥

原文  読み下し  現代語訳



 
 
 

往時の平泉の都市の全容を知るためには、「吾妻鏡」の文治五年九月十七日の条に記されている所謂「寺塔已下注文」は、欠かせない 文献である。以下、この「寺塔已下注文」が提出されるまでの過程を「吾妻鏡」の記載に従って追ってみよう。佐藤弘弥

原文
 
 

○文治五年九月十日。
十日丁卯。(中略)今日。奥州関山中尊寺経蔵別当大法師心蓮参上于二品御旅店。愁申云。当寺者経蔵以下仏閣塔婆。清衡雖 草創之。忝為 鳥羽院御願所。年序惟尚。被寄附寺領。又所被募置御祈祷料也。経蔵者被納金銀泥行交一切経。於事厳重霊場也。然者始終無牢籠之様。可被定 歟。次当国合戦之間。寺領土民等。成怖畏逐電。早可令安堵之旨。欲被仰下云々。則召件僧於御前。清衡基衡秀衡三代間。所建立之寺塔事。尋聞食之。分明報申 之上。可注進巨細之由言上。仍先経蔵領当寺堺四至。東鎰懸。西山王窟。南岩井河。北峰山堂馬坂也。被下御 奉免状。逐電土民等可還住本所之由。被仰下云々。散位親能奉行之。

○文治五年九月十一日。
十一日戊辰。平泉内寺寺住侶源忠已講。心蓮大法師。快能等参上。仍寺領事。清衡之時。募置 勅願円満御祈祷料所之上。向 後亦不可有相違之由。賜御下文。寺領者。縦雖為荒廃之地。不可致地頭等妨之旨。被載之云々。・・・(後略)

○文治五年九月十四日。
十四日辛未。二品令求奥州羽州両国省帳田文已下文書給。而平泉館炎上之時。焼失云々。難知食其巨細。被尋古老之処。奥州 住人豊前介実俊。并弟橘藤五実昌。申存故実由之由。被召出。令問子細給。仍件兄弟。暗注進両国絵図。并定諸郡券契。郷里田畠。山野河海。悉以見此中也。注 漏余目三所之外更無犯失。殊蒙御感之仰。則可被召仕之由云々。
 
 

○文治五年九月十七日
十七日甲戌。清衡已下三代造立堂舎事。源忠已講。心蓮大法師等注献之。親能朝宗覧之。二品忽催御信心。仍寺領悉以被寄 附。可令募御祈祷云々。則被下一紙壁書。可押于円隆寺南大門云々。衆徒等拝見之。各全止住之志云々。其状曰。

 於平泉内寺領者。任先例所寄附也。堂塔縦雖為荒廃之地。至仏性灯油之勤者。地頭等不可致其妨者也者。
 
 

寺塔已下注文曰衆徒注申之。




一 関山中尊寺事

寺塔四十余宇。禅坊三百余宇也。
清衡管領六郡之最初草創之。先自白河関。至于外浜。廿余ヶ日行程也。其路一町別立笠率都婆。其面図絵金色阿弥陀像。計当 国中心。於山頂上。立一基塔。又寺院中央有多宝寺。安置釈迦多宝像於左右。其中間開関路。為旅人往還之道。次釈迦堂安一百余体金容。即釈迦像也。次両界堂 両部諸尊。皆為木像。皆金色也。次二階大堂(号大長寿院)高五丈。本尊三丈金色弥陀像。 脇士九体。同丈六也。

次金色堂。上下四壁内殿皆金色也。堂内構三壇。悉螺鈿也。阿弥陀三尊。二天。六地蔵。定朝造之。
鎮守即南方崇敬日吉社。北方勧請白山宮。此外宋本一切経蔵。内外陣荘厳。数宇楼閣。不遑注進。凡清衡在世三十三年之間。 自吾朝延暦。園城。東大。興福等寺。至震旦天台山。毎寺供養千僧。臨入滅年。俄始修逆善。当于百ヶ日結願之時。無一病而合掌唱仏号。如眠閉眼訖。

一 毛越寺事 

堂塔四十余宇。禅房五百余宇也。 
基衡建立之。先金堂号円隆寺。鏤金銀。継柴檀赤木等。尽万宝。交衆色。本仏安薬師丈六。同十二神将。雲慶 作之。仏菩薩像以玉入眼事。此時始例。
講堂。常行堂。二階惣門。鐘楼。経蔵等在之。九条関白家染御自筆被下額。参議教長卿書堂中色紙形也。此本尊造立間。基衡 乞・支度於仏師雲慶。雲慶注出上中下之三品。基衡令領状中品。運功物於仏師。所謂円金百両。鷲羽百尻。七間間中径ノ水豹皮六十余枚。安達絹千疋。希婦細布 二千端。糠部駿馬五十疋。白布三千端。信夫毛地摺千端等也。此外副山海珍物也。三ヶ年終功之程。上下向夫課駄。山道海道之間。片時無絶。又称別禄。生美絹 積船三艘送之処。仏師抃躍之余。戯論云。雖喜悦無極。猶練絹大切也云々。使者奔帰。語此由。基衡悔驚。亦積練絹於三艘送遣訖。如此次第。達 鳥羽禅定法皇 叡聞。令拝彼仏像御之処。更無比類。仍不可出洛外之由被 宣下。基衡聞之。心神失度。閉籠于持仏堂。七ヶ日夜断水漿祈請。愁申子細於九条関白之間。殿下令 伺天気給。蒙 勅許。遂奉安置之。 次吉祥堂本仏者。奉模洛陽補陀洛寺本尊。観音。生身之由有託語。為厳 重霊像之間。更建立丈六観音像。其内奉納件本仏也。 次千手堂。木像廿八部衆。各鏤金銀也。鎮守者。惣社金峰山。奉崇東西也。次嘉勝寺。未 終功之以前。基衡入滅。仍秀衡造之畢。四壁并三面扉。彩画法華経廿八品大意。本仏者。薬師丈六也。次観自在王院号 阿弥陀堂也。基衡妻宗任女。建立也。四壁図絵洛陽霊地名所。仏壇者銀 也。高欄者磨金也。 次小阿弥陀堂。同人建立也。障子色紙形。参議教長卿所染筆也。 

一 無量光院号新御堂

秀衡建立之。其堂内四壁扉。図絵観経大意。加之。秀衡自図絵狩猟之体。本仏者阿弥陀丈六也。三重宝塔。院内荘厳。 悉以所模宇治平等院也。 
一 鎮守事
 
中央惣社。東方日吉。白山両社。南方祇園社。王子諸社。西方北野天神。金峰山。北方今熊野。稲荷等社也。悉以模本社之 儀。
 

一 年中恒例法会事

二月常楽会 三月千部会一切経会 四月舎利会 六月新熊野会・祇園会 八月放生会 九月仁王会 講読師請僧。或三 十人。或百人。或千人。舞人卅六人。楽人三十六人也。

一 両寺一年中問答講事

長日延命講 弥陀講 月次問答講 正五九月最勝十講等也。

一 館事秀衡

金色堂正方。並于無量光院之北。構宿館。号平泉館。西木戸有嫡子 国衡家。同四男隆衡宅相並之。三男忠衡家者。在于泉屋之東。無量光院東門構一郭。号加羅御所。秀衡常居所 也。泰衡相継之為居所焉。

一 高屋事

観自在王院南大門南北路。於東西及数十町。造並倉町。亦建数十宇高屋。同院西面南北有数十宇車宿。




読み下し

○文治五年九月十日。
十日。丁卯 (中略)今日、奥州関山中尊寺の経蔵別当大法師心蓮、二品の御旅店に参上し、愁へ申して云ふ。当寺は、経蔵 以下仏閣塔婆、清衡之を草創すと雖も、かたづけなくも鳥羽院の御願所として年序惟尚(これひさ)し、寺領を寄附せられ、又御祈祷料を募り置かるる所なり。 経蔵は、金銀泥行交りの一切経を納めらる事において厳重の霊場なり。しからば始終牢籠なきの様定めらる可きか。次に当国合戦の間、寺領の土民等、怖畏をな して逐電す。早く安堵せしむ可きの旨、仰下されんと欲すと云々。すなわち件の僧を御前に召し、清衡、基衡、秀衡三代の間、建立する所の寺塔の事、これを尋 ね聞食し、分明に報じ申すの上、巨細を注進す可きの由言上す。よって先づ経蔵領当寺の堺四至((東は鎰懸(いつかけ)、西は山王の窟(いはや)、南は岩井 河、北は峯の山堂の馬坂なり))を御奉免状下さる。逐電の土民ら、本所に還住すべきの由、仰下さると云々。散位親能、これをを奉行す。

○文治五年九月十一日。
十一日。戊辰。平泉の内、寺々の住侶、源忠巳講、心蓮大法師、快能等参上す、よって寺領の事、清衡の時、勅願円満の御祈 祷料を募り置くの上、向後また相違ある可からざるの由、御下文を賜はる。寺領は、たとえ荒廃の地たりと雖も、地頭等の妨を致す可からざるの旨、これを載せ らると云々。・・・(後略)

○文治五年九月十四日。
十四日。辛未。二品(源頼朝)は、奥州と羽州両国の省帳、田文巳下の文書を求めしめ給ふ、しかるに平泉館炎上の時、焼失 すと云々。その巨細を知食し難し、古老に尋ねらるるのところ、奥州の住人豊前介実俊、ならびに弟橘藤五実昌、故実を存ずるの由を申すの間、召出されて子細 を問はしめ給ふ、よって件の兄弟、暗に両国の絵図を注進し、ならびに諸郡の券契を定む。郷里の田畠、山野河海、ことごとくもってこの中に見ゆるなり。余目 (あまるめ)に三所を注し、漏らすの外、更に犯失無し。殊に御感の仰を蒙る。すなわち召仕わる可きの由と云々。
 

○文治五年九月十七日。
十七日。甲戌。清衡巳下三代造立する堂舎の事。源忠巳講。心蓮大法師等之を注獻す。親能朝宗これを覧る。二品たちまち御 信心を催さる。よって寺領ことごとくもって寄附せられ、御祈祷を募らしむ可しと云々。すなわち一紙の壁書を下され、円隆寺の南大門に押す可しと云々。衆徒 らこれを拝見し、各止住の志を全うすと云々。その状に曰く。

平泉内の寺領においては、先例に任せて、寄附する所なり。堂塔縦ひ荒廃の地たりと雖も、仏性灯油の勤に至りては、 地頭らその妨を致す可から
ざる者なり。
 
 

寺塔巳下の注文に曰く。(衆徒これを注し申す)






一 関山中尊寺の事

寺塔四十余宇。禅坊三百余宇なり。
清衡。六郡を管領するの最初に、これを草創す。先づ白河関より、外浜(そとがはま)に至るまで、廿余ヶ日の行程なり。そ の路一町別(ごと)に、笠率都婆(かさそとば)を立て。その面に金色の阿弥陀像を図絵し、当国の中心を計りて、山の頂上に一基の塔を立つ。又寺院の中央に 多宝寺有り。釈迦多宝の像を左右に安置す。その中間に関路を開き、旅人往還の道と為す。次に釈迦堂に、一百余体の金容を安ず。すなわち釈迦像なり。次に両 界堂両部の諸尊は、皆木像たり。皆金色なり。次に二階大堂。(大長寿院と号す。高さ五丈。本尊は三丈の金色の弥陀の像。脇士九体。同じく丈六なり。)

次に金色堂。(上下の四壁。内殿皆金色なり。堂内に三檀を構ふ。悉く螺鈿なり。阿弥陀三尊。二天。六地蔵。定朝之 を造る)鎮守は、すなわち南方に日吉社を崇敬し、北方に白山宮を勤請す。この外宋本の一切経蔵、内外陣の荘厳、数字の楼閣、注進に遑(いとまあら)ず。お よそ清衡の在世三十三年の間、わが朝の延暦、園城、東大、興福等の寺より、震旦の天台山に至るまで、寺ごとに千僧を供養す。入滅の年に臨みて。にわかに始 めて逆善を修す。百ヶ日結願の時に当りて、一病無くして合掌し、仏号を唱へて、眠るが如く閉眼し訖(おわ)んぬ。

一 毛越寺の事

堂塔四十余宇。禅房五百余宇なり。
基衡之を建立す。先づ金堂を円隆寺と号す。金銀を鏤(ちりば)め、紫檀赤木等を継ぎ、萬宝を尽し。衆色を交ふ。本仏は、 薬師丈六。同じく十二神将。(雲慶これを作る。仏井の像に。玉を以て眼を入るる事。此時始めて例となす)

講堂、常行堂、二階の惣門、鐘楼、経蔵等これあり。九條関白(忠通)家、御自筆を染めて額を下さる。参議教長卿、 堂中の色紙形を書するなり。この本尊造立の間、基衡その支度を仏師雲慶に乞ふ。雲慶、上中下の三品を注し出す。基衡中品を、領状せしめ。功物を仏師に運 ぶ。所謂、円金百両、鷲羽百尻、七間々中径(しつけんまなかわたり)の水豹(あざらし)の皮六十余枚、安達絹千疋、希婦の細布二千端、糖部(ぬかのぶ)の 駿馬五十疋。白布三千端。信夫毛地摺(しのぶもぢすり)千端等なり。この外山海の珍物を副ふるなり。三ヶ年の功を終ふるの程は、上下向の夫(ぶ)、課駄、 山道、海道の間に、片時も絶ゆることなし。又別禄と称して、生美絹(すずしのきぬ)を船三艘に積みて送るの処。仏師抃躍(へんやく)の余。戲論(げろん) して云はく。喜悦、極まりなしと雖も、猶、練絹(ねりぎぬ)大切なりと云々。使者奔(はし)り帰りて、この由を語る。基衡悔い驚き、また練絹を三艘に積み て送り遣わし訖んぬ。かくの如き次第、鳥羽禅定法皇の叡聞に達し、かの仏像を拝ましむるの御ところ、更に比類なし。よって洛外に出す可からざるの由宣下せ らる。基衡これを聞きて、心神度を失ひ、持仏堂に閉ぢ籠り、七ヶ日夜、水漿を断ちて祈請し、子細を九條関白に愁へ申すの間、殿下天気を伺はしめ給ひ、勅許 を蒙りて、遂にこれを安置し奉る。次に吉祥堂の本仏は、洛陽、補陀洛寺の本尊(観音)を摸し奉り。生身の由、託語有り。厳重の霊像たるの間、更に丈六の観 音像を建立し、その内に件の本仏を納め奉るなり。次に千手堂。木像廿八部衆。各金銀を鏤(ちりば)むるなり。鎮守は。忽社金峯山を、東西に崇(あが)め奉 るなり。

次に嘉勝寺。(いまだ功を終えざるの以前、基衡入滅す。よって秀衡これを造り畢んぬ。)四壁ならびに三面の扉に、 法華経廿八品の大意を彩し画く。本仏は。薬師の丈六なり。

次に観自在王院。(阿弥陀堂と号するなり)基衡の妻 (宗任の女(むすめ)の建立なり。四壁に洛陽の霊地名所を図 絵す。仏壇は銀なり。高欄は磨金なり。次に小阿弥陀堂。同人の建立なり。障子の色紙形は。参議教長卿筆を染むる所なり。

一 無量光院(新御堂と号す)の事

秀衡これを建立す。その堂内の四壁の扉に、観経の大意を図絵す。これに加え、秀衡自ら狩猟の体を図絵す。本仏は、 阿弥陀、丈六なり。三重の宝塔。院内の荘厳。ことごとくもって宇治の平等院を摸するところなり。

一 鎮守の事
中央に惣社。東方に日吉。白山の両社。南方に祇園社。王子諸社。西方に北野天神。北方に今熊野。稲荷等の社なり。ことご とくもって本社の儀(よそおい)を摸す。

一 年中恒例の法会の事

二月常楽会  三月千部会。一切経会
四月舎利会  六月新熊野会。祇園会
八月放生会  九月仁王会
講読師、請僧、あるいは三十人。あるいは百人。あるいは千人。舞人三十六人。楽人三十六人なり。

一 両寺一年中問答講の事

長日延命講。弥陀講。月次問答講。正五九月の最勝十講等なり。

一 館の事 秀衡

金色堂の正方。無量光院の北にならべて、宿館(平泉館と号す)を講ふ。西木戸に嫡子国衡の家有り。同四男隆衡の宅 がこれに相ならぶ。三男忠衡
の家は、泉屋の東にあり。無量光院の東門に一郭(加羅御所と号す)を構ふ。秀衡の常の居所なり。泰衡これに相継して居所 と為せり。

一 高屋の事

観自在王院の南大門の南北路、東西より数十町に及びて、倉町を造りならべ、また数十宇の高屋を建つ。同院の西南北 に数十宇の車宿(くるまやど)あり。
 

 
 



現代語訳

○文治五年九月十日。
十日、丁卯、(中略)今日、奥州関山中尊寺の経蔵別当の大法師心蓮が、二品(源頼朝)の滞在されている場所に参上して、 愁いながら、次のように申しました。

「中尊寺は、経蔵以下仏閣塔婆など、みなこれ藤原清衡公が建設されたものです。ありがたいことに鳥羽院の御願寺と して長年の間、寺領をご寄附くださり、また国家鎮護の御祈祷をする場所となって来ました。経蔵には、金銀泥行交りの一切経を納められております。まさに厳 粛な霊場であります。ですのでどうか、今後とも苦境に陥ることなどのないようにお取りはからいください。次に今回の奥州における合戦によりまして、中尊寺 領に住んでおりました民百姓らは、恐れをなして、みなどこかへ逃亡してしまいました。ですからできるだけ早く、寺領安堵するとの御命令を出していただくよ うお願い申し上げる次第でございます。」

すぐに二品(頼朝)は、この僧をお近くに呼んで、清衡、基衡、秀衡三代の間に、建立した寺塔の事などを、訊ねて聞 いた上で、明解に答えて、平泉のことを細大漏らさず報告しなさいとのご命令をくだされた。これによって、まず経蔵領の境界である東の鎰懸(いつかけ)、西 の山王の窟(いはや)、南は岩井河、北は峯の山堂の馬坂まで、所領安堵の御奉免状を下されたのでした。逃亡した民百姓らは、ただちに土地に戻るべきとの命 令を出すように言い渡され、これを散位の親能に執行させたのでした。
 

○文治五年九月十一日。
十一日、戊辰、平泉の寺々の住職のうちの源忠巳講、心蓮大法師、快能などが再び参上しました。そして寺領の事につき、清 衡の時より勅願による国家鎮護の御祈祷所として役割を果たしてきたので、今後もまた相違なく励みなさいとの文書を下さったのでありました。寺領は、たとえ 荒廃の地であったとしても、地頭らはこれを妨害するようなことがあってはならないとの内容もこれに盛られておりました。・・・(後略)
 

○文治五年九月十四日。
十四日。辛未。二品(頼朝)は、奥州、出羽両国の省帳(しょうちょう:公の土地台帳)、田文(たぶみ:田地の面積や地籍 を記した帳簿)などを捜して来ることを求められました。ところが政庁である平泉館が炎上の時に焼失してしまって、とてもその膨大な子細について、知ること は難しいと思われておりました。そこで土地の古老に尋ねたところ、「奥州に住む豊前介実俊やその弟の橘藤五実昌などは、奥州の故実に通じているので、きっ と知っているのではありませんか」と云うので、その二人を呼んで子細を聞いたところ、この兄弟は、暗記していた両国の絵図を描いて報告したのですが、そこ には両国の諸々の郡の境界まで割り振ってありました。この中には、郷里の田畠や山野、河、海などが、ことごとく見えておりまして、余目(あまるめ:山形県 東田川郡の里。)の三カ所の報告漏れがあった他には、誤りは見あたりませんでした。これには(頼朝も)いたく感激され、二人の兄弟を召し抱えるようにしな さいとのお言葉を仰せられたのでありました。
 
 

○文治五年九月十七日。
十七日、甲戌、清衡以後三代が造立する堂舎の事につき、源忠巳講、心蓮大法師らが報告書を献上しました。親能朝宗がこれ を拝見しまして、二品(頼朝)は、たちまち感心なさられました。そして寺領の件は、これをすべて寄附されて、「国家鎮護の御祈祷を怠らぬようにしなさい」 と云われました。このことをすぐ紙に書いて毛越寺の円隆寺南大門の前に書状として張り出すようにとご命令なされました。僧侶たちはこれを拝見して、口々に 安心して暮らすことができると言い合ったとのことです。その書状には、このように書かれてありました。

『平泉内の寺領においては、先例に任せて、寄附する所となった。堂塔はたとえ荒廃の地であったとしても、聖なる仏 の法灯を絶やさぬための務めであるから、地頭らはくれぐれもそれを妨害することのないようせよ』
 
 

寺塔巳下の注文に曰く。(衆徒がこれを報告いたし ます)




一 関山中尊寺の事
 

寺塔は、四十数棟。禅坊は三百数棟でございます。
清衡公が、奥六郡を管領した当初に、これを創建いたしました。さて(奥州とは)、白河関より、外浜(そとがはま)に至る まで、徒歩にて二十数日の道程の国でございます。(清衡公は)この路の、一町ごとに、笠率都婆(かさそとば)を立てまして、その面には、金色の阿弥陀像が 描かれておりました。また当国の中心を計りまして、山の頂上に一基の塔を建てました。その寺院の中央には多宝寺があり、中には釈迦多宝の像を左右に安置し ております。その中間には関路を開通しまして、旅人が往還する道といたしました。次に釈迦堂には、百余りの金色の仏像を安置してあります。これがすなわち 釈迦像でございます。次に両界堂にある両部の諸尊は、皆木像でございますが、これも皆金色の仏でございます。次に二階大堂ですが、これは大長寿院と申しま す。高さは五丈、本尊は三丈の金色の弥陀の仏像です。脇士は九体ありまして、同じく丈六の大きさです。

次に金色堂ですが、上下の四つの壁から内殿で至るまで皆金色でできています。堂内は、三檀を設えてありますが、こ とごとく螺鈿でできています。阿弥陀三尊、二天、六地蔵があり、これは定朝が造ったものです。鎮守として、南方には日吉社を祀り、北方には白山ノ宮を勤請 してあります。この外に宋本の一切経蔵、内陣から外陣に至る荘厳、数棟の楼閣なども、その報告についても怠りなく、およそ清衡公の在世期間三十三年の間 に、わが国の延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺などから、中国の震旦(しんたん)天台山の根本道場に至るまで、寺ごとに「千僧供養」(せんそうくよう:千人 の僧侶を集めて行う大法会のこと)をしてきました。(その信心のお陰か清衡公は)入滅の年に臨んで、にわかに逆善を始めてこれを修め、それから百ヶ日間の 結願の時に当って、ひとつの病もなくして、ただ合掌し、仏の名を唱えながら、眠るようにお亡くなりになったのでした。
 

一 毛越寺の事

堂塔は四十数棟。禅房は五百数棟でございます。
基衡公がこれを建立しました。まづ金堂ですがを円隆寺と称しています。(この御堂には)金銀を鏤(ちりば)め、紫檀(し たん)や赤木などを継くなど、万宝を尽して、衆色を交えました。本尊は、丈六の薬師如来。同じく十二神将です。雲慶作です。仏の像に、玉で出来た眼を入れ る事について、この時が初の例となっております。

講堂、常行堂、二階建ての惣門、鐘楼、経蔵などが立っております。九條関白家の忠通殿より自筆の額をいただいてい ます。また参議の教長卿が堂の中の色紙形を書いてくださいました。この本尊を造立するにつき、基衡公が、直々に仏師雲慶に要請したものです。雲慶は上中下 の三品の見本を送って寄こしました。基衡公は、中品を注文いたしました。そこで代金として品物を仏師に送りました。その中には、円金が百両、鷲羽が百尻、 七間々中径(しつけんまなかわたり)に及ぶ水豹(あざらし)の皮が六十余枚、安達絹が千疋、希婦細布(きふのせばぬの)が二千端、糖部(ぬかのぶ)の駿馬 が五十疋、白布が三千端、信夫毛地摺(しのぶもぢすり)が千端などでございました。この外に、山海の珍物を添えて送りました。

三ヶ年、(仏師が)本尊が造り終える間は、平泉と都を行き来する荷役の者が、山道や海道の間に、絶えて見えないと いうことは片時もありませんでした。また(基衡公が仏師運慶に)「別禄」ということで、生美絹(すずしのきぬ)を船三艘に積んで送ったところ、仏師は、躍 り上がって喜び余り、「いや何とたまらないほど嬉しいのですが、私としては、練絹(ねりぎぬ)の方が良かった」と戯言を云ったというのです。使者が飛んで 帰って来て、このことを告げると、基衡公は、悔やんで驚き、早速練絹を三艘に積んで送り届けてやったということです。

このような話が、鳥羽禅定法皇のお耳に達し、この仏像を(奥州の者に)拝まれるという事は、更にもったいのないこ とである。したがって洛外に持ち出すことはまかりならぬ、との趣旨の宣旨(せんじ)をお出しになられました。

基衡は、これを聞いて、たいそう落胆し、持仏堂に閉じ籠もって、七日間夜、水や重湯までこれを断って一心に祈りを 捧げ、ことの子細を、九條関白殿下に愁えるところを正直に申し上げると、殿下はことの次第を察せられて、法皇様のお許しを頂き、やっとこの仏をこの地に安 置できたのでございます。

次に吉祥堂の後本尊は、中国は洛陽にある補陀洛寺のご本尊の観音様を摸しております。生身の御仏ということもござ いまして、厳かな霊像でありますので、別に丈六(約2.4m)の観音像を建立し、その体内にこのご本仏を納めたものでございます。

次に千手堂は、木像廿八部衆をもってそれぞれ金銀を鏤(ちりば)めたものを安置しております。鎮守は惣社(そう しゃ)金峯山で、これを東西より崇(あが)め奉っております。

次に嘉勝寺(嘉祥寺)ですが、これを建て終える前に基衡が入滅したので、秀衡がこれを造り終えました。四壁並びに 三面扉には、法華経の廿八品の大意の画を描いております。ご本尊は、丈六(約2.4m)の薬師如来です。

次に観自在王院です。これは別に阿弥陀堂と呼んでおります。基衡の妻で安倍宗任の女が建立したものです。この御堂 の四壁には中国洛陽の霊地名所の図を描いております。仏壇は銀で出来ております。高欄は磨金です。 次に小阿弥陀堂も同じく基衡の妻が建立したものです。 障子の色紙形には、参議(藤原)教長卿が健筆を奮っておられます
 

一 無量光院(新御堂と呼ぶ)の事

秀衡がこれを建立しました。その堂内の四つの壁の扉には、観無量寿経の大意を表す図絵を描きました。これに加えて、秀衡 自ら、狩猟の模様を描いた図絵を描いています。ご本尊は、阿弥陀仏で、丈六((約2.4m)です。三重の宝塔や院内の荘厳(しょうごん)など、これらすべては、宇治の平等院を摸したものでございます。

一 鎮守の事 (神社のこと)

中央(現在の花立山=平泉郷土資料館の西方)に惣社(吉野金峯山)を建て、東方には日吉神社(滋賀大津)と白山神社(加 賀白山)の二社があります。南方には祇園神社(京都八坂)と王子諸社(熊野王子社)。西方に北野天神(北野天満宮=菅原道真)。北方に今熊野神社(熊野新 宮系?!)と稲荷神社(京都伏見稲荷)などの神社なり。これらすべての社は、ことごとくそれぞれの本社の姿をそのまま摸して造営しました。

一 年中恒例の法会の事

二月に常楽会(じょうらくえ)。
三月に千部会(せんぶえ)、一切経会(いっさいきょうえ)

四月に舎利会(しゃりえ)。
六月に新熊野会、祇園会。

八月放生会(ほじょうえ)
九月仁王会(におうえ)


(いずれも)講読師を付け、僧は、法会に合わせて、時には三十人あるいは百人、あるいは千人を頼み、舞人は三十六人、楽人は三十六人ほど招請して執り行い ます。

一 両寺一年中問答講の事

(地元の住民を入れて)長日延命講、弥陀講、月次問答講、正五月、九月の最勝十講などの問答講を催します。

一 館の事 秀衡

金色堂の正面にある無量光院の北に並んで、宿館が構えています。これを「平泉館」と呼びますす。西木戸には長男国 衡の家があり、同じく四男、隆衡(たかひら)の家がこれに並んでいます。三男忠衡の家は、泉屋の東にあり ます。無量光院の東門辺りに塀に囲まれた一郭があり、これを「加羅御所(きゃらごしょ)と呼びます。秀衡の普段の住まいにあたります。泰衡はこれを相続し て居所としております。

一 高屋の事

観自在王院の南大門の南北路から東西にかけて数十町に及んで「倉町」が並んでいます。また数十件の「高屋」が建っていま す。この観自在王院の西や南北に伸びる付近には数十の数 の車宿(くるまやど=駐車場)あります。  

 


義経伝説

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2003.3.01-2005.5.19
佐藤弘弥