中尊寺落慶供養願文

 
 


凡例
  1. 底本には平泉町史所収(中尊寺所蔵、顕家書写本)を使用 し、日本史史料(2)中世(岩波書店1998年)を参考とさせていただいた。
  2. 尚、どうしても漢字化できない文字があり、やむなくカタカ ナ表記した箇所もある。
  3. 読み下し文を作成するに際しては、平泉町史(史料編二)の 佐々木邦世氏の訳を参考とさせていただいた。
  4. 多くの間違いがあると思う。発見の時はご一報いただきます よう。
 
2000年6月吉日
佐藤弘弥

原文  読み下し  現代語訳



原文

中尊寺落慶供養願文

「中尊寺(題箋)落慶供養願文」

敬白

奉建立供養鎮護國家大伽藍一區事

三間四面檜皮葺堂一宇、在左右廊廿二間、

 莊厳
  五彩切幡卅二旒、
  三丈村濃大幡二旒、

奉安置丈六皆金色釋迦三尊像各一體、

右堂宇、則芝ジ藻井、天蓋寶網、厳飾協意、丹ワク悦目、

佛像則蓮眼菓脣、紫磨金色、脇士待者次第圍繞、

三重塔婆三基、

 莊厳

  金銅寶幢卅六旒、旒別十二旒

 奉安置摩訶盧昆遮那如来三尊像各一體、

  釋迦牟尼如来三尊像各一體、
  薬師瑠璃光如来三尊像各一體、
  彌勒慈尊三尊像各一體、

右本尊、座前瑜伽壇上、置八供養之鈴杵、立八方色之幡幢、儀軌以第莫不兼備、
二階瓦葺経蔵一宇、

 奉納金銀泥一切経一部、

 奉安置等身皆金色文殊師利尊像一體、
 

右経巻者、金書銀字挟一行而交光、紺紙玉軸合衆寶而成巻、漆匣以安部帙、琢螺鈿以鏤題目、
文殊像者憑三世覚母之名、為一切経蔵之主、廻惠眼照見、運智力以護持矣、

二階鐘樓一宇、

 懸廿釣洪鐘一口、

右、一音所覃千界不限、抜苦興樂、普皆平等、官軍夷虜之死事、古来幾多、毛羽鱗介之受屠、
過現無量、精魂皆去他方之界、朽骨猶為此土之塵、毎鐘聲之動地、令冤霊導浄刹矣、

 大門三宇、

 築垣三面、

 反橋一道、廿一間、

 斜橋一道、十間、

 龍頭鷁首晝船二隻、

 左右楽器、太皷、舞装束卅八具、

右、築山以増地形、穿池以貯水脈、草木樹林之成行、宮殿樓閣之中度、廣樂之奏歌舞、
大衆之讃佛乗、雖為徼外之蠻陬、可謂界内之佛土矣、

 千部法華経、

 千口持経者、

右、弟子運志、多年書寫之僧侶、同音一日轉讀之、一口充一部、千口盡千部、
聚蚊之響尚成雷、千僧之聲定達天矣、

五百卅口題名僧、

右、揚口別軸之題名、盡五千餘巻之部帙、毎手捧持開紐無煩、
 

以前善根旨趣、偏奉為鎮護國家也、所為者何、弟子者東夷之遠酋也、生逢聖代之無征戦、長屬明時之多仁恩、蠻 陬夷落為之少事、虜陣戎庭為之不虞、當于斯時、弟子苟資祖考之餘業、謬居俘囚之上頭、出羽・陸奥之土俗、如従風草、粛愼把婁之海蠻、類向陽葵、垂拱寧息三 十餘年、然間時享歳貢之勤、職業無失、羽毛歯皮之贄、参期無違、因茲乾憐頻降、遠優奉國之節、天恩無改、己過杖郷之齢、雖知運命之在天、争忘忠貞之報國、 憶其報謝、不如修善、是以調貢職之羨餘、抛財幣之涓露、占吉土而建堂塔、冶眞金而顯佛経、経蔵・鐘樓・大門・大垣、依高築山、就窪穿池、龍虎協宜、即之四 神具足之地也、蠻夷歸善、豈非諸佛摩頂之場乎、又設萬燈曾供十方尊、薫修定遍法界、素意盍成悉地、捧其全分、奉祈禪定(白河)法皇、蓬莱殿上、日月之影鎮 遅、功徳林中、霧露之気長霽、金輪聖主玉衣無動、太上(鳥羽)天皇寶算無彊、國母仙院(待賢門院)麻姑比齢、林廬桂陽松子伴影、三公九卿武職文官、五幾七 道萬姓兆民、皆樂冶世、各誇長生、為御願寺、長祈 國家區々之誠、天高徳卑、綸フツ依請、供養遂思、寶歴三年青陽三月、曜宿相應、支干皆吉、延堀千五百餘 口僧、讃揚八萬十二一切経、金銀和光、照弟子之中誠、佛経合力添法皇(白河)之上壽、弟子(清衡)生涯、久浴恩徳之海、身後必詣安養之郷、及至鐵圍砂界、 胎卵濕化、善根所覃、勝利無量、敬白、

 天治三年三月廿四日弟子正六位上藤原朝臣清衡敬白


 

「件願文者、右京大夫敦光朝臣草之、中納言朝隆卿書之、而有不慮之事、及紛失之儀、為擬正文、忽染疎毫耳、 鎮守大将軍(花押)

「嘉歴(輔方本奥書並ニ端書)四年八月二十五日、信濃阿闍 梨被持来、可及奥書・端書之由被命之間、馳筆以正本寫云々、前少納言輔方(花押)
 
 

奥州平泉關山中尊寺、鳥羽禪定法皇御願、勅使按察中納言顯隆卿、願文清書右中弁朝隆、唱導相仁己講、

大壇[檀]那陸奥守藤原朝臣清衡」

「冷泉(奥題箋)中納言朝隆卿筆」
 

 



 

読み下し
 
 
中尊寺落慶供養願文

「中尊寺(題箋)落慶供養願文」
 
 

敬白

建立供養し奉る。鎮護國家大伽藍一區(区)の事。

三間四面の檜皮葺堂一宇。左右の廊は廿二(二十二)間あり。

 莊厳。
  五彩の切幡(きりはた)卅二(三十二)旒。
  三丈の村濃(むらご)大幡二旒。

安置し奉る。六丈の皆金色釋迦三尊像各一體(体)。

右に堂宇。則ち芝ジ(しじ)は藻井(そうせい)にして、天蓋(てんがい)は寶網(ほうもう)、厳飾(ごんじき)は協意にして、丹ワクは悦目なり。

佛像。則ち蓮眼菓脣(れんげんかしん)にして、紫磨金色(しまこんじき)なり。脇士の待者は、次第に囲繞(いよう)す。

三重の塔婆三基。

 莊厳。
  金銅の寶幢は卅六(三十六)旒。(旒別十二旒)

安置し奉る。摩訶昆盧遮那如来三尊像各一體(体)。
  釋迦牟尼如来三尊像各一體(体)。
  薬師瑠璃光如来三尊像各一體(体)。
  彌勒慈尊三尊像各一體(体)。

右に本尊。座前の瑜伽壇上に、八供養の鈴杵(れいしょ)を置き、八方色の幡幢(ばんとう)を立て、儀軌の以第を兼備せざるなし、

二階瓦葺の経蔵一宇。
 納め奉る。金銀泥一切経一部。

 安置し奉る。等身の皆金色文殊師利尊像一體(体)。

右の経巻は、金書に銀字一行を挟みて光を交わし、紺紙に玉軸衆寶を合わせて巻と成す。漆匣(しっこう)を以て部帙(ぶちつ)を安んじ、螺鈿(らで ん)を琢(きざ)んで、以て題目を鏤(ちりば)む。
文殊像は、三世覚母の名に憑りて、一切経蔵の主(あるじ)と為す。惠眼を廻りて、照見し、智力を運びて以て護持す。

二階の鐘樓一宇。
 廿(二十)釣の洪鐘一口を懸ける。
右に、一音の覃所(たんしょ)は、千界に限らず、苦しみを抜きて、樂を興え、普ねく皆平等なり。官軍と夷虜(いりょ)の死の事、古来幾多なり。毛羽鱗介の 屠(と)を受けし、過現無量なり。精魂は、皆他方の界に去り、骨は朽ち、猶もって此土の塵となる。鐘の聲(ね)の地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をし て、浄刹(じょうさつ)に導かさしめん。

 大門三宇、
 築垣三面、
 反橋一道、(廿一(二十一)間)。
 斜橋一道、十間。
 龍頭鷁首晝船二隻。
 左右楽器、太皷、舞装束卅八(三十八)具。

右は、築山を以て地形を増し、池を穿(うが)ち以て、水脈を貯える。草木と樹林の成行は、宮殿樓閣の度に中(あた)る。廣樂(こうらく)の歌舞を奏 し、
大衆の佛乗を讃ふ。徼外(きょうがい)の蛮陬(ばんすう)と雖も、界内(かいだい)の佛土ち謂うべきなり。

 千部法華経。
 千口持経者。

右は、弟子は志を運びて、多年これを僧侶書寫す。同音一日、これを転読し、一口に一部を充て、千口に千部を尽す。
聚蚊(しゅうか)の響は、尚、雷を成して、千僧の声は、定めし天に達すなり。

五百卅(三十)口の題名僧。
右は、口別に軸の題名を揚げ、五千餘巻の部帙を尽す。手毎に捧を持ち、紐を開きて煩い無し。

以前の善根旨趣は、偏に鎮護國家を奉る為なり。所為は何ぞ、弟子は東夷の遠酋なり。聖代の征戦無きに生れ逢い、長らえて明時の仁恩多きに屬す。蛮陬 (ばんそう)夷落、これが為に事は少し。虜陣(りょじん)、戎庭(じゅうてい)、これが為に虞(おそれ)ず。この時に当たりて、弟子は、苟(いやし)く も、祖考の餘(余)業を資し、謬(あやま)りて、俘囚の上頭に居す。出羽・陸奥の土俗は、風草に従うが如し。粛愼(しゅくしん)・ユウ婁(ゆうろう)の海 蛮は、陽に向う葵の類い。垂拱寧息(すいきょうねいそく)して三十餘(余)年。しかる間、時享し、歳貢に勤む。職業は失うこと無く、羽毛歯皮の贄(にえ) は、参期(さんご)を違えること無し。これに因りて乾憐降ること頻(しき)り。遠く奉國の節を優し、天恩改むること無く、己(すで)に杖郷の齢を過ぎる。 運命の天に在るを知ると雖も、争(いか)で忠貞の報國を忘れんや。その報謝を憶(おも)えば、修善如(しか)ず。是を以て貢職の羨餘(せんよ)を調え、財 幣の涓露(けんろ)を抛(なげう)ち、吉土を占いては、堂塔を建て、眞(真)金を冶しては、佛経を顯(顕)わす。
経蔵・鐘樓・大門・大垣、高きに依りては築山し、窪に就いては池を穿つ。龍虎は宜しきに協(かな)い、即ちこれ四神具足の地なり。蛮夷は善に歸(帰)し、 豈(あに)、諸佛、摩頂の場に非ずや。又萬燈曾(まんどうえ)を設して、十方尊を供(とも)す。薫修は、遍えに法界に定まり、素意は、成して悉地(しつ ち)を盍(おお)う。

その全分を捧げ、祈り奉る。

禪定法皇(=白河法王)。

蓬莱の殿上に、日月の影は、鎮かに遅(なが)し。

功徳の林中に、霧露(むろ)の気は、長じて霽(はれ)る。

金輪の聖主の玉衣動くこと無し。

太上天皇(=鳥羽天皇)の寶(宝)算は無彊(むきょう)なり。

國母仙院(=待賢門院)は、麻姑(まこ)と齢を比べ、林廬桂陽は松子に影を伴う。

三公九卿、武職文官、五幾七道、萬姓の兆民、皆、冶世を樂しみ、各(それぞれ)長生きを誇り、御願寺と為すを、長く祈らん。

國家區々の誠は、天高き徳を卑しみ、綸フツ(りんふつ)を請うに依りて、供養の思いを遂げん。

寶(宝)歴三年、青陽の三月。曜宿相應して、支干は皆吉なり。

千五百餘口の僧を延クツ(えんくつ)して、八萬十二一切経を讃揚す。

金銀は光を和して、弟子の中誠を照らし、佛経は合力して、法皇の上壽に添わん。

弟子は生涯、久しく恩徳の海に浴して、身後必ず安養の郷に詣(もう)ぜん。

乃至鐵圍(鉄囲)砂界。胎卵濕(湿)化。善根覃所。勝利無量。 敬白。


天治三年三月廿四(二十四)日 弟子正六位上藤原朝臣清衡 敬白。
 


 
 

「顕家本奥書」
件(くだん)の願文は、右京大夫敦光(藤原敦光)朝臣がこれを草し、中納言朝隆(冷泉朝隆)卿がこれを書す。しかして不慮の事あり。紛失の儀に及び、擬正 の文を為す。忽(たちま)ち疎毫(そごう)を染るのみ。鎮守大将軍((花押(北畠顯家))
 

嘉歴四年八月二十五日、信濃(行圓)阿闍梨が持ち来られ、奥書・端書の由に及ぶべく命じらるるの間、筆を馳せ、以て正本を寫すと云々。
    前少納言輔方(花押)

「輔方本端書」
奥州平泉關山中尊寺、鳥羽禪定法皇の御願は、勅使按察 中納言顯隆卿。願文の清書、右中弁朝隆。唱導相仁己講は、大壇那陸奥守藤原朝臣清衡。

「冷泉(奥題箋)中納言朝隆卿筆」
 
読み下し 佐藤弘弥


現代語訳

中尊寺落慶供養願文

「中尊寺(題箋)落慶供養願文」
 

敬白

建立し、供養申し上げます。鎮護国家のための大伽藍一区の事。
 

三間四面の檜皮葺堂一棟。左右の廊は二十二間あります。

 莊厳。
  五彩の切幡(きりはた)三十二流。
  三丈の村濃(むらご)大幡二流。

安置いたしました。六丈(約4.8m)の皆金色釋迦三尊像各一体。

右に堂を。芝ジ(しじ)は藻井(そうせい)で、天蓋(てんがい)は宝網(ほうもう)。厳飾(ごんじ き)は協意で、丹ワクは悦目です。

佛像。蓮眼菓脣(れんげんかしん)にして、紫磨金色(しまこんじき)。脇士の待者は、周囲を囲みま す。

三重の塔婆三基。

 莊厳。
  金銅の寶幢は三十六流。(流別十二流)

安置いたしました。摩訶昆盧遮那如来三尊像各一体。
  釋迦牟尼如来三尊像各一体。
  薬師瑠璃光如来三尊像各一体。
  彌勒慈尊三尊像各一体。

右に本尊。座前の瑜伽壇上に、八供養の鈴杵(れいしょ)を置き、八方色の幡幢(ばんとう)を立て、仏 法の流儀にのっとり兼ね備えました。

二階瓦葺の経蔵一棟。
 納めました。金銀泥一切経一部。

 安置いたしました。等身の皆金色文殊師利尊像一体。

右の経巻は、金書に銀字一行を挟み光が交わり、紺紙に玉軸衆寶を合わせて巻といたしました。漆の匣 (さや)で巻を包み、螺鈿(らでん)を刻むんで、これを題目に鏤(ちりば)めました。

文殊像は、智慧を生ずる母の異名(三世覚母)をもって、一切経蔵の主(あるじ)としました。真理を悟 る慧眼を廻らせて、物事の本質を見極め、智力を持ってこれを(一切経蔵)を守るのです。
 

二階の鐘樓一棟。

二十釣の洪鐘一口を懸ける。

この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものにあまねく平等に響くのです。(奥州の地で は)官軍の兵に限らず、エミシの兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限り なく殺されて来ました。命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もな く命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります。
 

大門は三つ、築垣は三面、反橋(そりばし)は一道(二十一間)、斜橋は一道(十間)、龍頭鷁首(りゅうとうげきす)の画船二隻、左右楽器、太皷、舞 装束三十八人を具します。これを造るに当たっては、築山をして地形を変え、池を掘って水を引き入れました。草木と樹林を宮殿楼閣の中に配置し、この中で世 の人を楽しみとする歌舞を催し、民衆の仏への帰依を讃えようと思います。そのようにすれば、たとえ砦の外の蛮族だとしても、『この世にも極楽はある』」と 言うでありましょう。
 

千部の法華経に、千人の読経者。これ(法華経)については、私(清衡)は志を忘れずに、多年に渡り僧侶に書写させてきたのでありますが、同時にこれ を一日に転読させ、一人で一部、千人で千部を唱和し尽くそうと思ったのです。集った蚊の羽音は、雷鳴を成すと言いいます。千僧の読経の声は、きっと天に達 するでありましょう。

五百三十口の題名僧。これは、530人の僧が、別々に軸の題名を揚げ、五千餘巻の部帙(ぶつち)を見せるものであります。手毎に捧を持ち、紐を開き て、煩いを無くすのであります。
 
 

以上のように善根を尽くすその本意は、ただ鎮護國家を祈る為であります。縁があって、私は東北のエミシの酋長に連なる家に生まれましたが、幸いにも 白河法皇が統治される戦のない世に生れ逢い、このように長生きをして平和の時代の恩恵に浴して参りました。そして我がエミシの里では争い事も少なく、捕虜 を住まわせた土地や、戦場だった所も、よく治まっております。さてこの時代にあって、私は、分不相応にも、祖先の残した事業を引き継ぐこととなり、誤っ て、エミシの酋長の座に座ることになりました。今や出羽や陸奥の民の心というものは、風に草がなびくように従順でございます。粛愼(しゅくしん)やユウ婁 (ゆうろう)のような海外の蛮族もまた、太陽に向うひまわりのようによく懐いております。なすがままに治めて三十年以上、この間、時を享受しながら、毎年 の租税を納めることに励んで参りました。生業を失うことも無く、鳥の羽や毛皮、獣の牙の貢ぎ物の献上も怠ることもありませんでした。これにより度々ご厚情 をかけていただき、遠い都から国のために尽くしたとのご褒美を頂戴し、そのご恩に感謝しない日は一日たりとありませんでした。ところが私は、既に「杖郷の 齢」(じょうきょうのよわい:60才)を過ぎてしまいました。人の運命というものは、天にあるものではございますが、どうして、忠義と貞節をもった国へ尽 くす思いというものを忘れることがありましょう。与えて戴いたご恩に報いることを思えば、善行を積む以外にはないと思い立ちました。

そこで、租税として貢いで後に残ったものを調べ、残っている財貨を洗いざらいなげうって、吉と占いに出た土地に、堂塔を建て、純金を溶かして、佛経 経典を書写させた次第です。 経蔵、鐘樓、大門、大垣などを建て、高い所には築山を施し、窪地には池を掘りました。このようにして(平泉の地は)、「龍虎は宜しきに叶う」という「四神 具足の地」となりました。エミシも仏善に帰依することになり、まさに、この地は、諸佛を礼拝する霊場というべきではないでしょうか。また万燈会(まんどう え)を設け、十方尊を供養しております。衣に付けた香の香りは、広く法界に定着をし、この私のかねてよりの思いは、きっと普く大地を覆うでありましょう。

その全てを分かち捧げ、お祈り申し上げます。

白河法皇 さま。
蓬莱山にある御殿に、太陽と月の光が、音もなく静に伸びて、善行という林の中で (私は)煩悩から目覚め、すっかり心が晴れ渡りました。まるで金輪王(転 輪王のうち最後に出現し、金の輪法を感得して四州全体を治めるとされる聖王)のように、心は不動となり その衣すら動くことは無くなりました。

鳥羽天皇さまの時代は永遠です。
国の母になられた待賢門院様は、仙女のように長寿をされ、林の庵に月明かりが射して松かさを際立たせています。諸々の大臣も武官文官も、全国津々浦々の民 百姓は、みな今の世を楽しみ長生きをして、平泉の地に天皇のご命令による御願寺ができたことを祝い長く祈ることでありましょう。

国家鎮護のために堂塔を建てる真意につき、卑しくも徳の高き天子さまに、お言葉をお願いし、ここにかねてよりの供養の思いを遂げようと思います。

宝歴三年、陽光の春三月の良き日に合わせて、占いもみな吉と出ております。

千五百人の僧を招き、八万十二の一切経を読呪いたします。

金銀は光を合わせて、私の国家への真心を照らし、読呪の声は力を合わせて、法皇の長寿を祈りましょう。そうすれば私は一生涯を恵みの海に浴し、没後 は必ずや極楽浄土にゆくことが叶いましょう。

鉄の牢獄から地獄の世界に至るまで。犬畜生と生まれ、虫けらとなり輪廻の苦しみにあるものさえ、善き報いを受けて、限りない利益恩恵を得ることであ りましょう。 敬白。

天治三年三月二十四日 弟子正六位上藤原朝臣清衡 敬白。


 

現代語訳 佐藤弘弥


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 2000.6.28 
 2003.2.12 Hsato