永訣の月
解説

−英雄最期の一夜−

永訣の月

村山直儀作
(油彩・カンヴァス・90.9×72.7) 義経公拡大

<解説>
この「永訣の月」は、芸術家村山直儀が、2002年春、執念で完成させた渾身の一作である。
題材は、「源義経」が奥州平泉の衣川の館(高館)で自刃して果てる前夜という設定だ。煌々と月光が、奥州の大河 北上川に映っている。義経は、迫り来る運命の時を感じながら、悠然として月明かりに照らされた奥州の山河を眺めている。己の生涯において、為すべきことは 為したという強い充足感が、その超然とした表情の中に滲み出ている。実に美しく威厳に満ちた義経像である。義経はもはや傍らの鎧を身に着ける気はない。だ がその背後にいる武蔵坊弁慶には、やるべきことが残されている。それは押し寄せてくる敵兵を一歩たりとも義経が立て籠もる館に踏み込ませず、桜花の散る如 くに主君義経を極楽往生させるという大仕事だ。弁慶には、死して尚、敵を食い止めるべく立ち尽くしていたという「弁慶立ち往生伝説」がある。二人の表情の 違いに見える心理的コントラストが実に見事だ。

ここに、源義経と武蔵坊弁慶という稀代の勇者たちは、村山直儀の芸術的才により、813年という時空を越えて、現代に蘇ったの である。(佐藤弘弥)


我ら見るこの月光の高館を誰か名残りと後に偲びむ 

「永訣の月」村山直儀インタ ビュー 
「永訣の月」と喜納昌吉氏の 初対面

誰か 見る景色なるかな今はなき高館の夜の永訣の月
(たれかみるけしきなるかないまはなきたかだちのよ のえいけつのつき)
吾ひとり高 館に居てふり雪ぐ宙の気受くる我孤に在らず
(われひとりたかだちにゐてふりすゝぐてんのきうく るわれこにあらず)


勇者の蓮T

村山直儀作
(油彩・カンヴァス)

<解説>
奥州平泉の中尊寺に、不思議な大輪の蓮が咲く大池という蓮池がある。

大池には平成五(1997)に810年という気の遠くなるような永い年月を経て蘇った古代蓮が、毎年、見事な花を付けるように なった。蓮は夏の花である。この蓮は、藤原泰衡という亡者の首桶に、今から813年前の夏に手向けられた蓮の種が発芽したものだ。泰衡は、巷間では、稀代 の勇者にして英雄の「源義経公」を自害に追い込み、黄金の都平泉を滅ぼした愚の武者と見られている。しかし大池にその蓮の幽姿を見る時、愚者の印象はかき 消えて、奥州人の心優しさのようなものに触れる思いがする。そこには勇者も愚者もない。すべては勇者なのだ。人も花も、この蓮の花びらの一片に至るまで も・・・。この蓮は、一般的に「中尊寺蓮」あるいは「泰衡ケ蓮」と呼ばれているが、私は何故か「勇者達の花」あるいは「勇者の蓮」と呼びたいと思うように なった。(佐藤弘弥)


大池に散りし命の花びらを露に消ゑにし勇者と送る
(おゝいけにちりしいのちのはなびらをつゆにきゑにしゆうじゃとおくる)
勇者とは己が命を虚しく見、人の為とぞ奮い立つこと  

最終更新日 :2002/7/6 Hsato