源義経年表


( )内は年齢。○数字は閏月。



作成 前川佳代
年 号 西暦          義経の事跡 関 連事項
平治元年 1159   義経が生まれる(1)  
    12月   12月 平治の乱がおこる 
永暦元年 1160 1月4日 父・義朝、尾張国で殺される(38)。  
    2月 常磐、大和国宇多郡竜門牧に逃亡 後、自首。  
    3月11日   兄・頼朝、伊豆国へ配流
        藤原基成、舎弟信頼の縁坐で陸奥 配流
仁安2年 1167 2月11日   平清盛、太政大臣となる。
嘉応元年 1169   この頃、鞍馬寺に入る?(11)  
嘉応2年 1170 5月25日   藤原秀衡,鎮守府将軍に任じら る。
承安4年 1174   この頃、奥州に下る?(16)  
安元2年 1176 4月   陸奥守兼鎮守府将軍藤原範季、陸 奥下向する。
治承元年 1177 6月   鹿ヶ谷の陰謀事件
治承3年 1179 11月   平清盛、反清盛派公卿を解官し、 後白河法皇を幽閉(治承3年のクーデター)
治承4年 1180 2月21日   安徳天皇践祚    
    4月9日   以仁王の令旨発せらる。
    4月27日   平氏追討を命じる以仁王の令旨、 頼朝のもとへ至る。
    5月26日   以仁王(30)・源頼政(77) 敗死
    6月2日   福原遷都
    8月17日   源頼朝挙兵
    8月   頼朝、石橋山の戦いで大庭景親ら に破れ、安房に逃れる。
    9月7日   木曽の源義仲挙兵
    10月6日   頼朝、鎌倉に入る。
    10月20日   富士川の戦いで頼朝勝利
    10月21日 黄瀬川の宿で頼朝と対面(22)  
    11月26日   福原より京都に還都
    12月4日   秀衡、清盛の命により頼朝追討の 請文を提出したとの風説あり。
    12月28日   南都焼き討ち
養和元年 1181 1月14日   高倉上皇没(21)
    A月4日   清盛没(64)。
    3月10日   平重衡、美濃国墨俣川の戦いで源 行家らを破る。この戦いで義経の同母兄義円討死する(27)。
    3月17日   秀衡、軍勢を率いて白河関を越え るとの風説あり。
    7月20日 鶴岡若宮宝殿上棟に、大工の馬を 引く(23)  
    8月14日   北陸道追討使平経正・通盛ら進発 す。
    8月15日   秀衡を陸奥守に任じ、諸国の源氏 を討たせようとする。
    11月5日 平氏軍を迎え撃つため遠江に行こ うとしたが延引となる。  
寿永元年 1182 2月25日   平教盛、木曽義仲追討へ進発(実 現せず)
    4月5日   文覚、江ノ島に弁財天を勧請し、 秀衡調伏を祈祷する(21日間)。
    9月25日   土佐で源希義が殺される。
寿永2年 1183 2月   野木宮合戦。頼朝、叔父源義広を 逐う。
 
3月   頼朝、義仲討伐のために信濃に進 発。義仲、嫡子義高を人質として鎌倉へ遣わす。
 
4月   北陸道追討使平維盛ら進発す。
    5月11日   木曽義仲、越中国礪波山の平氏軍 陣地を夜襲し、これを破る(倶利伽羅峠の戦い)。
    7月22日   義仲、延暦寺に入る。
    7月25日   平宗盛等平氏一門、安徳天皇と神 器を奉じて西海へ逃れる。
    7月28日   義仲入京。後白河法皇、義仲に平 氏追討を命じる
    8月20日   後鳥羽天皇践祚
    10月9日   頼朝、秀衡・佐竹氏らが鎌倉に入 る恐れありとして上京を辞退。頼朝復官
    10月14日   頼朝、東国沙汰権を認められる (寿永二年十月宣旨)。
    I月1日   義仲、備中国水島で、平重衡・通 盛に大敗する。
    I月17日 義経、大将軍となり数万の軍兵を 率い上洛するという。 秀衡が義仲とはかって頼朝を攻め るという風説あり。
    11月4日 義経、美濃国不破関に到着とい う。  
    11月10日 義経、近江にあり。  
    11月18日 義経、伊勢神郡に到着という。  
    11月19日   義仲、法住寺殿を襲って法皇を監 禁する(法住寺合戦)。
    12月1日 伊勢国にあり。勢五百騎。伊勢国 人が従い、和泉守平信兼が合力。  
    12月10日   法皇、義仲に頼朝追討の院宣を下 す。
元暦元年 1184 1月8日   義仲、征夷大将軍なる。平氏、福 原に至り、帰京の機会をうかがう。
    1月20日 瀬田・宇治の合戦。源範頼・義 経、義仲を破って入京し、六條殿へ向法皇を警護 源義仲、近江にて敗死(31)
    1月26日   平氏追討宣旨下る
    1月27日   義仲追討報告が鎌倉に到着
    1月28日 義経郎従が恥辱に及んだと小槻隆 職に訴えられる。  
    1月29日 範頼・義経、平氏追討に向う。  
    2月4日   頼朝、紀伊国湯浅宗重の追討を禁 じ、本領安堵して京に召すよう義経に書状を送る。御家人化を促す。
    2月5日 範頼・義経、摂津に到着  
    2月6日 義経、鵯越に向かう  
    2月7日 一ノ谷に平氏軍を破る。  
    2月8日   源氏の勝利が京都に伝わる。
    2月9日 京都に凱旋  
    2月11日 範頼・義経、朝廷に平氏の首の大 路渡を承認させる。  
    2月13日 平氏方の首、義経の六条室町邸に 集められる。  
    2月15日
鎌倉カマクラ戦勝センショウ報告ホウコク到着トウチャク
    2月18日   頼朝ヨリトモ京都キョウト使者シシャ派遣ハケンし、洛陽ラクヨウ警固ケイゴ以下イカ義経ヨシツネメイず。
    2月22日 春日カスガシャリョウ摂津セッツクニ垂水タルミマキ兵糧ヒョウロウマイ停止テイシ  
    2月25日   頼朝ヨリトモチョウ4箇条カジョウソウセイ義経ヨシツネ畿内キナイ近国キンゴク軍事グンジ統率トウソツケン付与フヨし、また平氏ヘイシ追討ツイトウメイじるようソウセイ
    2月29日
義経ヨシツネによる平氏ヘイシ追討ツイトウ延期エンキとなる。
    2月 河内カワチクニミナモトコウチュウ本宅ホンタク安堵アンド兵糧ヒョウロウマイ使ホウ停止テイシ御家人ゴケニンウナガす。  
    3月2日 ヘイジュウコウテイムカえる。  
    3月10日   梶原カジワラケイヘイジュウコウトモナ関東カントウ下向ゲコウ
    3月27日   頼朝ヨリトモセイ4シタ
    3月28日   頼朝ヨリトモジュウコウ対面タイメンする。
    3月 感神院領近江国蒲生保・丹波国天 田宗我部郷における武士の非法停止。高野山領阿弖川庄に対する寂楽寺所司などの押領停止。主殿領年預の争いを裁く。  
    4月22日   頼朝ヨリトモミナモトコウギョウ平氏ヘイシドウメンムネ義経ヨシツネツタえる。
    5月2日 義経ヨシツネ高野山コウヤサンカワショウのことで書状ショジョウオクる。  
    5月24日 高野山コウヤサンデンホウインリョウ紀伊キイクニ7ショウ兵糧ヒョウロウマイ停止テイシする。  
    5月27日   頼朝ヨリトモ義経ヨシツネ藤原フジワラケンコウショショク安堵アンドメイじる。
    5月 石見イワミクニ御家人ゴケニンタイし、リョウ使藤原フジワラケンコウシタガい、平氏ヘイシ追討ツイトウクワわるようメイじる。  
    6月5日   頼朝ヨリトモ推挙スイキョにより、ハンライサンカワカミに。義経ヨシツネ推挙スイキョされず。
    7月3日   頼朝ヨリトモ平氏ヘイシ追討ツイトウのため義経ヨシツネ西海サイカイツカわすことを法皇ホウオウソウす。
    7月5日   伊勢イセ平氏ヘイシ伊賀イガ守護シュゴ大内オオウチコレヨシオソ
    7月19日   近江オウミクニ佐々木ササキら、伊勢イセ平氏ヘイシ合戦カッセン
    8月3日   頼朝ヨリトモ出羽デワカミシンケン子息シソクナドキョウチュウカクれているのをつよう義経ヨシツネメイじる。
    8月6日 左衛門サエモン少)尉ショウイニンぜられ、使センコウムる(検非違使ケビイシ衛門エモン)。  
    8月8日   ハンライ平氏ヘイシ追討ツイトウのため鎌倉カマクラ出発シュッパツ
    8月10日 義経ヨシツネタイラシンケンオトコサンニンチュウす。  
    8月12日 義経ヨシツネ伊勢イセかい出羽デワカミシンケンつ。   
    8月17日   義経ヨシツネ任官ニンカンホウ鎌倉カマクラ到達トウタツ頼朝ヨリトモオコり、平氏ヘイシ追討ツイトウ使猶予ユウヨす。
    8月26日
義経ヨシツネ飛脚ヒキャク鎌倉カマクラ到着トウチャクヘイシンケンオトコチュリクしたことをホウず。
    8月29日 平氏ヘイシ追討ツイトウカンハンライ(27ニチハイラク)にタマワう。  
    9月1日   ハンライ京都キョウト進発シンパツ
    9月5日   頼朝ヨリトモソウショウにより、ガシラ安倍アベヒロシカイカン法皇ホウオウ、そのムネ義経ヨシツネツタえる。
    9月9日   頼朝ヨリトモ京都キョウトにおけるシンケンボツカン義経ヨシツネ沙汰サタさせる。
    9月14日
河越カワゴエ太郎タロウジュウライオンナが義経に嫁すためキョウかう。
    9月18日 義経ヨシツネジュウ五位ゴイシタとす  
    9月20日 摂津セッツクニ垂水タルミ西ニシマキカヤゴウナイ狼藉ロウゼキ停止テイシす。  
    10月11日 義経ヨシツネ拝 賀ハイガイン御所ゴショ内裏ダイリ昇殿ショウデンユルれる。  
    10月25日 大嘗祭ダイジョウサイ御祓ミソギ行幸ギョウコウ供奉グブ  
    11月14日   頼朝ヨリトモ宇都宮ウツノミヤアサツナ以下イカ西国サイゴク所領ショリョウアタえられた御家人ゴケニン沙汰サタ義経ヨシツネメイじる。
    12月3日   北条ホウジョウトキセイ頼朝ヨリトモ園城寺オンジョウジ帰依キエ義経ヨシツネツタえる。
    12月20日   義経ヨシツネより西国サイゴク所領ショリョウ沙汰サタブミ到着トウチャク
    12月29日 デンホウインリョウ兵糧ヒョウロウマイマンザツコウ停止テイシカサねてメイじる。  
文治元年 1185 1月6日   ハンライ飛脚ヒキャクけて、頼朝ヨリトモ平氏ヘイシ追討ツイトウについてハンライ書状ショジョウオクる。ハンライセイは11ガツより兵糧ヒョウロウマイ欠乏ケツボウ

1月8日 義経ヨシツネ四国シコクかうと後白河ゴシラカワインモウる。  
    1月10日 平氏ヘイシ追討ツイトウのため京都キョウト出発シュッパツ  
    1月22日 和泉イズミクニ春木ハルキショウナイ観音寺カンノンジジュウソウなどのジュウボウ安堵アンドし、武士ブシ狼藉ロウゼキ禁止キンシ  
    1月26日   ハンライグン九州キュウシュウワタる。
    2月14日   ハンライ飛脚ヒキャク到着トウチャク頼朝ヨリトモ激励ゲキレイする返書ヘンショす。
    2月16日 イン使タカカイタイケイ先陣センジントドめにくる。オナコロ四国シコク渡海トカイをめぐって義経ヨシツネ梶原カジワラケイアラソう(サカ事件ジケン  
    2月17日 義経ヨシツネ暴風ボウフウナカ摂津セッツクニ渡部ワタナベよりフネハッ阿波アワう。  
    2月18日 阿波アワクニ椿ツバキウラ上陸ジョウリクカツラウラ田口タグチトオめる。  
    2月19日 屋島ヤシマタタカい。佐藤サトウケイシン戦死センシ  
    2月21日 河野コウノ通信ツウシン熊野クマノ別当ベットウタンゾウ義経ヨシツネ合力ゴウリキ  
    2月22日   梶原カジワラケイらのグン屋島ヤシマ到着トウチャク
    3月8日
義経ヨシツネ飛脚ヒキャク到着トウチャクし、屋島ヤシマ戦況センキョウ鎌倉カマクラツタわる。
    3月11日
頼朝ヨリトモ、9ニチチャクハンライ書状ショジョウ返書ヘンショツカわす。
    3月14日
頼朝ヨリトモ追討ツイトウ遠慮エンリョメグらすよう、ハンライメイず。
    3月21日 義経ヨシツネダンウラかうが、アメのためエンイン周防スオウクニ在庁ザイチョウより兵船ヘイセンケンじられる。  
    3月22日 三浦ミウラ先頭セントウに、船団センダンヒキいてダンウラう。  
    3月24日 ダンウラタタカい。平氏ヘイシ滅亡メツボウ  
    4月4日   戦勝センショウ京都キョウトツタわる。
    4月5日
勅使チョクシ神器ジンギ奉還ホウカン義経ヨシツネメイじるため、長門ナガトクニ下向ゲコウ
    4月11日   戦勝センショウ鎌倉カマクラツタわる。
    4月21日   義経ヨシツネ不義フギウッタえる梶原景時の書状ショジョウ頼朝ヨリトモのもとにトドく。
    4月24日 義経ヨシツネケンショジンギ供奉グブして京都キョウト凱旋ガイセン  
    4月26日 平氏ヘイシ捕虜ホリョキョウ義経ヨシツネテイハイる。  
    4月27日 義経ヨシツネインウマヤニンじられる。 頼朝ヨリトモジュ二位ニイとなる。
    4月29日   頼朝ヨリトモ西国サイゴク田代タシロ信綱ノブツナショオク義経ヨシツネシタガわないようメイじる。
    5月4日   頼朝ヨリトモ九州キュウシュウ滞在中タイザイチュウ梶原カジワラカゲトキにも義経ヨシツネシタガわないようオクる。
    5月5日 ダンウラタタカ以後イゴ九州キュウシュウコト勝手カッテ沙汰サタするとウッタえられる。 頼朝ヨリトモハンライ宝剣ホウケン探索タンサクメイじる。
    5月7日 ヘイムネモリセイソウ父子フシれてミヤコ出発シュッパツ鎌倉カマクラかう。一条イチジョウノウ下向ゲコウ 義経ヨシツネ使者シシャ起請文キショウモン頼朝ヨリトモケンずるが、頼朝ヨリトモユルさず。
    5月15日 義経ヨシツネ相模サガミクニサケマガタマ到着トウチャク頼朝ヨリトモ北条ホウジョウ時政トキマサツカわしムネモリらをムカり、義経ヨシツネ鎌倉カマクラりをキンず。  
    5月16日 一条イチジョウノウサムライ後藤ゴトウセイボクジュウと、義経ヨシツネ家来ケライ伊勢イセノウセイシタ乱闘ラントウ  
    5月19日
義経ヨシツネ婿ムコミナモトツナソウオオヤケボウ発覚ハッカク
    5月24日 義経ヨシツネ腰越コシゴエからショ大江オオエ広元ヒロモトオク心情シンジョウウッタえる(腰越コシゴエジョウ)。  
    6月9日 義経ヨシツネ頼朝ヨリトモメイにより、ムネモリ京都キョウト護送ゴソウする。  
    6月13日
頼朝ヨリトモ義経ヨシツネ所有ショユウ平家ヘイケボツカンリョウ没収ボッシュウす。
    6月21日 義経ヨシツネ近江オウミ篠原シノハラムネモリる(39)。セイムネ野路ノジる(16)。義経ヨシツネ入洛ニュウラク八条ハチジョウイン使者シシャ伊予イヨクニ下向ゲコウ安全アンゼン保証ホショウする書状ショジョウす。  
    6月23日
ヒラジュウコウ南都ナントられる(29)。
    ツキ 石見イワミクニアマゴウ益田マスダショウ仲野ナカノショウ以下イカショショクハタケモトのごとく藤原フジワラケンコウ所領ショリョウとするようメイじる。  
    7月12日 法皇ホウオウよりグントウゾク警戒ケイカイメイぜらる。  
    8月4日
ミナモトイエ謀反ムホン発覚ハッカク頼朝ヨリトモ佐々木ササキテイツナに、イエ追討ツイトウメイじる。
    8月16日 伊予イヨカミニンぜられ、大夫タイフ兼任ケンニン  
    8月27日 法皇ホウオウ南都ナント御幸ゴコウ供奉グブ  
    9月2日   頼朝ヨリトモ梶原カジワラカゲスエソウシゲルヒロシ上洛ジョウラクさせ、義経ヨシツネユキイエ行動コウドウ偵察テイサツさせる。
    9月12日   梶原カジワラニュウラク
    ツキ 義経ヨシツネ、12以後イゴケイ対面タイメンし、病中ビョウチュウのため、イエ追討ツイトウのことは平癒ヘイユアトケイをめぐらすと返事ヘンジ  
    10月6日   梶原カジワラカゲスエ鎌倉カマクラカエり、義経ヨシツネ状況ジョウキョウ報告ホウコクす。頼朝ヨリトモウタガいをフカめる。
    10月9日   頼朝ヨリトモ義経ヨシツネ追討ツイトウ土佐トサボウ昌俊マサトシ派遣ハケンケッす(行程コウテイ9)。
    10月11日 義経ヨシツネ参院サンインイエ謀反ムホン制止セイシできないムネソウジョウギョウイエ制止セイシするようチョクトウける。  
    10月13日 義経ヨシツネ参院サンイン 藤原フジワラ秀衡ヒデヒラ義経ヨシツネドウするとの風説フウセツナガれる。
    10月16日 義経ヨシツネ参院サンイン頼朝ヨリトモ追討ツイトウセンう。 イエコウニンイエツイし、キタ小路コウジヒガシホラインテイウツむ。
    10月17日 土佐トサボウ昌俊マサトシ義経ヨシツネヤシキオソう。 土佐トサボウイン御所ゴショ襲撃シュウゲキしたとの風聞フウブン
    10月18日 頼朝ヨリトモ追討ツイトウインセンクダされる。  
    10月19日   義経ヨシツネセイ山之内ヤマノウチケイシュン伊勢イセクニ守護シュゴショ包囲ホウイしたとの風聞フウブン
    10月22日 義経ヨシツネヘイ近国キンゴクツノるがオウずるものなし。 頼朝ヨリトモ追討ツイトウ宣旨センジされたことをる。
    10月23日   近江の武士、義経にくみせず、奥 に引き退く。義経ヨシツネ縁 者エンジャにより河越カワゴエジュウボウナガ寿コトブキイン供養クヨウキョウホウニンからハズされる。
    10月24日   頼朝ヨリトモ上洛ジョウラクのためにグン招集ショウシュウ。小山朝政・結城朝光が先陣として出立。
    10月26日 義経ヨシツネ土佐トサボウショウシュン捕殺ホサツす。  
    10月28日   片岡カタオカツネハルシュウト佐竹サタケヨシセイ同心ドウシン謀反ムホンとみなし所領ショリョウ没収ボッシュウされる。
    10月29日   頼朝ヨリトモユキイエ義経ヨシツネ征伐セイバツのため鎌倉カマクラ出発シュッパツ
    10月30日 摂津セッツクニ太田オオタライモト城郭ジョウカクカマえ、西国サイゴクきの義経ヨシツネネラい、義経ヨシツネのためにフネ用意ヨウイした紀伊キイケンカミケンつ。そのため、義経ヨシツネ一行イッコウ北陸ホクリク下向ゲコウとの風聞フウブン  
    11月1日 義経ヨシツネ西 国サイゴク下向ゲコウエンイン北陸ホクリク変更ヘンコウか? 頼朝ヨリトモ黄瀬キセカワ到着トウチャク
    11月2日 義経ヨシツネサンインし、山陽サンヨウ西海サイカイ荘園ショウエンオオヤケリョウ沙汰サタケンなどを認可ニンカされる。 義経ヨシツネフネ手配テハイをしていた藤原フジワラユウジツショウ四郎シロウチュウせらる。
    11月3日 義経ヨシツネイエ西海サイカイ郎等ロウトウ以下イカ、そのセイ二百ニヒャク キョウチュウ騒動ソウドウ
    11月4日 太田オオタライ多田タダツナ豊島トシマ冠者カンジャらに摂津セッツクニカワシリ迎撃ゲイゲキされる。  
    11月5日 義経ヨシツネ乗船ジョウセンして大物ダイモツヘン宿シュクす。豊島テシマ冠者カンジャ藤原フジワラハン(藤原フジワラハンイキ源範頼ミナモトノノリヨリ在京ザイキョウ家人カジンヒキいる)らの追手オッテ近辺キンペン在家ザイケ宿シュクす。夜半ヤハンより大風オオカゼ義経ヨシツネらのフネソンボウし、小船コブネ和泉イズミウラ目指メザしてく。義経ヨシツネカタ豊後ブンゴ武士ブシハン降伏コウフクアルいはらえられる。 関東カントウ御家人ゴケニン入洛ニュウラク頼朝ヨリトモイカりを藤原フジワラケイソウツタえる。
    11月6日 義経ヨシツネ天王寺テンノウジアタ宿シュクす。まもなくシズワカれ、吉野ヨシノヤマかう?  
    11月7日 義経ヨシツネ官職カンショクかる。 頼朝ヨリトモ義経ヨシツネミヤコちをツタく。義経ヨシツネらが豊後ブンゴ武士ブシられたとの風聞フウブン
    11月8日   義経ヨシツネ遭難ソウナンホウ京都キョウトツタわる。頼朝ヨリトモ黄瀬キセカワより鎌倉カマクラカエる。法皇ホウオウ桂林ケイリンボウ四天王シテンノウホウシュウし、義経ヨシツネ謀叛ムホン鎮定チンテイイノる。
    11月9日   義経ヨシツネ淡路アワジクニワタったとの風聞フウブン
    11月11日
ユキイエ義経ヨシツネ追討ツイトウインセン諸国ショコククダさる。
    11月12日 義経ヨシツネシズカ、このコロ吉野ヨシノヤマ再会サイカイ 河越重頼・下河辺政義の所領没 収。
    11月13日   関東カントウ武士ブシオオ入洛ニュウラク。       
    11月17日 義経ヨシツネ吉野ヨシノヤマカクれたノチ山伏ヤマブシ姿スガタ逐電チクデンシズカらえられる。  
    11月20日   義経ヨシツネ同行ドウコウしたヘイジツ捕縛ホバク八島ヤシマ冠者カンジャトキセイ義経ヨシツネ生存セイゾンホウキョウツタえる。
    11月22日 義経ヨシツネ吉野ヨシノヤマ深雪シンセツをしのぎ多武峰トウノミネかう。多武峰トウノミネソウジュウボウ義経ヨシツネをもてなす。  
    11月24日   北条ホウジョウ時政トキマサニュウラク
    11月25日   義経ヨシツネ捜索ソウサクメイじる宣旨センジされる。
    11月29日 義経ヨシツネ十字ジュウジボウゲンシタガい、津川ツガワかう。ソウ八人ハチニンけてもらう。 義経ヨシツネツイホ理由リユウ諸国ショコクに「守護シュゴ地頭ジトウ設置セッチユルされる。
    12月3日   侍従ジジュウ一条イチジョウノウセイ義経ヨシツネ同母ドウボテイ)がオトコトモ下向ゲコウ
    12月6日   頼朝ヨリトモ義経ヨシツネドウシャカイカンと、ソウ公卿クギョウ任命ニンメイソウセイ
    12月8日   吉野ヨシノ執行シッコウシズ京都キョウト北条ホウジョウ時政トキマサテイオクる。時政トキマサグン吉野ヨシノサンハッす。
    12月15日   時政トキマサ飛脚ヒキャク鎌倉カマクラき、シズカ尋問ジンモンしたムネツタえる。
    12月16日   頼朝ヨリトモ時政トキマサオクメイシズカ関東カントウクダさしむ。
    12月17日   高階タカシナヤスシキョウカイカンされる。
    12月29日   頼朝ヨリトモビョウドウ粛清シュクセイ廷臣テイシンカンソウジョウ公卿クギョウ設置セッチ
    12月   後白河ゴシラカワイン藤原フジワラ秀衡ヒデヒラからの進物シンモツトドく。
文治2年 1186 2月18日   義経ヨシツネ多武峰トウノミネ潜伏センプクするとの風聞フウブン義経ヨシツネである鞍馬クラマトウコウボウ興福寺コウフクジセイコウを、義経ヨシツネ同意ドウイしたとのウタガいで、ショウクダすことをケッす。
    2月30日   熊野クマノキンミネヤマおよび大和ヤマト河内カワチ伊賀イガ伊勢イセ紀伊キイ阿波アワ義経ヨシツネ捜索ソウサクせよとのセンクダされる。
    3月1日   イソゼンシズカ母子ボシ鎌倉カマクラく。
    3月6日   頼朝ヨリトモシズカ尋問ジンモンシズカ陳述チンジュツ京都キョウトでの場合バアイコトなる。義経ヨシツネ大峰オオミネハイったともミネハイったともいう。
    3月15日 義経、伊勢大神宮に黄金作りの太 刀を奉納。  
    3月22日   シズ懐妊カイニン発覚ハッカクする。
    4月8日   シズ鶴岡ツルオカ八幡宮ハチマングウマイ奉納ホウノウする。義経ヨシツネシタウタ頼朝ヨリトモ不満フマンするが、ツマ北条ホウジョウ政子マサコがなだめる。
    4月20日 これ以前イゼン義経ヨシツネ、洛中に入るか? 頼朝ヨリトモ義経ヨシツネギョウイエがなお洛中ラクチュウにおり、叡山エイザン義経ヨシツネ同意ドウイするソウがいると朝廷チョウテイウッタえる。
    4月21日   安田ヤスダ義定ヨシサダトオクニミズウミイワシツにて義経ヨシツネ探索タンサク
    4月24日   サキ頼朝ヨリトモショ秀衡ヒデヒラオクる。シュウハカリよりショウブン到来トウライ
    4月25日 義経ヨシツネイエキョウチュウにありとの風聞フウブン  
    5月6日   キョウチュウ義経ヨシツネ捜索ソウサクハジまる。
    5月10日 義経ヨシツネイエマエ関白カンパク近衛コノエツウインがかくまうとの風聞フウブン。このころまでに義行と改名される。  
    5月12日   和泉イズミクニミナモトイエオトココウイエ北条ホウジョウトキテイコロされる。
    5月14日   シズ宿ヤドショニン酒宴シュエンシズ梶原カジワラケイシゲ酔狂スイキョウコバむ。
    5月20日   興福寺コウフクジソウダイシンクンイエ兄弟キョウダイ)をスス
    5月27日   シズ鎌倉カマクラショウチョウ寿ジュインで、頼朝ヨリトモムスメオオヒメのためにゲイホドコす。
    5月 義経、鞍馬あるいは岩倉に潜伏?  
    6月4日
カンヘイ鞍馬寺クラマデラむが、義経ヨシツネがいた形跡ケイセキなし。義経ヨシツネオン土佐トサキミさんとす。
    6月6日   一条イチジョウ河崎カワサキ観音堂カンノンドウアタりで義経ヨシツネハハ常盤トキワイモウトえて尋問ジンモン岩倉イワクラにいると証言ショウゲン義経ヨシツネ追討ツイトウメイじるセンクダされるとトモに、義経ヨシツネ捜索ソウサク強化キョウカされる。
    6月7日   義経ヨシツネ伊勢イセ徘徊ハイカイし、神宮ジングウモウで、南都ナントにいるとの風聞フウブン鎌倉カマクラツタわる。伊勢イセ祭主サイシュオオナカシンノウタカシ内通ナイツウし、義経ヨシツネのために祈祷キトウ
    6月12日   京都キョウト北条ホウジョウサダム義経ヨシツネ大和ヤマトクニ宇陀ウダグンアタりにありとのげをる。
    6月16日   大和ヤマトクニ宇陀郡ウダグンミナモトユウツナ(義経ヨシツネ婿ムコ)自決ジケツ
    6月18日   多武峰トウノミネアクソウリュウアキラボウす。
    6月20日 この頃、義経、比叡山上に隠れ る。  
    6月22日   仁和寺ニンナジ岩倉イワクラ隠居インキョとのげにより急襲キュウシュウしたがジツなしと鎌倉カマクラツタわる。
    7月25日   伊勢義盛殺される。
    7月30日 義経が比叡山の僧のもとにいると の風聞。  
    F月10日
義経ヨシツネドウ五郎ゴロウマルえられ、六月ロクガツ二十日ハツカゴロ義経ヨシツネ叡山エイザンカクれていたこと、叡山エイザンソウシュンショウウケタマワナカキョウクミドウしていることを白状ハクジョウしたと、鎌倉カマクラツタわる。
    F月11日   比叡山ヒエイザンソウチュウゲン逃亡トウボウ
    F月12日   ドウソウザイシュウ逃亡トウボウ
    F月17日   義経ヨシツネ与力ヨリキするソウ捜索ソウサクメイじるセン近江オウミ北陸ホクリクドウクダされる。
    F月29日   シズカ男児ダンジむ、ハキされる。
    F月 義経、南都に移動か?  
    8月15日   西行サイギョウ頼朝ヨリトモ謁見エッケン兵法ヘイホウカタる。
    9月16日   イソ禅師ゼンジシズ親子オヤコ帰洛キラクのため鎌倉カマクラつ。
    9月20日   京都キョウトホリケイコウ捕縛ホバクさる。中御門ナカミカドヒガシドウイン佐藤サトウチュウシン自決ジケツケシキヒカリ義経ヨシツネ興福寺コウフクジセイコウのもとにいること、藤原フジハラハン義経ヨシツネクミドウしていることを白状ハクジョウ
    9月21日 義経ヨシツネ、 このニチ以前イゼン南都ナントより伊賀イガへ? 比企ヒキアサムネセイコウボウハイり、義経ヨシツネモトむ。セイコウらう。シュウ蜂起ホウキ
    10月17日   ヒジリヒロシ京都キョウトされる。
    11月5日   頼朝ヨリトモ義経ヨシツネツイ遅滞チタイは、藤原フジワラハンらが内通ナイツウし、仁和寺ニンナジシュカクホウ親王シンノウ義経ヨシツネ同意ドウイしているためと朝廷チョウテイウッタえる。
    11月18日
公卿クギョウ会議カイギヒラく。捜査ソウサ強化キョウカトモ追討ツイトウイノジンオウシュウホウ)・ショシャホウヘイなどがはかられる。
    11月24日 義経ヨシツネがさらにケン改名カイメイされる。  
    11月25日   義経ヨシツネ捜索ソウサクメイじるセン畿内キナイ北陸ホクリクドウクダされる。キョウチュウ捜査ソウサ継続ケイゾク
文治3年 1187 1月20日   義経ヨシツネ反逆ハンギャク祈祷キトウのため、幕府バクフ伊勢イセホウヘイする。
 
2月8日   インセンにより義経ヨシツネツイとそのイノりについて公卿クギョウす。
    2月10日 義経ヨシツネ山伏ヤマブシ姿スガタで、伊勢イセ美濃ミノウ奥州オウシュウクダるという。藤原フジワラ秀衡ヒデヒラタヨる。  
    3月5日   義経ヨシツネ陸奥ムツにおり、シュウコウ義経ヨシツネドウしているとの情報ジョウホウモトづき、頼朝ヨリトモ義経ヨシツネタズするよう京都キョウトモウれ、一条イチジョウノウから返事ヘンジキタる。
    3月6日   義経ヨシツネ追討ツイトウオコナうよう、高野山コウヤサンシュンショウインセンがくだされる。
    3月8日
セイコウ鎌倉カマクラショウされ、頼朝ヨリトモ尋問ジンモンされる。ヒジリヒロシ頼朝ヨリトモ義経ヨシツネ兄弟キョウダイ仲直ナカナオりをく。
    4月4日   若宮ワカミヤ別当ベットウ上野ウエノクニ金剛寺コンゴウジ義経ヨシツネユメソウコウムったので、幕府バクフドウデラナド祈祷キトウ丹誠タンセイきんでるようにメイじる。
    ガツ   陸奥ムツナガされていたゼン山城ヤマシロカミ中原ナカハラモトシュウコウキンしているのを帰京キキョウさせるよう、また大仏ダイブツメツキンリョウとして3万両マンリョウネングシンさせるよう、頼朝ヨリトモインモウオクる。
    5月3日 義経が去月三十日に美作国山寺で 斬られたとの風聞が京都に伝わる。 勝賢が義経追討の祈祷中であっ た。
    9月4日   頼朝ヨリトモ使者シシャ奥州オウシュウよりモドり、秀衡ヒデヒラ反抗ハンコウ用意ヨウイありと報告ホウコクミヤコツカわし、奥州オウシュウ形勢ケイセイ言上ゴンジョウ
    9月22日
頼朝ヨリトモ宇都宮ウツノミヤシンボウ天野アマノトウカゲトウトウミシマツカわし、義経ヨシツネトウ捜索ソウサクさせる。
    10月29日   秀衡ヒデヒラ義経ヨシツネ大将タイショウヤスヒラクニヒラらが結束ケッソクすべきことを遺言イゴンとしボッす(66)。
文治4年 1188 2月8日 義経が奥州にあり、出羽国に遣わ された法師昌尊と合戦したとの情報が入る。  
    2月14日   藤原フジワラタイコウ義経ヨシツネ追討ツイトウメイじるセンされる。
    2月17日   頼朝ヨリトモ義経ヨシツネヤスヒラトモ追討ツイトウすべく宣旨センジアラタめるよう、またアラワ本名ホンミョウ義経ヨシツネカエすよう奏上ソウジョウ
    2月21日   藤原フジワラモトシゲル泰衡ヤスヒラ義経ヨシツネススムさせよとの宣旨センジオロす。カイシマツイ延期エンキされる。
    6月11日   ヤスヒラキョウへのコウコウキンなど大磯オオイソチャク頼朝ヨリトモヨクリュウせず。
    8月9日   頼朝ヨリトモ比叡山ヒエイザンソウ義経ヨシツネ同意ドウイし、藤原フジワラタイコウ義経ヨシツネをかくまったことについて沙汰サタオソいことを朝廷チョウテイ抗議コウギする。
    8月17日   比叡山ヒエイザンジュウリョ来光ライコウフサナガ同宿ドウシュクセンヒカリフサ七郎シチロウ夜討ヨウちせんとするを、ホウジルシエンリョウオオせてしだす。
    10月12日   ヤスヒラらに再度サイド義経ヨシツネススムメイツタえられ、シタガわず義経ヨシツネドウするトキはあわせて追討ツイトウすべきムネツタえる。
    10月17日   頼朝ヨリトモ比叡山ヒエイザン俊章トシアキ(義経ヨシツネ奥州オウシュウオクったという)を逮捕タイホするよう御家人ゴケニンメイじる。
    12月11日   十月ジュウガツ宣旨センジインチョウクダブンえた朝廷チョウテイ使者シシャ鎌倉カマクラ到着トウチャクし、鎌倉カマクラより陸奥ムツオモムく。
    12月16日   頼朝ヨリトモ義経ヨシツネ同意ドウイするシュンショウワタしを比叡山ヒエイザンモトめる。
文治5年 1189 1月5日   頼朝ヨリトモショウ2ジョされる。
    1月13日 帰京する意思を記した義経の消息 を持つ、千光房七郎捕縛される。  
    2月15日   ヤスヒラ末弟マッテイ錦戸ニシキドヨリヒラつ。
    2月22日   頼朝ヨリトモ法皇ホウオウヤスヒラ追討ツイトウ義経ヨシツネトウ廷臣テイシン比叡山ヒエイザンソウ)の処罰ショバツトウモトむ。
    2月25日   頼朝ヨリトモ使奥州オウシュウツカわし、形勢ケイセイ偵察テイサツさせる。
    3月9日   義経ヨシツネススム意思イシシルしたタイコウセイブンが、頼朝ヨリトモから京都キョウトトドく。
    3月12日   藤原フジワラライケイ伊豆イズハイナガし、そのソウチョウカイカン
    3月22日
頼朝ヨリトモヤスヒラセイモン不信フシンとしヤスヒラ追討ツイトウセンう。
    4月13日
藤原フジワラアサカタドウアサケイカイカンされる。
    C月21日   頼朝ヨリトモボウハハのためのトウ供養クヨウわり次第シダイ奥州オウシュウ追討ツイトウ征伐セイバツかいたいムネソウす。
    C月30日 義経ヨシツネ衣河コロモガワタチにて妻子サイシ自害ジガイ(31)  
    5月22日   義経ヨシツネチュウせらるホウ鎌倉カマクラ到着トウチャク
    5月29日   義経ヨシツネチュウせらるホウ京都キョウトトドく。
    6月13日   ヤスヒラ使者シシャ新田ニッタコウコウ義経ヨシツネ首級シュキュウ腰越コシゴエウラ持参ジサンし、和田ワダ義盛ヨシモリ梶原カジワラカゲトキ実検ジッケンする。
    6月24日   頼朝ヨリトモヤスヒラ征討セイトウ準備ジュンビをすすめるも、朝廷チョウテイ義経ヨシツネ滅亡メツボウにより追討ツイトウテイシむべきムネ勧告カンコクする。
    6月25日   頼朝ヨリトモカサねてヤスヒラ追討ツイトウメイクダされることをう。
    6月26日   タイコウオトウトイズミ3ロウチュウコウを、義経ヨシツネドウのためチュウす(23)。
    6月30日   頼朝ヨリトモ大庭オオバカゲノウ献言ケンゲンによってタイコウ追討ツイトウケッす。
    7月17日   頼朝ヨリトモ奥州オウシュウ追討ツイトウグン部署ブショサダめる。
    7月19日   頼朝ヨリトモ一千イッセンヒキい、鎌倉カマクラ出発シュッパツ
    7月29日   頼朝ヨリトモ白河シラカワセキえる。
    8月7日   頼朝ヨリトモ伊達郡ダテグンヤマ西木戸ニシキドクニヒラグン二万ニマン合戦ガッセン鎌倉カマクラグン勝利ショウリ
        西木戸ニシキドクニヒラシバグン畠山ハタケヤマジュウチュウ和田ワダセイらにられる。多賀タガ国府コクフミナミ国分コクブハラベンタテにあったヤスヒラタタカわずしてホクソウする。
    8月13日   頼朝、多賀国府に入る。
    8月22日   頼朝、平泉館に入る。泰衡、すで に館に火をかけ逃走。
    9月3日   泰衡、肥内郡贄柵の郎従河田次郎 を頼る。河田、頼朝に寝返り泰衡を攻め殺す(35あるいは25)。
    9月6日   河田が志波郡陣ヶ岡蜂杜にあった 頼朝のもとに泰衡の首級を届ける。頼朝、河田を斬る。
    9月7日   泰衡の郎従由利八郎を捕らえ頼朝 訊問する。
    9月9日   陣ヶ岡の頼朝のもとに、七月十九 日付の泰衡追討の宣旨届く。
    9月20日   平泉で論功行賞。
    9月28日   平泉出発
    10月1日   多賀国府着
    10月24日   鎌倉に戻る。



後記:
本 年表は、前川佳代さんのご厚意によって掲載させていただくものです。
掲 載日の11月12日は、大物浦の難にあって、離ればなれとなった義経と静が
吉 野で再会を果たした記念すべき日に当たります。皆さまどうぞご活用ください。
2004.11.12 佐藤弘弥

義経伝説