高野山の冬 2007
冬の写真スケッチ


高野山 蛇腹道 冬

高野山 蛇腹道 朝日
( 2007年12月24日
 佐藤弘弥撮影)

思慮もなき朝の寝起きの心こそ無我の境地とふと思いしに  ひろや

高野山檀上伽藍 冬

高野山 檀上伽藍

息を呑むまばゆ さなるか大塔の木立の中に炎立つごと ひろや

根本大塔

根本大塔

赤々と燃ゆる炎のごとくして天に届くや大塔の影 ひろや

山王院

山王院に朝日が射し込む

山王院の狛犬

山王院の狛犬の表情

西塔

檀上伽藍 西塔

急激な人口減少を象徴するかのようにある廃屋

高野山の人口減少を象徴するかのような廃屋

弁天山から見る夕暮れ

弁天山から見る夕暮れ

1  暖冬の高野山

07年12月23日、高野山に登った。師走だというのに、思ったよりも寒くない。雪景色を期待していたが、高野山も暖冬傾向なのだろう。

高野山は、年末になり、ほとんど観光客もいない。宿望も閉まっているところが多いようだ。そのため、団体客のバスがやってきて、壇上伽藍と奥の院に入る と、大そうな賑わいになるが、ほとんど貸切状態で、天才空海が開場した山岳霊場を廻ることができる。

極楽寺からケーブルカーで高野山駅に着くと、五時過ぎで暗くなりかけていた。駅前付近から高野山は、霧が立ち込めていて、下界が墨絵のように見えた。これ は今晩雪になるのではと期待に胸がはずんだ。

壇上伽藍傍そばの宝城院に荷物を置き、薄暗くなった高野山を散策した。宿望の精進料理をありがたくいただく。翌朝、6時半、まだ薄暗い最中、本堂に座り、 朝の勤めを果たす。住職の唱える経と説法を子どもに戻った心で聞いた。

外を見ると、空はすっかり晴れていて、良い天気。雪は降らず、拍子抜けの温かさだ。高野豆腐の朝食をいただくと、壇上伽藍に向かう。白い鐘楼の間から、眩 しく朝日が大塔に向かって射している。御影堂も凛とした姿で朝日に映えている。息を呑むような美しさだ。

壇上を降りて、西行桜の前を過ぎ、蛇腹道に向かう。ここから奥の院にまっすぐに高野山のメインストリートが続く。朝日が昇って来ている。東の谷を見れば、 山々が朝霧にもやって見える。雪景色は拝めなかったが、高野山の清浄な朝の姿に出会い、心が澄み渡る心地がした。

檀上伽藍は、高野山で一番「晴れ」な場所である。それはマンダラの中心の大日如来にたとえられる。檀上伽藍を歩きながら、ふと高野山のタブー(※注)とい うものを思った。

高野山の最大のタブーは、周知の通り「女人禁制」だ。かつて女性はかつて高野山に入ることが許されなかった。そこで女 性信者たちは、7つほどあったとされる女人道まで登り、そこから山の尾根が擂り鉢のようになった高野山の尾根を辿りながら、檀上伽藍の大塔や奥の院など を、遠くから拝みながら巡ったのである。一般にこのタブーは、密教による戒律というよりは、日本人本来の山岳信仰から来るタブーであると考えられている。

これが明治維新で解除すべしとの布令が発布され、女人禁制のタブーは、高野山からなくなった。大激震だった。その後、女性がどんどん高野山に住む ようになり、人口も劇的に増えたのであった。高野には、女人禁制のタブーの他に、魚肉を含む肉食の禁止、幼子(7歳以下?)の入植の禁止、鳴り物の禁止な どのタブーが設けられていた。

鳴り物は、鐘や太鼓のことを指し、高野山では、声明なども、極力鳴り物を使わないやり方で、行うようで、天台系の声明とは、静かなものと言われている。こ のタブーを犯すと、さまざまな厄(わざわい)が降りかかってくると言われる。

その為か、高野山では、あまり騒がしいような音が聞こえて来ない。どこまでも静かだ。これは東京の騒音公害のような場所とは、まったく違い、どこかほっと させられる。

特に高野山の冬は、観光客もめっきと減って、誰かに聞いた言葉だが、丁度亀が首を引っ込めた状態で、春の到来を待つような時期であると語ってい た。なるほどなと思った。通常、それだけ、大きな商売をしていれば、人件費や水道光熱費などで、顧客が来ても来なくても、雇っておかなければならないのだ が、高野山の冬は、各宿望が冬眠状態になって、身を守っていることになるのである。

時節は、春に植物たちは思いっきり枝葉を伸ばすため、寒さに耐え、根にしっかりと養分をためて、春の到来に備えるのである。人も植物も、この退行の時期こ そが大事なのである。ここで無理をすると、植物は良い花を咲かせられず、人は無茶をして、病にもなる。

それにしても、檀上伽藍の冴え渡る美しさは畏るべき神々しさがある。根本大塔を見上げていると、天に昇る巨大な炎に見えて思わず、信者でもないのに「な む・だいし・へんじょう・こんごう」と唱えていた・・・。

(※注) 高野山 のタブー:高野山には、「山規」と呼ばれるタブーがあった。これは高野山において時代の変遷と共に徐々に形成された禁則のことである。当初 は「女人禁制」、「魚肉の禁」、「動物飼育の禁」(犬は可)、「鳴り物の禁」など四つの禁があったとされる。その後、徐々に厳しくなり、「牛馬車による通 行の禁」(犬はよい)、「魚鳥獣等肉食の禁」、「飲酒の禁」、「七才以下の幼児の立入の禁」などに及んだ。明治政府によって「山規」というタブーは解かれ た。
 

2 檀上伽藍で空海の思想の一端に触れる

根本大塔は、空海が設計したものと言われ、現在に空海の描いた図面というものが伝えられている。高さは16丈(約48.5m)である。この大塔は、曼荼羅 図の中心にある大日如来を表すと言う。宇宙の中心を象徴するものだ。

ところが私はいつも不思議に思うことがある。実はこの根本大塔が檀上伽藍の端っこにあるという事実だ。考えてみれば、ガリレオ以前の世界観では、人間の居 る地球こそが、宇宙の中心と信じられていて、私たちの住む地球の周辺を星々が廻っていると思ってきた。ところがそうではなく、地球も果てしのない宇宙の中 では、塵ほどの大きさもない単なる惑星であると、ガリレオはコペルニクスの唱えた地動説を是認した。

檀上伽藍は、根本大塔の東隣に設えられた階段で結界されている。正確に言えば、檀上伽藍の配置図を見れば一目瞭然であるが、根本大塔が檀上伽藍の中心に据 えられているとはどうしても思えない。敢えて言えば、檀上伽藍には曼荼羅図に象徴されるようなシンメトリーな構造がなく、中心が存在しないような作りに なったいる。もしも、檀上伽藍の中心にこの大塔を据えると考えれば、現在の金堂(講堂)の西寄り附近に置くのが、曼荼羅図の配置に合致するのではないだろ うか。

これはおそらく、空海の思想とも、深く結び付いていて、そうなったのではないかと思うのである。空海は、香川県の満濃池を幾度か修築したように、当時の土 木工事の最先端の技術を習得していた人物だった。その空海が、この檀上伽藍をどのような配置にしたかで、空海の思いが分かると思うのである。

空海はその著「性霊集」において、高野山の山容をこのように記している。

山の形状は、東西に龍が臥せるようで、東に川の流れがあり、南北には虎がうずく まっているような趣がある。ひときわ高い山が虚空に聳えて並ぶ友はなく、鉄の帯のように低い山がその周囲を取り巻いている。日は山際より出でて、天眼を借 りずとも万里の彼方までその運行が見渡せる。したがって仙人が乗るという伝説の鳥、鵠(こく)に乗る必要などはない。池の水際に映る円い月をみれば、普賢 菩薩の境地を知り、青空に輝く日光を仰いでは、仏の智慧が我が中にあって、その広大無辺なるを覚る。この名勝地にささやかな伽藍を建ててこれを金剛峯寺と 名付けるのである。」(性霊集 高野の四至の啓百の文 現代語訳佐藤弘弥)

それでも、高野山の開山造営は、困難を極めたようだ。資金の面でも、人材の面でもだ。陣頭指揮にあたった空海であったが、当時の嵯峨天皇から、国政へのア ドバイスなどで、度々京都へ参内することを求められため、工事は思うようにはかどらなかった。何とか、現在の御影堂附近に、御堂を建て、この檀上伽藍の中 心を山の凹凸に沿って設計図面を引いたものの、建設は遅々として進まなかった。檀上伽藍の建物の中で、空海が最初に手がけたのは、根本大塔の建設ではな く、この地域住民の地主神である丹生・高野神の社(現在の山王社と御社)の造営であった。

今では、考えられないことだが、真言密教の総本山で一番最初に造られたのが、神社だったのである。高野開創の物語で語られる伝説は、空海がこの高野山に、 高野明神によって導かれてやってきたというものである。

丹生津比売(にうつひめ)は女神であり、高野明神(こうやみょうじん:狩場明神とも)はその丹生津比売の息子とも言われる。丹生・高野両神は、母子の関係 に当たるが、道祖神的な側面もあるようだ。高野明神は、古い絵図などでは、山猟師のような格好で表れ、犬二頭を連れている格好で描かれている。ともかく、 この高野山周辺は、この両神の神域だったと考えられる。

これについて、私は賢明な空海が、中国から持ち帰った真言密教という最先端の宗教を、その伝統的な日本古来の教えを否定するものとしてではなく、そこに住 み、伝統的なる神を受け入れる形で、この檀上伽藍の西側にまず地主神の社を創建したと考えられるのである。私はここに、空海の柔軟な神仏混淆の思想を見る のである。日本人の家に入れば、仏壇と神棚の両方がある。この考えは、キリスト教やイスラム教の信者に言わせれば、奇妙なことだが、万(よろず)の神々を 受け入れる日本人では、何にも不思議なことではない。

巨大な金堂の西にひっそりと建つ山王社の社の前に立つと、空海の深い思慮に考えずにはいられなかった。何故、はじめに神社なのか。そう思ったからだ。一神 教的な世界観が、世界を覆い、悲惨な戦争が、世界のそこかしこで行われている。戦争を終わらせる考え方は、この檀上伽藍の配置こそが見事にそれを示してい ると思われた。


3 人口減少と格差拡大の影

一般に高野山というと、天才空海が開いた真言密教の聖地にして、2004年に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されたということで、道端にも塵ひ とつ落ちていないイメージが定着しているのではないだろうか。

確かにパッと見た目には、その通りかもしれない。しかし高野山だって問題はある。第一に、人口の減少傾向が止まらないのが大いに気がかりだ。1960年当 時9324人(国勢調査調べ)だったものが今年の11月で4366人(高野町調べ)まで、つるべ落としの深刻な状況となっている。

問題はさまざまだ。まず勤め口が極端に少ないことが上げられる。林業も衰退した今、公共事業もめっきり減ってしまった。また根本には、高野山の山上は、一 般町民の土地所有が認められず、すべての住宅が、寺からの借地であるということもある。これでは夢が確かに持てない。

若い女性から聞いた話しで、もっとも深刻だと思ったのは、出産への不安であった。彼女たちの話しでは、病院には、産婦人科医がおらず、出産時には、近くの 橋本市などの都市の病院まで行って産むことになる。結局、若い女性が出産の不安や生活の利便性を考えて山を下り、それに連れて若い男性も、高野山から周辺 の都市や、大阪などへ移り住む傾向があるようだ。

これは笑えない冗談だが、「このまま行けば、何をしなくても再び高野山は女人禁制の山になってしまう」という言葉を聞いた。もちろん、そんなことはないと 思うが、人口の減少を考えると、僧侶とその家族しかいない町になってしまう可能性すらある。例えば、高野山の中心部のお土産屋に務める女性や役場職員など も、下の都市や町に住所を置いて、車で通って来る人間が多くなってきている。

子どもの声もほとんど聞こえなくなった。もっとも、山規のタブーが存在していた時には、7歳以下の子どもの立ち入りは禁止だったが、まさに今や、山規が復 活したかのような不気味な静けさが高野山を怖ろしく活気のない町にしていることは否定のできない事実だ。

少し、町の周辺を歩き、地域住民が住んでいるところを廻ってみると、廃屋が目についた。廃屋ばかりではない。林業が廃れ、公共工事もめっきり減った現在、 土木や建設業者も厳しい状況にある。景気が悪いのだ。高野山は、宗教絡みの年中行事が多い町である。それに地域住民が協力し、さまざまな役を担ってきた。 しかし昨今の景気の悪さに、これ以上の助力は難しいとの声もある。地元民の偽らざる声なのだろう。

高野山は、真言密教の聖地で世界遺産でもある。高野町は現在、僧侶であり、世界遺産の推進役でもあった後藤太栄(1957ー )町長が、「宗教環境都市」 を宣言して、高野山に相応しい町づくりに、本腰を入れている。しかし日本全体が格差拡大の状況の中で、素晴らしい環境と景観を持ってはいるが、人口減少と 乏しい財政が足かせとなって、悪銭苦闘している。

おそらく、高野山は、日本でもっとも美しい町のひとつだ。このことは誰もが依存がないだろう。しかしまた一方で日本でもっとも人口減少の速度が早い地域で もある。私たちは、高野山の美しい景観ばかりに目を奪われるのではなく、地域格差が拡がり、貧困が高野山にまで、容赦なく押し寄せてきているという現実 を、西暦2007年師走の歴史的事実として、押さえておくべきだと思うのである。

夕暮れ近くになって、大門のところから、弁天山に登る。沈む夕日を拝もうと考えたのである。夕日はけっして思ったような美しいものではなかった。ふと見て いると、雲間から陽光が、近くの山に真一文字に降りてきた。何か、高野山1,200年の歴史の中で、幾度かの栄枯盛衰を経ながら、この聖地を守ってきた智 慧が、あの光の中に宿っているような気がした……。

(佐藤弘弥記 07,12,25)


2007.12.25 佐藤弘弥

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