2008年度逆転登録はあるか平泉?!

どう なる平泉の世界遺産入り

浄土信仰と清衡の平和への祈り



 
毛越寺常行堂の地蔵菩薩
(08年5月17日佐藤弘弥撮影)
 はじめに

昨年、石見銀山の世界遺産登録について、審査をするユネスコの諮問機関イコモスが、「登録延期」をユネスコに勧告し、これを筆者は「石見銀山ショック」と 呼んだ。幸い昨年度は、「環境」というコンセプトを駆使して、第31回ユネスコ委員会で、見事に世界遺産入りが実現した。また同じ事が今年の「平泉」で起 こった。当初から懸念されていた「浄土思想」の難解さの欠陥が露呈した形だ。今年また「平泉ショック」が起きたのである。

そして今、平泉ショックは、日本中の世界遺産を目指している地域に広まっている。鎌倉市は、平泉を「先進事例」として「武家の古都」というコンセプトでの 推薦書を起草中で、早ければ2010年度の世界遺産入りを目指していた。

ところが、今回の平泉の「登録延期」(5月23日)の余波を受けて、鎌倉市は、29日、目標時期を延期すると発表した。その他の地域も、ショックの色は隠 せない。日本各地の世界遺産運動に一石が投じられた格好だ。

来る7月2日から10日にカナダのケベック市で開催される第32回ユネスコ世界遺産委員会の結論(平泉の登録問題)が出る。そこで平泉の世界遺産登録がど うなってしまうのか、イコモスの勧告内容を検討しながら考えてみたい。
 
 1 2008年5月23日平泉ショック

5月23日(金)深夜、イコモス(※注1)から今年度中の平泉の世界遺産登録について、「登録延期」の勧告が出された瞬間、平泉の関係者の間では、「ウソ だろう」、「まさか」という声が飛び交ったという。文化庁、岩手県、平泉町、住民にとって、今回の勧告は、青天の霹靂のような出来事だった。

※注1)【1964 年 のベニス憲章(記念物と遺産の保存に関する国際憲章)によって、翌年の1965年に組織された非政府組織(NGO)。通常「国際記念物遺産会議 (ICOMOS/International Council on Monuments and Sites)」と訳される。2007年現在、加盟国110ヶ国にそれぞれ国内委員会を持ち、歴史的記念物や遺跡の保存や維持管理に関わる第一線の専門家が 7千人ほどの委員がいる。ユネスコ世界遺産条約採択(1972)後は、ユネスコの諮問機関として、世界遺産登録の審査や監視活動を行っている。】

2006年12月パリのユネスコ本部に提出された推薦書のタイトルは「平泉−浄土思想を基調とする文化景観−」(※注2)だっ た。2007年イコモスの調査が行われ、その後、説明不足と指摘された資料の提出も無事済ませて、登録はほぼ間違いないだろう、と見られていた。

 (※注2)資料  「平泉推薦書概要(PDF)」

一抹の不安は、第一に世界遺産入りの統一コンセプトとも言うべき「浄土思想」だった。これは2006年6月、「平泉の文化遺産」について、イコモスの専門 家などを集めて一関で開催された「国際専門家会議」の席上、オランダのイコモス委員ロバート・デ・ヨング氏が投げかけた疑問、「浄土とは、いったい哲学な のか、宗教なのか?」という問いかけに見事に示されている。日本人にとっては、「極楽浄土」は、日常茶飯事使用する言葉で、簡単に言えば「浄土思想」と は、「南無阿弥陀仏」と唱えればは、人は極楽に成仏できるというものである。ところが、欧米人には、理解が難しい。

不安の第二は、平泉の文化景観が、コアゾーンである柳の御所遺跡の東を掠めるように走る平泉バイパスやコアゾーン金鶏山に立つ高圧電線の鉄塔などがどのよ うに評価されるのかなどの「景観の問題」があった。これらの文化景観の修復についてのアクションプランなどが、既に提出されているようだが、そのプラン が、イコモスにどのように評価されるのかなど、今回の推薦書に深く関わった関係者にとっては気が気ではなかったはずだ。


 2 イコモスの7つの指摘とは?!

イコモスの「登録延期」の根拠となった勧告書(※注3)の指摘は以下の7点になる。

 (※注3)資料 「文化 庁によるの「イコモス勧告報道」発表(PDF)」

「(1)平泉全体の配置と庭園群との間における浄土思想との関連が「失われた文化的伝統または文明の存在を伝承する物証として稀有(けう)の存在」である ことを証明しきれていない

 (2)平泉の景観が「人類の歴史上の重要な階段を物語る見本」であることが十分に証明できていない

 (3)骨寺村荘園(農村景観)が、「人間とその環境の相互作用の例外的な事例」であることを十分に証明できていない。荘園の地域は中尊寺の経蔵に関係し ているが、その空間配置に浄土思想が反映されていることを十分に証明しきれていない

 (4)史料等により、平泉と浄土思想との関連性が国家的な重要性を越えるものであることを十分に証明しきれていない

 (5)(アジア・太平洋地域での同種遺産との)比較研究は推薦資産の世界遺産一覧表への記載を検討するのに十分でない

 (6)浄土思想の観点からの推薦資産の範囲について再検討が必要

 (7)推薦遺産は個々の構成資産間の空間的つながりを含む文化的景観の総体というよりも、個々の構成資産に限定されており、推薦資産の主題と推薦資産・ 緩衝地帯の区分の在り方との関係について整理が不十分」(以上 毎日新聞 地方版 5月24日より引用)


この7つの指摘に根底にあるのは、単純な図式で言えば「浄土思想」と「平泉の遺産群」の関係が分からない、という一点である。不幸にも先に挙げた「一抹の 不安」が的中してしてしまったのである。関係者は、昨年の8月平泉に調査にやってきたイコモス委員が仏教国で名高いスリランカの人物だったことから、「浄 土思想」の理解は、容易に得られるものと考えていたフシがある。しかし今回の勧告全体から言えることは、やはり基本コンセプトである「浄土思想」が問題視 され、推薦書と現実の遺跡の矛盾が厳密に指摘されたとみるべきである。

今回の勧告について、世界遺産総合研究所(広島市)の古田陽久所長が「限りなく不登録に近い登録延期。推薦書をやり直せというのに近い」(読売新聞 5月 24日)との見解を述べられた。またイコモス本部の副会長を務めた西村幸夫東大教授も「・・・イスラム教のシーア派が作った都市が…と言われても、日本人 だって分からない」(読売新聞 5月25日)と厳しい指摘をしている。

この指摘は、やはり推薦書の基本コンセプトに関わることであり、懸念された第一の「浄土問題」が、ネックとなったもので、文化庁の責任は大きい。特に昨年 の石見銀山、今年の平泉と二年連続「登録延期」勧告を受けたこともあり、推薦書の起草の初期段階から、イコモスの最新の審査に精通した遺跡保全の専門家の 参加が必要だったのではないかと思う。


 3 イコモスの指摘を読む

次に、細かい点を見てみよう。

平泉の遺跡のコアゾーンは、以下の9つである。1 中尊寺境内、2 毛越寺境内、3 柳之御所遺跡、4 無量光院跡、5 金鶏山、である。

さてこの9つのコアゾーンの中で、後に追加された遺跡が4つある。「6 達谷窟、7 骨寺村荘園遺跡、8 白鳥舘遺跡、9 長者ヶ原廃寺跡」までの4つである。はっきり言って、この追加措置に無理がなかったのか、疑問を持たざるを得ない。

この6〜9の4つの遺跡は、平泉の中心部からは、距離がある遺跡である。イコモスが、問題視していると思われるのは、おそらくこの4つであると思われる。 イコモスは、「浄土思想を基調にした文化景観」と、この4つの遺跡の現実との矛盾を突いたのである。簡単に言えば「この4つの遺跡のどこか浄土思想な の?」と言っていることになる。平泉を推薦する側としては、基本コンセプトの「浄土空間」をすべての遺跡について、それが存在していることを証明しなけれ ばいけないのだが、骨寺荘園遺跡以外、他の三つ(達谷窟、白鳥舘跡、長者原廃寺跡)については、これを浄土空間として証明することは不可能である。

達谷窟は、坂上田村麻呂(758−811)と阿弖流為(?ー802)が攻防を繰り広げた9世紀に溯る遺跡で、白鳥舘遺跡と長者原廃寺跡は、安倍氏の時代の 遺跡であり、これを「浄土空間」として平泉の遺跡群に入れることは無理がある。しかし平泉文化を論じるとき、達谷窟を入れないわけにはいかない。但し、平 泉の文化景観を「浄土思想を基調とした文化景観」(=「浄土空間」)として規定しているのだから、推薦書に入れるのであれば、これを「浄土空間」であると 証明しなければいけないのである。もしもどうしても入れるのであれば、推薦書にある「浄土思想云々」の基本コンセプトを書き直すか、それが嫌ならば、イコ モスの指摘を受け入れて、これを推薦書から削除するしかなくなってしまう。

おそらく、イコモスは、6の指摘にあるように「遺跡範囲を見直してはどうか」と助け船を出していると考えられる。またイコモスの7の指摘の本意は、コア ゾーンとバッファゾーンが非常に狭く、遺跡全体にもっと保全をかけるような体制を取らなければいけないと言っているのではないだろうか。周知のように、平 泉の遺跡周辺は、平泉バイパスや太田川、衣川堤防工事に端的に表れているように、近代の塵とも言えるような開発の波が押し寄せていて、文化景観にもかなり 修景の必要がある。平泉の遺跡全体を人類共通の遺産として持続していくためには、開発による景観の破壊を抑える包括的なバッファゾーンの設定が不可欠の条 件となる。

例えば、骨寺遺跡については、これは中尊寺の荘園として、往時の農業景観が保全されている生きた農業遺跡として、登録しようとするものだが、バッファゾー ンの区域が非常に限定的である。この根拠は、吾妻鏡に表記された境界である「東の鎰懸(いつかけ)」、「西の山王の窟(いはや)」、「南は岩井河」、「北 は峯の山堂の馬坂」までの東西南北のみをそのまま、線引きした形に見える。しかし何故奥大道にあった景勝地厳美渓から磐井川沿いに西に延びる川と古道を バッファゾーンから外し、骨寺遺跡を孤立させる形で、コアゾーンとしたのか、その理由が釈然としない。(この点については、前掲資料「※注3」の9頁の地 図参照の事)これでは、今後生きた農業遺跡として、持続可能な農業遺跡が維持されるとは思われない。イコモスの指摘した発想を取り入れるべきだと思われ る。

 <真正性と完全性のふたつの審査基準
ところで、実際に世界遺産となる候補地の審査をするイコモスの傾向を、今年の平泉の当事者は理解せず軽く考えていたと言われても仕方ない。もっとも昨年の 石見銀山の登録延期の勧告(07年5月12日)がなされた時には、既に「平泉−浄土思想を基調とした文化景観」とタイトルが付された推薦書(06年12月 26日提出)はユネスコに提出されていた。

それでも、推薦書を起草する者は、「オーセンティシティ」、「インテグリティ」の二つの登録審査基準を満たすことを考慮すべきだった。

「オーセンティシティ」の概念は、「世界遺産条約履行のための作業指針」にある審査基準で、日本語で「真正性」、「真実性」と訳される。これには、遺産に ついて「材料」、「意匠」、「技術」、「周辺環境」の4項目について詮議されるものだ。

「インテグリティ」は、「全体性」、「完全性」と日本語訳される基準で、以前は自然遺産のみに適用されていたものだが、2005年の「世界遺産条約履行の ための作業指針」改訂以降、文化遺産の審査にも導入されたものである。この基準は、「全体が無傷で過不足なく含まれているか」を問い、これによってユネス コ世界遺産として登録に値するかを審査するのである。

ユネスコ世界遺産の登録について、2000年の64件をピークとして、2001年35件、2002年10件、2003年26件、2004年34件、 2005年24件、2006年18件、2007年22件と登録が厳しく抑制される傾向にある。もっと厳しいのは、候補地の登録採択率だ。2004年の 83%が、2005年68%、2006年64%、2007年63%と年々登録が狭き門となっていることだ。(※注4)また先進国に登録地が偏っている傾向 に途上国の反発もあって、先進国の登録は抑制される力学が働いていることもある。以上の傾向を考慮に入れて、推薦書を吟味すべきだった。ここで大切なの は、日本イコモスの国内委員のアドバイスをよく聞くことだったと思われる。平泉については、端で見ていても、平泉研究の考古学、歴史学の研究者が中心だっ たために、世界的な視野が少し欠落し、結果として「浄土思想を基調とした文化景観」という分かりにくい、コンセプトになってしまったのではないかと思われ る。

 (※注4)前掲資料10頁参照
 「文 化庁によるの「イコモス勧告報道」発表(PDF)」



 4 逆転登録に向けて

イコモスの「登録延期」の勧告を受けて、岩手県の達増拓也知事は、7月2日からカナダのケベック市で開催されるユネスコ世界遺産委員会に向けて、21ヶ国 の委員会国の駐日外国公館に対し「逆転登録」に向け、協力要請の行脚を開始した。

ユネスコ世界遺産の今年度の21の委員会国は以下の通りである。

◎カナダ(議長国)○イスラエル(副議長国)
▽韓国▽中国
▽アメリカ▽オーストラリア(英連邦)▽スペイン▽スウェーデン
▽ケニア(英連邦)▽ナイジェリア(英連邦)▽マダガスカル(旧英領)▽モーリシャス(旧仏領)▽モロッコ(旧仏領)▽チュニジア(元仏保護領)
▽バーレーン▽エジプト▽ヨルダン
▽ブラジル▽ペルー▽バルバドス(英連邦)▽キューバ

このリストを見て、即座に思うことは、一昨年6月、推薦書提出の半年前、一関で開催されたイコモスの各国委員を招いて開催された平泉の世界遺産登録のため に開催された「平泉の 文化遺産」国際専門家会議にも、委員を派遣した中国と韓国に、浄土思想の普遍性を委員会の席上発言してもらい平泉 の世界遺産入りについて登録賛成の意思を明確にしてもらうことが先決だと思われる。とりわけ韓国は副議長国である。また中国との関係も胡錦濤主席訪日以 来、日中関係に友好ムードが高まっていることもある。

逆転登録に向けた知事の行脚のスタートは、6月2日(月)、隣県の仙台市にある韓国総領事館だった。続く4日(水)は、札幌の米国領事館を訪問し、ダー ナ・ウェルトン米総領事と会談した。岩手日報によれば、このウェルトン領事は、「ニューヨークのメトロポリタン美術館で学芸員として日本美術を担当したこ ともある」人物で、考古学の修士号を持つ専門家だという。昨年には、岩手県庁を訪問したこともあり、「平泉の素晴らしさは分かっている」と答えたという。 5日は上京をし、ペルー、ケニア、イスラエル、チュニジア、エジプト、ブラジルなど合計6カ国の大使館を精力的に訪れた。以上6日までに、8ヶ国の委員会 国を訪問したことになる。

昨年度の、石見銀山もイコモスの勧告は、平泉と同じく「登録延期」だった。昨年度と大きく違うのは、日本が、委員会国の任期切れで、委員会国に対し、オブ ザーバーとしてしか、説得交渉ができないことだ。

考えてみれば、昨年度の石見銀山遺跡に対するイコモスの勧告も、その内容は登録は、ほぼ絶望的かと思えるほど辛辣な内容だった。

イコモスの勧告は、大まかに以下の4点だった。第一に、「石見銀山は、東アジアのみならず、世界史的にみて、普遍的な価値を持つ鉱山遺跡を証明する物証が ない」。第二に、16世紀に独特の精錬技術を応用して良質の銀生産に成功したことを示す重要な遺跡であることについて、更なる調査研究が必要。第三に採掘 活動がどのように顕著な景観を形成したのか明らかにする調査研究が必要。第四に、銀鉱山と関連した「街道」、「鉱山町」や「港町」を、結びつける選定の範 囲が不十分。第五に、顕著な普遍的価値の証明に関連し、アジア地域にある日本国外の他の鉱山遺跡との比較研究に関する情報が不十分。

この勧告に対し、日本側が行った逆転登録の戦略は「環境に優しい」というものだった。

この時のことを、朝日新聞の記事がよくレポートしているので引用する。

・・・ 日本政府代表部の作戦は、同遺跡が環境保全に配慮してきた点を強調することだった。

 代表部は、延期勧告の2日後にユネスコ本部のあるパリで「外交活動」 を開始。同遺跡では16〜17世紀の採掘期、銀採掘跡地で計画的に植林が進められていた。このことを数カ国の代表に紹介すると、高い評価を受けたという。

 これがきっかけとなり、他国へも同様な働きかけを始めた。日本政府代 表の近藤誠一・全権大使は審議終了後、「『環境に優しい』が決め手になった」と振り返った。

 大使は勧告後の1カ月半に、委員会に属するすべての国の代表に会っ た。ニュージーランド入りした後も、食事会、廊下、ロビーと、各国代表を見つけるたびに駆け寄り、「サポートしてほしい」と訴えた。多い人には7、8回、 説得した。
(中略)
 
 文化庁も、委員国などに勧告に対する100ページを超える文書を作 り、青木保長官がイコモス関係者らへ書簡を送るなどの努力を続けた。」
2007 年6月29日 朝日新聞

環境問題が、国際政治の重要テーマになっている時、「環境に配慮した銀山」という戦略は、日本の国際政治力を背景に大きな力となって、イコモスの専門家の 真摯な指摘を打ち砕いて、「逆転登録」となった。この時のことが教訓になったと、文化庁幹部は語った。


 5 平泉の普遍的価値とは何か!?

<平泉逆転登録のコンセプトは中尊寺供養願文にある「平和」の精神>

今回の逆転登録のテーマは、初代藤原清衡が起草した「中尊寺落慶供養願文」の精神である「平和の思想」と言われる。

昨年度、「石見銀山逆転登録」の立役者となったユネスコ日本政府代表部(パリ)近藤誠一特命全権大使(61)は、今年もパリに健在だ。今年の3月には、登 録間近の平泉の遺跡群を目の当たりにして、「浄土思想は平和を願うユネスコの目的にも合致する」とコメントした。

イコモスの厳しい勧告の直後の岩手日報の電話インタビューでは次のように、コメントしている。

審 査が厳しくなっている・・・大変ショック。・・・日本の歴史や思想、伝統というものに関し・・・理解してもらうのは難しい・・・。事実誤認もあると思う。

 ―逆転登録の可能性は。

 ・・・各国の大使や専門家と接触し反応を見ていくうちに、どういう メッセージが伝 わりやすいかということが分かる。昨年も働きかけをしているうちに「環境にやさしい」というところに反応があった。本審査の前日夜、もしかしたら「登録」 か「情報照会」にいけるのではないかという感触を得た。「いける」と思ったのは当日の朝だった。今回もぎりぎりまで粘り強く働きかけていく。

 ―どのような戦略を描いているか。

 平泉がユニークなのは、浄土思想に基づき戦乱を繰り返さないために、 平和の願いを込めてつくられたということ。紛争やテロが絶えない中、この願いは世界に通じる。自然に従う形の建物や庭も、現在の環境問題に通じるものがあ る。そのあたりがヒントになりそうだ。

 ・・・思い切って単純化することも必要かもしれない。
(以上岩手 日報 08年5月30日より引用)


当初から、「浄土思想」という分かりにくい「コンセプト」ではなく、前九年後三年の役の戦禍を嫌と言うほど舐めた清衡が願文に書いた「平和への祈り」を中 心に据えることこそが、肝心ではないかという意見があった。願文には、ユネスコ憲章の先駆けの精神が、900年も前に書かれている。

供養願文の中に次のような下りがある。

こ の鐘の一音 が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものにあまねく平等に響くのです。(奥州の地では)官軍の兵に限ら ず、エミシの兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく殺されて来まし た。命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われしもの たちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります。 」(現代語訳は筆者 中尊寺落慶供養願文 全文

世界中で戦争が蔓延し、その度に、多くの尊い命が奪われている。そして世界の貴重な文化財が破壊倒壊しているのである。平泉の遺跡を前にした時、何故ここ 「平泉」では、清衡が願文を起草して以降、戦闘行為がなく、破壊や殺戮が900年間も行われなかったのか、という問いが自然に浮かび上がってくる。あの頼 朝が28万の大軍を日本中からかき集めた時すら、この地では、戦争は回避された。泰衡は鎌倉の大軍に恐れをなして逃亡したとこれまで当たり前のように言わ れてきた。しかしこれは作家高橋克彦氏の名作「炎立つ」(1992ー1994)の最後で箇所で、泰衡に明確に語らせたように、

ぴ かぴかに磨いて頼朝を驚かしてやろう。・・・金色堂は蝦夷の誇りにござる。この先千年もあのままに残りましょう。

に見事に結晶している。

まさに、初代藤原清衡が開いた平泉という都市は、現在のハーグ条約で規定された「無防備都市」のような非戦地帯だったかもしれないのである。それは、願文 の中でも、短く触れられているように、清衡が平泉周辺で40年にも及ぶ壮絶な戦争体験があったと推測される。

以上、逆転登録に向けての戦略は、細かなことを、主張するよりは、それこそシンプルに平泉中尊寺に伝わる「藤原清衡」という稀有な政治が遺した「中尊寺落 慶供養願文」の「平和の精神」を大いに強調すべきだ。そして平泉を、900年前に、「黄金」の産出という経済基盤を持って、日本列島の北部地方に非戦の誓 いをもって建設された中世地方仏教都市として喧伝すべきではないだろうか。

 6 結び 平泉は世界初の無防備都市だった?!

逆転登録の行方
正直なところ、逆転登録の見通しは、五分五分というところか。ここに来て、「逆転登録」は、難しいとしても、「情報照会」に、評価が格上げになるのではな いかという見方が急速に高まっている。周知のように「登録延期」が決まると、再度「推薦書」を提出して、その審査に1年半ほど掛かり、最短でも2010年 の登録となる。この「情報照会」の場合だと、追加情報を提出して、来年度にも登録となる可能性がでる。

もちろん、昨年度の石見銀山遺跡の逆転登録の経緯もあり、日本政府の政治力をもってすれば「逆転登録」の可能性が消えたわけではない。ユネスコ日本政府代 表部近藤特命全権大使の外交力は、不可能を可能にするかもしれない。

筆者も気持ちとしては、今年中に登録されることを期待したい。ただ、イコモスの指摘は、推薦書の不備と矛盾を突いた遺跡保存の専門家が下したもっともなも ので、この指摘を無視して、今後の平泉の遺産遺跡群の健全な維持保全は不可能だと思われる。特にコアゾーンである柳の御所周辺の景観の修復は大切である。 また過剰なほどにコンクリートという材料で固めた河川改修のあり方も改めるべきだ。

往時の都市平泉の景観を想像していただきたい。そこは霊峰栗駒山から零れ出る清水が衣川と太田川を伝って大河北上川と合流する吉地に開かれた水の都だっ た。そしてそこ はマルコポーロ(1254−1324)の東方見聞録(1299年頃口述筆記)にも記されたと言われる黄金の都の華やかさがあった。往時の平泉には、自然景 観に合わせ園池が掘られ、猫間が淵のような自然の造型をそのまま活かした風情ある水辺の風景があった。池には、大きな蓮が咲き乱れ、その様はこの世に極楽 浄土(パラダイス)が出現したかのようだった。まさに平泉は水と共生し平和を謳歌する水辺の環境都市だったのである。

だから、今こそ過剰なまでの開発には、ブレーキを踏むべきだ。このことは、イコモスが審査基準として重視するオーセンティシティ(真正性)とインテグリ ティ(完全性)の観点からも、大事なことである。そして私たちは、平泉に対し、人類の共通の遺産としての厳しい監視(モニタリング)の目が光っていること を常に忘れてはならない。

今年の登録が叶わなくても、いずれ、平泉は、登録されることになるだろう。その時には、平泉に、世界中の人々がやってくるはずだ。その時、私は強くイメー ジしていることがある。それは平泉を訪れた人々が、「なるほど、平泉に来て、日本人がどれほど、平和を愛する人間が分かった。すでに900年も前に、日本 列島の北部にある奥州平泉では、戦争の惨禍を繰り返さないための誓いが発せられていたのだ。これが現在の永久の戦争放棄を謳った日本国憲法とユネスコ憲章 の先駆けだったのか・・・」というような言葉を発してくれることだと思っている。

最後にもう一度確認したい。それは平泉という奥州の一地方都市が、900年も前に、黄金という資源を活力として、京都に次ぐ日本第2の人口を誇る大都市と なり、初代藤原清衡が念じた「戦争の惨禍を二度とこの奥州で起こしてはならない」 との思いを現実化した世界初の無防備都市(!?)であったかもしれないと、想像させる生きた人類の遺産であることだ。

(98年6月10日佐藤弘弥記)


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2008.06.10

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