災害と日本人
今回の大震災に遭遇したすべての人々に心からお悔やみ申し上げます。
私も含め世界中の人々が、皆さまの悲しみを共有し復興のために応援したいと考えています。
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?佐藤弘弥
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六義園の桜
(2011年4月6日撮影)




1.地震と鴨長明

3月11日(金)に発生した地震は、すべてが想定外のスケールを持った地震だった。これほど広い範囲で、起こったのは、かつて考えていた地震に対する備えを無にするほどの猛威をもって、東日本全体を襲った。

考えてみれば、日本人は、地震列島と呼ばれる日本列島に住みながら、これら度々襲ってくる震災と向き合いながら、暮らしてきた。それぞれの歴史書を読むと、日本人と地震との向き合い方が見えてくる。

例えば鴨長明(1155?−1261)の「方丈記」の21段に地震を描写した下りがある。現代語訳してみる。
・・・山は崩れ、河を埋め、すると海は傾き(津波となって)、陸地を襲う。地面が裂け、水がわき、岩は割 れ、谷に転げ落ちる。渚を漕ぐ舟は波間に漂い、道を行く馬は足もとおぼつかず、都のあちこちに立つお堂や塔など、ひとつとして満足に立っているものはな い。こっちは崩れ、あっちは倒れ、塵と灰が立ちのぼって、燃え盛る煙のように見える。地面が揺れて、家が崩れる音は、雷鳴のように響く。家の中にいれば、 たちまち押しつぶされそうになる。外に逃げれば、羽のある鳥のように空を飛んで逃げることもできない。竜であれば、雲にも乗れるが、人にそんなことができ るはずもない。世の中で本当に怖いのは地震とつくづく思うのだ。」(佐藤訳)
鴨長明は、地震の怖さを見事に描写している。この地震は元暦2年の頃というから1185年になる。鴨長明が30歳の頃になる。方丈記は、60歳の頃の作である。長明は、昔の怖ろしかった記憶を辿って、方丈記のこのことを記したのだろう。

読んでいると、地震の後に起きる津波と思われる描写がある。海は傾き、陸地を襲う、とは、まさに今回の東日本大震災の津波の猛威を思った。

日本人にとって、「地震・雷・火事・親父」と言われるが、災害の中でも、断トツに怖い存在が地震ということになる。

?.良寛さんと地震

?越後の僧、良寛さんに、こんな歌がある。

かにかくに止まらぬものは涙なり人の見る目も忍ぶばかりに

口語訳すれば、「とにかく涙が止まらない。被災した人と目が合うのも心が痛くなるほどだ」となる。

これは良寛さんが、越後の国(新潟)の三条や長岡で起きた越後大地震(1828年11月12日)の被災の様子を見に行った後で、詠んだものである。この時良寛さんは、71歳だった

さらに、こんな歌もある。

ながらへむことや思ひしかくばかり変りはてぬる世とは知らずにて

訳せば、「何とか長生きをしようと思って、長生きをしたばかりに、こうも変わり果てた世の中を見るとは予想もしなかったことだ」となる。

この地震について、江戸では「越後三条の町潰ゆ(壊滅)」という瓦版(かわらばん=新聞)が出たというから、大変な地震であった。マグニチュードは6.9 で直下型の地震により、多くの家屋が倒壊し、その後に火災もあって、1600人以上の死者が出たようである。4年前に中越沖地震(07年7月16日)が あった。昔から、今回の三陸沖同様、新潟地方は、地震の多発地帯である。

良寛さんは、悲惨な被災地の状況を目の当たりにしながら、おろおろした自分を隠さず、慈愛を込めた目で、被災地の人々を暖かく見ている。人智の及ばない自然の猛威を前に、人間良寛さんは、ただその場に立って、起こった事実を、じっと見つめている。

もしかすると、この時、三条で被災した人々たちも、今回の東日本大震災で、地震と津波と原発事故という三重苦の災害に見舞われた被災民同様、他人と目が あった時には、少しも取り乱すこともなく、じっと災害の過ぎるのを耐えていた。良寛さんの歌からは、そのことが伺える。日本人は、今も昔も変わらないの だ。

良寛さんは、この後、末の子を亡くした知人に、こんな慰めの手紙を送っている。

「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事もなく、親るい中、死人もなく、めで度存候。

うちつけにしなばしなずてながらへてかゝるうきめを見るがはびしさ

しかし災難に逢、時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。かしこ」(良寛全集 下巻 東郷豊治編著 東京創元社 昭和34年刊より)


この文の中にある歌、「うちつけにしなばしなずてながらへてかゝるうきめを見るがはびしさ」を訳せば、「急に起こった地震によって死ねなかったばかりにこんな悲しいことを見ると力が抜けてしまうものだ」となる。

この中の「災難に逢、時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」は良寛さんの人生観として、よく知られるようになった。

確かに「災難に逢う時節には、災難に逢うが良いだろう。死ぬ時節では、死ぬのが良いだろう」というのは、ある種の「達観」である。普通「災難に遭う」とは 「遭う」と書いて「逢う」とは書かない。良寛さんによれば、災難も愛しい恋人に「逢う」時と同じ「逢う」になっている。おそらく、天命というものを、良寛 さんは、受け入れる瞬間がある、ということを「覚悟」あるいは「信念」として持っているのだろう。

良寛さんの心構えは、余り言葉を弄(ろう)せず、被災した人々に、そっと寄り添って、一緒にいる、そんな優しさのこもった態度のように思える。私もそんな良寛さんのようにありたい、と思う。

?3.関東大震災と北原白秋

関東大震災の後、こんな歌を詠んだ日本人がいる。

大正十二年九月ついたち国ことごと震(しん)亨(とほれ)りと後世(のちよ)警(いまし)め

北原白秋の歌である。

歌意は、「大正12年9月1日、国中をことごとく大地震という禍がふりかかった。後の世の人は、これを天の警めとせよ。」となる。

白秋は、「震」の後に「亨」という字を使っている。この「亨」という字は、易(えき)の原典である「易経(えききょう)」の、はじまりの乾(けん) の項で「元(おほ)いに亨(とほ)る貞(ただ)しきに利(よろ)し」とある。易経では、これ以外にも、多く使われ、天の意志や、肯定的な運気(幸運)を示 すと、考えられる。「亨る」は「通る」とも解釈される。

白秋が使った理由は、おそらく地震が人智を超えた次元にある「天災」ということで、否定的な意味ではなく、天の意志を示す肯定的な意味として、この禍を受け入れる認識を歌の中に込めたものと考えられる。

現に、白秋には、関東大震災を詠んだ次の歌もある。

この大地震(おほなゐ)避くる術なしひれ伏して揺りのまにまに任せてぞ居る

訳せば、「もはやこの大地震に対しては避けて何とかなるような時限のものではなかった。だから私はただただ地震の揺れにひれ伏して任せているしかない。」となる。

ここには白秋が自然の猛威を前に、それを天の所業として、成すに任せて受け入れている姿が見える。これは一種の「諦念(ていねん)」で あろう。しかしそれは単なる諦めではない。ひとつの覚悟のようだ。白秋は、ただならぬ地震の揺れに、天の意思を受け取って、揺れの中に身を任せたのであろ うか・・・。

確かに、日本人の心の中には、白秋が歌に詠んだような感性(無意識)がどこかに宿っているかもしれない。

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4.寺田寅彦と関東大震災

物理学者の寺田寅彦翁(てらだとらひこおう)の関東大震災体験を調べている内に、「震災日記」というものに出会った。その日(大正12年9月1日、土)の 午前中、上野の二科展に友人の出展作品を見に行った後、喫茶店で出品作のエピソードを聞いている時に揺れが起こったらしい。

その時の寺田翁の地震への反応が非常にユニークで興味をそそられる。

寺田翁は、初期微動に気づかず、主要動を感じ、それにしても短周期の振動だと思いながら、これまで自分のまったく経験していない異常なほどの地震だと認識 し、その瞬間、土佐の母から聞いていた安政の地震の話を思い出して、「ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた」と言う。

ここからが、寺田翁の真骨頂の行動だ。翁は、仰向けになって自分が現在いる建物を観察し始める。

こんな具合だ。
揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみしみし、みしみしと音を立てながら緩やかに揺 れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強 震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。」(青空文庫「震災日記より」引用)

実に科学者らしい観察眼である。まず、地震の諸相を瞬間的に分析して、母の言っている安政大地震との類似性を探っている。同時に、自分の存在している建物が、起こっている地震に耐えられる強度をもっていることを見抜いている。

さて、東日本大震災の3週間後の2011年4月1日、菅直人総理が、かの寺田翁の言葉として「日本人を日本人らしくしたのは、神代から今日まで根気よく続けてきた災害教育だ」と紹介した、のを思い出す。実はこの菅さんの引用は、甚だしい曲解があり、引用そのものにも間違いがある。厳しく言うならば、寺田翁の思い(思想)を正しく伝えているものではない。これは「災難雑考」という随筆からの引用である。

引用文を正確に記すならば、「日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられてきたこの災難教育であったかもしれない。」となる。

原文と菅総理の会見の違いは歴然だ。菅さんは、第一に「実は学校でも文部省でもなくて」という原文を削っている、第二に原文の「災難教育」を「災害教育」に代えている。どこかおかしい。

余り悪くは言いたくないのだが、菅総理のステートメント草稿を書いた人間の意図的な作為さえ疑いたくなる。当の寺田は、日本人の災害に対する意識は、「学 校」や「文部省」が作った「災害教育」というカリキュラムではなく、災難が日本人に試練となって日本人を鍛えたと言いたいだけだ。

それが、菅さんの会見では、「災害教育」がなされたことによって、日本人を日本人にした、というようなニュアンスの逆転がある。これでは、あたかも時の政 権(学校や文部省)が「災害教育」をしてきたから、日本人の災害に対する国民意識が高まってきたという意味になってしまう。寺田翁は、菅さんが言っている ことはまったく逆のことを言っている。

寺田翁の言う「災難教育」とは、「災難」そのものが日本人を鍛え上げてきた、と言う意味だ。要は、たびたび日本列島を襲ってくる災害というものが、日本人の国民意識を作ってきたということを言いたいのである。

例えば寺田翁は、随筆「天災と国防」の中でも、こんなことを言っている。
地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは言われないまでも、頻繁にわが国のように激 甚な災禍を及ぼすことは、はなはだまれであると言ってもよい。わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良 い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事 実である。

寺田翁は、災害が日本人にもたらした肯定的な面に注目をしているのである。今、日本人にもっとも必要なのは、今回の東日本大震災という災禍の前で、小さく縮こまっていることではなく、逆にその災禍から何かを学んやろうとする気持ちの強さにある。

私たち日本人は、関東大震災の真っ直中にあって、仰向けになって、地震そのものの諸相を看過してやろうという寺田寅彦翁という日本人科学者がいたことを、 誇りとしながら、同時に一見ユーモラスなエピソードを日本人の精神史の中のひとつのモニュメントとしたら、どうだろう。
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5.東日本大震災と新日本人ドナルドキーンさん

世界的な日本文学研究の権威ドナルド・キーンコロンビア大学名誉教授(88歳:1922− ニューヨーク生まれ)が、大震災の風評によって、日本を去る外国人が多い中、日本永住の意志を固め、日本に帰化することを公にされた。

氏は、今回の帰化について、「自分も歳をとって、日米の間を行き来するのが大変になった。コロンビア大学を退官するにあたって、日本に対する感謝の気持ちを表すため、帰化することを決めた」ということを語られたようだ。

又NHKのインタビューでは、次のように述べておられる。「
日本は危ないからと、(外資系の)会社が日本にいる社員を呼び戻したり、野球の外国人選手が辞めたりしている が、そういうときに、私の日本に対する信念を見せるのは意味がある。・・・私は自分の感謝のしるしとして、日本の国籍をいただきたいと思う。・・・私は 『日本』という女性と結婚した。・・・日本人は大変優秀な国民だ。現在は一瞬打撃を受けたが、未来は以前よりも立派になると私は信じる。

私は「災害と日本人」というタイトルで、過去の歴史の中で、災害に見舞われた時、日本人がどのような態度を示したかを、スケッチしたいと思った。今回、こ のドナルド・キーン氏が自らの意思で、「日本人になる」という意志を固めたことに、言葉にならないほどの感動と尊敬の念が、心の奥底から、じわじわとあふ れ出てきた。

ドナルド・キーン氏の話は、過去ではなく、現在進行形の話しである。

東日本大震災の大地震や大津波という想定外の天災が、人間の英知の結晶である原子力発電所(福島第一原発)を壊滅させた。その結果、得体の知れない原子力 被害に対する恐怖心が、日本に住んでいた外国人の恐怖心を極限まで高めて、日本に居住していた外国人が、日本を離れて行った。そんな中での、日本文学研究 の世界的権威が、「日本人になる」との意志を公にされたことは、ひとつの美しい話しである。おそらく、キーン氏の日本帰化は、日本文化史上に刻印されるこ とになるに違いない。

キーン氏は、日本の文学研究から、日本人の魂の琴線に触れ、日本文化の奥深さ、豊かさを知り、まさに西行における桜のように、日本という花に恋してしまっ た人のように見える。コロンビア大学の最終講義は、4月26日にあるという。今からどのような話しをされるか、楽しみだ。

 ドナルド・キーン氏の日本帰化に一首
花慕ふ西行のごとキーン翁帰化する思ひ日本恋しと ひろや

つづく

2011..3.14- 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ