源義経略伝
 まえがき

本略伝は、洞院公定(とういんきんさだ)が編した尊卑分脈(そんぴぶんみゃ く)を現代語訳したものを、さらに翻案したものです。
今後、さらに手を入れて、読みやすいものにするように心がけたいと思 います。2004.10.30 佐藤弘弥 記
 

武勇に優れた源氏の武将。源平合戦のヒーロー。源氏の棟梁源義朝の九男。幼き日、京都の鞍馬寺に学ぶ。16歳の時、奥州平泉に下る途中、近江国 鏡の宿で自らで元服し、九郎義経と名乗る。幼名は牛若丸。又の名は遮那王丸。 一ノ谷合戦の功績により後白河院より、昇殿を許された。京都と守護となる。 一年後、屋島の合戦、壇ノ浦海戦を指揮しの大勝利をもたらす。その功により伊予守を拝命、左衛門尉、従五位下に任ぜられ、九郎太夫判官と呼ばれる。正妻は 武蔵の住人河越重頼の娘。白拍子静御前は愛妾。奥州で娶った最初の妻。他に平時忠の娘がいる。

父義朝は、平治元年十二月、平治の乱で謀反人の汚名を着せられて累代の家臣の裏切りに遭い無惨な最期を遂げる。母は九條院の雑色の常磐御前。こ の女性は千人の中から選ばれた絶世美女と言われる。

義経は、父義朝が、平治の乱(1159)で、尾張国長田庄司忠致に殺された時、僅か2歳の乳飲み子だった。義経の母の常磐は、平清盛らの追手を 逃れるため、三人の幼い子供たちを連れて、奈良の山の中をさまよう。常磐の母が人質になったとの知らせを受け、母を救うために常磐は投降する。清盛は、常 磐の美貌を見て、妾とすることで、3人の子を助命をする。義経にとって、父の仇に母もまた奪われたことになる。ともかく母子は、常磐の美貌と、権力者清盛 の気持ひとつで生き延びることができた。早々常磐は、清盛の子(女子)を生むことになる。

さらに清盛は、常磐を公家の一条(藤原)長成に再嫁させる。清盛は、常磐の三人の息子たちが成長する姿に脅威を感じていた。しかしまさかそう簡 単に平家政権が揺るがされるとは思っていなかった。だが、清盛にも寿命がある。状況は刻一刻と変わって行き滅びの瞬間が迫る。これが軍記物「平家物語」の テーマである。

母常磐は、義経の気性が日増しに父義朝に似てくることに危険を感じた。そこで牛若を、十一歳(7歳説も)で、鞍馬寺の東光房(父義家の祈祷僧) の下で勉学に励むことになった。しかしそこでも義経は、僧侶が行う仏教修行よりは、武芸に興味を示していたと伝えられる。

義経が十六歳になる時、奥州と京都を往来する金商人の金売吉次に会って、このような会話があった。

牛若「私を奥州に連れて行ってほしい。畏れ多き人物を知っているので、無事に着いた時には金品をもらってそなたに差し上げたい」
吉次「お連れするのは容易いことですけれども、寺の僧侶のお咎めもありましょう。」
牛若「なんの。この私が死んだところで、だれが尋ねて来ようものか。せいぜい、盗人が懐と衣を漁りにやってくるくらいのものであろう」
吉次「よく分かりました。ただし、期日は同行する者たちとの打ち合わせの上ということでご承知ください」

そんなところに、東国(下総)の旅人であった陵助重頼(源氏姓:みさぎのすけよりしげ)と言う者がやってきて意気投合し、東国に向かう約束を交 わす。義経は、重頼に、「あなたとまず下総に行き、そこで吉次と合流して奥州に入りたい」と言った。

以上は、平治物語に書かれているエピソードである。

義経記では、金商人の金売吉次の世話によって、奥州に下ったという話とは違っている。おそらく、こちら(平治物語の記述)の方が現実に近いので はないかと思われる。平家の方にも、当然義経の武芸に秀でている噂は流れていたであろう。京都にこのまま在住していたら、平家の武者によって暗殺される可 能性もあったに違いない。危険を察知した常磐は、夫の一条長成に頼んで、奥州にいる長成縁故の藤原基成に義経の身柄を預かってくれることを頼んだと推測さ れる。そうなると、義経が「ゆゆしき人」(畏れ多い人)と言った人物は、通説の秀衡ではなく、藤原基成という可能性が高くなる。

こうして義経は、承安四年三月三日の明け方に、鞍馬寺を出発し、関東へ向かい、伊豆にいた頼朝にも会った後(平治物語)、しばらくして、産金と いう強い財政的基盤を持つ藤原秀衡の統率する奥州平泉に入ることになった。

当時の平泉は人口10万を越える京都に次ぐ大都市でった。この地で、奥州王とも言えるような権力者藤原秀衡の館に住んで、五、六年を奥州で過ご す。この奥州で、義経は、さらにたくましく成長した。藤原氏の同族の佐藤氏の娘と思われる女性を娶り女の子も授かった。厳しい平家の監視下にあった京都時 代の空白を埋めるように、義経は人生最良の日を送っていたに違いない。そんな時、突如として、兄の源頼朝が打倒平家の旗を掲げて伊豆の石橋山で挙兵したと の情報が義経の耳に届いた。義経はたちまちのうちに十万の兵を率いて相模国に兵を進めている兄の下へ馳せ参じる気持で胸がいっぱいになった。

秀衡には、義経を政治的に利用する別の考えがあった。それは武家の棟梁としての源氏姓を持つ義経を将軍として、奥州を更に強固な国にするという 夢だ。しかし義経は、秀衡の止めるのも聞かず、奥州から、兄の陣へ向かったのであった。したがったのは、信夫庄(福島県飯坂)を拠点にして藤原秀衡の片腕 であった佐藤基治(元治とも)の二人の息子と80余名の郎党たち(平治物語では百騎とある)であった。佐藤基治が、三郎継信と四郎忠信をはじめとする大切 な息子たちを義経に付けた理由は、ただひとつ、義経は佐藤一族の婿であり、鎌倉で言えば頼朝を娘婿とした北条時政と同じ理由なのである。

吾妻鏡に、黄瀬川の陣(平治物語では大庭野と)において、兄頼朝と弟義経は、向かい合い、感極まってうれし涙を流したと記されている。それか ら、義経は、しばらく鎌倉に住み、元暦元年正月、京都において、木曽義仲が、乱暴を働いた時に、義仲を追討する大役を仰せつかって、別腹の兄範頼ととも に、京都に入ったのであった。

義経は、初陣の宇治川の戦いで義仲を倒し、同年の二月に、義経は範頼と共に、大将として西国に向かった。そこでも義経は、平家を追い落し、一の 谷において、多くの平家の兵士を討ち取った。捕虜となった平重衡を連行した後、院により範頼は参河守(みかわのかみ)に、義経は伊予守と検非違使五位尉に 任ぜられた。

元暦二年、二月二十日、讃岐の国の八嶋(屋島)に向い、平家を追討した。同年三月には、豊前の国の門司と長門国の赤間や壇の浦等において合戦を した。三月二十四日には、ついにことごとく平氏の残党を打ち破って、平宗盛公の父子や女院(建礼門院)等を捕虜とし、三種の神器を伴って、同年四月二十五 日に京都に入った。さらに平宗盛公父子を伴って、関東へ下った。景時(平)の讒言により、兄頼朝は、たちまち怒って義経に会おうとはしなかった。その思い は聞き入れてもらえず、腰越において、兄に向けて謀反の気持のないことを面々と綴ったが受け入れられなかった。鎌倉では捕虜の平宗盛が、源頼朝と対面を果 たしたのであったが、義経は、この宗盛親子を伴い再び京都に戻されることとなった。義経は、宗盛近江国(滋賀)の篠原提という所で、義経はこの父子の首を 刎ね、京都の渡大路に首を晒したのであった。

その後、頼朝は、義経を謀反人として暗殺しようと企てる。この時、頼朝の申し出に手を挙げたのが土佐房昌俊という剛の者だった。昌俊は、百人弱 の武者を引き連れて、義経がいた判官館を夜討しようとしたのであったが、義経らは、これを散々に蹴散らし、鞍馬山に逃亡した昌俊を捕まえて、首を刎ねてし まった。その後、関東より、平重時(北条)と平政為が、討手の大将として京都に来たのであったが、義経は、ついに腹を決めて、院に願い出て、(頼朝追討 の)御下文(くだしぶみ)をもらったのであった。謀反の気持のなかった義経は、こうして兄と戦う道を選ぶしかなかった。

しかし義経と叔父の行家に従うものは少なかった。義経は、仕方なく、いったん西海に下って、体勢を立て直すことを意図して、文治元年十一月二 日、自分の娘婿の源有綱や源行家らを伴って、西海に向かおうとしたのだが、激しい風を受けて、組んだ船団は散り散りとなり難破してしまった。

命からがら港に戻った後、力を失って京都に戻って隠れていたのだが、義経を応援する衆徒たちが、捜索を追い払っている隙に、奈良を経由し、北国 街道を抜け、文治二年夏から父のように慕う奥州平泉の藤原秀衡下に向かったのであった。ほっとしたのもつかの間、文治四年十二月に、藤原秀衡は、「義経を 大将軍として、息子たちよ、団結しろ。頼朝に屈してはならない。」という遺言を遺して亡くなったのだった。

こうなると義経の運命は風前の灯火のようであった。秀衡亡き後、頼朝の義経追求の手は執拗だった。散々に跡を継いだ泰衡と継父の基成を手紙で脅 し、義経の首を取って、送ってこい、と命じる手紙を送り揺さぶりをかけた。泰衡も義経追討の院宣が下ると、父秀衡の遺言も忘れ、文治五年閏四月三十日、基 成の居館の衣河館にいる義経を襲って、自害に追い込んだのであっった。弁慶をはじめとする一騎当千の郎党たちも、奮戦をしたものの、多勢に無勢だった。義 経は、こうして文治五年閏四月二九日、義経は妻子を殺害した後、自害して果てたのである。享年は三一才。妻(身元不明)は24歳。娘は4歳。(1159- 1189)

他に確認されている子は、最初の奥州の妻との間に女子一人。静との間に男子一人(由比ヶ浜に遺棄)。




2004.10.30 -2005.7.4 Hsato

義経伝説

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