尊卑分脈

原文

武畧長名将也 幼日住鞍馬寺 号九郎大夫判官幼名牛若丸 又号遮那王丸 昇殿 為西国
成伐京都守護 伊予守 使 左衛門大尉 従五下 叙留

義経−女子於衣川館卒四才

母同全成(九條院雑仕常磐)
 

平治元年十二月乱、逆父義朝没落之後、母堂常磐女懼(ママ)公方之責、相随三人幼子沈落大和國方、其時義経二歳、有母之懐抱、其後母上洛之後、自十一才住鞍馬寺、一和尚東光房阿闍梨賢日、弟子善淋房覚日坊、自幼日時、頻嗜武芸云々、

於鞍馬寺相語東國旅人諸陵助重頼、令約諾、承安四年三月三日暁天(于時十六才)窃立出鞍馬山赴東國下著奥州、寄宿秀衡館送五六ヶ年畢、舎兄兵衛佐頼朝義兵之後、治承四年十月率十萬騎旅相模國大庭野之時、超於奥州行向彼陣、

始而向顔舎兄頼朝、落感悦之涙、即随遂了、爰元暦元年正月、於京都木曽義仲悪行時、依院宣為義仲追討、差進東軍之時、範頼義経兄弟為両大将上洛、忽誅伐義仲畢、同二月範頼相共為大将、進發西国、追落平家、一谷城討取平家数多一族、虜重衡卿帰京之後、範頼任参河守、義経補伊予守、并検非違使五位尉畢、

同二年二月廿日、重下向讃州八嶋、追落平家、同年三月、於豊前国門司、長門国赤間壇浦等合戦、同月廿四日、悉追伏平氏余党、奉虜宗盛公父子并女院等、奉向三種霊器、同四月廿五日入洛、即相伴宗盛公父子、下向東国之處、依景時(平)讒侫(ねい)、舎兄源二位、忽勘気絶向、不被入、鎌倉中於、宗盛公者源二位頼朝(卿)及自身対向了、又宗盛公令帰洛之間、義経同請取、相共上洛、於江州篠原提(ママ:こざとへん+是)、刎父子首、於京都渡大路梟獄門畢、其後頼朝卿為義経夜討、依差上土佐(房)昌俊、昌俊寄来判官館、判官兼以了、知之間、散々防戦、遂俘囚昌俊斬之了、其後自関東重時(平)政為、討手大将上洛之間、判官申下院廳(庁)御下文、相伴義憲行家(源)等、

文治元年十一月二日、赴西海之処、遭難風舟各分散帰島之間、無刀(力ヵ)隠居辺之処、彼山衆徒等、捜索追却之間、暫経廻南都、其後経北國、慕先年(文治二夏比)旧好重、下著(着)奥州秀衡館、送三四ヶ年、而同四年十二月秀衡死去之後、同五年四月自鎌倉被仰付討手於泰衡之間、忽背亡父遺命、変累年芳好、泰衡則発向判官館、仍郎等廿余人致最後之防戦皆討死了、文治五年閏四月廿九日焼奥州平泉衣河館、遂以令自害了、卅一才、

(尊卑分脈 清和源氏より)



 
訓読

武略に長けた名将なり。幼き日は鞍馬寺に住まう。九郎太夫判官と号す。幼名は牛若丸 、又の号は遮那王丸。 昇殿。 西国征伐を為し、京都守護、伊予守。使。 左衛門尉、従五位下、叙留す。

義経−女子衣川館において卒、四才。
 

母は全成に同じ(九條院の雑仕常磐)。

平治元年十二月の乱に、逆らう父義朝没落するの後、母堂常磐は、公方の責めを懼(おそ)れ、三人の幼子を相随えて、大和国の方を沈落す。その時、義經は二歳にして、母の懐に抱かれて有り。その後、母上上洛の後、十一歳より、鞍馬寺に住まう。一和尚、東光房阿闍梨賢日が弟子の善淋房覚日坊は、「(義經は)幼きより日時、頻(しき)りに武芸を嗜(たしな)む」と云々。

鞍馬寺において、東国の旅人、諸(これ)陵助重頼と相語し、約諾せしむ。(義経は)承安四年三月三日の暁天(時に十六歳)に、鞍馬寺を出で立ちて、東国に赴き、着きてまた奥州に下る。秀衡が館に寄宿し、五、六年を送り畢(おわ)んぬ。舎兄兵衛佐(しゃけいひょうえのすけ)頼朝が義兵の後、治承四年十月、十万騎を率いて相模国大庭の野を旅する時、奥州を越え、向かいて彼の陣に行く。

始めて舎兄頼朝に向顔し、感じて悦の涙を落とす。即ち遂に随いて了りぬ。ここに元暦元年正月、京都に於いて木曽義仲悪行す時、院宣によって義仲を追討の為に、東軍、差し進みし時、範頼と義経兄弟は、両大将と為して上洛す。忽ち義仲を誅伐し畢りぬ。同き(年)二月、(義經は)範頼と相共に、大将と為して西国に進發す。平家を追落し、一谷の城に平家の数多一族を討取る。虜(とりこ)の重衡卿が帰京の後、範頼は参河守(みかわのかみ)に任じ、義経は伊予守并(ならび)に検非違使五位尉に補され畢りぬ。

同二年二月二十日、重下に讃州(さんしゅう)八嶋に向い、平家を追落す。同年三月、豊前国門司、長門国赤間壇の浦等に於いて合戦す。同月二十四日、悉(ことごと)く平氏余党を追伏し、虜(とりこ)の宗盛公父子并(ならび)に女院等を奉り、三種霊器を奉向し、同き四月二十五日入洛す。すなわち宗盛公父子を相伴い、東国の所へ下向す。景時(平)の讒侫(ざんねい:人を讒して長上にへつらうこと)に依って、舎兄源二位(頼朝)は、忽ち勘気絶向す。入らせられず、鎌倉の中に於いて宗盛公は、源二位頼朝(卿)及び自身と対向し了りぬ。又宗盛公が帰洛せらるるの間、義経は同(人)を請け取りて、相共いて上洛す。於江州(こうしゅう:近江国の別称)の篠原提(ママ:こざとへん+是)に於いて、父子の首を刎ね、京都の渡大路に於いて梟(きょう:さらし首)して獄門し畢りぬ。、その後、頼朝卿は、義経を夜討の為に、依って土佐(房)昌俊を差上げ、昌俊は、判官の館に寄来す。判官は兼て以て知り了りぬの間、散々に防戦し、遂に昌俊を俘囚(とりこ)とし、これを斬れ了りぬ。

その後、関東より、重時(平)政為が、討手の大将として上洛の間、判官申して、院庁より御下文(くだしぶみ)下りる。(義經は)義憲行家(源)等を相伴い、文治元年十一月二日、西海に赴く處、難風に遭い、舟は各(おのおの)に分散し、帰島の間、力無く居て辺に隠れし處、彼の山の衆徒等、捜索を追却する間、暫らく南都を経廻し、その後、北國を経て、先年の文治二年夏に、旧好を重く慕ふ、奥州の秀衡が館へ下着(げちゃく)す。三四ヶ年を送る。同(文治)四年十二月秀衡死去の後、同五年四月、泰衡は、鎌倉より討手を仰せ付けられし間、忽(たちま)ちに亡父の遺命に背き、累年の芳好を変じて、則ち判官館に発向す。仍(よ)って郎等二十余人、最後の防戦に致る。皆討ち死にして了りぬ。
文治五年閏四月二九日、奥州平泉衣河館は焼け、遂に以て自害され了りぬ。三一才。(訓読佐藤)


現代語訳
 

武略に優れた名将である。幼き日は、鞍馬寺に住んだ。九郎太夫判官と言う。幼名は牛若丸である。又の名を遮那王丸と言う。 昇殿を許された。西国征伐を果たし、京都を守護した。その功により伊予守を使わされ、左衛門尉、従五位下に任ぜられた。

源義経−娘は衣川館において死亡。享年四才。
 

母は全成と同じく九條院の側にお仕えをしていた常磐御前という名の女性。

平治元年十二月の乱において、逆徒の汚名を着ることになった父義朝が殺された後、義経の母の常磐は、平清盛らの追手を逃れるため、三人の幼い子供たちを連れて、奈良の山の中を逃亡した。その時、義経はわずか二歳で、母の胸に抱かれていた。後に、母の常磐御前が、京都に再び上った後に、十一歳の時より、鞍馬寺に住むことになった。善淋房の覚日坊という僧(東光房阿闍梨賢日の弟子)は、「義経公は、幼い頃から、とにかく武芸に親しんでおられた」と語っている。

さて義経が十六歳になる時、鞍馬寺において、東国の旅人の陵助重頼と言う者と意気投合し、契約を交わしたようであった。結局、義経は、承安四年三月三日の明け方に、鞍馬寺を出発し、関東へ向かった。さらに関東に赴くと、しばらくして今度は奥州に下った。奥州では藤原秀衡の館に住んで、五、六年を奥州で過ごした。治承四年十月、兄の源頼朝が挙兵し、十万の兵を率いて相模国に兵を進めている時、義経は奥州から、兄の陣へ向かったのであった。

はじめて兄頼朝と向かい合い、感極まってうれし涙を流した。そして兄に従うことになった。それから元暦元年正月、京都において、木曽義仲が、乱暴を働いた時に、院のご命令によって、義仲を追討する目的で、関東の軍が差し向けられた時、源範頼と義経の兄弟は、両人とも大将として、京都に入ったのであった。そこで義経は、たちまちのうちに義仲を倒してしまったのであった。同年の二月に、義経は範頼と共に、大将として西国に向かった。そこでも義経は、平家を追い落し、一の谷において、多くの平家の人々を討ち取ったのであった。捕虜となった平重衡卿が帰京の後、院により範頼は参河守(みかわのかみ)に任ぜられ、義経は伊予守と検非違使五位尉に任命された。

元暦二年、二月二十日、讃岐の国の八嶋(屋島)に向い、平家追討した。同年三月には、豊前の国の門司と長門国の赤間や壇の浦等において合戦をした。三月二十四日には、ついにことごとく平氏の残党を打ち破って、平宗盛公の父子や女院(建礼門院)等を捕虜とし、三種の神器を伴って、同年四月二十五日に京都に入った。さらに平宗盛公父子を伴って、関東へ下った。景時(平)の讒言により、兄頼朝は、たちまち怒って義経に会おうとはしなかった。その思いは聞き入れてもらえず、鎌倉の中では捕虜の平宗盛公が、源頼朝と対面を果たしたのであった。宗盛公が再び京都に戻されることとなった。義経はこの人物を伴って京都に向かった。近江国(滋賀)の篠原提という所で、義経はこの父子の首を刎ね、京都の渡大路に首を晒したのであった。

その後、頼朝は、義経を夜討しようとして、土佐房昌俊を差し向けた。昌俊は、義経がいた判官館を襲撃したのであったが、それを知っていたかのように、散々に蹴散らして、遂に昌俊を捕まえて、切り捨ててしまった。その後、関東より、平重時(北条)と平政為が、討手の大将として京都に来たのであったが、義経は、ついに院にお願いして、(頼朝追討の)御下文(くだしぶみ)をいただいてのであった。

そこで義経は、文治元年十一月二日、義憲や源行家らを伴って、西海に向かおうとしたのだが、激しい風を受けて、組んだ船団は散り散りとなり難破してしまった。命からがら港に戻った後、力を失って隠れていたのだが、ある山の衆徒たちが、捜索を追い払っている隙に、奈良を経由し、北国街道を抜け、文治二年夏から父のように慕う奥州の藤原秀衡の館へ着いたのであった。そこで三、四年の歳月を送った。文治四年十二月に、藤原秀衡が亡くなると、文治五年四月に、秀衡の息子の泰衡は、鎌倉より義経を討つように迫られて、亡父の遺言に背き、長年親しく付き合って来た友情を捨て、にわかに判官館に兵を送ったのであった。仕方なく居合わせた義経の郎党二十数人の者が、最後の防戦をし、ついに郎党の者は皆討ち死をしてしまった。

こうして文治五年閏四月二九日、奥州平泉にある衣河の館は焼け落ち、遂に義経は自害して果てたのである。享年は三一才であった。

 

原典
当初、「奥州藤原史料」(東北史史料集2) 東北大学東北文化研究会編 昭和三十四年十月二十五日 吉川弘文館 を使用。
更に新訂増補 国史大系「尊卑分脈」第三編 黒板勝美 国史大系編修会 昭和三十六年三月三十一日 吉川弘文館を参考とする。佐藤




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2001.10.10
2003.01.28 Hsato