信州飯田の桜紀行 


佐倉神社の桜


3月26日朝、長野の飯田市で、前ユネスコ世界遺産委員会事務局長の松浦晃一郎氏を招き「世界遺産フォーラム」があるというので、新宿より中央線で信州に向かった。

岡谷駅で飯田線に乗り換えて、各駅停車で伊那谷を南に下った。車窓には、春めき色づくコブシや梅や膨らむ桜の蕾の彼方に白い雪を頂く南アルプスの山々が聳えている。思ったよりは寒くない。桜も咲きかけているところもある。温暖化の波は、南アルプスにも確実に押し寄せてきているようだ。

新宿から4時間半ほどで飯田駅に着く。駅で飯田市の環境課吉川豊さんが待っていてくれた。フォーラムは、27日であるが、一日前に入ったのは、飯田周辺を散策してみたいと思ったからだ。

飯田駅付近は、標高でいうと500mほどだというが、本当にぽかぽかとして暖かい。飯田を象徴する山、風越山(かざこしやま:1535.1m)が西方に聳えている。この山があるために、飯田の気候は温暖だということを吉川さんから聞いた。又この地に10数基の古墳群が見つかっているが、当時から、それらも風越山を中心に配置されているようである。

この山の手前に、風越山という山があり、そこに白山神社の奥宮(室町期の建物で国指定の重文)があるという。この地に白山信仰が根付いているということに、民俗学的に興味を持った。この周辺は、諏訪神社への信仰の強いところとばかり思っていたが、実際には、ひとつの信仰では括れないようだ。その意味では、日本の各地同様、多種多様な神仏への信仰が混交する地なのであろう。

飯田駅に降りて、素直に思ったのは、思ったより暖かいということだ。飯田市に近づくにつれて、桜も仄かに色づいているように見えた。市役所の吉川さんの話によれば、この数年確かに温暖化の傾向が強く、積雪の量もめっきり少なくなっていて、同時に桜の開花も、早まっているということだ。

「信州の桜を見たい」という私のわがままを聞いてくれて、吉川さんは、飯田市の桜の名木めぐりのルートを用意していてくれた。

まず環境庁が指定した「名水百選」に選ばれている「猿庫の泉(さるくらのいずみ)」にゆく。風越山の南麓にある名水だが、この辺りでもかなり標高が高く、雪がちらついていた。この周辺の桜は、まだ色づいていなかった。この名水の前には、お茶室が建っていた。地元の「猿庫の泉保存会」の人々によって、5月から10月の間の休日には、野点(のだて)が行われている。何故か、吉野の奥千にある西行庵近くの「とくとく清水」を思い出した。手で掬って、水を呑んでみた。まったくクセのない柔らかい水が喉をするすると通り抜けた。

次に佐倉神社のある西部山麓の付近の桜をみた。ここもかなりの標高があり、東に天竜川が流れる伊那谷が雑木林越しに青く見えた。それでもここに植えられた桜は、かなり色づいていた。少し山は荒れていて、老木が目立っていたが、近くに名物の五平餅を売りにする「佐倉亭」の看板があるなど、桜の名所の感じがした。

この佐倉神社の言われは、江戸時代、下総国佐倉郡(現千葉県佐倉市)の農民のリーダー(名主)だった佐倉惣五郎という人物を祀る神社である。

この惣五郎は、凶作によって食べていけない農民の惨状を見かねて年貢の軽減を四代将軍家綱に直訴した人物だ。しかし当時直訴は死罪と決められており、惣五郎は妻と子4人と共に、死罪とされたのである。信州にも、この逸話が伝わり、農民たちは、この勇気ある人物を神として崇めたのである

当時この話は、歌舞伎になって「佐倉義民伝」として嘉永3年(1851)に初演され大好評を博したということである。実はこの演目を、今度中村勘三郎が、「コクーン歌舞伎」として、串田和美の演出で公演(シアターコクーン、6月3日から27日)するらしい。

桜の語源には諸説あるが、「さ」と「くら」に分けられ、「さ」は、農業にに通じる「さおとめ(早乙女)」「さなえ(早苗)の「さ」とされる。信州の桜を訪ねながら、江戸時代の農民の困窮と、その困窮から農村を救おうとして、犠牲となった人を神として、その精神を永遠に伝えようとする人の心に出会った気がした。桜も美しいが、民衆の心も美しい。信州伊那谷を見下ろすように咲く桜を見ながら、そう思った・・・。


杵原学校の桜


 佐倉神社から細い山道を更に南に向かった。天竜川に沿って谷間が続いている。その傾斜に沿って、棚田が随所に並んでいた。また形の良い桜が、良い具合に春に目覚めた野山の瞳のようにピンク色に染まっている。その先の東方に目を転じれば、南アルプスの山々が白い雲を頂いて北から南へと延々と拡がっている。

地元の人にとっては、当たり前の景色かもしれないが、郷愁を誘う長閑な信州の春の景色だ。

やがて、吉川さんの運転する車は、山本地区にある旧山本中学校「杵原学校(飯田市竹佐377番地1)」の校庭前に着いた。この学校は、昭和24年(1949)に建てられたものだ。一度85年に、少子化のための学校の統廃合によって廃校になった。だが一階建ての中学校校舎は、全国的にも珍しいということで「国土の歴史的景観に寄与している」として国の登録有形文化財に指定されている。

最近では、山田洋次監督、吉永小百合主演で話題となった映画「母(かぁ)べえ」のロケ地として使用されて一躍有名になった。地元には、この学校の保存会があり、2001年に積雪で倒壊したこともあったが、直ちに再建された。瓦は新たに葺かれたものだが、保存状態は非常に良い。日頃は、住民の運動会や集会に使用されるなどという。

この校舎の前に、エドヒガン系の形の良いしだれ桜がある。樹齢は70年ほどとのことであるが、エドヒガン系のしだれ桜は、樹齢百年前後がもっとも美しいという説もあって、これからますます注目される飯田の桜として、全国的に注目を浴びるかもしれない。

3月26日では、6分から7分咲きで、まだ花の蕾は固く赤いままだったが、それでも信州の青い空に映えて、悠然と木造校舎の前に立つ姿には、凛とした美しさがあった。

この杵原学校のある辺りは、海抜515mということで、北の方角には、飯田市の象徴である風越山が、鉄筋コンクリート三階建ての山本小学校の彼方に、聳えているのがはっきりと見えた。また南を望めば、広い薄茶色の校庭の彼方には、飯田市周辺の大パノラマが見渡せる城山公園と丁度水晶の尖塔部のように見える水晶山と呼ばれる山が見えた。


小笠原書院の桜


 杵原学校を後にして、起伏に富んだ山道の傾斜を車で登っていくと、見晴らしの良い城山公園に着いた。西を見れば、正面の眼下に、高速道路のインターチェン ジが見えた。春の日は傾き、白い雲に遮られながら、その雲ごと眩しく光っている。かつてここは、甲斐源氏の一族だった小笠原家の久米ヶ原城があったところ である。標高は700mはあろうか。確かにこの山に登ると、三六〇度の方角が見渡せる。要衝の地として重要な場所であったことは、すぐにうなずけた。

山の南側には、空堀が掘られ、堅牢で大規模な城であったようだ。ところが皮肉にも、この小笠原家は、一五世紀半ばに、相続をめぐって一族同士の内紛が起 こって、分裂したとのこと。いつの世も、敵は外よりも内にこそ潜んでいるものだ。

ところで、今の世に伝わる礼儀作法の小笠原流は、この地を治めた小笠原家が、徳川家康に仕えて武家礼式を取りまとめたものとされる。城跡には、稲荷神社が あり、見張り台のような黒い建物がモニュメントのように建っていた。神社の鳥居越しには東の空高く白い月が、顔を覗かせ、その背後には、白い雪を被った南 アルプスの山々の尖塔部分がのこぎりの歯のように連なっていた。

この周辺の桜は、標高が高いこともあり、まだ蕾のままであった。この城山から私たちは、旧小笠原家の書院へと向かった。

「旧小笠原家書院」は、現在の住所で言うと、飯田市伊豆木というところにある。小笠原家は、前述した通り、内紛があって分裂した。その後、伊豆木小笠原家の初代となる小笠原長巨は、徳川家康に加勢して功を立て、慶長5年(1600)、信濃国伊那郡伊豆木の地を拝領し、城郭を構えることになった。かつてここには、陣所として物見櫓などが立ち並んでいたとされるが、廃藩置県の時、明治政府によって、書院を残して解体されてしまう。「旧小笠原家書院」は、この建物のごく一部ということになる。

小笠原氏の人々は、この時、農家に転じて、書院を母屋として暮らしてきたが、昭和27年(1952)に、国の重文に指定されて今日に至るのである。

書院は、小高い里山の麓の段丘の端にある。川幅にして1m半もない小川(弟川)が前を流れ、緩やかな坂が5mばかり、続いていて、その端に木組みがあって、書院は懸造(かけづくり)で、斜面の上に載る形で建てられている。その坂の途中に、姿の良い桜が1本書院を守るように、根を張っている。横に「紅彼岸」の立札があった。紅彼岸桜の意味だろう。

書院の門の前に行き、里山の方を見ると、驚くべき光景があった。それは丁度、真四角の長方形のガラスの筒を横に置いたような奇妙な建物(小笠原資料館)が建っていたことだ。しかも丸い柱のようなものが、右と左と真ん中付近に三つあり、空中に浮いているように見える。よく見ると、四角の小さな柱がいくつかあったが、これで支えきれるのか、構造計算は大丈夫か、と正直に思った。

吉川さんに聞けば、それはこの小笠原家の縁故の建築家で妹島和世(せじまかずよ)氏のデザインということだ。「金沢21世紀美術館」(04年、石川県金沢)や「トレド美術館ガラスパビリオン」(06年、アメリカ、オハイオ)も彼女の設計と聞いた。もっと驚いたのは、これを見た2日後の3月28日に、妹島和世氏が、共同設計者である僚友の西沢立衛氏と共に、建築界のノーベル賞とされるプリツカー賞を受賞したということだ。

この超モダンな建築物が、この場所に相応しいような姿をしているとはどうしても思えなかった。ところで、小笠原家の書院を守るように咲く桜は、雲間に隠れていた夕暮れの陽光を浴びて、一瞬神々しいまでの輝きを見せていた。


くよとの桜

 これはいつも思うことであるが、桜は人と共に存在する花だ。だから桜の名木や桜の名所には、それに相応しい「ドラマ」や「いわれ」や「伝説」のようなものが、くっついているものである。

たとえば日本一の桜の名所「吉野山」には、役行者伝説がある。周知のように吉野の金峰山の山中で修行中、役行者は、山桜の中に蔵王権現を感得した。以後、吉野山で桜は、蔵王権現の化身として大切にされている。

また日本三大桜のひとつである山梨県にある山高神代桜は、日本史における伝説の時代景行天皇の御子である古代の英雄ヤマトタケルが東国に遠征した折に手植えしたとされる樹齢2千年とも言われる日本最古の桜と言われている。この伝説の桜であるが、鎌倉時代に日蓮上人(1222−1282)が、ここを訪れた時には、樹齢千年近い老木で朽ちかけていたということだ。日蓮は、このことを憂い、一身に神仏に祈ると、たちまち樹勢が戻って、今日まで美しい花を咲かせていることになっている。

さらに東京の千鳥ヶ淵の桜は、近くに靖国神社があり、明治以降、数々の戦争で散った人々の命を思い出させるように咲き、そして散って行く。戦争で亡くなった肉親や家族に会いに、桜の時期、この場所を訪れる人が、日本中から、この場所に集ってくる。そんな気のする桜の名所である。

このように、日本人にとって桜は、心の花であり、この桜が開花する時期、誰しもが、心が漫(そぞ)ろになり、そわそわとするのは、ひとつの「日本文化」そのもの、なのかもしれない。

名木の陰に歴史や人間の記憶がある。それは吉野山のように神仏に対する人間の畏怖の念であったり、山高神代桜のように過去の偉人が心触れた樹木であったり、あるいは千鳥ヶ淵の桜のように自分たちの家族が戦争で受けた傷を思い出させるものであったり、さまざまである。

日本人にとっての心の花であるからこそ、桜は大切にされ、それに応えて美しく咲こうとするようにも思えてくる。そんな桜が、飯田市にもあった。毛賀地区にある「くよとの桜」だ。この「くよと」とは「供養塔」のことであり、どうもこの地区では、小笠原家が守護をしていた室町時代から戦国時代に至る内戦の時代において、多くの死者を葬ったようだ。近くには自害坂や石打場という地名も残っているようで、戦の死者を葬った形跡のある石碑が散見されるのである。

地元では、この桜の保存会も存在し、この三春の滝桜を小型にしたようなしだれ桜を「くよとの桜」として、大切に守ってきたのである。樹齢は300年と推測されているが、坂道から道路にしだれ掛かる様は、実に見事である。夜にはライトアップもされるらしい。このような桜が存在する飯田の人々の心意気を見た思いがした。


おたちふの桜

 運転席で吉川さんが、「珍しい桜に案内します」と、少し微笑んだ。最後の桜は、松尾水城地区にある古墳の上に咲いている桜だというのだ。

古墳時代頃、飯田市周辺は、馬の産地となり、有力な地方豪族が居住していたらしい。飯田市では、これまで十数基の古墳が発見され発掘調査が行われている。実は吉川さんは、以前教育委員会で、古墳の発掘に携わっていたようだ。

古墳の中に「水佐代獅子塚古墳(みさしろししずかこふん)」と呼ばれる前方後円墳がある。その上に根を張って咲く樹齢350年以上と推定されている桜が、これから行く、「おたちふの桜」という桜なのである。

神話時代の歴史を遡ってみれば、出雲の国譲りの頃、出雲を治めていたスサノオの系のオオクニヌシは、アマテラス系のニニギに国土を譲って、自らは隠棲し、出雲大社に祀られる。

その時、オオクニヌシの息子のタケミナカタは、国譲りに反対し、ニニギの使者であったタケミカズチと武力衝突(?!)をするが、敗走して信濃の国諏訪に退却して、渋々国譲りを承服し、服従を誓った経緯がある。諏訪大社は、敗れて諏訪の神となった「タケミナカタ」とその妻である「ヤサカトメ」が祭神として祀られている。

それ以後この地域に、出雲系の人々がやってきて、出雲の文化を引き継ぐ形で、信濃(長野県)一帯に拡がったのかもしれない。この古墳は、6世紀前半頃と推定されているそうだ。すると仏教伝来(538)の頃になる。国譲りから何百年経った頃だろう、など色々とかってな想像が膨らんでくる。

「おたちふの桜」は、不規則に住宅が並ぶ細い道の奥の盛土の上に、カッと眼を見開いたように咲いていた。古墳の全長55mという。周囲の景観が少し騒々しく感じた。というのは古墳の上には、桜の他に、住宅が幾棟か建っている。古墳が発見される前に建っていたものだろうか。

桜の前には、真新しい御影石の石碑が立っていている。そこには「水佐代 獅子塚」と刻んである。花の花弁は、やや小さく透明感がある。エドヒガン桜という。既に春の日は、南アルプスの山の端に沈もうとしている。

夕日を浴びた「おたちふの桜」を拝みながら、私の脳裏に、梶井基次郎の短編小説「桜の樹の下には」の一節が浮かんだ。

「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。・・・(中略)いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑(の)めそうな気がする。」

この小説の中にある「いったいどこから浮かんで来た空想がさっぱり見当のつかない」という部分は、梶井の無意識と考えられる。同時にこれは日本人の桜に対する無意識でもある。つまり日本人にとって、桜の花は当別の花で、これを亡くなった人の化身と考えるところ(無意識)がある。

もっと言えば私は、梶井が言う「桜」と「屍体」の関係を、民俗学者柳田国男<注1>の言う「ハレとケ」の概念で説明できるのではないか思う。梶井の「桜」は「ハレとケ」の「ハレ(晴れ)」、「屍体(したい)」は、「ケ(穢れ)」ということになる。

屍体(「穢れ」)は、一定の時間を通して、桜の根本で腐り、桜の根に吸収されて桜の花として開花することで「晴れ」として再生する。

多くの日本人が梶井基次郎の小説「桜の樹の下には」に、シンパシーを感じるのは、おそらく、この「ハレとケ」の感覚を梶井と同じように無意識に共有するからではないだろうか。

想像するに「おたちふの桜」を植えた300年前、この土地には、尊い人が眠っているとの言い伝えのようなものがあり、その人を慰霊する意味で、この桜を手植えしたのかもしれない。

この周囲100mには、この獅子塚を守るように四基の陪塚(ばいつか)が配置されていることが分かっているという。きっと被葬者の身内か一族の塚だろう。そのことが、地元の水城地区の「お立符保存会」の人たち建てた高札に誇らしく書いてあった。

注1>柳田国男(1875−1962)は兵庫県の儒家松岡操の6男として生まれたが、27歳の時、東京在住の旧飯田藩士柳田直平の養嗣子となり、直平の四女を娶った。現在の飯田市の飯田市美術博物館の付属施設である「柳田国男館」は、東京都世田谷区にあった柳田邸の書屋を移築したもの。

 
専照寺の桜

夜になり、曹洞宗白竜山専照寺という古寺に推定樹齢400年といわれるしだれ桜があり、ライトアップされているというので、出かけた。珍しい鐘楼が上に付いた山門から、赤みを帯びた一本桜が本堂の前に見えた。

専照寺は慶長9年(1604)、飯田の城主小笠原氏の帰依によって、現在の場所(飯田市伝馬町2-9)に移されたということだ。

現在飯田市美術博物館となっている飯田城跡は、この寺から南に800mほどの位置関係にある。すぐ脇には、飯田裁判所がある。文字通り飯田城下の中心街だ。

桜の側の高札によれば、桜は移築された折り、植えられたものではないかと記してあった。

桜の前には、一心に瞑想する釈迦如来の石像が座していた。実に厳しい表情をしている。おそらく悟りを得る前の修行中のお姿だろう。しだれ桜は、若き釈迦をいたわり、抱くような面もちで咲いていた。


大宮通り長野検察庁前の桜

翌朝、シルクホテルのベットで寝ていると、南アルプスから立ち昇った眩しい朝日によって起こされた。レースのカーテン越しに、射し込んでくる春の陽射しは強烈だった。遠くで、太鼓を打つ音が聞こえてくる。

折りから、今年の3月26日から28日まで、飯田市では、七年ごとに開催される諏訪大社の奇祭「御柱祭(おんばしら)」と同じ年に行われる「飯田お練り祭(いいだおねりまつり)」が、桜の開花と重なっていた。

飯田お練り祭は、大名行列や各地区の獅子舞連が、飯田市内を、文字通り「練り歩く」行事である。七年ごとの開催という珍しさもあって、朝から電車は、多くの祭見物の人を集めるのである。

私は、午後一時半に、「世界遺産フォーラム in 飯田」が開催される時間ギリギリまで、飯田市内の桜やお練り祭を、写真に撮そうと、朝食も早々に、カメラをもって、市内に飛び出して行った。


お練り祭の獅子舞
(写真は山本南平獅子舞保存会の皆さん)

 早速、ホテルの前では、獅子舞連による門付けが行われていた。風越山から爽やかな風が渡ってくる。快晴の中で桜たちも、ますます色づいて、七年に一度の大祭に花を添えていた。9時の頃には、市内は人で溢れかえっていて、飯田東中の校庭前を歩いていると、臨時駐車場は、午前9時過ぎにも関わらず、ハッピ姿の若者が大声で「満車です」と入ろうとする車を制していた。

大宮諏訪神社から真っ直ぐ南に飯田市の中心街に延びる通りは「大宮通り」と呼ばれる桜並木だ。その通り越しに沿って歩いていくと、すぐに元気の良いしだれ桜が見えた。長野地方検察庁の敷地内の桜だ。この辺りは寺町で、善勝寺、竜翔寺、来迎寺などが連なっている。町の各所で行われる「お練り祭」のパフォーマンスを見ようと、桜並木の下を人々が行き交っている。

私は専照寺のしだれ桜を、もう一度太陽の下で拝みたくなり、向かった。本堂の前に、行くと、まだ桜は、開花とまでは行かず、赤い蕾から、柔らかな花びらがわずかに顔を覗かせているような状態だった。桜の樹勢もかなり、弱っているように見えた。それでも専照寺の桜は、目の前にある石の仏を労るように、遠くに聳える風越山を拝むようにスックと立っていることが強く印象に残った。

飯田市にやって来て、思いもよらず、桜の時節にめぐり合い、さまざまな桜を見させていただくことになった。東京では、ほとんどがソメイヨシノで埋め尽くされている感があるが、飯田では多様な種類の桜がまんべんなく分布しているように思われた。しかも、それぞれの名木には、保存会などもできていて、各地区の人々は自慢の桜を未来につなごうと頑張っておられるという。やはり桜と人は、深く日本文化の深層で結びついている。そんなことを思った。了



専照寺の桜と山門越しに風越山をのぞむ

信州飯田市の桜紀行

2010.04.16 佐藤弘弥

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