平泉に夏の雲湧く
 

毛越寺山門に掛かる夏の雲

(2011年8月4日撮影)
 

毛越寺の池中立石が震災後の余震で倒れかけ修復作業がなされていた
お盆前、平泉に行った。6月の世界遺産登録以降、国内から観光客がやってきて、宿も取りにくければ、レンタカーさえ予約できない状況が続いている。

中尊寺の駐車場のナンバーを見ると、遠くは「山口」、「石川」、「富山」などの車が並んでいた。被災地を訪れると同時に、世界遺産登録された平泉を訪れるというコースもあるように聞く。

地元の人に聞くと、確かに観光客が多くなって、明るい兆しは見えてきたが、一過性のブームに終わらないようにして欲しいとのことだった。一方では、外国人観光客がいつもになく少ないと嘆く声もあった。これは大震災の地震ー津波のためというよりは、震災で発生した福島原発事故が原因となっていることと考えられる。

原発問題は、様々な憶測を呼び、世界にまさに津波のように拡散しているだけに心配だ。平泉にも、放射線ホットスポットがあるとの報道もある。それだけでも、外国人観光客の足が遠のいてしまうことは、避けられない現実がある。

毛越寺の大泉が池に行くと、池中立石の周囲に修復作業用の足場が掛けられていた。大震災の余震で、倒れそうになったとのことだ。何しろ、泥の池の中に、2,5mほどの高さの巨大な石がやや斜めに立てられているため、これを元に戻すことは至難の作業となっているようだった。一日も早く、浄土庭園「大泉ケ池」の顔とも言うべき「池中立石」が、凛と立つ姿を見たいと思った。
 

大泉が池は春夏秋冬美しい
 


炎天下大池跡の発掘調査が進められていた
 中尊寺では、中尊寺蓮が満開だった。

中尊寺蓮は、昭和25年(1950)の遺体学術調査の折、金色堂の秀衡の棺(ひつぎ)に、置かれていた奥州藤原氏第四代泰衡の首桶から発見された蓮の種が、平成10年(1998)、800年の眠りから覚め、見事な花を開花させたものだ。が開花したものだ。その後、あっという間に「中尊寺蓮」と命名されて、世の中に知られるようになった。

従来、この首は、義経を最後まで守護したとされる忠衡のものと言われてきた。ところが、その頭部の損傷跡などから、泰衡の首と判明したものだ。

今や、中尊寺蓮は、お盆の頃に開花期を迎え、中尊寺の風物詩となっているものだ。また最近では、中尊寺の宝物館である「讃衡蔵」の南面に当たる一角にあったとされる「大池跡」の泥の古層から発見された「大池蓮」も発芽して開花し、さながらこの一角は、中尊寺蓮と大池蓮が咲き誇る花園の様相を呈している。

大池跡は、この暑い中で発掘調査が行われていた。大池は、藤原清衡によって起草された「中尊寺供養願文」の冒頭にある「鎮護国家のための大伽藍一区画」に当たる可能性があり、発掘の成果が期待される場所だ。

願文には、このような下りがある。
「これを造るに当たっては、築山をして地形を変え、池を掘って水を引き入れました。草木と樹林を宮殿楼閣の中に配置し、この中で世の人を楽しみとする歌舞を催し、民衆の仏への帰依(きえ)を讃えようと思います。そのようにすれば、たとえ砦の外の蛮族(ばんぞく)と言えども『この世にも極楽はある』と言うことでありましょう。」(現代語訳筆者)

初代清衡は、自身の最晩年の69歳の時、自分の亡き後の平泉の地が、永遠に平和を享受できることを祈念し、中尊寺に、国家鎮護のための一画を設け、これを中央政権(院)のための「御願寺」として認めさせたのであった。これによって、平泉は、後に頼朝が奥州のすべてをわが配下に収めてしまおうと画策したが、叶わなかったのである。

現在、願文にある「鎮護国家のための大伽藍一区画」と明確に断定できる場所はない。今後、中尊寺大池跡の発掘調査の成果に注目したいものだ。
 

手前が大池蓮 後ろが中尊寺蓮

2011.9.26 佐藤弘弥

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