多田富雄氏の最期の言葉 「寛容」をめぐって

はじめに

2010年4月21日、免疫学者の多田富雄先生が逝去された。先生は、お亡くなりになる前、NHKのインタビューにおいて、不自由な手でコンピューターのキーボードを打ち、やっとの思いでコンピューター音声を合成された。遺言とも受け取れるその言葉は次のようなものであった。

曰く「僕は絶望はしていません。長い闇のむこうに何か希望が見えます。そこには寛容の世界が広がっている。予言です。」

いったい、多田先生は、この短いメッセージに、どのような思いを込められたのか、予見を持たず、多方面から考察してみたい。

まず最初、私はこの言葉を受け取った時、多田先生の脳裏に何が浮かんだのかを考えた。そこで浮かんだのが、先生の晩年における人生の質(クオリティ・オブ・ライフ)を阻害したと考えられる病魔のことだった・・・。


「寛容」の意味


2001年5月2日、旅先の金沢、脳梗塞で倒れた先生は、数日間、死の淵を彷徨った後、右半身マヒと声を失っていた。満67歳になったばかりのお歳だった。その後、先生は必死のリハビリを行い降って湧いたようにような障害に立ち向かっていった。先生にとって、リハビリとは、単なる機能回復訓練ではなかった。それは一人の独立した人間として、人間の尊厳を取り戻す「人間回復の道」だった。06年、その病魔に、追い打ちをかけるような医療制度の改正(診療報酬改定)が国によってなされた。内容は、リハビリの日数制限を180日限りとしたことだ。

先生は、このリハビリ制度改悪が「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と国が国民の約束した憲法25条の規定に反するものと看過し、この運動の先頭に立って、国と闘うことになった。たちまち40万人の署名が集まり、先生は不自由な体をおして、厚労省に日数制限撤廃を訴えたのであった。この間、先生は、大切な友人を亡くされた。その人は、「邂逅」(往復書簡 藤原書店 2003年刊)という共著を出版しておられる社会学者の鶴見和子氏(1995年脳出血で倒れる)だった。

鶴見氏は、1995年12月自宅で脳出血で倒れ、左片マヒとなり、必死のリハビリを続けていたが、リハビリの日数制限によって、突然絶望の淵に追いやられ、06年7月31日、枕辺に国の人権無視の医療行政を鋭く突く辞世の歌を遺して逝去された。
曰く「政人(まつりびと)いざ事問わん老人(おいびと)われ生き抜く道のありやなしやと


鶴見和子氏は、リハビリ制度改悪の犠牲者の一人であった。先生は、鶴見氏の無念の思いを我が思いとして闘争心を更に燃やした。誰もが辿る老いの過程の中で、財政再建優先という非人間的な政策の遂行によって、社会的弱者や高齢者が、声も出せずに犠牲となって亡くなっていくような社会に未来はない。

少しして、先生に更なる病魔が忍び寄ってきた。前立腺癌(05年5月)の発症であった。何故これほどの試練を神は、一人の人物に与えるのか。まるで旧約聖書「ヨブ記」のようではないか。私は先生に押し寄せる試練を目の当たりにしながら、そのように思った。神は先生を試練に堪えらる人物とみて、次々と試練を与えた。周囲の人々は、「試練を乗り越える多田富雄先生」の姿に、生きる勇気と励ましをもらった。その姿には、神の意志や高潔なる人間精神の精華が活き活きと存在していた。

先生は、07年7月「寡黙なる巨人」という好エッセイ集を発表した。その中で、自分の中に、大いなる人格が胎動しているのを実感されているようだった。その中に「苦しみが教えてくれたこと」という下りがある。

『「受苦」ということは魂を成長させるが、気を許すと人格まで破壊される。私はそれを本能的に免れるためにがんばっているのである。・・・これからも病気は次々に顔を出すだろう。一度は静かになった癌だけれど、いつかは再発するだろう。でもそのとき、どうせ一度は捨てた命ではないか。あの発作直後の地獄を経験したのだから、どんな苦しみが待っていようと、耐えられぬはずはない。病を友にする毎日も、そう悪くないものである。』(前掲書116-118頁)

私はこの先生の言葉の中に、病魔が次々と襲ってくる中でも、その試練というか異物としての非自己(病気)を、いつの間にか自らの人生(あるいは命)の中に取り込んでしまう免疫的とも言うべき強かな精神を感じてしまうのである。どのような絶望の中にあっても、先生は自らの学び取った免疫学のエッセンスをしなやかな感覚で適用し、自分の人生の質を豊かにする術を知っていたとも受け取れる。先生が最後に言われた「寛容の世界」の一面が視えた気がした。



多田先生の専門分野である免疫学の立場から「寛容」という言葉を見ると、普段私たちが考える「寛容」とは、かなり違う意味合いになる。

免疫学は、免疫学会が誕生した年も1971年だと言うから比較的新しい学問である。免疫は、私たちが心として自己認識している意識とは、別のところで、自分の中に異物として入ってくるウイルスや菌などに反応して、自己とそうでない非自己(異物)を、厳密に識別し、生命としての肉体を守っている機能のことである。したがって、免疫機能は、もうひとりの自己のようなものである。

ところが、免疫の世界では、単に異物を攻撃するだけではなく、一定の条件下において、自己の中に入ってきた非自己に対し寛容の態度を示すことがある。

免疫が寛容に振る舞う条件とは、第一に生まれた時に抗原が入ったもの、第二に抗原が微量か、逆に大量の時、第三に抗原が口から入った時の三つである。一般に抗原が人間の中に入って来た時、この抗原に対抗するために抗体が作られて反応すると考えられている。

この「免疫における寛容」のメカニズムについては、現代医学でも、明確に解明されているわけではない。とにかく、人間の生命維持装置である免疫反応が、寛容になって、異物に対して、攻撃をせずに受け入れるように振る舞うことである。人間の無意識の下で、妙に人間的なやり取りが、生命現象として起こっているのである。

生命としての人間の歴史は、さまざまな病気を引きおこす抗原(異物)との闘いの歴史である。ある時には、中世のペスト(黒死病)や最近のエイズ(後天性免疫不全症候群)のように、人類を絶滅しかねないこともあった。その度に、人間が持つ免疫機能は、長い歳月をかけて、その異物と折り合いをつけるような寛容性を発揮し、異物と共存する道を選択してきたのである。

その意味で、免疫学における「寛容」という言葉は、人類が誕生して以来、生存を脅かすウイルスという異物との血みどろの闘いの中で、獲得した知恵の結晶ということにもなる。それは免疫反応という人間のもうひとつの自己が、侵入してくる異物に対し「寛容」になることで、生命の危機を回避し、時にはその異物を体内に取り込み、共に生きる道を模索してきた歴史でもある。

多田富雄先生の名著「免疫の意味論」が、空前のベストセラーになった理由は、第一に、一般には理解しづらい「免疫」という機能が、先の「寛容」性を発揮するなどして、異物を受け入れるという不可思議な現象を、誰にも分かり易く解説していること、第二には、この免疫反応が、社会学的に応用できるのではと思わせる想像力をもって書かれていたこと、第三に、この分かりにくい免疫の世界を、「超システム」と名付けたことが挙げられる。

結論として多田先生は、「免疫」というものが、決まった「マスタープラン」のようなものによって、機能しているのではなく、「言語の生成過程」や「都市の成立や発展」と同様に、その時その時の状況に応じて、かなり自由にもっと言えば曖昧(ファジー)に働いて、全体のバランスをとっているという注目すべき発言をされた。これは、あらゆる学問分野においても、刺激的な理論であった。

免疫のユニークさは、絶対的な王のような存在があって維持されているのではなく、各地方の権力が、うまく関係性を保って、個体の生命(自己)を維持するという方向で機能しているところにある。その意味で、免疫の機能は、政治的に言えば、一極集中型ではなく、地方分散型のシステムに近いものがある。

これは人類が、さまざまなウイルスとの闘いの中で、こうして生き延びてこられた究極の生存のための知恵でもあった。

このような大きな歴史の流れで考えてみれば「免疫の意味論」が、日本という文明社会で、多くの人に共感をもって受け入れられた理由は、人間の文明そのものが、行き詰まってきていることと無関係ではないはずだ。

もはや地球という小さな星は、あらゆる側面から分析して、世界人類69億人が、豊かさと平静を保って持続的に生存をするには、難しい状況に達している。そこでどのような知恵を使うべきだろうか。少なくても、政治対立、宗教対立を理由に、相争っている状況にはない。今こそ、世界人類は、長いウイルスとの闘いの中で獲得した知恵「寛容」を思い起こし、これを活用すべきではないかと思うのである。

多田先生が最後に発した言葉をもう一度噛みしめてみたい。「長い闇のむこうに何か希望が見えます。そこには寛容の世界が広がっている。予言です。」多田先生の心の中に拡がった希望の光こそが、人類の知恵の結晶(免疫機能の社会学的適用)としての「寛容」という語句だったかもしれない。


最後に書いた二冊の著書 「落葉隻語」と「残夢整理」

「落葉隻語」を読む


私の前に、二冊の本がある。多田富雄先生の近著である。一冊目は「落葉隻語」(青土社 2010年4月20日刊)、もう一冊は「残夢整理」(2010年6月20日刊)である。双方200頁を少し越えた小著であるが、左手一本で一字一字キーボードを叩いている先生の思索の姿を思う時、真実の重量を越えた重みを感じてしまうのである。

この二冊とも免疫学者多田富雄先生の晩年を飾る珠玉のようなエッセイが冬の星座のように見事な配列で鏤められている。私は、先生の遺言というよりも、言葉による形見を受け取ったような印象を受けた。

まず一冊目「落葉隻語」を手に取ってみる。タイトルは、「落葉隻語(らくようせきご)」横に「ことばのかたみ」とある。本は第一部と第二部に分かれている。このタイトル「落葉隻語」について、単純に「秋になりひらひらと落ちてくる落葉のようなエッセイ」という意味にも取れるが、ひとつひとつ含蓄のあるエッセイを読み始めると、免疫学の研鑽によって到達したと思われる多田先生の物事を相対的・多面的に捉えながら、けっして偏らない人生観が、言葉の端々、文章の隅々にまで行き渡っていることを強く感じる。

多田先生は、この「あとがき」に、このように記している。

「こうして、私の末期がん生活が始まった。その間に残った仕事の整理をしなければならない。書いたままの原稿もまとめなければならない。そこでこの本の第二部『ことばのかたみ』が生まれた。折々に書き散らしたものだ。『かたみのことば』ではない。・・・まだまだつらい痛い日が続くだろうが、この本が無事出版されることを夢見ている。書き散らしにも真実はあると思う。 2010年2月 多田富雄」

この先生の言葉の中で大切なのは、「ことばのかたみ」であって、「かたみのことば」ではない、と言い切った先生の免疫的頑固さにある。ここに先生一流の思考法があると思うからだ。先生は物事を観る時、それを解釈するとき、物事を常に相対的見地から判断するという立場を生涯に渡って貫かれた。

これは言ってみれば先生の専門分野で、先生自身が「超システム」と命名された免疫機能の認識法に似ている。つまり人間の免疫機能(もうひとつの無意識的自己)は、人間の意識(心あるいは心理と呼ばれる)とは、無関係なところで、自己と侵入してきた非自己を見分けるために、元々単一の細胞が、赤血球や白血球になって複雑に変化をくり返しながら、全体の統合性と自律性を保って、やがて免疫システムとして機能するように成長したのである。この免疫の素晴らしい機能だけをみれば、全能の神の指示で出来上がったようなイメージがあるが、けっしてそうではない。むしろ、免疫機能の本質は、もっとファジーで曖昧で人間臭さが漂う。私にとって、それは丁度晩年の先生が病気と闘いながら、リハビリ制限白紙撤回運動の先頭に立ち、その傍ら健康な人間からは想像もつかない努力を重ねて、宝石のようなエッセイを次々と紡ぎ出すような行為に似ている。更に言えば、多田先生は、免疫の研究を通して、免疫の中に人間(都市や言語や文化など)を見ておられるのではないかと思う。

免疫機能とは、人間社会の諸都市や市場経済のように、様々な社会状況の変化に対処しながら、その都度、人間の営為と努力の摘み重ねによって、生成されてきたものである。そして免疫機能の免疫たる由縁は、時折見せる「寛容さ」よりも、むしろ「不寛容な頑固さ」にこそある。

さてこの書「落葉隻語」は、様々なエピソードが、一見まとまりのないように配置されている。しかしこの多田先生のひとつひとつのエッセイを全体として見た時に、私は夜空に輝く美しい星座を連想してしまう。星座とは、一見関係のない星座の見え方に過ぎないが、ふと見た時に、白鳥のように見えたり、小熊のように見えたりする。つまり受け止める人間の感性(想像力)によって美しい星座のような統合性をもった全体として見えてくる。

多田先生が自身の名著「免疫の意味論」を読み、多くの人々が、現代社会の行き詰まりを解くためのインスピレーションをもらった。私もその中の一人だった。その背景には、免疫機能が持つ、柔軟な状況対応力にある。私たちの中にあるもう一人の自己としての免疫機能は、あるときには、非自己を無化し、あるときには「寛容」を発揮して、非自己を自己の中に取り込んで共生を試みたりもする。このような免疫機能を考えていると、人間が外部に敵をつくって、政治体制や宗教やイデオロギーの違いを殊更に強調し、戦争にまで始める愚かさとは対極にある賢明さだ。

この著「落葉隻語」は、遺す言葉(遺言)というよりは、未来を生きる私たち後輩へ「贈る言葉(餞別;せんべつ)」になっているように感じる。このエッセイの中には、様々なジャンルが、色とりどりの落葉のように鏤められている。免疫学のこと、自身の闘病記、友人知人の思い出、趣味以上の趣味「能」のことなどだ。

私はこのエッセイの中で特に「死に至る病の諸相」(140頁)を背筋が凍るような思いをしながら読んだ。多くの人の死に直面した記憶を綴った文書を読んだが、概ねそこには、痛みや苦の世界は存在せず、きれいな川(三途の川)が流れていて、花が咲き乱れる野原があると言った死の世界が拡がっているものだ。

ところが、多田先生の記憶の中にある死の世界のイメージは、生暖かいネトネトしたコールタールの海に浮かんでいて、しかも白い腕がヘビのように自分にまとわりついて、タールの水底に引きずり込もうとしているという薄気味の悪いものである。そこで先生は「あんな孤独感を味わったことはなかった」と記している。

通常、三途の川の向こうでは、先に亡くなった肉親がやって来ていて、こちらに来るなと言ったりする。向こうの岸に行ったものは、死者となる。そんな死の文化のイメージを一掃する独創力がある。多田先生は、人生の最晩年を、この死の世界と向き合いながら、免疫機能さながらの不屈の精神をもって病魔と闘っている。

これほど、死と向き合いながら、少しも死を美化せず、死に至る諸相を冷静に分析した文章を私は知らない。この文章には、死に向き合った多くの人が、死を閑かに受け入れる諦観のような感覚は皆無だ。むしろ、自分の身体の病状を冷静に分析しながら、新しい自己が置かれた状況を「寛容」をもって受け入れ、そこから新しい生き方を模索しようとする生存への強い意志が存在することを感じる。まさに多田先生は、超システム(免疫機能)そのものの精神を持っておられるようだ。

このエッセイの最後に配置された「若い研究者へのメッセージ」は、2008年9月に、千葉医学界で行われた講演録である。この時、声の出ない先生はいつものように不自由な左手を使って一音一音声をパソコンで合成して、講演したものである。

「・・・必然性とか独創性とか、抽象的なものの評価は誰がするのでしょうか。それはインターナショナルのサイエンティストのコミュニティーが決めるのです。・・・まずインターナショナルの科学者のコミュニティーに日本人の一人の科学者として仲間入りをしなさい。いいですか、日本人としてですよ。・・・科学はすばらしい人間の営みです。そこに参加できたことは幸福でした。私は重い障害を持ち、その上、癌も併発しています。でもこうなってすべての権威や権力から自由になったと思います。もう何も恐れるものはありません。ここ三年、リハビリ制限白紙撤回を求める市民運動の先頭に立って、厚労省と五分に戦ったのはフリーになれたからです。・・・これが私の最後の講演になるでしょう。この機会に厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。これで終わりです。」(209-211頁)


これは、若き医学関係の研究者に向けたものである。しかしこの中で、多田先生は、若い人たちに向け、自分を「日本人」の研究者の一人というアイデンティティ持った上で、インターナショナルな組織の一員になりなさい、ときっぱりと言った。これが免疫学という最新科学を通して己の人間性を磨いた多田富雄流の「免疫的自己実現法」というべきかもしれない。誠に多田先生らしい発想だ。先生の言いたいことは、インターナショナルな精神とは、単に英語で論文を書き、会議で会議に参加し、学問的成果を追求することではない。先生が、日本の古典芸能「能」に生涯関わり、そこから多くの着想を得たように、日本人として、自己の魂のルーツである日本と日本文化に深く関わることは大切なことである。その上で、国際人として、海外の研究者と正々堂々と競い合いなさい、ということではないだろうか。

多田先生が、この「若い研究者へのメッセージ」を、最後に配置した意味を私たちは考えなければいけない。最近の日本の学生は、海外留学を好まぬ傾向があるという。今年(2010)もアメリカのハーバート大学の学長が、もっと日本の学生留学に来て欲しいと、来日した折に語ったというニュースがあった。日本社会では、若者が難しいことは避けて、安楽な道を選ぶ傾向にある。そんなことでいいのか。おそらく多田先生は、この最後のエッセイにおいて、若い研究者を対象にしているために一層厳しい言葉で語っているようだが、その本意は日本の若者全体にこの言葉を発しているのだと思う。

この著「落葉隻語 ことばのかたみ」(青土社2010年4月20日刊)は、奇しくも多田富雄先生が逝去される一日前に発売された。未来を担う若者たちは、多田富雄の贈る言葉をどのように受け取るであろうか・・・。この著は、まさに生者に贈られた


「残夢整理」を読む


多田富雄先生の遺作「残夢整理」を読んだ。「残務」ではなく、「残夢」である。残夢を広辞苑で引くと「見残した夢。目ざめてなお残る夢心地。野ざらし紀行に『馬に寝て残夢月遠し茶の煙』」とある。

広辞苑が例に上げた芭蕉の「馬に寝て」の句であるが、芭蕉の晩年の境地を伝える書「三冊子(さんぞうし)」に、よれば芭蕉の初案は「馬上眠らんとして残夢残月茶の煙」であったという。これは静岡にある小夜の中山を越える時に詠んだ句である。

こんな光景であろうか。旅の途中、早起きをし、馬の背に揺られながら、未明の内に宿を出る。すると、ウトウトとして、昨夜見た夢が、連なって思い出される。ふと山の端を見れば、夜が明け始め、月は遠く西の方に懸かって、白み始めた空や茶畑から立ち上る煙に溶け入るように見える。

深読みをすれば、芭蕉の句作の裏には、日本文学史上の大先輩である能因や西行の古歌がある。特に西行法師は、芭蕉にとってのヒーローであり、最高傑作「奥の細道」では、西行の歌に対する返歌の面もちのある句が多くある。

この小夜の中山には、西行の有名な歌がある。

年たけて又越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山

この歌は、源平合戦で、東大寺の大仏殿が焼失し、その大仏殿の再興のために、奥州藤原氏藤原秀衡に黄金の寄進を請うため旅の途中、難所である小夜の中山で詠んだ歌とされる。この時、西行は69歳の高齢だった。若い頃に、遠縁に当たる奥州藤原氏を訪ねて旅をしたことが西行の脳裏を駆け巡っているのが分かる。西行の歌を現代語にすれば、「老人になって再び目の前にある小夜の中山を越えようとしてる。前に奥州に行った若い頃とは訳が違う。この命が奥州まで保ってくれるだろうか。」というほどになる。芭蕉は、この西行の命を賭けた覚悟の旅とは、真逆に自分が、小夜の中山で、馬に乗って呑気に峠を越えている自分の姿を思い、自分自身を揶揄(やゆ)しながら、西行の旅を偲んでいると考えられる。

多田先生は、この芭蕉の句から、この最後の著の「題」を思いついたのであろうか。

この著の内容は、一見多田先生の、生涯に邂逅した人々(師や友)を懐かしんで書いている。しかもここに取り上げられている人々は、すべて亡くなった人物である。多田先生は、深い思いを持ちながら、亡くなった知人たちの生きた証のようなものを、鎮魂の意を込めて書き上げたもの思う。

私はこの書を読みながら、直ぐに心理学者ユングの「ユング自伝」(みすず書房刊)を思った。「ユング自伝」の中には、ユングの「死者の書」とも言うべき「死者との七つの語らい」という一節がある。



このユングの詩篇を、私なりの解釈でピックアップし羅列すると、次のようになる。

1、死者たちは、探し求めたものを見いだせず、エルサレムから帰ってきた。彼らは私の家にはいり、教えを得ることを願った。そこで私は教えを説き始めた。
2、夜死者たちは壁に沿って立ち、叫んだ。われわれは神について知りたい。神はどこにいるのか。神は死んだのか、と。
3、死者たちは吼え、荒れ狂った。彼らは未完のままにされたからである。
4、人間は神々の本質を分有している、人間は神々から来たり、神へと去ってゆく。
5、人間は弱く、従って共同を避けることはできない。
6、神々やデーモンや魂について話すのを止めよ。それはもともと遠く以前よりわれわれの知っていたことだ、と。(死者たちの声)
7、人間は門である。それを通じてお前たちは神々、デーモン、魂の存在する外界から、内界へ、より大なる世界から小さな世界へと到る。人間は小さく空虚なものである。お前たちはそれをすでに後にしている。そして再び果てしない空間、より小さいあるいは奥深い無限の中にいる。・・・ここにおいて死者たちは沈黙し、夜中に家畜を見守る牧者のたき火の煙の如く、立ちのぼっていった。

NAHTRIHECCUNDE
GAHINNEVERAHTUNIN
ZEHGESSURKLACH
ZUNNUS
(みすず書房「ユング自伝」(下)河合隼雄他訳 1973年刊より引用)


ユングのこの文章は、難解で有名であるが、キリスト教の異端として知られるグノーシス主義の影響があると言われる。グノーシスはギリシャ語の「知識」や「認識」を意味する「GNOSIS」から来ている。グノーシス主義は、人間は本来神と一体で、神との合一を達成することによって救済されるとする一派である。

ユングの思想とグノーシス主義の影響はともかく、私はこの文章を少し吟味してみよう。

まず、死者が、探したものを見いだせず、エレサレムから戻ってきた。エルサレムとは日本的に言えば「黄泉の国」ということになろう。そして彼らは、絶唱するのである。「神は死んだのか?!」と。次に重要な象徴的な言葉が並ぶ。それは「彼らは未完のままにされたからである。」という一言だ。これは死者として未完であったのか、人間として未完であったのか。果たしてどっちであろう。私は人間としての未完と考える。だからこそ、死者は生ある者のいる場所に戻ってきて、生者にして知恵あるものに教えを乞いに、この世に舞い戻ってくる。そこで「七つの語らい」に登場する智者(ユングの魂?!)は、死者たちの困惑を受け、彼らを教え諭して、最後には「牧者のたき火の煙の如く、立ちのぼっていった。」というように、成仏させてしまう。この成仏の風景は、芭蕉の句「馬に寝て残夢月遠し茶の煙」とどこかで符合しているようにも感じられる。

ところでこの、心理学者ユングの「死者への七つの語らい」であるが、私は、このユングの作品が、内容的にも、構造的にも般若心経に似ていると感じる。般若心経は、仏弟子を教え諭して、この世の一切は「空」であることを教え諭して、彼岸に行けと智慧の完成を助けるのである。

「七つの語らい」の中の最後の部分に注目したい。これは、般若心経の最後の箇所にのマントラ(呪文)に当たる。つまり「ギャーティー。ギャーティー、ハーラー、ギャーティー」と日本人が好んで唱和したり写経するあの部分である。

般若心経のマントラの部分を敢えて訳してみると次のようになる。

羯諦。羯諦(ギャーティ・ギャーティ)。 往ける者よ、往ける者よ。
波羅羯諦(ハーラー・ギャーティ)。   彼岸に往ける者よ。
波羅僧羯諦(ハラソー・ギャーティ)。  すべての彼岸に往ける者よ。
菩提薩婆詞(ボーディー・スーバーハー)。悟りよ、幸あれ。
般若心経。               智慧の完成のおしえ。

(筆者拙訳「般若心経の智慧について」より引用)


ユングによる「死者への七つの語らい」は、内容的にも、構造的にも、「般若心経」に極めて似ている。(あるいはチベットの「死者の書」にも、)これはおそらくユングが東洋研究の過程で知り得た「般若心経」からのインスピレーションによって書き上げた作品ではないかと推測するのである。

グノーシス主義の本質である「知恵」や「認識」による、人間と神との合一によって、自己の完成を目指す考え方は、「般若心経」の「智慧の完成おしえ」に似ている。これはユングの発見というよりは、元々西洋と東洋の人間が、古代より交流していた証左だと思うのである。(注1)

(注1)例えば、仏教の経典に「ミリンダ王との問い」というものがある。これは紀元前2世紀頃、北西インドを支配していたギリシャ系のミリンダ王と仏教の高僧がギリシャ的思考とインド的思考が真摯な議論を重ねる対話形式の経典である。
さて「残夢整理」という多田先生の最後の本に立ち戻ろう。死者が多田富雄という智者を特定し、教えを請いに舞い戻ってきたという見方ができると考えられる。

ユング心理学には、「しばしば、死んだ親戚、配偶者、友人が、死ぬべき人を連れに来る」(フォン・フランツ著氏原寛訳「夢と死」死の間際に見る夢の分析 人文書院 1987年刊)という仮説がある。

多田先生の「残夢整理」の中に登場する人々を個別に見てみよう。



  • 第一話(レ・ゾアゾウ)、中学の同級生(疎開児童でマラルメの詩を諳んじるなどフランス文学に傾倒)N君の追想。(生死不明)
  • 第二話(珍粉漢)、中学からの親友の画家永井俊作氏の追想。(ガンで死亡)
  • 第三話(人それぞれの鵺を飼う)、大学時代の親友の三人の追想。関君(実家の病院が破産、死亡、ポリオの持病を生涯背負っていた)、秦君(脳出血で死亡)、土井享君(中野好夫の息子、自殺)との学生時代の多田先生の青春記。
  • 第四話(宙に浮いた遺書)、従兄弟の篠崎裕彦さん(戦争に翻弄され結局、腸結核のため二〇歳で早世)の追想。
  • 第五話(ニコデモの新生)、多田先生に免疫学の道を開かせた恩師岡林篤さん(心不全で死亡)の追想。
  • 第六話(朗らかなディオニソス)、観世流能楽師橋岡久馬さん(肝膿症で入院後食物を喉に詰まらせ急死八〇歳)の追想。


この六話を全体で見通して見ると、多田先生が生涯において忘れがたい八人の人物の「往生物語」の風情が見える。そこで、ここに登場する八人の人物が、自分の人生に未練のようなものを残して亡くなったのか、というところに焦点を絞ってみる。

すると、どうなるか。自分の人生に悔いを残さず、わが人生において成すべき事は成したと、思いながら亡くなった人物はいるであろうか・・・。

難しいが、第五話の「岡林さん」や第六話の「橋岡さん」のお二人しかないかもしれない。そのポイントは、二人はそれぞれの道(医学と能楽)で、生涯を貫く仕事に携わり、名も残されている。その意味で、未練なく往生なされた気がするのである。残りの六人については、残念ながら、人生についてほろ苦いような思い出と未練というものが残っているような気がする。

第一話のNさんは、特にそうだ。Nさんという匿名でしか表記できないところにも、そのようなものを感じる。多田先生が、最後まで消息も分からず、でもお会いしたかった人物だろう。

Nさんは、大学には行かず、フランス語をアテネフランスで学び、マラルメの詩を愛した才気煥発な人物だった。しかし何故か犯罪などを犯し、ついには貧困と流浪の果てに、病がちになり、ついには消息が取れなくなってしまった人物だ。この人物を語りながら、最後の箇所で、多田先生は、若い頃に東大の図書館の屋上から天下の東大生たちを見下ろし「レ・ゾアゾウ」(注2)と言いながら笑った二人の思い出を語っている。このNさんの人生はどこで計算が狂ってしまったのか。多田先生は、「残夢は、残夢のままがいいのかも知れない。」と言いながら、往生しきれない、あるいは往生させきれない何ものかを感じる。私はここに、イメージとして生木を焼いた後で燃え切れず燻(くすぶ)っている情景を連想してしまった。



第二話「珍粉漢」は、大親友で「精神的なホモ」とまで言われた画家永井俊作氏の壮絶な末期癌の闘いを映画のようなタッチで描いた迫真のエッセイである。この第二話の最後で、多田先生は、ポロリとホンネを漏らしている。
「残夢はひっくり返すと無残である。私はこれから何年残夢をひっくり返しながら生きなければならないのだろう。」(「残夢整理」 51頁)

このホンネの言葉には、前提がある。その前提とは、永井氏の遺作「廃砲と廃兵」という絵画の存在である。多田先生は、この無二の友の作品を高く評価し、画家としての永井俊作氏を、天才とまで評している。世の中には、埋もれた天才というものがいる。言ってみれば、ゴッホのような人だろう。生きている時には、まったく世間から見向きもされず、やがてその独創性が評価されて、誰もが彼を天才とみて疑わなくなる。日本の宮沢賢治もそうだ。岩手の片田舎花巻に生まれた賢治は、生きている時には、日本の文壇では評価の対象ですらなかった。

画家永井氏の作品に対し、それを見たこともない私のような浅学非才な者が、勝手なことを言うのは適切ではない。永井氏の才能については、ここでは触れないことにする。私は永井氏の五〇号の遺作「廃砲と廃兵」という作品に強くインスパイヤーされる多田富雄先生の魂に焦点を当てることにしたい。そこには、この永井氏と悲惨な戦争の時代を生き抜いてきた者だけが分かる同世代意識というべきか同時代言語というべきか、二人の魂が響き合う「共通言語」があると思うからだ。

ところで、この永井氏の作品だが、青い空の下に、爆撃によって緑がむしり取られた赤い大地が広がっていて、そこにミイラのような敗残兵が横たわっている構図だという。多田先生の説明によれば、以下のようになる。
「白い包帯でぐるぐる巻きになったミイラのような一人の男が腕枕したような形で横たわり、その隣に針金細工のような大砲が、地平に砲口を向けて置き去りにされている。それはあくまでも青く心が吸い取られるようだが、低い白い雲がはるか地平の一点に向かってたなびいている。草原のむしりとられたような赤土の上に横たわっているミイラのような人物は、おそらく自分を描いたものだろう。・・・白い雲は・・・私にはそれがどうしても得られなかった『永遠』に見えてならない。」(「残夢整理」 49-50頁)

この中で、多田先生が言われている「青い空」と「白い雲」と包帯を巻いた「ミイラのような人間」という構図にまず注目した。さらに「白い雲」にどうしても得られなかった「永遠」を見る、という言葉に心を引き寄せられる思いがした。

多田先生と永井氏の青春は、戦争世代と呼んでいいかもしれない。この時代に浅春を送った二人は、戦争というものが、日本に生きるあらゆる人間に甚大な悪影響を及ぼした世代の代表選手である。有り余る画才を有しながら、正当な評価を受ける前に、永井氏は40代の若さで亡くなってしまう。遺作である「廃砲と廃兵」は、この「題」や全体の「構図」、「モチーフ」から見ても、戦争という大きな歴史のうねりに翻弄され、どうにもならない人間の無常観を、描き切って死にたい、という永井氏の並々ならない画家魂が伝わってくる作品なのだろう。一方、多田先生は、免疫学の道を進んで、世界的な免疫学者となったが、2003年脳梗塞で倒れ、半身不随となり、声を失ってしまう。

多田先生は、何故、世の人は「永井俊作の天才を理解しないのだろう」とずっと思ってきたのかもしれない。同時に多田先生は、戦争に翻弄され続けた自分たち「戦争世代」の人間が、この時代の歴史を問い、そして時代を切り取るだけの深い陰翳ある芸術作品として友人の画家永井氏が描いた「廃砲と廃兵」を世に広く伝えたい、そう思ってきたのかもしれない。

また私は、この永井氏の遺作が、先生の著「残夢整理」の全体を貫いているイメージではないかと感じた。またそれは、青い空の彼方に長くたなびく、もやもやとした白い雲の情景に、芭蕉の野ざらし紀行での句「馬に寝て残夢月遠し茶の煙」の底流に流れる「残夢の人生観」に極めて似ているように観じるのである。



第三話は、多田富雄先生の大学時代の親友たちとの交友記である。多田先生は、著書「落葉隻語」(2010)の冒頭で、自分たちを「昭和の子」と称している。そして明治生まれの俳人中村草田男(1901-1983)の「降る雪や 明治は遠くなりにけり」を引用している。多田先生の人生最後の心境というものは、中村の句と同様、明治の次に昭和という時代が歴史という波にさらわれていくことを、一抹の寂寥感をもって眺めておられるようである。

人間は誰でも生きた証のようなものを遺したいと欲するものだ。しかしそのことは、若い頃に考えている程、容易なことではない。人の一生は、誰かが言っていたが、古池から沸いてくる泡のようなもので、その一滴の泡に特別な意味を感じることはない。しかし人間は、それでも自分の人生に何らかの価値と意味を見つけたいと願い、死んでいくのである。

60年前と言えば、自然の膨大な営みからすれば、瞬きほどにもならない時間に過ぎない。この短い時間の中で、多田富雄という人物は、免疫学という新しい人間科学の学問領域を志し、複雑な免疫の仕組みを解明して、その分野のトップランナーとして走り続けてきた。

誰もが多田先生のように、歴史に名を残すようになることはない。それは才能の有無、タイミング、恩師、周囲の環境など、様々な条件が揃って初めて叶うものである。

多田先生は、幸運にも、免疫学の世界的権威となって、オピニオンリーダーにもなり、社会的な発言権を得た。その結果、文学的才能にも恵まれていた先生は、免疫的機能の社会学的な適用に道を拓く「免疫学の意味論」(1993)という名著によって、いっそう著名な学者となった。

この第三話は、多田さんの友人三人の追悼のエッセイであるが、それだけではない。共に「昭和の子」として、困難な時代を生きた多田先生とその友人たちの生きた証が綴られている。それは先生が書き残さなければ、古池に浮かぶ泡のように消え去っていく時代の記憶の記録である。

不自由な体と末期癌の進行の中で、多田先生は、「昭和の子」としての友人たちの良いところも悪いところも含め、余すところなく、書き残そうとしている。人間は、心に「鵺のような得体の知れない妖怪」を飼っているようなものだ。その制御不能な「ヌエ」が、暴れることによって、人間の生涯は大きく変わる。それは仏教的に言えば「業」という言葉にもなろう。

多田先生は、「脳の中の能舞台」(新潮社 2001年刊)の中で、このヌエが、ギリシャ神話の「キマイラ」から来た蛇と山羊と獅子が合わさって口から火を吐く妖怪であることを紹介している。これが平家物語にも登場し、能の「鵺」として結晶したわけである。人間は、心に鵺を抱える困った存在である。しかしこの鵺を抱えているからこそ、面白いとも言える。

人間を翻弄し、時には破滅まで追い込む、鵺はある意味では、人間の心の奥底にある自意識とも言えるだろう。この第三話に登場するそれぞれの人生は、各自個性的でもあり、宿業(鵺)のようなものが、根底にあり、とてつもなく悲しい。

関君は、実家の病院が破産、死亡、ポリオの持病を生涯背負って死んだ。、秦君は、医者となったが、若くして脳出血で死亡した。土井享君は、著名な作家中野好夫の息子で、詩人として有名な土井晩翠家の養子となったが勤務先で投身自殺をした。語られることのない古い友人たちの真実の物語を人生の最後の最後で綴った多田先生の心優しさと書き残すのだという「気迫」に圧倒される思いがした。



第四話は、多田富雄先生の従兄弟篠崎裕彦氏の20歳の時の遺書である。この人物は、文才に恵まれ詩などを発表するなどしていたが、時代の子として軍国主義教育の影響下で軍国少年となった。彼は、存亡の危機にある祖国を防衛するとの熱き気持ちを持ち、特攻隊に志願し、琵琶湖畔の大津で訓練に励んだ。そして遺書を書いたのである。

「御母上様」で始まる遺書は、「きけわだつみのこえ」(日本戦没学生の手記)に見られる悲しい響きに満ち満ちている。

しかし人生は不可解なものである。身長171cm、67kg、胸囲90cm余りの頑健な肉体を持つ少年は、腸結核に冒されていた。特攻どころではなくなってしまう。

結局彼は、敗戦後の昭和21年5月31日に亡くなった。後には、40篇余りの詩とエッセイ、短歌、俳句、そして未完の戯曲が遺されていた。多田先生にとって、この篠崎氏は、大人の匂いのする憧れの存在だった。泳げない先生に水泳を教えたエピソードなどがある。無念の思いで亡くなったこの篠崎裕彦氏の人生をふり返りながら、多田先生は、この人物の人生の真実を遺そうと不自由な体をおして健筆をふるった。

戦争とはいったいなんだろう。第二次大戦では、無名のまま、無数の罪もない青少年たちが、理不尽極まりない無謀な戦争のために亡くなった。多田富雄先生は、自分の身内であるひとりの若者の遺書を公開し、もしも戦争がなかったならば、文才を伸ばして、別の人生が拡がっていたかもしれないという無念の思いを書き残そうとした。その先には、多田先生の文明批判(戦争批判)があると思われる。

つまり「免疫の意味論」の社会学的適用から言えば、「戦争」という行為こそ、免疫的「寛容」という選択を捨てた人間の無謀で破壊的な暴力行為ということになる。例えばそれは、異物を非自己として、劇症肝炎を発症して、あっという間に亡くなってしまうことに似ている。人間は戦争を避け、平和な国際関係を実現できる術を人間の未知の知恵である免疫の寛容から学ぶべきかもしれない。


10
第五話「ニコデモの新生」は、多田富雄先生の人生の針路に決定的な影響力を持った恩師岡林篤氏の思い出話である。ここには、何故、多田先生が免疫学という学問を志し、どのような師に、どんな薫陶を受けて、世界的な学者としての成功を勝ち得たかがよく分かるエッセイだ。同時に、多田先生の人生哲学そのものが、この岡林教授の影響下で生成し、そして成熟していった過程がよく理解できた。

人は出会いによって人となる。優れた人物に会い、そこでその人の生き様を学び、人生が開け、一角の人物になる。しかしどの人物が、自分にとって大事な師ととなりえるかは、その時点では容易に知り得ない。むしろ、何と頑固で分からず屋の人物で自分にはこの人とは合わないと思い違いをして、離れてしまうかもしれない。

多田先生の場合、岡林氏の少しぶっきらぼうでつっけんどんとも言えるような指導にも、よく付いて行って、篤い信任を得た。岡林氏のウサギを実験動物(遷延感作の実験)として使った自己免疫疾患の研究が、多田先生に、研究の面白さを教え、同時に進むべき路(学問領域)を示してくれたのだ。

おそらく岡林氏の教えは、多田先生の中で血肉化し、後を継ぐ若き研究者たちにも、伝播しているものと思う。このエッセイの題である「ニコデモの新生」とは、岡林篤教授が、禅問答のようにして、弟子「多田富雄」に放った謎かけであったかもしれない。

ニコデモは、新約聖書ヨハネ伝三章に登場するユダヤの役人の名である。

このニコデモが、キリストのところにやって来て、このように聞いた。
「奇跡を見ました。あなた様は天上から来られた神の子に違いありません」
するとキリストはこのように答えた。
「奇跡を見たって?そのようなことではいけない。人は生まれ変わらなければ天上に入ることはできない。肉によって生まれたものは肉であり、霊によって生まれたものだけが霊になる。・・・あなたたちはイスラエルの教師でありながらこんなこともわからないのか」

当初、多田先生は、「霊によって生まれたものだけが霊になる」というキリストの言葉に、強い感動を覚えた。だが、岡林先生の真意は、そこにはなかった。後になって、実は岡林先生が「あなたたちはイスラエルの教師でありながらこんなこともわからないのか」というところに力点を置いて、自分という弟子「多田富雄」という若い研究者を鼓舞していたことに気付いたのである。

多田先生は、このエッセイの冒頭で、本を探している恩師岡林氏の夢を見たと語る。後に、これは英語の論文を発表して少し有頂天になっていた時に、物理学者寺田寅彦の英語の論文集を突きつけて、多田先生に奢ることなく、謙虚に学究の道を進むことを諭した岡林篤先生の薫陶の思い出だったことが明かされる。まさに岡林篤氏という人物があって多田富雄先生という大学者にして文化人が日本に生まれたのである。岡林氏が多田先生に示した聖書の「霊から霊」という言葉は、師弟愛とも言える心と心の結びつき(相互信頼)を意味する暗喩(メタファー)ではなかったろうか。

まさに人は恩師と呼べる人に出会ってはじめて「一角の人」になる。換言すれば、一角の人とは、恩師と呼べる人物と出会えた「人」と言えるかもしれない。この恩師岡林篤氏との思い出も、晩年の先生にとっては残夢だったようである。


11
いよいよ最後の第六話となった。最後の章は、多田先生にとって、もうひとつのライフワークとも言うべき「能」の師匠にして同志的存在(?!)の故橋岡久馬氏(1923-2003)についての思い入れたっぷりの回想である。

多田先生は、学生時代偶然に橋岡氏の「高野物狂」(世阿弥作)を鑑賞し、全身が震えるような感動を覚えた。それは正統の「能」とは、かけ離れた芸であった。感動した多田先生は、熱烈な感動を文書にしたためて橋岡氏に送った。すると分厚い返書が来た。またその文が変わっていた。巻紙に墨書きで候文であるが、随所に印判が押されているというものだ。それから、二人の「能」という芸道を介しての交流は、橋岡氏が亡くなるまで続いた。1991年には、多田先生が書き下ろした新作能「無明の井」のシテを演じた。これは脳死と心臓移植を主題にしたテーマの「能」であり、日本のみならず、アメリカででも、ニューヨークなど三都市を巡演して大好評を博した。おそらくこの作品の世界的成功は、橋岡氏の存在なしにはあり得なかったかもしれない。多田先生にとって、橋岡氏はそれほどの存在だった。橋岡氏は、多田先生にとって、能の師匠であり、同志であり、恩人とも言うべき人物だったようである。その橋岡氏を、多田先生は短く「朗らかなディオニソス」と表している。換言すれば、橋岡氏は、世間の常識を越えた世界に孤高の存在として生きる能芸の神の化身とも言うべき存在だった。

橋岡氏は、観世流の名門「橋岡家」に大正12年(1923)に生まれた。関東大震災のあった年の生まれである。若い頃は、才能に恵まれ、あの戦後を代表する能楽師と言われる故観世寿夫氏(1925-1978)と人気を二分するような人物だった。ところが、第二次大戦後復員して間もなく肺結核を患い、片方の肺を摘出して、能楽師とて大切な呼吸機能と立ち姿の美しさを失った。そこから才能豊かな橋岡氏は、姿の美しさを越えた。能の作品に貫かれている主題の本質に迫る舞台を心がけた。主題の奥にあるありのままの真実を、自身の解釈で、囃子なども、現代ではめったに使われることのない江戸期ものにして、悠然と舞ったということである。学生時代の多田先生が、感動したのも、姿の美しさではなく、高野山まで、自分の養子である家出をした子どもを探し当てるという物狂いの人物の異様な形相とその中にある子を思う情念のようなものであった。

芸術における美というものは、さまざまな形があるが、醜(しゅう)も、また美に転化しうるものだ。多田先生が、橋岡氏の演じる落ちぶれた姿の物狂いの武士に異様なほど感動を覚えたのも、その姿に人間の真実が内包されていたからこそのことであった。

多田富雄先生が、NHKのドキュメンタリー「脳梗塞からの“再生” ~免疫学者・多田富雄の闘い(2005年12月4日放送)」の冒頭、まさに自身の醜の姿を、そのまま晒し、涎(よだれ)を垂らしながら、賢明にリハビリの歩行練習をしている姿があった。私はその映像に異様なほど感動を覚えた。この時、多田先生は、自分の真実の姿を、どんな映像でもそのまま映して欲しいというようなことを、NHKの担当者に語ったそうだ。私は、多田先生の生き様には、橋岡久馬氏の影響があるのではないかと考える。橋岡氏は、多田先生にとって、単に「能の先達」というだけではなく「人生の師」とも言える人物だったのだろう。もっと言えば、多田先生その人が、若き頃に見た天才能楽師橋岡久馬氏が演じた「高野物狂」の主人公ではなかったのかと思うほどだ。何かに狂うほどの情念と信念がなければ、学問でも芸術でも人を感動させる領域の境地に至ることはない。

多田先生は、この最後の橋岡氏を綴った最後の章のどこかで、末期癌の転移による鎖骨骨折をして、一文字一文字、魂を振り絞るようにして、書き綴ってきた左手もついに使えなくなってしまった。何という執念だろう。こうして8人の死者に捧げられた「往生物語」が無事完結したのである。多田先生の最後の姿は、まさに羽をもがれた白鳥のようである。その多田先生の「白鳥の歌」とも言うべき「残夢整理」を読み終えた後には、初秋の早朝に感じるような爽やかな読了感だけが残った。

多田先生の執念の強さ、己の残夢整理を成し遂げようとする意志の力には、本当に驚かされる。


12
多田富雄先生が最後に出版した二冊の本を手がかりに、NHKのカメラを前に、遺言のように綴った「僕は絶望はしていません。長い闇のむこうに何か希望が見えます。そこには寛容の世界が広がっている。予言です。」の意味について考えてきた。

免疫学の研究者として、また趣味の能作者として順風満帆の人生を送られてきた多田富雄先生が、旅先において2001年脳梗塞に倒れ、言葉と右半身マヒの境遇となり、先生自身が「受苦」と呼ぶ困難なトラブルが、次々と津波のように押し寄せてきた。それでも、多田先生は、その困難を一旦受容し、右手が使えなければ左手を使いそれでキーボードを叩いて文章を書く訓練を行い。声はコンピューターで合成をして、しゃべるまでになる。また病院におけるリハビリ期間が、法改正によって180日で打ち切りになると聞かされるや、直ちに、この法改正反対運動の先頭に立って闘った。この運動において、多田先生は、法改正が病気やケガで人生の質をリハビリ訓練によって回復しようと努力している人間にとって、「人間を止めろ」と言われたに言葉に等しいことを世間に強く訴え続けた。

脳梗塞で倒れた2001年からの多田先生の晩年の9年間は、押し寄せてくる病魔と社会矛盾との闘いに明け暮れる凄まじい人生だった。しかしながら、多田先生は、こうした社会矛盾の真っ直中にあっても、けっして社会や人間や人生に、絶望することはなかった。多田先生の心の中には、人間社会に対する根源的な信頼感のようなものがあった。

「落葉隻語」の24章に「終わりから始まる未来」というエッセイがある。この中に、多田先生の最後の言葉「寛容の世界」を偲ばせる下りがある。

『「終わり」というのは、必ず何かが始まる、私の家でも、昨年は双子の孫が生まれた。ふっくらとした赤子のほっぺたをつつくと、あどけない微笑で応える。

「そうなんだよ、じいじの世代はお前たちに大きな負の遺産を残した。すまなかったが、強く平和に生きておくれ」と語りかけたい気がする。同時にこの子が大人になるころ、この地球は大丈夫だろうか、目を瞑って想像してみおた。私のいなくなった世界を思った。

すると、不思議にも子供の走り回っている情景が目に浮かんだ。(中略)私は長い時間その世界を想像し、これが私の死後の世界だと確信した。それ以外の情景は浮かばなかった。これからだってもっと生きにくい時代が続くだろう。でもあんな子供がいる限り、未来は大丈夫だろう。私は幸福な気持ちで、白昼夢の最後のページを閉じた。

 去年今年貫く棒の如きもの 虛子

力強い時間の連続性を信じて生きようと思った。』(「落葉隻語」97頁-98頁)

多田先生は、己の最後の境地について、高浜虛子の俳句を引き「貫く棒の如きもの」と剛毅に語ったのには、思わず唸ってしまった。いくつもの時代を越えて、世界には人間の背骨に当たる太い骨が貫いている。それはひとつの法則のようなものである。例えば「文化」や「免疫の法則」もまたこの「貫く棒のごときもの」である。

晩年の多田先生の生き様を思った。これでもかと自分に容赦なく押し寄せてくる困難に接し、先生はひとつひとつの問題を、その都度解決しながら、自身の個々の行動を決めて行った。この中に、私は多田先生が、免疫学で獲得した「寛容」の知恵と、日本文化の奥に通底している「和」の精神が融合していることを思った。

彼の人の遺影に浮かぶ微笑みは輝く未来見たかのようだ  ひろや


おわり 

2010.07.2-8.31 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ