旧芝離宮恩賜庭園 春の輝き


浜松町にある旧芝離宮恩賜庭園
(2010年2月6日撮影)



旧芝離宮恩賜庭園 州浜の景観



左側の黒こげ茶のビルが貿易センタービル

春まだ浅き2月6日、春一番と思われる強風の中を、JR浜松町駅の北口を降りて、東に80mほど歩き、「旧芝離宮恩賜庭園」を訪れた。ここは住所で言うと、港区海岸1−4−1という場所になる。

少しこの庭園の歴史を遡ってみれば、ここはかつては海だった場所であった。徳川の世になって、埋め立てが進み、延宝6年(1678)に徳川幕府の老中大久保忠朝の邸宅となった。忠朝はこの中心に「楽寿園」という回遊式庭園を造ったのが、現在の庭園のはじまりとされる。

幕末の頃には、紀州徳川家の芝屋敷となっていたが、明治維新後は、有栖川宮家のものとなる。さらにこれを当時の宮内省が購入し「芝離宮」となるが、関東大震災(1923)によって、庭園の建物、樹木などの大部分が倒壊。翌年に昭和天皇のご成婚を記念し、当時の東京市に下賜(かし)され、東京市がこれを復旧したというものである。

整備された庭園を訪れた昭和天皇は、この庭園の東にある九尺台と呼ばれる高みに立って、西に海辺で漁をする漁民たちを眺められたということである。芝エビの名は、この地のとれるエビであるから、この地は戦後60年の間に大変貌したことになる。

江戸期の大名が好んだ回遊式庭園としては、規模も程よく、何より実に質素で瀟洒な造りをしている。何でも、小田原から庭師を呼び寄せて、作庭したそうだ。中には、かつて茶室があったという付近には、小田原の武士の家にあった石が、茶室の土台石に活用されるために、運ばれてきたということだ。石柱と名付けられたコーナーの石の配置を見ながら、私は何故か、古代ローマの遺跡である世界遺産フォロ・ロマーノを思い出してしまった。

この庭園で問題なのは、やはり庭園を取り巻く都市化の波が、庭園全体の価値を、著しく損なっていることだ。考え方によっては、ニューヨークのセントラルパークのように、池と樹木の向こうに摩天楼が聳えるものとして、日本的庭園と近代建築の不協和音的景観に美を見出す人間もいるかもしれない。しかし、私はどうも、好きにはなれない。周囲のビルを借景にできるようなスマートなデザインを持つビルがあれば少しは気が晴れるかもしれないが、この周辺のビルの中に、この庭園の周辺に立つということを意識して作られたと思えるビルは、残念ながら、東京の高層ビルの先駈けであった浜松町駅の駅ビルとして建てられた貿易センタービル(152m)以外には見あたらない。

貿易センタービルは、1970年に建てられたもので、当時としては霞ヶ関ビルを追い越して、日本一のノッポビルであった。おそらく高層ビルが、この庭園の真ん前に立つということで、さまざまな反対の声を加味し、黒っぽい地味な外装になったものであろうか。それでもこの庭園に入って、西側をみると、貿易センタービルが、巨人のように聳えていて、西の空半分を占拠しているように見えてしまうのである。

今後、この周囲には、さらにこの美しい瀟洒な庭園を圧する形で、ビルが建っていくと予想されるが、この庭園のもつ独特の景観を殺さないためにも条例などによる法的配慮をする必要があることを痛感した。

2010.3.4 佐藤弘弥

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