「エルベ渓谷」の世界遺産登録抹消と平泉
柳の御所脇から平泉バイパスと高館橋を望む
(07年11月18日 佐藤弘弥撮影)
高館橋から柳の御所と高館方向を望む
世界遺産のコアゾーンである柳の御所を掠めて
平泉バイパスが北に伸びている。
近くには道の駅を建設する計画もある。
(08年9月29日 佐藤弘弥撮影)
はじめに
今から2年前の2008年7月、平泉がユネスコ世界遺産登録を果たせず、「平泉ショック」という言葉が、新聞に掲載されたことは記憶に新しい。何しろそれまで日本が推薦した案件が、登録から洩れたことが一度もなかった。ユネスコ世界遺産条約の優等生だった日本はいったいどこへ行ってしまったのか。
ユネスコ世界遺産に登録されている遺産の数が、2009年現在890件を数え、ユネスコ自身が、遺産登録を抑える傾向にあるのではないかと言われている。言うならば、登録のハードルは年々高くなってきているということになる。ところで、平泉ショックの前年の2007年、日本は石見銀山の登録に際し、世界遺産委員会で大変な苦戦を強いられた。それはユネスコに、各国の推薦案件を審査するNGO「イコモス」(国際記念物・遺跡会議)が、石見銀山の登録について、ユネスコ世界遺産委員会に「登録延期」の勧告をしたことから始まった。イコモスは、石見銀山の遺産について、日本が作成した推薦書に説明した世界遺産登録の評価基準(ⅱ)、(ⅲ)、(ⅴ)をいずれも証明不十分として「登録延期」を勧告した。
これに対して、日本は猛烈な反論を展開した。「環境」というコンセプトを用い、「自然との共生」を掲げて、21各国で構成されるユネスコ世界遺産委員会のメンバー国に対し、猛烈なアプローチを転換した。この結果、石見銀山は、大逆転で登録に漕ぎ着けたのであった。これがイコモスの誇りを傷付けたことは想像に難くない。平泉の登録が、この石見銀山の登録の翌年に行われたことは、ひとつの不幸であったかもしれない。
本稿では、09年6月、スペインのセビリアで開催された第33回ユネスコ世界遺産委員会の概要を押さえた上で、10年1月18日、政府より、正式に発表された平泉の世界遺産登録に向けた新推薦書(11年バーレーンで開催される第35回ユネスコ世界遺産委員会で検討される)について検討を加え、最後に平泉の世界遺産登録の可能性について考えてみたい。
尚、10年1月18日現在、新推薦書の全容は非公開となっている。本稿は09年10月9日、新推薦書作成委員長工藤雅樹氏が岩手県議会で本会議講演した「推薦書暫定版の概要と岩手にとっての平泉」での講演内容とその際に資料配付された「前回の推薦書からの変更点に関する整理表」を基礎的資料として、更に10年1月18日にプレスリリースされた「世界遺産推薦書の概要-平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」を参考に、私的な見解をまとめたものである。したがって、新推薦書の原文との文言の相違がある可能性がある。その辺りを加味してお読みいただければ幸いである。
1 第33回ユネスコ世界遺産委員会セビリア会議
エルベ渓谷が世界遺産から抹消される
09年6月、第33回ユネスコ世界遺産委員会(注1)が、スペイン有数の観光都市セビリアで開催された(以下セビリア会議という)。今回のセビリア会議での注目点は、ドイツにある「ドレスデン・エルベ渓谷」が、「登録リスト」から抹消されたことにある。この登録抹消は、2007年の「アラビアオリックスの保護区」(オマーン)に次ぐ2例目のものだ。もうひとつ、日本にとっての残念だったのは、フランスなど6カ国で共同推薦していた「ル・コルビュジエの建築と都市計画」(日本では上野の国立西洋美術館)が、イコモス(注2)の勧告では「登録延期」だったが、委員会では、より登録に近い「情報照会」(注3)にはなったが登録されなかったことである。
これで、日本推薦の案件は、一昨年(第31回)の「石見銀山」、昨年(第32回)の「平泉」に続き、イコモスから3年連続で「登録延期」の諮問を受けたことになる。このうち石見銀山だけは、委員会の決定によって「世界遺産登録」された。このことは、推薦書の起草から提出までをリードしてきた文化庁の基本方針並びに推薦書作成委員会のあり方が、暗に問われていると思われる。
世界遺産登録されている遺産数は合計890件となる。内訳は文化遺産689件、自然遺産176件、複合遺産25件となっている。
2 平泉の新しい推薦書を読む
09年1月18日、文化庁は11年世界遺産委員会に再挑戦する平泉の世界遺産登録に向けた正式推薦書を決定した。
この推薦書は、ユネスコ世界遺産センターに、10年2月2月1日までに提出することになっている。その後、同年8月頃にはイコモスの現地調査、11月頃には現地調査時の質問や追加資料の要請が来て、11年5月頃にイコモスの勧告(諮問)が出されるという予定になっている。
そこでこの新推薦書について3つに分けてコメントしておこう。
(1) 総論
今回、前回の推薦書と比べて3つの変更が加えられている。第一は、コンセプト(主題)を「浄土思想を基調とする文化的景観」から「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」(英訳版では、Hiraizumi – Temples, Gardens and Archaeological Sites Representing the Buddhist Pure Land –)にしたことだ。
この問題は当初から『浄土』は「宗教なのか、哲学なのか?」(イコモスオランダ委員のデ・ヨング氏06年6月、平泉で発言)と言われたように理解が難しいとされてきたが、今回はこれを『仏国土』(浄土、英訳では– the Buddhist Pure Land)と変更した。確かに平泉は仏教だけでなく、四方には全国から勧請した神社が構えている。また仏教でも、浄土の仏である阿弥陀信仰だけではなく、薬師信仰、大日信仰など、さまざまな教えが混在一体化している。これを「浄土思想」にひとつで括ることは無理があったから、今回の推薦書では、さまざまな神仏の集合する「仏国土」としたことは理解できる。ところが、結局カッコの中に「浄土」が残ってしまっている。これによって、また推薦書では「仏国土」と「浄土」の説明が必要になりはしないか。
第二の変更は、前回イコモスに明確に否定された「文化的景観」を削除し、「建築・庭園及び考古学的遺跡群」としたことだ。
第三の変更は、イコモスの指摘を受けて、構成資産を大きく見直した点だ。前回イコモスでは9つの構成資産のうち、4つの構成資産(「達谷窟」「白鳥舘遺跡」「長者原廃寺跡」「骨寺村荘園遺跡と農村景観」)については『浄土』の証明が不十分とされた。そこで新推薦書では従来の5の資産のうち、これまで毛越寺に包摂されていた「観自在王院跡」を分離し別立てとし9つから6つとした。これにより、構成資産は、すべて平泉町内にコンパクトに収まることになった。これが今回の変更点である。
この変更は、表面的にはそれだけのことに過ぎないが、実は底流には世界遺産の本質にかかわる論点が含まれている。一つは構成資産の内部にかかわる、それはどんな価値を有しているか、という実に遺産全体の根源的で素朴な疑問と関係する。もう一つはその構成資産は現在どんな状況にあるか、ということであり、冒頭に見た『ドレスデン・エルベ渓谷』問題がこれと関係している。私達は今回の変更をこの問いとの関係で見ていかなければならないのである。
そこでさらにこれを「価値の証明」『構成資産を囲む状況』の二点からさらに詳しく検討して見たい。
各論1 「価値の交流」の証明
今回の変更をユネスコの「登録基準」(左図参照)の観点から見ると前回は「ⅲ、ⅳ、ⅴ、ⅵ」であったが、今回は「ⅱ、ⅳ、ⅵ」に変更したことになる。これは大きな変化である。
まず評価基準(ⅱ)の「価値の交流」が、推薦書に新たに盛られた理由は、前回イコモスは次のように指摘したことから来ていることは明白である。
「平泉の都市計画、寺院と浄土庭園の配置は、アジア大陸から仏教思想とともにもたらされた造園思想が、どのようにして日本古代の自然崇拝や神道を基礎に進化をとげ、日本固有の計画及び庭園意匠の思想へと発展したのかについて、さらなる根拠が示されれば、推薦資産の一部について評価基準(ⅱ)の証明は可能かもしれない。」(イコモスの見解)
このイコモスの見解は、締結国日本への示唆とも受け取れる。この指摘にしたがい、文化庁は、09年5月、「東アジアの理想郷と庭園に関する研究会」(主催 奈良文化財研究所 非公開)が開催したと思われる。ここには中国と韓国から派遣された専門家が国内の研究者と議論を重ねた。文化庁は、この研究会の議論から「価値の交流」の証明としたいようだ。この議論の内容については、09年12月現在まで公開されていないが、これを踏まえて、新推薦書は、以下のように書かれている。
「平泉の仏堂・浄土庭園群とそれらの考古学的遺跡、及び関連の遺跡群は、6世紀に中国・朝鮮半島から伝来し、日本古来の自然崇拝思想と融合しつつ、12世紀にかけて独特の性質へと展開を遂げた日本の仏教の、その中でも特に興隆した浄土思想に基づき、現世における仏国土(浄土)の空間的表現を目指して創造された顕著な事例である。
それらは、仏教とともに受容した伽藍造営の理念及び意匠・技術のみならず、同時に受容した外来の作庭思想と日本古来の水辺の祭祀場における水景の理念、意匠・技術との融合を出発点として、それに後続して成立・発展を遂げた日本独特の仏堂・浄土庭園の理念及び意匠・技術の伝播の過程を証明している。
したがって、それらは東アジア地域における建設・庭園の意匠・設計に関する人類の価値観の重要な交流を示している。」(新推薦書)
たった一度の研究者の議論で結論が出るほど簡単な問題とも思えず、拙速な感じが否めない。またイコモスの前回の指摘の中に、「平泉は他の都市、特に寺院のうちのひとつが・・・鎌倉に影響を及ぼした」とあった。このことは、平泉の文化が、その後、鎌倉文化に影響を与え発展していったことを、都市構造や寺院や庭園史の側面から、証明する必要があると解釈できる。
同時に平泉文化というものが、東アジアから伝播し、奈良、京都の文化として華開いた文化をどのように受容したのかを説明する必要があることは言うまでもない。
つまり、新しい推薦書で、この登録基準(ⅱ)の「価値の交流」を証明しようとすれば、東アジアから奈良、京都と伝播した文化(宗教、都市造り、寺院庭園建築など造営技術など)を肝心の「平泉」がどのように受容し、これを次代の「鎌倉」に橋渡ししたのかを説明する必要があることになる。
先のイコモスの鎌倉の指摘は、直接的に言えば、源頼朝が、中尊寺の「二階大堂」を模して造営したと言われる「永福寺」を指していることは明らかである。永福寺は、現在廃寺となっているが、浄土庭園の跡も発掘されている。毛越寺の浄土庭園「大泉が池」とこの永福寺の庭園の比較研究の成果は、新推薦書には述べられていないことが気になる。
永福寺については、文治5年(1189)の奥州合戦後、頼朝が直接号令を発して、この戦で亡くなった人間を敵味方なく御霊を弔う目的で造営されたものである。この敵味方平等の考え方については、初代清衡が中尊寺の一画に「鎮護国家のための一区画」を造り、前九年・後三年の役で亡くなった御霊を敵味方なく弔うとした「中尊寺供養願文」(注4)に盛られた考え方に頼朝が影響を受けたものと考えられる。
平泉で言えば、コア・ゾーンである無量光院跡(三代秀衡が造営)がある。無量光院は、三代秀衡が、京都宇治平等院を模して造営されたとされるものだが、ふたつの比較研究は十分だろうか。さらに言えば、京都文化と平泉文化の違いはどこにあるのか、などたった一度の研究会の成果でイコモス側が納得するとは思えない。
次に「ⅲ」(消滅した伝統文化、文明の稀有な証拠)については、新推薦書では削除されたが、これはイコモスの「平泉の全体・・・の配置と浄土庭園との関連性は、評価基準(ⅱ)がより適当」と指摘したことを受けの削除と考えられる。
評価基準(ⅳ)(歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群)の選択については、「金色堂」と毛越寺の浄土庭園「大泉が池」を指すもので、平泉全体の存在理由(レーゾン・デートル)とも言える価値基準である。それを、前回イコモスは、「証明しきれていない」とあっさり指摘した。イコモスは、これもむしろ価値基準(ⅱ)の「価値の交流」の一部を成すものと考えたようだ。今回、推薦書委員会は、イコモスの指摘を受けつつも、これを外すことなく、「仏堂及び一群の庭園は仏国土(浄土)を空間的に表現しようとした優秀な芸術作品であり、・・・世界史上、他の仏教圏では類例を見ることのできない建築・庭園の顕著な事例である。」とシンプルに述べている。この価値基準(ⅳ)を新推薦書で選択したことについては、概ね承服できる。
評価基準(ⅴ)の削除は、イコモスの指摘を受けて、「骨寺荘園遺跡」を構成資産から外したのであるから致し方ないものであった。
「ⅵ」(伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と関連するもの)については、前回イコモスが証明しきれていないとして次のように指摘していた。「国家的な重要性を広く越えるものであることを示すために、平泉と浄土思想との関連性を示す文献資料によって示すことが必要である。」
この証明については、今回推薦書の全体の主題を「仏国土(浄土)」としたことで、微妙に変わったと思われる。ところが、新推薦書では「平泉が造営される過程で重要な意義を担ったのは、日本固有の自然崇拝思想とも融合しつつ、独特の展開を遂げた日本の仏教であり、その中でも末法の世が近づくにつれて興隆した阿弥陀如来の極楽浄土信仰を中心とする浄土思想である。」と、ややもすれば前回の推薦書同様に、「浄土思想」に立ち戻ったような説明をしている。これでは前回同様の指摘がイコモスから下される可能性があるかもしれない。また平泉の浄土という時に、国際的な意味における「浄土経典」の説く浄土世界との区別さらには法然の「浄土宗」や親鸞の「浄土真宗」との違いを、説明しなければならなくなる。
そして新推薦書は、「それらは、12世紀における日本人の死生観を醸成する上で重要な役割を果たし、世界の他の地域において類例を見ない仏国土(浄土)を空間的に表現した建築・庭園群などの理念、意匠・形態へと直接的に反映した。」と続き「さらに、それらは宗教儀礼や民俗芸能等の無形の諸要素として、今日においてもなお確実に継承されている。したがって、平泉の仏堂・浄土庭園及び考古学的遺跡群の有形的な側面に関連する信仰、思想、伝統は、顕著な普遍的意義を持っている。」と結んでいる。
この新推薦書の説明は、少し分かりにくい。特に、「12世紀にける日本人の死生観を醸成」という下りは、外国人には分かりづらいと思われる。再びイコモスから疑問が示されるかもしれない。
登録基準(ⅵ)の証明については、無形遺産ではあるが毛越寺に伝わる「延年の舞」からの証明の仕方もあるのではないだろうか。延年の舞は、毛越寺常行堂に伝わる重要行事「二十日夜祭」(注5)のおり、「常行三昧供」という修行の満業の夜、常行堂の内陣で神仏に奉納される舞である。
平泉毛越寺に伝わる延年の舞は、後に世阿弥によって大成された「能楽」に受け継がれる先駈けとされる無形文化財である。今日、ユネスコ世界遺産でも、03年無形文化遺産条約が成立し、「能楽」は最初にこの無形遺産のリストに登録されていることもあり、イコモスの理解も容易に得られるものと思われる。
文化遺産への登録基準
(ⅰ) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(ⅱ) ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(ⅲ) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(ⅳ) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(ⅴ) 特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている、ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落または土地利用の際立った例。
(ⅵ) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
各論2 構成資産を囲む状況
イコモスあるいは委員会は、提出された推薦書を基にそれぞれの構成資産が、『普遍的価値』を有するかどうかを審査する機関であるが、同時に構成資産の有様についても慎重に審査をしていることを忘れてはならない。言い換えれば世界遺産そのものが世界人類共通の「資産」の『破壊』を防止するために制度化されたという点から言えば、資産を囲む状況がどうなっているかというのは決定的な意味合いを帯びてくることを忘れてはならない。
平泉の個別の構成資産についてみる。中尊寺、毛越寺は、問題はない。観自在王院を、現時点で分かる意味は、毛越寺の庭園要素を強調するためと思われるが、現在、観自在王院の「車宿」や「舞鶴ケ池」などの修復は問題ないと思うが、コア・ゾーンとして独立させるほどの存在感は乏しいように思われる。周囲には、鉄塔や民家と近いこともあり、イコモスから逆に問題点や、修景の必要を指摘される恐れもないとは言えない。
「平泉バイパス」による景観の変化は産入りの最大の問題点になる?!
(図 入間田宣夫著「都市平泉の遺産」山川出版社 2003年より引用)
無量光院については、やはり具体的な背景となる金鶏山と併せた景観の保全計画を添付する必要がある。コア・ゾーン内に鉄塔が点在し、金鶏山まで続くが、これをどうするか、明示する必要がある。無量光院跡には、遺跡を掠めて東北本線の線路が伸びていることもある。これを将来地下化するような計画は盛れないものだろうか。
構成資産の最後に、11年の登録に際して、最大のネックとなると予想される「柳の御所跡」がある。これについては推薦書委員内でも、さまざまな意見が飛び交い、歴史研究者の委員が、「柳の御所跡」を。構成資産から外すべきであるとしたようであるが、結局残ってしまった。これは「平泉」を「政治・行政上の拠点」と冒頭で規定したために、政庁跡とされる「柳の御所跡」をどうしても外すことができなかったとみる。しかし、この柳の御所跡について、誰が見ても残念に思うのは、発掘からほぼ20年を経た今、この周辺の景観が、ひどく荒廃してしまったことだ。
周知のようにユネスコ世界遺産とは、戦争や開発によって、消えて行く遺跡や遺産を守るための国際条約である。景観の荒廃の原因は、この地に平泉バイパスを通過するという計画によってもたらされたものだ。
平泉の場合、バイパス計画(年表参照)は、当初平泉に恒常的に襲う洪水と町を通る国道4号線が慢性的に渋滞する状況の解消を目的として立案されたものである。この当初の計画にあったバイパス予定地を掘ったところ、かつての平泉の政庁跡と推定される平泉館の遺跡が現れ、この遺跡を残す署名活動も起こり、「バイパス」計画は経路の変更を余儀なくされた。結局、パイパスの経路は北上川の流れる方向に変更され、北上川の流路も100mばかり東に移されたのである。
しかしこの平泉バイパス建設によって、失われたものがある。それは、この周辺の「水辺の環境」と平泉随一の景勝地との評価のあった高館からの景観であった。周知のように高館は、柳の御所の北に位置する小山の上にあり、源義経終焉の地と言われる地だ。芭蕉は、奥州藤原氏が滅び去ってから500年後(1689)、この地にやってきた。芭蕉は源義経主従を思い、今や俳句ブームの中で世界的な名句言われるようになった「夏草や兵どもが夢の跡」(注6「奥の細道」所収 英訳新渡戸稲造訳、ドナルド・キーン訳)を詠んだのであった。
高館と「柳の御所跡」は一体の地であり、もしもこの地を、平泉の世界遺産の構成資産とするのであれば、これを地下化するなどして、水辺の環境整備と景観の修景に取りかかる保全計画を一日も早く行う必要がある。
平泉が世界遺産登録されるための最大のネックは、この「柳の御所跡」であることは、衆目の一致するところであろう。新しい推薦書作成委員会で、どのような話し合いがもたれたかは知り得ないが、少なくても「ドレスデン・エルベ渓谷」の登録抹消をしたユネスコの真意について、これを分析し、意識(危機感)を共有すべきであった。
この「エルベ渓谷」について、前ユネスコ事務局長の松浦晃一郎氏は近著「世界遺産」(講談社2008)でこのように語っている。
「同案件は、2004年に文化的景観として世界遺産に登録されたが、ドレスデンでは新市街の人口増加を受けて、エルベ河を挟んで存在する新旧の両市街間の交通量が増し、・・・新しい橋を建設する案が浮上し、エルベ市民の間でも賛否両論に分かれたが2005年の住民投票で建設が決定した。これを問題視した世界遺産委員会は2006年にドレスデン・エルベ渓谷を危機リストに登録、2007年7月のニュージーランド・クライストチャーチの委員会では橋梁建設計画に厳しい批判が飛び交い、ドイツ政府に対して次のような決定を通達した。『2007年10月1日までに代案を含めた建設計画を世界遺産センターに提出する』それをICOMOSが評価し、もし橋梁建設が世界遺産物件の顕著な普遍的価値にマイナスの景況を与えるのであれば、世界遺産リストから削除する。このような厳しい警告を含めた決定は、これまでなかったことだった。
・・・私はドイツのメルケル首相に注意を喚起する手紙を送った。首相は、ユネスコの懸念を理解して関係者に伝えると回答してきた。しかし真意は、地方分権が進んでいるドイツでは、こうした決定はすべて市に任されているため、連邦政府としてできることは限られている、という趣旨だと理解した。橋梁計画に反対する住民も市の地方裁判所に裁判を起こしていたが2007年11月、裁判所が建設中止を求める訴えを却下した。残念だが、このまま橋の建設が進めば2008年7月のケベック市で開かれる世界遺産委員会で、ドレスデン・エルベ渓谷を世界遺産リストから削除する決定が行われる可能性は高い」(同書 234-236頁)
松浦氏の予測は、1年ずれ込んだが、08年のユネスコセビリア会議で現実となった。ユネスコは、当初の警告通り、現実にドイツの「ドレスデン・エルベ渓谷」を登録から抹消したのである。
このエルベ渓谷と同様の問題を、平泉に柳の御所周辺に具体的に当てはめてみるならば、構成資産「柳の御所跡」の西面に隣接する「平泉バイパス」、「新高館橋」のほか、南に「太田川堤防」、北に「衣川堤防」を見つけることができる。このため、かつて水辺の庭園都市のような景観を誇っていたと想像される平泉は、南に太田川堤防、北に衣川堤防、そして東に堤防を兼ねる平泉バイパスによって、言ってみればコンクリートに囲まれた堤防都市の様相を呈しているに至っている。
また平泉以外でも、広島福山市の「鞆の浦の埋立・架橋計画」に端的に表れている。この問題は、世界遺産委員会の考え方と地元行政と住民意見が必ずしも一致せず、世界中のどの地域でも、エルベ渓谷と同様の問題が発生する可能性があることを示唆している。
以上、新しい推薦書を読みながら、全体から受ける印象は、やや拙速で、イコモスや前回の委員会からの助言に対する対応が表面的で不十分な思いがどうしても残ってしまう。いずれにしても平泉の場合は、登録後に危険遺産ポストに入り、結局抹消となった「エルベ渓谷」とは違い、登録前に「平泉バイパス」という近代的構築物が、遺跡の真ん前にデンと構えていることだ。到底、この巨大な構築物を植栽で覆いきることは不可能である。
2011年の春に予定されるイコモスの勧告書には、この問題について、当然厳しい指摘がなされるものと予測される。委員会においても、21ヶ国の委員会のメンバーの中には、「柳の御所跡を構成資産から外すべき」と指摘にしたり、「この巨大道路を何年後かに、地中化するなどの計画を策定できるか?」ということを前提条件にする可能性があるのではないだろうか。
平泉開発年表
3 響き合う中尊寺供養願文とユネスコ世界遺産の精神
今年、10年に及ぶユネスコ世界遺産委員会事務局長を退任された松浦晃一郎氏が、平泉の世界遺産「登録延期」について、次のように発言した。
「(平泉の)案件自体は悪くない。もう少し専門的な説明が必要だった。・・・「浄土」についての専門的な理解が得られず、登録が見送られた。「平和の希求」といった点に文化的価値を認める意見があっただけに、惜しい結果だった。・・・国内外の専門家の意見が十分に取り入れられていなかった。」(読売新聞09年8月7日朝刊)
この松浦氏の発言から、前事務局長のふたつの考えが明確になる。ひとつは平泉が、世界遺産としての価値が十分であること。ふたつ目は、平泉という遺産の背景に、中尊寺供養願文に盛られた「平和希求」の考え方があり、説明次第によっては、これが文化的価値として世界遺産の精神に合致するということである。
確かに初代藤原清衡が、亡くなる2年前に起草させた中尊寺供養願文は、彼の未来への遺言のようなものだ。願文には、前九年・後三年の役で多くの人間が亡くなり、その後、自分の治世の30年の間、平和を謳歌したことを語り、今後久しく人類の永遠の課題である恒久平和を実現し、二度と戦争の惨禍が人々に及ばないようにことを祈念する文言が並んでいる。
できれば、新しい推薦書の中核にこの願文の精神を据えて、平泉の構成資産全体を説明するようなものにすべきであった。何故ならば、この精神そのものが、ユネスコ世界遺産の精神であるユネスコ憲章・前文に盛られた「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心に平和のとりでを築かなければならない。」と、900年の時を越えて、響き合っているからである。
平泉の世界遺産登録は、間違いなく眼に見える遺跡に偏りがちな世界遺産条約に新風を吹き込むことにもなり、世界から戦争をなくして平和を希求するユネスコ世界遺産条約の精神を地でいく「世界遺産中の世界遺産」と云われるようにもなる可能性があるように思われる。
(2010年1月21日 佐藤弘弥記)
(注1)第33回世界遺産委員会の決定内容
【新規自然遺産】
● ワッデン海 (オランダ/ドイツ) (viii)(ix)(x)
● ドロミテ山塊 (イタリア) (vii)(viii)
【新規文化遺産】
● ストックレ邸 (ベルギー) (i)(ii)
● ロロペニの遺跡群 (ブルキナファソ) (iii)
● シダーデ・ヴェーリャ、リベイラ・グランデの歴史地区
(カーボヴェルデ) (ii)(iii)(vi)
● 五台山 (中国)
(ii)(iii)(iv)(vi)
● ヘラクレスの塔 (スペイン) (iii)
● シューシュタルの歴史的水利システム
(イラン) (i)(ii)(v)
● 聖山スレイマン・トー (キルギス) (iii)(vi)
● 聖都カラル・スペ (ペルー) (ii)(iii)(iv)
● 朝鮮王朝の王墓群 (韓国) (iii)(iv)(vi)
● ポントカサステ水路橋と運河
(イギリス) (i)(ii)(iv)
● ラ・ショー・ド・フォン/ル・ロクル、時計製造都市の都市計画
(スイス) (iv)
【範囲拡張物件】
● サラン・レ・バン大製塩所からアルケ・スナン王立製塩所までの天日塩生産
(フランス) (文化)(i)(ii)(iv) (←アルケ・スナン王立製塩所)
● トゥバッタハ岩礁国立海洋公園
(フィリピン) (自然)(vii)(ix)(x)
● レヴォチャ、スピシュ城と周辺の文化的建造物
(スロバキア) (文化)(iv) (←スピシュ城と周辺の歴史的建造物)
【危機遺産追加物件】
● ベリーズ・バリア・リーフ自然保護区
(ベリーズ) (自然)(vii)(ix)(x)
● ロス・カティオス国立公園
(コロンビア) (自然)(ix)(x)
● ムツヘタの歴史地区 (グルジア) (文化)(iii)(iv)
【危機遺産削除物件】
● シルヴァンシャー宮殿と乙女の塔のある城壁都市バクー
(アゼルバイジャン) (文化)(iv)
【世界遺産リスト削除物件】
● ドレスデン・エルベ渓谷
(ドイツ) (文化)(ii)(iii)(iv)(v)
以上、特定非営利法人「世界遺産アカデミー」からの引用。
サイトURLは以下の通り。
http://www.wha.or.jp/?p=816
(注2)イコモス(ICOMOS:国際記念物・遺跡会議)
ユネスコ世界遺産委員会に寄せられた推薦書を審査し、登録の可否を諮問する非政府組織(NGO)の遺跡研究・保存の専門家組織。
(注3)推薦物件についての作業指針
登録に近い順に「登録」→「情報照会」→「登録延期」→「不登録」となる。
(注4)中尊寺供養願文
奥州藤原氏初代藤原清衡(1056-1228)が起草させたとされる願文。天治三年(1126)3月24日、清衡が中尊寺の中に「国家鎮護のための大伽藍一区」を造成し、盛大な落慶法要を催した時に披露されたもの。願文の骨子は、以下の三つ。第一は「平和(鎮護国家)を祈念すること」。第二に「戦争(前九年・後三年の役)で亡くなった御霊を弔うこと」。第三に「(この地を一目見た人間に)『現世にも仏の住むような聖地(浄土)はある』と実感させること」。この中で、この「大伽藍一区」を京都鳥羽院のための「御願寺」と規定した。この願文に記された「御願寺」という根拠を、中尊寺の僧「心蓮」らは、文治五年(1189)9月、平泉に遠征してきた鎌倉政権の源頼朝に示し、平泉において軍事行動や中尊寺、毛越寺などを軍事的に制圧することのないことを交渉したことが、吾妻鏡にも記されている。原本は不明で、藤原輔方(1329)と北畠顕家(1336年)筆のふたつの写本が現存する。
(注5)延年の舞
毛越寺の延年の舞は、開山以来連綿と継承されてきたとされる舞である。この舞が舞われるのは、「常行三昧供」が満業となる毎年1月20日の夜。常行堂の本尊である阿弥陀如来と摩多羅神(またらじん)に奉納される形で行われる。有名な「老女」や「若女」などさまざまな舞を僧と稚児が舞う。この行事「常行三昧供」のルーツは天台宗の慈覚大師円仁(794-864)の唐での旅行記「入唐求法巡礼行記」に記されている。毛越寺の「延年の舞」の研究については、能のルーツとされるこの舞の作法などを一冊に網羅した本田安次の大著「日本の伝統芸能 第15巻」(錦正社 1993~2000)がある。この著には、中尊寺の地主神「白山神社」(能楽堂がある)に伝わる「白山宮祭」と「延年」についても、詳述されている。
(注6)「夏草や兵どもが夢の跡」の英語訳
世界的な俳句ブームの中で、この句は、地元岩手出身の教育者で政治家の新渡戸稲造や日本文学者ドナルド・キーン氏によって英訳されている。
(1)新渡戸稲造訳
The summer grass-
'It is all that's left
Of ancient worriors' dream
(2)ドナルド・キーン訳
The summer grasses-
For many brave warriors
The aftermath of dreams
<参考文献>
文化庁プレスリリース「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」(世界遺産推薦書の概要)2010年1月20日
松浦晃一郎著「世界遺産」(講談社2008年)
平泉毛越寺刊「毛越寺延年の舞」(昭和61年)
佐々木邦世著「平泉の文化遺産」(大正大学出版会 2006年)
五十嵐敬喜・佐藤弘弥著「ユネスコ憲章と平泉・中尊寺供養願文」(公人の友社 2009年)
NHK仙台放送局編 特別展「平泉」(2008年)
佐々木邦世編集 平泉 浄土をあらわす文化の全容 (川島印刷2009年)