被災地の大晦日 栗原市栗駒地区をゆく


旧くりでん栗駒駅前

1 栗駒駅

岩手宮城内陸地震から半年経った年の瀬の栗駒に向かった。
最大の被害を出した耕英地区と花山地区を抱える栗原市栗駒駅前にある被災者が暮らす仮設住宅周辺を歩いた。

まず、思ったことは、この地区の人々は、三重苦とも言えるような被害に遭っている、という印象だった。

もちろん第一は、地震災害。これは天災だ。続いて、小泉改革による地方交付税のカットによる地方の疲弊という人災。

さらにここに来て、100年に一度と言われる世界的な金融危機の煽りが、まさに津波のように地方経済を襲っている。この岩ヶ崎地区にある栗駒駅周辺は、町の中心街である。それも大晦日。しかし町は何かに怯えるように閑散としていた。



駅舎に貼られたままのくりでん存続スローガンが虚しい

市町村合併によって、栗駒駅周辺は大きく変わった。

この地区の人々の足として、戦後活躍したくりはら田園鉄道(石越ー細倉間25.7キロ)は07年3月廃線となり、倒壊寸前に見えた栗駒町役場はあっさりと壊され、近くに市役所の支所が駅の南西にできている。

駅舎の入口のところに、「みんなの足だよ。栗鉄は 乗って残そう孫子のために」とくりでん存続の運動スローガンが掛かっていた。もちろん2年前既に廃線となり、今は清算作業が粛々として進められている。



くりでんの線路とホーム

2 地震被害者の仮設住宅



栗駒町役場跡に立つ仮設住宅

栗原市が市町村合併によって誕生しない前、かつて栗駒町役場のあった場所に、耕英と花山地区の被災者が暮らす仮設住宅が建っている。

現在、方々の仮設住宅で、60世帯159人の被災者が入居しているという。それにしても、余りに安普請(やすぶしん)である。

雨露を凌ぐというだけの建物だ。文化的な香りが一切しない。
日本建築家協会会長の出江寛(いずえかん)氏とお会いした時、神戸大地震の後に建った仮設住宅の酷さを指して、
「あんなもの建てたらいかん」と京都弁で怒って居られたことをふと思い出した。

第一、これではプライバシーが守れず、被災者のストレスは溜まる一方だろう。折りから、
ミゾレが降っていたが、文化国家日本の悲しい現実を垣間見せられたようで、悲しかった。



みちのく風土館前に立つ復興祈願の旗が寒風にはためく


3 滝ノ原地区の崩落現場

耕英までは、今でも本道路(県道築館栗駒公園線)が土砂崩れのために、閉鎖されていて、
迂回路(市道馬場駒の湯線)を遠回りで行くしかない。しかも、届け出をして自分の家に行くような状況だ。



川台渓谷の山崩れ現場が白く斑に見える


私はこの日、本線の行き止まりである滝ノ原地区まで車を飛ばした。
桑畑橋を渡り、滝ノ原地区の境にある行き止まりの標識で降り、雪の積もった坂道を300mばかり歩いてゆくと、大きな雪玉がモサモサと降ってきた。目前には、栗駒ダムの下の崩落現場が、雪を被って迫っている。それが実に痛々しく見えた。



崩落で車両通行禁止の道を行くと崩落現場が眼前に迫ってきた


地元宮城の河北新報(09年1月1日)によれば、
来年度には、第三セクター「ゆめぐり」経営の耕英地区にある大型宿泊施設「ハイルザーム」と花山の「温湯山荘」が秋口に再開の予定だと言う。
しかしおなじ「ゆめぐり」系列でも、「いこいの村」は、被害の程度が大きく再開のメドは立っていない。
確かに、実際に「いこいの村」の被害を見た者としては、地震による地割れなどがあり、もう少し時間を掛けた方が賢明と思われる。



南の山間を見ると雪は止んで三日月と一番星が煌めいていた


ザクザクと雪道を行くと、次第に辺りが夕闇に包まれてきた。滝ノ原地区の民家にポツリポツリと明かりが灯って行く。南の空には、あかね雲が浮かび、三日月と一番星が、次第に輝きを増している。地震と寒さを忘れれば、この山里の夕暮れはほんとうに美しい。そんな栗駒に良い知らせもある。河北新報の1月6日付けの報道によれば、栗原市が「雪解けを待って避難指示・勧告の解除を予定している」というのだ。 骨身に滲みる寒さの冬であるが、一日も早い春の訪れが待たれる。
(佐藤弘弥記)

2009.1.15 佐藤弘弥

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