“さよなら・歌舞伎座”    歌舞伎座前にファン殺到!!

歌舞伎座」があっさり壊されるような日本は文化国家か?!


歌舞伎座前に歌舞伎ファンが殺到
(4月20日 佐藤弘弥撮影)
 
国の登録文化財「歌舞伎座」が壊される怪

かつて木挽町(京橋区)呼ばれた東銀座にある歌舞伎座が、四月いっぱいで興行を休止し、全面建てかえとなる予定だ。新しい歌舞伎座は、昨今丸の内界隈で見られるように、前に低層の「新歌舞伎座」を建て、その背後に29階135mの高層ビルを建てるというものだ。


少し歌舞伎座の歴史をふり返ってみる。最初の歌舞伎座は、明治22年(1889)に建てられたが、漏電によって焼失(1921)。その後、再建中に、関東大震災(1923)に見舞われて、再び二階部分が焼け落ちた。そこで改めて明治生命館や鳩山会館、日本銀行などを手がけた名建築家岡田信一郎(東京美術学校=東京芸大教授:1883−1932)の設計で、和洋混交のような現在の歌舞伎座(外観は和建築のように見えながら、内部は鉄筋コンクリート、4階建てという造り)が、大正14年(1925)1月に完成したものである。ところが東京大空襲(1945)で、天井部分が焼け落ち、廃墟のごとき惨状となったものを、岡田信一郎の弟子で東京芸大教授吉田五十八(1894−1974)が中心となって、昭和26年(1951)に復興したものである。したがって実際なところ、歌舞伎座は、築61年しか経過していないことになる。

しかも平成14年(2002)には、国の登録文化財に指定されている名建築である。それでも取り壊すというのは、やはり文化財軽視の暴挙以外の何物でもない。 それにしても登録申請しだいでは、世界遺産にもなる可能性だってあるような建築物が壊されてしまうのだろう。


昼も夜も歌舞伎座前は人でいっぱい
(4月20日 佐藤弘弥撮影)
歌舞伎座の取り壊しの理由は、老朽化ということになっている。が、現在の歌舞伎座は、大空襲で廃墟のようになってしまって、昭和24年(1949)に、復興工事がなされ、二年後の昭和26年(1951)に興行が再開されたものだ。

「老朽化」ということだが、それは表の理由で、背後に高層化して、建物によってもっと家賃収益を上げたいという思惑が透けて見える。

早い話が、この世知がない時代に、歌舞伎座で歌舞伎興行を取り仕切る「松竹」という企業にとって、「文化では食えない。経済優先で行く」ということ。それが今回の文化破壊に等しい全面建てかえ(取り壊し)の理由だろう。

日本一の商店街と言って良い銀座もこのところ、景気が悪いようだ。有楽町のデパートも、モノが売れなくて、撤退するというニュースも記憶に新しい。そんな中で高層ビルを建てたところで、空室が発生したら、高層化計画は、捕らぬ狸の皮算用になるかもしれない。

聞けば、東京の高層ビルの空室率も、随分上がっているようだ。不動産仲介の大手三鬼商事(本社・東京)の3月12日時点のレポートによれば、2010年2月末時点で東京都心での空室率は、平均8.66%である。これは前月比で0.41%の悪化だ。

東京駅では、中央郵便局も、結局、ファザード部分を薄皮一枚残し壊されたと同じ状況になってしまっている。これも経済優先による高層ビル化という文化財軽視の実例である。一方、東銀座に位置する歌舞伎座の場合は、建物を全壊し、新しい歌舞伎座を建て、その後ろに馬のタテガミのように135mの高層ビルを建てるという計画だ。

参考資料 
歌舞伎座建て替え計画書(PDFファイル)
外観イメージ


歌舞伎座前に歌舞伎の神さまが現れた?!
一瞬車が消えてフラッシュが雨粒に反射して撮れた歌舞伎座最後の雄姿
(4月20日 佐藤弘弥撮影)
解体まで残り11日となった歌舞伎座

もう一度、現場に行って、考えて見ようと、4月20日(火)午後、歌舞伎座に向かった。

平日、しかもあいにくの雨にも関わらず、歌舞伎座の前は、最後の興行を見たり、せめて写真に収めたいという人でごった返していた。10日前の4月10日にも、現地に行ったが、歌舞伎座に愛着を持つファンが、ラストデーに向けて殺到しているという印象だ。

一幕見の列に並んでいる人に聞けば、何と午後の部が始まる3時前には、当日券はすべて売り切れで、2時間後の五時に始まる自由席(4階の一幕見)のチケットを購入するために並んでいるのだという。

このために、木挽町周辺の飲食店も、旧歌舞伎座ラスト興行で忙しいようで、どこのコーヒーショップも女性客でいっぱいだった。

歌舞伎座の歴史に詳しい歌舞伎関係の古書店「木挽堂書店」(銀座4−13−14 銀座メイフラワーハウス2F)の店主小林順一さんに話を伺うため、歌舞伎座の横町にある店に入った。小林さんは、銀座3丁目にあった「奥村書店」という著名な演劇関係の古書店で働いていたが、3年ほど前に、突然店主が引退をするということになる、急きょ歌舞伎座の側に店を構えた人物である。

木挽堂書店は、奥に細長い造りの10坪ほどの店である。である。入口から奥まで、歌舞伎関係の書籍や役者絵などが、ところ狭しと並んでいた。歌舞伎ファンには垂涎の的であろう。コンニチワと声を掛けると、本の山の中から、「はいどうも」と、まず声が聞こえて、店主の小林さんが、顔を出した。

小林さんは、初対面にも関わらず、次のように答えてくれた。
松竹の永山武臣前会長(1925−2006)は、歌舞伎座を元の三つの屋根の形に再建したい気持ちはあったようです。

それでも、現実、歌舞伎座は、関東大震災で、中心の屋根が落ち、東京大空襲でも、中心部が陥没しました。老朽化というのはあると思います。(役者の肉体表現としての)歌舞伎と(舞台である)歌舞伎座は別のものです。

あくまでも歌舞伎は、演目の中に生きているということです。

むかし21世紀の歌舞伎は、どのようになっているだろう、と考えたことがあります。私は新しい小屋が建って、しばらくすれば、その中に歌舞伎はあるはずと考えます。だからあまり心配していません

私見とは違うが、筋は通っていると感じた。歌舞伎と歌舞伎座は違うという前提には、同意である。歌舞伎座は、日本建築史に残る建物であり、国の登録文化財にも指定されている有形の文化財である。それに対し、歌舞伎そのものは、役者が肉体表現として演じる無形文化財である。

私はふと、先頃聞いたユネスコ世界遺産委員会前事務局長松浦晃一郎氏の次の言葉を思い出した。
有形文化は、元の形や素材などを変化させてはならない。それに対し、無形文化は、精神が大事で時代と共に変化しても構わない(2010年3月27日、長野県飯田市で開催された「世界界遺産フォーラム in 飯田」の基調講演)

考えてみれば、歌舞伎は、ユネスコ世界遺産に新設された無形遺産として、平成17年(2005)秋に登録されている事実がある。その舞台である歌舞伎座という建築物の注目度や価値は、間違いなく高まっていくはずだ。近い将来、歌舞伎座が、世界文化遺産として登録される可能性だってあった。それが今回の全面解体によって、完全に消滅することになった。シニカルな言い方になるが、これは立派な文化破壊である。

いずれにしても、平成15年(2002)、国の文化遺産に指定された「歌舞伎座」が、それから8年後の平成22年(2010)、いとも簡単に壊されて良いのか、という思いはどうしても残る。

昨年の東京駅前の中央郵便局に続いて、国指定の登録文化財が、こんなに簡単に解体されることが決定され、無価値にされてしまうとは・・・。「いったい日本の文化政策とは何か?!」と、問いたくなった。

夜になり、雨は一向に止む気配を見せなかった。濡れるのも気にせず、雨の中で、シャッターを切っていると、一瞬ふしぎな気配がした。あれほど、ひっきりなしに通り過ぎていた車が一台も通らないのだ。そこには雨と歌舞伎座と人しかいない。フラッシュを焚いて撮った写真を見ると、雨粒に光りが反射し、青い玉となって、そこかしこにふわりふわりと浮いているように見える。きっと歌舞伎の神さまたちが、歌舞伎座の最後を見に降りてきたのに違いない、と思った。
 
 歌舞伎座は震災空襲やり過ごし世界遺産になるべきもがな ひろや

2010.04.22 佐藤弘弥

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