生涯学習大学放送通信科テキスト
−藤沢の義経伝承をさぐる−
凡例
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イト版への序文
義経と藤沢 -藤沢の義経伝承をさぐる- 今年平成17年はNHKの大河ドラマ「源義経」の影響で藤沢の義経伝承を知りたいという多くの市民の要望がありました。藤沢市教育委員会は市民のための教 養講座、藤沢市生涯学習大学かわせみ学園で主催しています。そのひとつの講座で放送大学があります。今回は大学のご好意で義経伝承を語ることになりまし た。地元FM局レディオ湘南 83.1MHzで11月から12月にかけて放送されます。しかし放送される圏内は湘南地域に限られてしまいます。放送原稿で 大変恐縮ですが、少しでも地元の源義経伝承を知って頂きたいとの願いから、佐藤弘弥さんのご厚意に甘え、そのままホームページに掲載させていただく事にな りました。 日頃の歴史研究成果が少しでも出せればと思います。またなかなか分かりにくい歴史用語や時代背景も初めての方々にもご理解いただくために、乱暴な言い方を しております。ご専門の方からのご叱正もあるかと思いますが、これをご縁によろしくお付き合いください。 平成17年10月吉日 可満くらや研究室 郷土史家
平野 雅道 |
目 次
[放送日] 11月1日 (火) 13:00〜13:30 ***再放送 11月3日 (木) 20:30〜21:00 1.『吾妻鏡』の義経首実検
2.白旗神社の由緒と藤沢宿坂戸町の記録 第二回 白旗神社とは何、その由来と 義経 [放送日] 11月8日 (火) 13:00〜13:30 ***再放送 11月10日 (木) 20:30〜21:00 藤沢宿以外の記録
1.『東海道分間延絵図』より 2.東海道名所記 3.東海道名所図会-ずえ-- 4.高山彦九郎の記録『小田原行』 [放送日] 11月15日 (火)13:00〜13:30 ***再放送 11月17日 (木) 20:30〜21:00 1.『新編相模国風土記稿』----白旗明神社
2.小川泰堂の『我がすむ 里』 [放送日] 11月22日 (火)13:00〜13:30 ***再放送 11月24日 (木) 20:30〜21:00 1.平野新蔵道治の『?肋温故-けいろくおんこ--』常光寺の弁慶塚
2.荘厳寺の源義経位牌 [放送日] 11月29日 (火)13:00〜13:30 ***再放送 12月1日 (木) 20:30〜21:00 1.平野新蔵道治の『?肋温故-けいろくおんこ--』常光
寺の弁慶塚
2.荘厳寺の源義経位牌 [放送日] 12月6日 (火)13:00〜13:30 ***再放送 12月8日 (木) 20:30〜21:00 1.
腰越『満福寺』にある腰越状
2.駿河次郎清重の伝承 第七回 首塚があるのなら、胴体は? [放送日] 12月13日 (火)13:00〜13:30 ***再放送 12月15日 (木) 20:30〜21:00 1.義経の胴体塚宮城県栗駒町との交流・供養祭
2..胴体塚の史料 清悦物語 第八回 後の世までも語られる義経伝 承 [放送日] 12月20日 (火)13:00〜13:30 ***再放送 12月22日 (木) 20:30〜21:00 2.北行伝説 小谷部全一郎・佐々木勝三氏の研究 |
平安時代から武士団の成長により、武士のためのいわば政府=鎌倉幕府を形成する激動の時期に31歳の一生を終えました。日本の歴史の中で新しい時代を切り
開いた、生みの苦しみの時代です。時代の変革期には、こうした人物は数多あります。興味が尽きない時代です、わかりやすい一例があります。私は西郷隆盛が
よく似ていると思います。明治維新という時代背景はまったくちがいますが、古い権威や政治体制を打ち破る中心人物で、政治の世界にも功績を残しています。
のち同じ改革側から攻められ、自害してしまいます。歴史小説家の司馬遼太郎は、うまい表現をしています。変革期に登場する歴史人物には三とおりあると、--古い時代を打ち破るひと、--新しい体制をつくる人、--継続して発展させるひと、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のこと
です。
冒頭に武士団の成長といいました。武士が政治を握り封建社会をつくる、この始まりは鎌倉幕府だ、と教科書にあります。封建時代の武士は自分の領地をもち、
耕作する人々=農民の安全を守ると同時に主君に仕える、キチンとした身分制度をもつ体制と教科書にあります。農民と武士を統括するのが幕府である、といわ
れています。 どうも土地と人間のかかわりが国を造っていくようだ、と考えてください。義経の時代は武士の世の中をつくる変革の時代にあったのです。12
世紀のことです。
さてもう少し時代を遡ります。奈良時代7世紀、645年(大化元年)、 有名な大化の改新によって班田収受の法が決められました。土地と農民は国家のも
の、私有財産は認めないと決め、様々な法律をつくりました。これが律令制です。公地公民制といって土地と農民は直接国家のものとしました。中央集権的国家
体制です。この体制は大化の改新から平安時代末期までの約500年もの間続きます。国々は国司郡司が年貢の徴収に
当ります。
ですが、8世紀から9世紀にかけて律令国家において政治的地位をもつ貴族や寺社が私的所有地を確保するようになります。その土地を荘園といいます。所有者
は年貢公事の徴収権を委譲されている権限を利用し、当初はみずから田畑を開墾していましたが、公民である農民を雇用するようになります。9世紀になると律
令制はゆるみはじめ、在地の農民が自分の田畑を切り開き、国司郡司からの年貢収奪を免れるため中央の貴族・寺社に寄進をします。荘園の領主は国司郡司より
身分的にも政治的にも上の人、皇族や摂関家を頼ります。こうした荘園は全国、陸奥国から薩摩国まで4千もの数となります。11世紀から12世紀にかけては
国司の立ち入りを禁止、警察権も排除して治外法権となっていきます。
のち義経事件を口実に鎌倉幕府が守護・地頭を設置すると、武士の実力に侵害され次第に荘園領主の権利が奪われ ていきます。荘園が消滅するには16世紀、豊臣秀吉の検地を待たなければなりません。村々を石高に改め知行地とするまで荘園は続きます。日本の中世の歴史 は荘園から始まり荘園に終るといえます。またその荘園体制を打ち破るのが武士階級です。
さて、平家・源氏といわれる武士団とはなんでしょう。古代では「もののふ」といわれ封建的支配階級の中心をな した武士の集団ですが、11世紀平安時代中期に律令制国家に対抗する地方豪族の武装化がすすみます。
開発した土地を基盤にした農民が武装したのです。これに対抗して国司の武装化も進展します。武士団とは郎党な どを従え同族の結合による戦闘集団です。侍―さ むらい―となって貴族の身辺警 備に奉仕して中央に進出、ついで棟梁―と うりょう―と呼ばれるもとに団 結します。桓武平氏や清和源氏などの出身者が棟梁となって全国各地に武士団が結成されます。
桓武平氏
八世紀桓武天皇の子孫、曾孫―ひまご--高望王の系統が有名です。平将門は高望王の孫にあたりま す。東国に地盤がありましたが将門の乱などで勢力を失います。が伊勢国に勢力を伸ばした伊勢平氏、これは12世紀後白河院とむすびついた忠盛・清盛の流れ です。また東国の諸武士---北条・土肥・畠山・千葉・葛西・和田---なども桓武平氏の流れです。
清和源氏
九世紀清和天皇の孫、源経基が陸奥の鎮守府将軍となり源姓を与えられたのが始ります。子の源満仲が攝津国多田
荘に土着し武士団の棟梁として地位を確立します。曾孫、源義家は11世紀はじめ陸奥守・鎮守府将軍となり前九年・後三年の役を鎮定します。ここで東国に源
氏の基盤を築き在地領主の信望をあつめます。その曾孫、源義朝は12世紀中ごろ西暦1156年、保元の乱で平清盛とともに、皇位継承・摂関家の争いに勝利
します。この事件から武士の実力が大きく認められ、反面貴族が無力化していきます。3年後1159年平清盛の勢力に不満をもった義朝は、平治の乱を起こし
ますが、清盛に破れ尾張で殺されてしまいます。一方、平清盛は平家一門の棟梁として全盛期をむかえます。
清和源氏略系図
清 和天皇―貞純親王--経基--満仲 ---頼光
---頼親
---頼信--頼 義--為義--義朝--義平
| --朝長
| --頼朝---頼家
| ---実朝
| --希義
| --範頼
| --全成
| --義円
| --義経
源義経
西暦1159--89 8男、母は常盤、幼名牛若丸、号は源九郎とい
います。。平治の乱後にとらわれましたが幼児だったため助命されます。鞍馬山にはいりますが脱出して陸奥国藤原秀衡の保護を受け、西暦1180年(治承
4)兄頼朝の挙兵に応じこれに属します。1184年(寿永3)兄の範頼とともに源義仲を討ち、平氏を一の谷・屋島・壇ノ浦に討って平氏を滅亡させました。
この間に梶原景時と対立、後白河院と接近して兄頼朝にうとまわれ、ついに叔父源行家とともに頼朝に反きましたが失敗します。再び奥州藤原秀衡を頼ります。
秀衡死後、子泰衡のために襲れ衣川で自刃しました。
源頼朝
西暦1147―99年(久安3-正治1)義朝の3男、母は熱田大宮司
季範の娘、平治の乱に敗走の途中美濃で捕らえられ、伊豆に配流されます。1180(治承4)以仁王―もちひとおう--の令旨を受け挙兵しましたが、石橋山に破れ安房に逃れ、三浦・千葉氏の援助をうけて鎌倉で東国政権を樹立します。弟範
頼・義経に命じて源義仲を討ち、平氏を滅亡させ京都を確保します。その後、後白河院に接近した義経の追捕を理由に諸国に守護・地頭を設置して武家政権を確
立します。
当時の武士は、一所懸命の土地を公的に認めてくれる政権を望んでいたのです。一所とは、武士が
開いた土地のことです。武士は土地に命をかける意味です。鎌倉幕府はまさに、武士団のための国づくりとして位置付けられていたのです。
源 義経の略年譜----佐藤弘弥氏の『義経伝説』より転用
西暦 |
年 次 |
年齢 |
事 跡 |
歴 史 |
1147 |
久安三 |
|
頼朝誕生(母は熱田神宮宮司藤
原季範の女) |
|
1159 |
平治元 |
1 |
義経誕生(母は九条院雑仕常
磐) |
12月平治の乱起こる |
1160 |
延暦元 |
2 |
一月、父義朝敗死(三八歳) |
三月頼朝配流さる(十四歳) |
1167 |
仁安二 |
9 |
|
三月平清盛太政大臣となる |
1169 |
嘉応元 |
11 |
鞍馬寺に預けられる |
|
1170 |
二 |
12 |
|
五月藤原秀衡奥州鎮守府将軍と
なる |
1174 |
承安
四 |
16 |
鞍馬寺を出
て奥州平泉に下向 |
五月鹿ケ谷
の密議 |
1177 |
治承元 |
19 |
|
十一月清盛の女徳子安徳天皇を
産む |
1178 |
二 |
20 |
|
|
1180 |
四 |
22 |
十月二十一日、黄瀬川にて頼朝 と会う |
八月十七日、頼朝挙兵 |
|
|
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|
八月二十三日、石橋山の戦いで
頼朝敗れる |
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|
九月七日、義仲挙兵 |
|
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|
十月頃、頼朝鎌倉へ入る |
|
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|
|
十月二十日、富士川の戦い |
1181 |
養和元 |
23 |
七月二十日、鶴岡若宮宝殿上棟
式で馬を牽く |
閏二月四日、清盛卒去(64
歳) |
|
(治承五) |
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|
1182 |
寿永元 |
24 |
|
|
|
(治承六) |
|
|
|
1183 |
二 |
25 |
冬の頃、木曾義仲追討のため京
に向かう |
五月、倶利加羅谷の戦い |
|
(治承七) |
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七月二十五日、平氏都落ち |
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|
|
七月二十八日、義仲入京 |
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|
十月、頼朝東国沙汰権を認めら
れる |
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閏十月、義仲軍備中に敗る |
1184 |
元歴元 |
26 |
一月二十日、義仲(31歳)を
破って入京 |
-- 3 -- |
|
(寿永三) |
|
一月二十九日、範頼と平氏追討
に向かう |
|
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|
二月七日、一ノ谷に平氏軍を破
る |
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八月十七日、左衛門少尉検非違
使に任ぜられる |
|
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十月十一日、院の昇殿を許され
る |
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1185 |
文治元 |
27 |
一月、平氏追討のため、京を出
発 |
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|
(寿永四) |
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二月十七日、暴風の中を阿波に
向かう |
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二月十九日、屋島の戦い |
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二月二十二日、梶原景時軍屋島
到着 |
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三月二十二日、船団を率いて壇
ノ浦へ向かう |
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三月二十四日、壇ノ浦の戦い |
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四月二十一日、景時、義経の不
義を鎌倉へ讒訴 |
四月二十二日、頼朝従二位叙せ
らる |
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四月二十六日、平氏の捕虜義経
の館へ入る |
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四月二十九日、頼朝西国に義経
に従わない旨の文送る |
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五月四日、頼朝、同様の文を梶
原景時にも送る |
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|
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|
五月五日、頼朝、同様の文を範
頼にも送る |
|
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|
五月七日、義経、起請文を頼朝
に献ず、頼朝許さず |
|
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同日、義経、平宗盛父子を連れ
京より鎌倉へ向かう |
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五月十五日、義経一行、酒勾に
着く、北条時政宗盛らを引き取り義経の鎌倉入り禁ず |
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五月二四日、義経腰越で大江広
元に心情を綴る文を託す |
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六月九日、頼朝より宗盛らを京
都奈良に送る命じられる |
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六月一三日、頼朝、義経所有の
平家没管領を没収 |
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六月二一日、義経、近江にて宗
盛(三九歳)を斬る |
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八月十六日伊予守に任ず |
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九月二日梶原景時の息、景季京
に上り、義経行家を探る |
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|
十月六日、景季鎌倉に戻り、義
経の叛意を報告 |
|
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十月九日、頼朝、義経追討を議
し土佐坊昌俊を京へ派遣 |
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十月十一日、義経、院に頼朝追
討の院宣を請う |
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十月十七日、土佐坊義経を襲う |
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|
十月十八日、義経行家に頼朝追
討の院宣下る |
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十月二十六日、義経、土佐坊を
斬首刑に処す |
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十月二十九日、頼朝、義経行家
追討のため鎌倉出発 |
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|
十一月三日、頼朝の追討を逃れ
るため西国行き決行 |
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十一月六日、大物浦で大風に合
い一行分散、天王寺宿す |
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十一月十七日、静、吉野にて捕
縛さる |
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十一月二十二日、義経多武峰に
登り鎌足に祈請? |
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1186 |
文治二 |
28 |
三月一日、静鎌倉へ護送さる |
|
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|
|
四月八日、静、鶴岡八幡宮で舞
う |
四月二十四日、頼朝、秀衡に文
を送る |
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六月十三日、義経母常磐と妹捕
縛されかける |
四月二十四日、俊成「千載和歌
集」 |
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閏七月十日、義経侍童捕縛、叡
山にいたこと白状す |
五月十二日、行家斬られる |
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閏七月二十九日、静義経の男児
産むが殺害さる |
八月十五日西行奥州砂金勧進途
中頼朝と会う |
1187 |
文治三 |
29 |
一月二十日、頼朝、義経の叛逆
を伊勢神宮に報告 |
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二月十日、義経、伊勢美濃を経
て奥州に下る噂あり |
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三月五日、頼朝、義経の所在調
査を都へ依頼 |
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一条能保の返書により、義経
の奥州入り判明 |
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三月六日、院宣により高野山で
義経追捕の祈祷 |
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四月、鎌倉の寺に義経追補の祈
祷の命 |
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九月四日、頼朝の雑色奥州より
戻り秀衡に叛意ありと報告 |
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報告。ただちにその者を都へ遣
わす |
十月二十九日、藤原秀衡没す |
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九月二十二日義経残党捜索に使
者を鬼界ヶ島に遣わす |
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1188 |
文治四 |
30 |
二月十七日、頼朝、義経泰衡共
に追討の旨奏上 |
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|
二月二十一日、頼朝、泰衡に義
経追討の宣旨下す |
|
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|
二月二十六日、泰衡らに義経追
討の院宣下る |
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|
三月二十九日、平泉に宣旨と院
宣伝達の使者下向 |
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六月十一日、奥州の貢馬、貢金
など大磯に抑留させず |
|
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|
十月十二日、泰衡に、再度義経
追討の命下る |
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1,189 |
文治五 |
31 |
二月二十二日、頼朝、法皇に義
経泰衡らの処罰を求む |
|
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二月二十五日、頼朝、雑色を遣
わし奥州を探る |
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三月九日、泰衡、義経を追討す
べき請文を出す |
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三月二十二日、泰衡追討の宣旨
を京に請う |
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閏四月三十日、泰衡、衣川に義
経を攻め妻子と共に自刃 |
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五月二十二日、義経死すの報、
鎌倉に届く |
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五月二十九日、同様の報、京に
も届く |
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六月十三日、義経の首、腰越浦
に届き、首実検さる |
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六月二十五日、頼朝、泰衡追討
の宣旨を請う |
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七月十九日、頼朝奥州追討に出
発 |
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七月二十九日、頼朝、白河の関
を越える |
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八月七日、奥州軍鎌倉軍に伊達
軍阿津賀志山で敗る |
|
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八月二十二日、頼朝、平泉に入
る |
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九月三日、泰衡(35歳)郎従
河田次郎に殺さる |
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九月二十八、頼朝、平泉を出発
帰途につく |
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|
十月二十四日、頼朝、鎌倉に戻
る |
|
1,190 |
建久一 |
|
|
二月二十六日、西行河内にて卒
去(73歳) |
1,192 |
建久二 |
|
|
三月十三日、後白河法皇崩御
(67歳) |
|
|
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七月二十日、頼朝征夷大将軍に
任ぜらる |
1,199 |
正治一 |
|
一月十三日、頼朝死す(53
歳) |
|
参考文献 「源 義経」 渡辺 保著 吉
川弘文館
「北条 政子」 渡辺 保著 吉
川弘文館
「源義経のすべて」奥富敬之編 新
人物往来社
「吾妻鏡」 永原 慶二監修
新人物往来社
「義経伝説」 高橋 富雄著
中公新書
2.源義朝の横領事件
藤沢市史第四巻には、藤沢地域の古代中世期の歴史が描かれています。そのなかで意外と思われる人も多いと思い ますが、武略すぐれた源義経の父、義朝が鵠沼に乱入し乱暴を働いたという記述があります。これを少しみようと思います。
12世紀長治年間(1104-05)に鎌倉権五郎景正が土地を開墾し て伊勢神宮へ寄進したとあります。大庭御厨―みくりや―といいます。前に述べた様にこれが寄進系荘園です。景正は一般的には鎌倉に居住し長谷にある御霊神社で祭ら れていることで知られています。先祖伝来の私領と称して大庭の地を神宮領としました。のちの大庭氏は、この鎌倉氏から出ています。景正から三代目の大庭景 義が大庭一族の始まりです。この領域は今日の大庭地区だけではなく、東は境川、南は海、西は茅ヶ崎・寒川を含み、北は海老名市・綾瀬市に 接していたと考えられています。問題はありますが、わかりやすくいえば、藤沢市全域、プラス茅ヶ崎市・寒川町といつたところでしょうか。
しかしその後、義朝の父、源頼義は鎌倉に居住していたとき、先祖から受け継いだ土地だ、鎌倉郡の内だ、といっ
て俣野川(境川)を越え鵠沼の郷へ侵入します。大庭御厨側から、住民の苦情や抗議がよせられていました。西暦
1144(天養元年)九月八日、今度は義朝の名代清原安行と国司の役人らが鵠沼に乱入しました。
伊勢神宮への捧げ物の魚を略奪、数々の乱暴を加えました。
翌日も大豆・小豆などを無理矢理刈り取りました。伊勢神宮の神人―役人--荒木田彦松が、もともと国司の認可をえたもの、処分をお願いすると抗議しましたが、夜12時多数の軍兵を率い鵠沼の住人
を縄でからめとります。その場で抗議した荒木田彦松の頭を打ち、住民八名に傷を負わせる行為に出ます。
この不法な暴挙を太政官に報告し、乱暴を止める様に
官宣旨(太政官の命令書)をもらい、国司から乱暴の停止と犯人の逮捕、御厨からの貢物は伊勢神宮へ、と決定されましたが、乱暴は、これでは収まりません。
翌10月には義朝側は千余騎の軍をひき御厨内に入り、大庭御厨を廃止せよと迫ります。境の目印の石も抜き取り神人数人を簀巻きにして瀕死の重傷を負わせ、
圧迫して殺してしまいます。御厨の貢物、税などを奪い、だれかれと無く略奪します。太政官からはさらに乱暴を止める様に、境の石などもとのように、奪った
ものは返還するように、と命令されますが、その後どうなつたでしようか、史料は直接伝えていませんが、これがもとで土地は人々がいつかなくなり、荒廃し原
野になってしまったとあります。
「悪党」という言葉があります。荘園側からみれば乱暴略奪する武装集団のことですが、この時代に生まれた言葉 として興味深いものがあります。 鎌倉権五郎景正も、もともとこうした抗争のある荒廃した土地を、持ち倦ねていたのかもしれません。折角開墾した土地を寄 進する本当の理由は、源頼義・義朝との抗争を避けたかったのかもしれません。
しかし12世紀末に源頼朝が出現したことにより、1180年(治承
4)挙兵以来始めての論功行賞が行われ大庭景義が本領を安堵され、大庭荘司としての権利を継承します。ここで大庭御厨は、安定したといえましょう。鎌
倉幕府を期待した武士は、本領を安堵され領地を保証されることを望みます。その反対として幕府への忠誠と軍
役などに従うことになります。力の弱い貴族政治には頼ってはいられなかつたのです。
3.大庭御厨―みくりや--と領家
藤沢市のほぼ中央に湘南ライフタウンがあります。大庭神社や後の時代の大庭城跡があります。がそれらは源義経
の死後のことです。義経の時代、藤沢は前述のとおり大庭御厨という伊勢信仰に支えられた荘園がありました。その範囲も藤沢市北部の一部を除く藤沢市一帯と
茅ヶ崎・寒川をふくむ広大な面積を占めています。
現在の藤沢市藤沢4丁目に通称「伊勢山」があります。小田急線「藤沢本町」駅の西側の丘です。
ここは春には桜の名所として市民に親しまれていますが、地元伝承では、山腹に伊勢神宮の社があったと伝えられ ています。丘の南側の地名は「風早」、少し西にいくと「車田」という中世的地名が現在も残されています。
藤沢本町駅より東の一帯は「諏訪ヶ谷―すわがやと」、さらに東、現在の白旗交 差点一帯に「領家」という地名があります。現在も町内会の名称で使われています。ここは源義経の首洗い井戸の伝承史跡があり市民に親しまれています。そこ から北へ、ご存知の「白旗神社」があり義経をご祭神として祭ってあります。
この地は、町田八王子へ通ずる道、また厚木方面への古道、そして江戸期には東海道と交差する要所です。また少
し南に行くと現在のJR東海道線と小田急線の交差する踏み切りを「一本松」といい本町小学校西側には六本松古戦場の伝承地があります。この領家から古道で
つながります。白旗交差点から西へ、100メートル程に通称「おしゃもじ」さま、稲荷様があり大正期に建立された鎌倉古戦場碑もあります。お気づきの方も
あるかと思います。ここから鵠沼への古道---伊勢皇太神宮(通称烏森皇大神宮)へ通ずる古道もあります。
ここは
鵠沼神明(しんめい)5丁目、中世期以前からの鵠沼郷の本拠地です。先にお話した源義朝の乱暴事件は、このあたりの出来事と思われます。そ
うした交通の要所に地名『領家』があること、少し
詳しくかんがえてみましょう。
領家とは
吉川弘文館発行の「国史大辞典」にはこうあります。領家とは荘園の領主のこと、在地の領主が自分の権利の一部
を留保しつつも中央の貴族・寺院に所領を寄進する寄進型荘園が平安時代の中期ごろから見られるようになります。その寄進をうけた荘園領主を「領家」とい
う。さらに領家は国司からの干渉を排除し、より上級の権門・寺院に本家寄進を行った。とあります。
荘園領主は領家職という権限をもちます。年貢徴収を一定部分留保したまま、貢物として毎年寄進をとりあつかう 権限です。内容は代官職です。
大庭御厨の場合、領家とは伊勢神宮のこと、この年貢などの取り扱い機関がこの地領家にあったと見ていいのでは ないでしょうか。境川に隣接し船便も可能です。なによりも交通の要所に、また谷戸に囲まれたこの地は、平安時代には大庭御厨のいはば代官所があってもおか しくありません。
なによりも、ここにある程度の集落を想定できます。鎌倉から境川を隔てて、伊勢神宮の領域があることは、源義 経の首を埋葬する背景がここにあるとみています。このことはあとの放送でも、また詳しく、とりあげようと思っています。
昭和8年刊行「現在の藤沢」加藤徳右衛門著 所収 「源義経首洗い井戸」写真
井戸を囲いお社になっていて興味深い。
1.『吾妻鏡』の義経首実検
吾妻鏡とは、1180(治承4)から1266(文永3)まで、約80
年間にわたる鎌倉幕府の事跡を記した歴史書です。鎌倉時代の政治史を見る上で重要な史料です。
源義経については22歳以降から登場することになります。富士川の合戦の直後に兄頼朝と黄瀬川の陣屋に訪れた
ことからはじまり、衣川で死んだ時までです。一般的に知られている牛若丸の話し、弁慶との出会い、奥州へ脱出するという話は「義経記」という江戸時代
1180年(寛永10)に流布された本によるものが大半です。歌舞伎や浄瑠璃などいわゆる判官もの、といわれる江戸期にいろいろ脚色された源義経像が、今
日まで延々と伝わり悲劇の英雄となったものです。これらは江戸の歴史文学や、演劇史を見る上で重要ですが、史実となると、誠にあっけなく扱われています。
私の大学時代の恩師である渡辺保教授が「源義経」--吉川弘文館 を
書いています。25年前に鬼籍にはいられましたが、信頼できる史料のみを使い、歴史家ですので淡々と書かれています。吉川弘文館の人物叢書で現在も入手で
きます。是非一度お読みください。
さて藤沢とのかかわりは、源義経死後のこととなります。書き下し文を下記に記しておきます。
吾妻鏡 第九 文治5年六月
「十三日、辛丑―かのととうし― 泰衡が使者新田冠者者高平、與州の首
を腰越の浦に 持参し、事の由を言上す、よつて実検を加へんがために 和田太郎義盛・梶原平三景時等をかの所に遣す、おのおの甲直垂―よろいひたたれ―を著し、甲冑の郎党二十騎を相具す、件―くだん―の首は黒漆―こくしつ―の櫃―ひつ―に納れ、美酒に浸し、高平が僕従二人こ
れを荷担す。(略)観る者皆双涙を払ひ、両衫―りょ
うさん--を湿―うるおす--と云々」
意訳
6月13日、藤原泰衡の使者新田高平が、伊予守の 首(義経の首)を腰越の浦に持参した、これはその首に間違 いありませんと口上を述べたので、間違いないか確認するために和田義盛・梶原景時を派遣した。それぞれ甲冑を身につけ郎党20騎を従えた。義経の首は黒漆の櫃にいれ美酒で浸されている。高平の家来か゜これを担いでいる。(略)それを見物した人々 は皆、両眼からの涙をふき両袖が涙で湿ってしまった。
なかなかの場面描写です。見物人の涙を誘うという書き方は、あまり吾妻鏡にはこのような感情的な記述は少ない
のです。この描写から義経の首は、腰越の海岸で見物人に晒された、いわゆる、さらし首にされたことが分かります。
何の涙か??何故酒づけなのか?? この疑問に吾妻鏡は答えてくれません。またさらされた首は、その後どう
なったのか??胴体はどこへ??なによりも、自害したのは閏4月30日、奥州衣川です。43日も首実検が延びたのは何故か??これらの疑問は、後世の人々
への歴史研究の大きな課題になりました。
課題を整理します。
1. 腰越の首実験ののち、首はどうなったの
2. 首と離れた胴体は、どうなったの
3. 酒づけ、というが6月では腐乱してしまう、どうだったの
4.
奥州から43日もかかって運ばれているが、時間がかかりすぎでは
いろいろな伝承や史跡が各地に残されています。また関係史料も東北地方にはあります。可能なかぎり、ご紹介し たいと思います。
さきに『4.
奥州から43日もかかって運ばれているが、時間がかかりすぎでは』という疑問へ、ひとつの答えがあります。
室町時代に編纂された「鎌倉大日記」という編年体の記録があります。年代順に大きな事件が記録されています。
水府明徳会彰考館の所蔵です。水府とは茨城県水戸市、水戸藩の学問所だった彰考館にのこされたものです。
「文治五年、閏四月卅日 義経公は衣河館において、自害す、五月十三日首は鎌倉に上る、藤沢に埋められる」
1189年(文治5)4月30日の記録ですが、13日を費やし鎌倉に首がもたらされ、藤沢の地に埋葬された、
と読めます。この日数だと納得できます。では何故首実検が遅れたのか、という疑問です。吾妻鏡はこういっています。5月22日、奥州からの飛脚で義経の首
を持参する旨を知らされます。このことは京都にも飛脚便で知らせます。実は4月初めに奥州平定のため鎌倉鶴岡に塔を建立する予定でいました。一説では頼朝
の母の菩提を弔うためともいわれています。6月7日の記録ではこの塔の供養を6月9日に予定され導師を京都から呼び寄せていました。義経の首が到着するこ
とで供養を延期させるわけにはいかなかったのてす。供養が終り次第ということになり、しばらく途中で待っていろ、と飛脚を飛ばします。最後の最後まで、い
じわるといえば意地悪です。9日には盛大に塔供養が行われ、13日に首実検となったわけです。
その直後6月24日には奥州の泰衡を日常的に源義経の隠匿した罪よって、奥州追討の沙汰を下します。政治的シ
ナリオがすっかり出来上がっている感じです。ですから首実検もそのひとつで、ここで確かに源義経は死んだぞ、そして奥州征伐にいくぞと内外に宣言する意味
を込めたと思います。政治的儀式といえましょう。そうなってくると後に論争の種になりますが、酒づけで腐乱したはずだという義経のニセ首説と北行伝説があ
ります。そんなことは頼朝にとってどうでもよく、さらし首にすることで処刑を終え、内外に知らしめる政略的な意味を見出すことが出来ます。
また藤沢に埋葬されたという史料は、東北地方にもあります。江戸中期仙台藩士で学者の「相原友直」が著した 「平泉―へいせん―実記」には、こうあります。
在る説に、首は相州白旗の里にうつし、白旗大明神と崇むと云り
藤沢の地が埋葬地であることは、藤沢以外の史料にもあることを紹介しました。
2.白旗神社の由緒と藤沢宿坂戸町の記録
白旗神社史によれば創立年は不明ですが最初は寒川比古命―さむかわひこのみこと―を祭り寒川神社と号していました。
1198年(建久9年)に白旗川の丘に白旗神社を勧請したとあります。また1249年(宝治3年)9月源義経公を合わせ祀ったとあります。鎌倉時代の中ご
ろ、義経最後の文治5年から60年後のことです。
さて、話しをもどします。義経の首実験ののち、首はどうなつたでしょうか、ここからが藤沢の伝承です。晒し首
の後、首は腰越の浜に捨てられます。首は潮にのり境川を遡り、ここ領家の里に到着します。あわれと思った里人が泥まみれの義経の首を洗い清め、首塚をつく
りました。という伝承です。
その首を洗ったというのが「首洗い井戸」で、そこから20メートル北に塚を築いたとされています。60年後、
改めてご祭神として白旗神社へ合祀したというものです。
このことを少し考えて見ましょう。実はさらし首が終れば処刑も終りです。後は有る意味で自由です。その首を頂
いて葬ることまでは命令されません。親近者が、あるいは名もない僧侶が手厚く葬ることは十分に考えられます。ただし鎌倉に近いところではなく、鎌倉郡から
離れ境川を越えれば、そこは大庭御厨です。伊勢神宮の神の領域になります。交通の要所でもあり御厨の代官所があった領家の地は、集落の存在が推定できま
す。そこで人知れず首を洗い、塚を築くのは自然でしょう。名のある鎌倉武士がそれを行ったとしても、表向きはいえません。幕府には恐れ多いことです。たし
かに記録は残せません。 そこで人々の口に伝えるといった手法を使います。伝説の始まりです。伝説伝承の分野は、記録がないので歴史家の嫌うところです。
そこで罪をとわれない里人の登場です。こうした伝説伝承は全国にはとても多いのです。源義経に限っていえば、
外に首塚の伝承地はありません。かなり信憑性の高い伝承史跡といえます。
藤沢の義経伝承は、あとの放送で詳しくお伝えします。
首塚にあった「九 郎尊神」碑
白旗神社に関する資料は、『白旗神社誌』と題した冊子が今年夏に発行されました。社務所で有料、分けてくれま す。分かりやすく関連石碑などの紹介もあります。是非一度お訪ねください。
さて少しお時間を頂き、最近発見された江戸期の古文書を紹介したいと思います。藤沢宿坂戸町で旅籠を経営して
いた可満くらや松兵衛の記録です。私の先祖です。当時は白旗神社の氏子で世話役をしていました。1820年代天保年間の出来事がメモ風にかかれています。
『町内手控―てびかえ--帳』といいます。白旗神社に関係する記録で、現在の社殿に関するものがあります。
1820年(文政3年) 天保6年の記録
西暦1820年(文政3年)2月8日、午前3時台町にある真源寺--- 浄土宗の寺院―
から出火します。諏訪ケ谷、台町、白旗横丁の家々そして白旗神社の本殿まで106軒が類焼します。南風によっ て午前5時まで、2時間、あっという間に広がります。推測すると春一番だったかもしれません。坂戸町の可満くらやは類焼を免れました。
仕方なく翌月3月には、ご祭神を名主の広瀬家に移します。のち再建されるまで15年間もかかります。火災から
5年後松兵衛は鎮守の普請金を積み立てる事にしました。町内の氏子たちを説得、会計の役割をする世話人を決めました。
8年後、ある程度まとまりました。45両は坂戸町内から神社へわたされました。積み立ては続きます。西暦
1835年(天保6年)15年後、合計で270両となりました。金額の大きさは少し分かりにくいので現代風に換算します。だいたい当時1両は5万円から7
万円、米相場で変動します。おおまかですが、現在の金額で約1500万円程度です。この年五月には大工の棟梁を決めます、手間賃が100両です。換算する
と600万円相当です。建具や戸板・障子も必要です。材木は隣の善行村から切り出します。また当然ですが、神輿の新調しなければなりません。江戸神田の神
輿屋に依頼します。12両かかります。神輿は檜の柱、かつぎ棒は梅の白木です。意外と質素です。
この質素な意味は当時の世相にあります。2年前から関東東北地方一帯は大飢饉に見舞われ始めました。米の値段 が高騰します。買占めに対して打ち壊しが全国で発生していました。天候不順が続きます。長い雨が数年続いていました。冷夏です。夏の日光不足で米が生育し ないのです。餓死者も出はじめていました。
農民ではないのに松兵衛は、いつも天候を気にしています。とくに雨風の記録が目立ちます。そして米の値段も、 また田植え時期にも気をもんでいます。この時期だからこそ、町の人々は頑張ってもらいたい、そういう気持ちが史料から伝わってきます。ここは白旗神社を復 興するいい機会と考えたに違いありません。
1835年(天保6)9月27日、いよいよ完成した本殿に源義経のご神体を移します。
坂戸町の名主・年寄役など招いて食膳を用意します。神前にもご膳を揃え、以前のように荘厳寺のご住職により翌 日28日ご祭神を鎮座しました。拝殿の坂には坂戸町の名前の入った高張提灯を2本立ててあります。
松兵衛の手控帳には、こう記されています
天保六未、九月廿七日 鎮守白旗大明神へ内々にて御 移り有之、名主久兵衛・年寄藤左衛門・年寄久右衛門 御膳 申候
翌廿八日 雨天 宮式神米御座候 拝殿所右坂上に坂
戸町高張弐巾立、就中中につき神前そろへ三かざり御膳之義
者、荘厳寺にて如常に上申候
最後の「三かざり御膳之義」という内容、どういう食膳は、よくわかりませんが、神の前に稲穂などの豊作をいの
る作物のことと推定されます。そこでなんで荘厳寺が出てくるのか、という疑問があります。江戸時代は神仏混淆―こんこう―といい、分かりやすくいうと神と仏を一
緒にした信仰が一般的でした。たとへば阿弥陀様は八幡の神、大日如来が伊勢の神 というように仏教と神道とが分かれていなかったのです。これを本地垂迹説
といいます。当時白旗神社は荘厳寺が管理運営していました。これを別当寺といいます。もっとわかりやすくいうと江戸時代は神主さんがいない、坊主が神社を
守ったと考えてください。
これではいけないと、明治維新のとき政府が天皇の権威確立のため神仏分離政策を進めます。西暦1868(慶応 4)3月仏像をご神体とすることを止め、神社にいた僧侶を還俗させます。社前の仏像仏具取り除き、4月、神職はその家族の葬式は神道で行うように命じま す。この神仏分離令は全国に廃仏毀釈―は いぶつきしゃく―の運動となり 寺は廃止され、仏像を捨てる、毀すという事態に発展します。
藤沢の荘厳寺は、もともと宿場の中央南側、現在の位置に鎌倉時代に創建されますが、江戸期には白旗神社の東隣
にあったのです。明治時代の神仏分離令で、また元の位置に戻ったわけです。
だいぶ話しがそれてしまいましたが、もとの話しにもどります。天保6年に再建された白旗神社の社殿は、現在の
ものです。江戸期の建物として現存しています。
小川泰堂著『我がすむ里』
1830年(文政13)
慶応大学図書館蔵より
亀の尾のなかきためしに、ひきそへて千代万代を神や守らん
伊セ山
弁慶松
秋葉
弁天
白 旗神祠―しらはたじんし
義経公の霊を祀る、鎮座の丘を亀の尾山といふ
本社
本堂・客殿・庫裏
イナリ
天神 金ヒラ 大師堂
宝蔵
『東海道分間延絵図』とは、江戸幕府が1806年(文化3)に完成させ
た全国の主要五街道の絵図です。
実際に街道を測量し、分かりやすく町並みをえがいたものとして重要な史料です。
第一回目の放送で中世期の「領家」の地名に
ついてお話しましたが、町としてあったこともわかります。
台町
稲荷
地ノ神
義経首洗井
稲荷
領家町
石橋
<参考>
*東海道の道幅5間9m
白旗横丁は1.2間程度
そして白旗神社へ通ずる横丁の東側に「義経首洗い井戸」が記され、鳥居があります。
首塚の向きは白旗神社へ向
いていることがわかります。この絵の上には白旗神社がありますが、スペースの関係で省略しました。
この白旗横丁は現在の国道467号線です。神社の裏手で
国道1号線、通称藤沢バイパスと交差します。
この国道467号線は、ご存知と思います。町田・八王子へ現在もつながる主要道路です。
17世 紀1659年(万治2)に仮名草子作家の「浅井了意」の作品です。
仮名草 子とは、ひらがなで書かれた書物です。浅井了意は、京都二条本性寺の住職、
江戸期 の初め全国でも有名な職業作家となった人物です。
江戸か ら京都までの道中記ですが、宿場から宿場の間の里数・馬人足の駄賃・沿道の名所や、
当時の 人情・風俗を著した、いわゆる名所文学としてもすぐれています。
藤沢より平塚へ三里十六町
宿の入口を道場坂といふ、道の右のかたに遊行上人の本寺あり、ここに小栗殿并に十人の殿原の石塔あり、少しおくのかたに横山一門の石
塔あり右のかた町はづれより十五町バかり行て白旗といふ里あり。むかし源九郎
義経、奥州高館―たかだち―の城―じょう―にたてこもり、つに自害らせる、よし
つね・弁慶がくび鎌倉に上せけるに夜の間に、ふたつのくび此所にとび来れり、里人こ
れをミれば大いなる亀のせなかにのりて、こいだしてわらひければ、かまくらへ此
よしを申つかハし、すなハち神にいはひて白旗明神と申す、その前に弁慶が塚あり
おなじ浅井了意の道中記、これは2年前の1657年(明暦3)に書かれた物ですが、源義経については省略されています。この名所記が刊行された万治2年
1659年あたりから全国的にしられるようになったと見ていいでしょう、あるいは藤
沢宿の名所として藤沢の人々が、当時のマスコミに郷土自慢を伝えたのかもしれません。
前文にある「宿の入口を道場坂」とは、遊行寺の東の東海道で、通称
「道場坂」と江戸時代呼ばれていました。現在の「遊行寺坂」のことです。「遊行上人の
本寺」とあるのは遊行寺のこと、正式名称は「藤沢山無量光院清浄光寺」といい時宗の
本山です。「小栗殿」とあるのは現在の本堂の北にある塔頭、「長生院」のこと
で小栗堂があり、のち元禄期以降歌舞伎で有名になる、「小栗判官・照手姫」の話しで
す。説経節など室町時代から語り物になったもうひとつの判官---が藤沢宿の名所で紹介されています。長生院は愛する夫、小栗判官の菩提を弔うためここに
庵を結ぶ のが始りです。この照手姫伝承は、いつかまた、勉強する機会があるかもしれませ ん。
源義経の話しにもどります。首がふたつ飛んできたという、言い方は面白 いです。弁慶は、ご存知かもしれませんが、「義経記」では主人を守り大活躍しま
すが、その話しは架空のものが多く、ほとんど信頼がおけません。確かに「吾妻鏡」
には主従の名に弁慶があり、まったく実在しなかつたわけではありませんが、過大に
誇張された伝承にもとづく人物です。確かに義経・弁慶の顔をしらない里人には、仮
に義経ひとりの首の霊があっても、わからないでしょう。ふたつあって義経・弁慶と
判別したのかもしれません。亀の背中にのって、大笑いした―ゾクゾクする霊ですが、亀は実は白旗神社の本殿のある丘が、亀の形をしていて、亀の尾山―--
といわれていました。亀は白旗神社のシンポルです。
首洗い井戸の北20メートルのところに首塚がありました。義経・弁慶の 首をとむらうためのものですが、義経は白旗神社のご祭神となりますが、江戸時代
は、どうもこの首塚を弁慶塚といった形跡があります。主従向かい合う形です。
3.東海道 名所図会―
東海道名所記より約100年後、いろいろな道中記、地誌が
江戸中期に刊行されます。当時。興味ある旅行のガイドブツクとして、世に広まれ、読まれた案内地誌はこれが最大のものです。西暦1797年(寛政9)に秋里籬島の著作で刊行されました。東海道を扱った絵入りの名所案内書です。範囲は京都からはじまり江戸まで6巻
6冊、藤沢宿は最後の6巻目にあります。江戸中心に考えると大変読みにくいのですが。
少し余談ですが、さまざまな史料、古文書を読む機会があり
ますが、最初わたしが面食らったことがあります。とくに道中記や交通史関係の幕府の史料には、「上り、下り」の表記が出てきます。江戸時代通じて「上り」
というのは京都へ向うことを意味します。「下り」は江戸です。現在のJRなどは東京に向うのが上りです。小田急線
でも藤沢駅から「上り新宿行き」という表現ですので、江戸時代とは全く逆になります。
慣れないと混乱してしまいます。「上り平塚宿」というのは
藤沢宿から平塚へとなります。「下り戸塚宿」は藤沢宿から戸塚宿です。まだまだ京都中心文化だったのです。というより京都の天子様のいる方向が優先なので
す。明治時代は天皇が東京にいたから、また今日までもそうですから、東京が上りとなり、逆転したわけです。余談です。
相模藤沢
戸塚まで一里三十町なり、駅中に白旗明神というあり、廷
尉―ていい―源義経を祭るという、別当を真言宗荘厳
寺という、この宿の産土神として、例祭六月二十一日なり、また同駅に八王子祠―やしろ―あり、土人いわく武蔵坊弁慶を祭るなり
とぞ、両祠とも由縁詳らかならず
源義経のご祭神である白旗神社と弁慶のお社については、よ
く分からないと、かなりつれない記述です。がこれに反して遊行寺のことについては本堂伽藍全体図と小栗判官照手姫のふたつの絵入りで実に詳しく、説明があ
ります。
さてまずこの記録を考えましょうか、平塚方面から下り藤沢
宿にくると、白旗神社が目立つことが分かります。「廷尉」--ていい―というのは源義経の官位です。京都の検
非違使の長官、つまり通称、判官―ほ
うがん・はんがん--と言われる位―くらい--です。夏祭りは当時は6月21日、今は7月20日の新暦で行われます。ここで弁慶を祭る八王子社のことが登場します。こ
れはまたあとからの放送で詳しくお伝えしますが、坂戸町の浄土宗の寺院、常光寺の庫裏の裏手に現在も、弁慶塚がのこされています。山号を八王山摂取院常光
寺、弁慶塚が出来たのはいつか、まだよくわかりませんが、江戸時代通じて、八王子権現社がありました。現在もその跡地に弁慶塚の石塔を見ることが出来ま
す。現在は常光寺の山号としても、痕跡が残されています。
4.高山彦 九郎の記録『小田原行』
藤沢市史2巻には、紀行文などの史料が掲載されています。その中で抜粋ですが、白旗神社など源義経関係の史跡
を訪れた人物の史料があります。高山彦九郎です。
高山彦九郎は、戦前の教科書にも載せられた著名な歴史人物
ですが、寛政期、西暦1747(延享4) 上野国新田郡(群馬県太田市)
のうまれ、武士ですが、郷士という低い身分です。1793年(寛政5)に47歳で没しています。江戸中期の尊王論者です。尊王の志が熱く、京都に出て多く
の公卿と交流、また諸国を歴訪して勤皇思想を説きます。が江戸幕府から行動を監視され、最後は鬱憤のまま九州久留米で自刃してしまいます。京都三条の大橋
の上で宮城に向かい、長い時間、平身低頭・土下座した姿が戦前の教科書にのせられています。のち幕末期の尊王派の人々に影響を与えた人物として有名です。
西暦1776年(安永5年)9月に小田原から江戸への途中に藤沢宿に 立寄ります。「小田原行」という文章の一節です。30歳のときの旅です。
二十一日、降らず、朝五ッ(午前4時)に宿りを立て十間坂・南胡郷本 字のよし、つゝく茅が崎を歴て道のハた左に六本松という有、高すなという也、小わた二ツ屋、南郷是迄一里九丁、砂道にて松原、艮--うしとら―に来る也、四ッ屋に休、大山へ六里、乾―いぬい―に当る、羽鳥・敷地(引地)・車田・是より右一里九丁江島道也、次に藤沢宿是迄南郷二里九丁、平塚三里半、今日も艮--うしとら―に来る也
町へ入左江入て右、町屋の裏に玉垣有、中十間四方計―ばかり--、角―かど―の方に弁慶か首塚あり、是北半町余、小高き所石段を上り巽―たつみ―向にて石花表有
白旗明神の社東の脇に真言宗荘厳寺といふ別当寺にて 子供をかり、案内を乞ふ、弁慶が首塚半丁計―ば かり―巽方、町家のうらに首あ らい井あり、今 ハ上に小社を建ツ、是町江出、右へ半丁計―ば かり―入、小高き 所乾―い ぬい―に 向弁慶社在、昔鎌倉殿へ実験のゝちこゝに義経が首を納め祀るといふ、白旗明神即―すなわち―義経也
字句の説明―「」与の字です
が、江戸期は「より」と読ませています。
1. 方角 : 艮--うしとら―東北 乾―いぬい―西北 巽―たつみ―東南
2. 石花表-せっかひょう―鳥居のこと
3. 地名 : それぞれ立場・茶屋のあるところ
十間 坂--原茅ヶ崎市十間坂、
南胡 郷―- 茅ヶ崎市北口あたり一帯
高すな―現在の菱沼あたり
小わ た―- 茅ヶ崎市小和田
二ッ 屋―藤沢市城南一丁目 一里塚がある。
四ッ 屋―辻堂駅北口より2 百メートル「四ツ谷」 のこと大山道の分岐点
羽鳥―藤沢市羽鳥
敷地―藤沢市城南4丁目引地川
車田―現在の湘南高校入口
4.距離 1里―3927 メートル約4キロ 1町―約 109メートル 1里=36町
半町―約50メートル 1間=約1.8メートル
彦九郎は東海道平塚宿を明け方4時に出発、茅ヶ崎をへて羽鳥・引地・車田とうしとら=東北方向へすすみ、藤沢宿の
現在の白旗交差点あたりに到着します。地名距離とも正確です、迷わず白旗神社へ向おうとしま
す。これはすでに道中記などで知っていて、一度は訪問したい史跡だったのでしょう。
白旗神社へいくため左にまがります。そして白旗横丁の町並みの右手に十間四方(約18メートル四方)の玉垣を発見します。その角に弁慶塚をみつけます。前にいいました「東海道分間延絵図」を再度みてく ださい。鳥居が柵のようなもので囲まれた社が確認できます。ここから半町約50メートル北の小高い丘の石段を上ります。前回放送の白旗神社 境内の絵図 14―15ベージをもう一度みてください。
彦九郎は巽―たつみ―東南の方向を向く鳥居を確認します。現在の鳥居の位置と思っていいと思います。神社の東に荘厳寺があり、案
内してもらおうと子供を借ります。多分子供は、首洗い井戸ともうひとつ弁慶塚があるよ、と教えたのでしょう。弁慶塚から50メートル東南に「源義経の首あ
らい井戸」があることを発見します。井戸にはちいさな社がその上にたっていたことも分かります。これも1回目放送の時紹介した井戸に社をかけた写真、9
ページを参照してください。
また彦九郎は白旗横丁をもどり東海道に出ます。現在の白旗交差点から右へまがり現在の藤沢橋方面にいこうとし
ます。半丁約50メートルほどいくと乾―西北―方
向に向い弁慶社を発見します。これは東海道名所図会にある「八王子祠―やしろ」のことです。常光寺庫裏の裏手にある弁慶塚です。ここまでは東海道からかなり脇道ですので地元の子
供など案内がなければ、いきつけません。現在もこの弁慶塚の所在は、藤沢宿を訪問される方々からよく聞かれます。わかりにくいと。
しかし高山彦九郎は、方角距離とも正確です。感心してしまいます。道中記をもつていたと思われますが、それに つけてもコマ目に史跡を確認しています。学者です。また地元の子供に案内を頼むという姿勢は、さすがです。私も地方にいくとき観光ガイドにない史跡を探し 回ることがあります。そういうときはすぐ土地の人に尋ねます。そのほうが早いのです。
さて「向い弁慶社」という、その意味ですが、くわしくはまた常光寺弁慶塚について次回に放送しますが、八王子 権現社は、もう存在しなくなって弁慶の社があったことをしめしていると思われます。「向い」という意味は、義経をご祭神とした白旗神社へこの社は向いてい た、という意味です。西暦1776年(安永5)にはもうひとつ弁慶塚はあったのです。義経を守る意味から小高い位 置にもうひとつ鎮座していたのです。
源義経像
(平成13年 村山直儀画伯―永訣の月より)
藤沢宿にも江戸期には文化人知識人がいました。
1976年(昭和51)の『藤沢市史料集二』があります。『我がすむ 里』『鶏肋温故―け いろくおんこ--』がいい史料です。このふたつの書物は江戸幕府が全国地誌をまとめようと1824年(文政7年) 地元からの地域の歴史地誌などの草稿を求め、それに啓発されて出来上がったものです。源義経についてどうかかれているのでしょう。
1.『新編相模国風土記稿』----白旗明神社
これは江戸幕府、昌平坂学問所が編纂し西暦1841年(天保12)に 出来上がりました。全部で126巻、絵図が要所に取り入れられ自然・名所などがくわしくかかれています。古記録・古文書の引用も多くすぐれた地誌として今 日も重要な史料のひとつとなっています。
○白旗明神社
社を亀形山と呼ぶ、文治五年廷尉―ていい--義経、奥州に敗氏し、其首級実検の後、此地に埋め、其霊を祀りて当所の鎮守とせしと云ふ、義経の首級腰越にて実検ありし 事、東鏡に見えたり (略) 例祭六月十五日当社及八王子権現の神輿を仮殿に移し、同二十一日迄神事あり。荘厳寺持、下に同じ△末社 稲荷 二 弁天△首洗井 境外にあり、義経の首を洗いし所と云ふ
○八王子社 武蔵坊弁慶の首塚ありし所にて弁慶の
霊を祀しと云ふ 塚は廃す 例祭白旗明神と同じ△末社 稲荷
○山王社 △末社 稲荷ニ
○神明 宮
○稲荷社
この史料はいままでの放送のまとめになります。白旗神社の社は亀の形をした山、廷尉―とは義経の官位で検非違使の長、判官を
意味します。例祭日つまり夏祭りは旧暦で6月15日から21日まで神事が行われ、白旗神社と八王子権現の神輿が、いつたん仮殿―お仮屋―に移し、20日には白旗神社へ練り歩き
ます。東隣にあった荘厳寺は白旗神社の管理運営をしていたこと、義経の首洗い井戸は神社の境内の外にあること、常光寺にある八王子社は弁慶の首塚があり、
その霊を祀っていたこと、塚はなくなつてしまつたが、例祭日は白旗神社と同じ日であることなどです。
ここでひとつ注目したいのは、白旗神社の末社が記録 されています。神社境内には稲荷さまと弁天さまがあることです。弁天さまとは音曲・諸芸の神様です。
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弁天については外の記録がなく詳細はわかりません。が私がまだ小学生のころまで源平池があり中ノ島に弁才天が
まつられていました。当時はまだ荒れていて、その池は子供のサリガニとりの宝庫でした。近くの田んぼからカエルをとり、皮を剥いで足に糸をむすび池にたれ
下げると、面白いように食いついてきます。バケツ一杯のザリガニは剥いて食べたこともあります。田んぼでもうひと思いだします。現在の市民病院の一帯も田
んぼでした。**秋の取り入れ前にはちょっとしたご馳走がありました。イナゴです。紙袋一枚をもって、畔道をある
きます。稲穂についているイナゴは簡単に手で捕まえられます。友達2.3人で1時間も歩くと袋いっぱいになります。近所のオバさんにお願いして鍋に入れ、
醤油で煮ます、少しお砂糖を加えるとイナゴの佃煮の出来上がりです。すごいオヤツでした。今の子供たちには考えられないオヤツです。なにしろそのままイナ
ゴの姿ですから、慣れないと食べられません、がおいしかったですよ。
話しを戻します。 末社はまだ境内外にもあります。山王社、神宮社―お伊勢さんのことです、この2社がかか
れています。山王社は現在の神奈川県立藤沢高校の敷地に大正時代までありました。社があり宿場の時の鐘を刻んでいました。跡地が学校となり時の鐘は伊勢山
の頂上に移されます。神宮社は伊勢山にあったと地元では言い伝えられています。この2社の神様も白旗神社の管轄と
いうことが分かります。
西暦1669年(寛文9)11月、藤沢宿坂戸町の検地帳が残されてい
ます。私の所有している史料です。「相州高座郡坂戸村 御縄水帳」といい全三冊、膨大な記録です。その中に除地―じょち―といい町の寺院には、税金免除される耕
作地が表記されています。荘厳寺を見ると「一田畑壱町壱反歩 八王子・山王免 荘厳寺」とあり壱反歩の荘厳寺と白旗神社そのものの除地と併記されていま
す。常光寺が弐反歩ですから荘厳寺管轄全体あわせると常光寺の約6倍の面積になります。
まとめます。荘厳寺は、江戸時代、白旗神社・伊勢神宮・山王社・八王子社・稲荷社などの神社を管轄運営してい ました。そして白旗神社は源義経をご祭神として坂戸町の鎮守さまとして大切にされていたのがわかります。
2.小川泰堂の『我がすむ里』
新編相模国風土記稿が江戸幕府によって編纂、1841年(天保12) に完成しますが文政期(1818〜1829)神奈川県下の村々から、書上げさせました。このころこうした動きに触発されて、地元知識人たちは郷土の歴史に 対して調査研究をはじめます。そのひとりに小川泰堂がいます。
小川泰堂という人物をザートみましょう。神奈川県史―別編 人物 によれば、西暦1814年(文化11)藤沢宿大久保町茅場にあった小川家に生まれます。場所は現在の本町郵便局のすぐ西側です。父は小川天祐―てんゆう―町の医師の子です。幼名泰二―たいじ--、泰堂―たいどう―とは晩年の雅号です。1831年(天保2)十八才、江戸に出て医学 を学び、町医者を開業出ます。1845年(弘化2)父の死去により藤沢にもどり
医業を引き継ぎます。傍ら日蓮の研究に没頭、日蓮上人の伝記となる「日蓮大士真実伝」や、日蓮の経文などを収 集研究「高祖遺文録」を書き上げ出版します。1878年(明治11)65歳、茅場の笑宿庵で永眠しました。
、
本町郵便局すぐ南、笑宿庵跡
文政期は、泰堂の少年期です。藤沢の歴史について研究を行い全国で流行していた名所図会―絵入りの名所案内書―に類したものを書きとめます。1830
年(文政13)
16歳で『我がすむ里』をまとめます。後年泰堂自身が何回か改訂され当初は「藤沢名所図会」と題されていました。
藤沢市文書館が昭和51年に刊行した藤沢市史料集第二集には、慶応大学図書館蔵の「我がすむ里」が全文収録さ れています。
さて、源義経の話しです、『我がすむ里』には、こう書かれています。
白旗明神社
神社前の川が「白旗川」という名称があること、また弁慶松の古木についても確認できます。この様子はこのテキ ストの14と15ページの絵図や写真と同じです。石坂の段の数が書かれています、これは実際に歩かなければ記録できません。35段のぼると少し平らな地面とあります。おおきな石がありここが昔には社があったというのです。源義経の前には寒川比古命 がご祭神だったので、ここに寒川社があったのかもしれません。さらに17段登ると本社にいきます。この地形は現在とかわりません。四社の宮免というのは、 相模国風土記稿にあつた白旗・伊勢・山王・八王子各社の四社の田畑約1町が年貢免除だったといっています。縁起については東鏡を引用していますので、ここ では省略します。この『我がすむ里』は、さらに続きます。
その比、藤沢の河辺に金色なる亀、泥に染たる首を甲 に負ひ出たり、里人驚ろき怪しみけるほどに、側らにありける児童忽ちに狂気のごとく肱を張、我ハ源の義経なり薄命にして讒者―ざんしゃ―の毒舌にかゝり身ハ奥州高館―だち―の露と消るのみならず、首をさへ捨ら怨 魂やるかたなし、汝等よきに弔ひくれよ、といひ終りて倒ぬ、諸人恐れ て、これを塚となせり、これより鎌倉御所に於て義経の怨霊さまざまの祟りをなして右大将を悩ます、これに依て、首塚の北山上に社をいとなみ、神として尊と み御法楽ありける、その時鎌倉の在勤の諸侯もこれを尊信し社の東にハ諸木、西にハ松を植て奉納ありしよし社説に見ゆ
小川泰堂は白旗神社の社説を引っ張っています。それによると、金の亀が泥にまみれた義経の首を背負ってきま
す、里人がそれを見て驚きかつ怪異に思っていました、するとそばの子供に義経の霊が乗り移ってきます、くるったように肱をはり、口を開きます、「私は源義
経なり、若くして命をなくしたのは、梶原景時の讒言によるものだ、身は奥州平泉高館で消えてしまった。さらに首は捨てられ、怨恨やるかたない、お前たちよ
く弔ってくれ」と言って子供は倒れてしまいます。怨恨→怨魂となっています。
藤沢の里人に対する義経の登場の仕方は、本人の首だけが亀に背負われてきて子供の身をかり霊を乗り移らせ、首 は義経だ、という説明です。前回放送の「東海道名所記」では義経・弁慶ふたつの首が飛んできて笑うという登場の仕方と比べると、よりおぞましさを感じま す。いずれにせよ、物を言わない首があっても面識のない藤沢の里人に自己紹介する場面がないと、義経かどうかわからないわけで、神社の縁起としては重要な 場面です。
亀が登場します。これは前の放送でもいいましたが神社の丘の地形は、もともと大きな亀の形をしていました。こ
の丘は、独立しています。本社のあるところは丸く亀の甲に似ています。本社に登る階段の前は、平地です。これが亀の首にあたります。義経のご神体は亀の背
中に当る丘の上に鎮座しましたから、この縁起の伝承がつたえられたのです。
この記録は、めでたく源義経の霊を鎮めたので、鎌倉の源頼朝がさんざんに悩まされたことから解放されたことま
で、記されています。つまり鎌倉の守護神に昇格したわけです。これで源義経の思いは遂げられたと、宿場の人々は思ったのでしょう。
私は高校生のとき、別のことを思っていました。歴史が好きでしたので各地の古墳にも興味がありよく訪れていま
した。古墳の上に神社があるスタイルは共通です。由緒のはっきりしないものもあれば、きちんとしたものもあります。もともとは古墳上に寒川社があり、場所
は亀の首にあたるところです。義経を祭る段階で、亀の甲にあたる場所へ鎮座したと思われます。もつと想像すると、亀の甲にあたる所は円墳です。亀の首にあ
たるところは周囲が四角で方墳です。連続していますので、前方後円墳と想像しています。前方後円墳は横から見ると亀の姿によく似ています。つまり相模藤沢
のある豪族の古墳と見ています。残念ですが、これを証拠とする文献は今のところ見付かりません。
もう少し地元の伝承で追ってみましょう。背後の山、聖園学園の丘です。台地が舌のように相模平野につき出して
います。高座郡台地といいます。高座郡台地には通称滝山街道---八王子方面と結ぶ―がつながります。古道です。亀井野へ行
く手前、俣野小学校からドリームランド入口、通称「下屋敷」までの古道の東側には地名で四ッ塚があり、物見塚の石碑があります。いまでも円墳が確認されま
す。俣野地区の伝承では小栗判官の塚だと、いう伝承が残されています。古墳時代の遺構は、ここ白旗の里に連続していることに深い興味を覚えます。これは私
の仮説です。確定したわけではありませんのでご注意ねがいます。今後の研究課題です。今後の発掘調査が望まれます。
小川泰堂はさらに、続けます。坂戸町名主加藤惣右衛門たちは1752年(宝暦2)に初めて御旅所を初めてたてます。旅所という言い方は、神々が祭のとき本宮から渡
御して暫らく居る場所のことですが、広く神々が鎮座する場所の意味で使われます。
この場合本社のことを意味します。5年後1757年(宝暦7)江戸神
田神輿屋六兵衛が白木の神輿を完成し、その年夏祭りには神輿渡御がおこなわれます。
そのおよそ百年前、世に有名な由井正雪の事件がありました。1651年(慶 安4)、徳川三代将軍家光の時代ですが、家光の死を機会に倒幕を計画します。諸国の浪人をあつめ江戸・駿府・京大阪を焼き討ちしようと7月21日江戸を出 発、その夜は藤沢宿に一泊します。翌朝藤沢を出発して白旗神社の森に気づきます。義経・弁慶の最後と神社の由来を知った由井正雪は「これは、神の加護があ るに違いない」と駕篭の中から語ったという慶安太平記を、小川泰堂は説明しています。
義経首濯井
ついで小川泰堂は「首洗い井戸」について説明してい ます。
左の写真は、3年の様子です。現在は少し整備され左 にある「九郎尊神」の石碑は少し手前になりました。
井戸囲いの石組みは、昔からあったものではなく、白 旗神社さんが10年ほど前、危険だからと囲ったものです。
白旗横丁のうらにあり、文治5年の夏、彼の義経公の御首をあらひ清めるし水といふ
礼拝塚----義経首塚のことです。江 戸期は首塚の名称ではなく、礼拝した塚となって
います。土地の神様として当時から信仰が厚かったのです。
同所御旅所の傍らにあり、義経公の首をこのところに埋め塚とし、村人うやまいおそれ、往来にもかならず礼拝
せしより此名あり、上古ハこの塚の上に大木の松ありしが、今ハ枯失たりと老人いへり、一名首塚とも称す -- 略
--
この場所、現在は民間所有の土地となり家々が立ち並んでいます。首洗い井戸から北へ20メートルの地点です。
井戸の手前には「九郎尊神」の石碑と、井戸の左手にある「九郎判官 源義経公之首塚」と中央に刻まれた大きな石碑があります、このふたつは、もともと首塚
にあったものを、移動したと考えられます。この首塚の石碑は弁慶と義経四天王の名が表に刻まれています。右に「武蔵坊弁慶之霊」とあり、左に「亀井坊・伊
勢坊・片岡坊・駿河坊各霊」とあります。これは歌舞伎に登場するキャストの呼び方です。歴史書には「何々坊」という言い方はなく、それぞれ義経配下の武士
です。伊勢・亀井は吾妻鏡にも登場しますが、駿河・片岡は「義経記」に登場します。歌舞伎の演目「勧進帳」の影響です。
さて余談です。この首塚石碑の裏手は、文字が削られています。私もいろいろな方々を案内することがあります、 そのとき真面目な紳士が、「頼朝の陰謀か??」と一生懸命考え込んでいました。これはいけない、白状しなければい けないと思いました。実は大変な誤解を招いてしまったのです。
実は、この場所は現在「本町児童公園」になっていますが、私の子供の時代も遊び場でした。このおぞましい井戸
を覗き
近所のオジさんから、義経の首があるんだぞ、と驚かされましたが、そこは子供です。鬼ごっこをするには最適で
す。遊び疲れると、もうひとつの悪戯がありました。石碑の裏手の小さな文字は、小石でこすると文字が消えていくのです。
大人の目を盗んでは、ゴシゴシと---、この悪戯は、子供の世界で代 々引き継がれ今では、すっかり滑らかになってしまいました。
私の記憶では大正時代末期、鎌倉青年団の文字があったことを覚えています。当時鎌倉の名所旧跡には、青年団が 歴史顕彰のため各所に石碑を建てています。その延長と思われます。
あのう、頼朝の陰謀などと是非誤解しないでください。いまでは大いに反省しています。すみませんでした。
さて本題にもどります。
小川泰堂は、さらに記述を続けます。義経の首が吾妻鏡では酒漬けになっていたことへの疑問です。並合記という 軍記を見て、義経の首を朱塗りにして藤沢で獄門にかけた古例をひき、室町期に幕府へ反抗し源氏一族、新田の残党を処罰した一事件を引用しています。この並 合記は、信憑性がうすいとして現在の歴史学会では評価されていませんが、小川泰堂は吾妻鏡の抜けた部分をおきなう史料として意味づけています。確かに酒漬 けというのは、吾妻鏡以外に例のないことです。奥州平泉は漆産業がいまでも盛んです。平安鎌倉時代の漆工芸品は多く残されています。朱塗りという小川泰堂 の意見は、今後の検討課題です。
しかし後の放送でも紹介しますが、義経生存説のひとつの根拠となつた酒漬けの首は、別人でニセ首だとする説を
生み出します。明治期後半から戦後まで、歴史学会の論争の種となりました。まだまだ歴史の謎解きは、おわりそうにもありません。
1.平野新蔵道治の『雞肋温故―けいろくおんこ--』
前回の放送では小川泰堂の「我がすむ里」の源義経関係史料を、かいつまんでお話ししましたが、実はもうひとつ 江戸期の藤沢宿部分について書かれた書物があります。藤沢市文書館が昭和51年に刊行した「藤沢市史料集ニ」の後半部分がそれです。巻末にある解説には、 こうあります。
----泰堂の「我がすむ里」は1842年(天保13)に平野道治―みちはる―によって藤沢宿の部分のみ改訂されて雞 肋温故ができている、(略) 奥書きには「天保13年壬―みずのえ--寅―とら―秋、八月吉祥日 行年六十三 不浄老人平野道治 藤沢宿略絵図相添当年作之」---
さて、表題の「雞肋温故」というなんだか難解な表題です。まず分解して「雞肋」の文字からいきましょう。 「雞」という字は、いまは全く使われなくなりくしたが、ニワトリの一文字「鶏」と同じです。「肋」というのは「肋骨」の意味で、あわせて雞肋、つまりニワ トリの肋骨の意味です。当時ニワトリの肉は、貴重品で美味でした。いまは日常食べることができますが、肋骨に着いている肉は、その中でも特に美味でした。 雞肋―というと最高においしい 貴重な肉のことを意味していました。それを食べるには小刀で、丁寧に肉をそぎ落とすことになります。少なくて貴重でおいしい、ニワトリの肋骨は捨て るにはもったいない、という意味に転化しています。マグロの「なかおち」に似ています。
温故---とは古いことを訪ね、昔の事を究める、意味ですので『雞肋
温故』とは---捨てるには惜しい貴重な、昔の事跡を究める、---という意味になります。
平野道治についてです。「新蔵」とは代々の世襲名です。ここでは平野道治に統一します。藤沢宿で平野姓は多い のですが、大別して四家あります。@かまくらや平野家--私の系譜です。明治期自由民権運動家・国会議員・医師 だった平野友輔は親戚です。A牧野屋の平野家、本町郵便局の隣です。明治期酒造家、郵便局長を歴任しています。B吉田屋仁兵衛の平野家―今は藤沢にいませんが坂戸町問屋場の年 寄役、明治初年初代の大区長平野愛助の系譜です。C平野屋の平野家、幕末期坂戸町問屋役です。「東海道中膝栗毛」で登場する問屋の孫七がその系譜です。孫 七は、平野家系図によると八代目、正確には孫七郎道孝、平野道治の父に当ります。道治は九代目です。やはり坂戸町問屋役を務めています。1849年嘉永2 年に死去しています。場所は現在の藤沢公民館へ行く脇道のところに平野屋の旅籠がありました。江戸期はその脇道はなかったのです。平野道治は文化人で俳諧 を好み、富屋と号し狂歌も作品を残しています。平野道治は、小川泰堂が記録した「我がすむ里」の藤沢宿部分を加筆して「雞肋温故」と題しますが、この当時 小川泰堂は江戸で一時町医者開業、藤沢宿にはいなかったのです。内容の基本は泰堂のそれに依拠しつつ加筆訂正、要領よくまとめられています。そのひとつ八 王子権現社について考えてみましょう。
ところで、さらつと言ってしまつて、なんのことや
ら、と思われたでしょう。
大区長―職人の大工さんの棟梁ではありません。
明治初年、江戸時代の宿場が廃止され村々も新しい行政制度に切り替わります。おおまかに村々の単位で大区小区
制度という行政単位を実施します。まだ郡・町の制度が出来る前の時代です。だいたい江戸期の宿場単位で大区とします。ここは18大区としました。その長を
大区
長といいます。今日の町長というところでしょう。
問屋役--- 道治の『問屋役』、これは宿場の大きな機能です。一般
の村々では、農民=百姓、田畑を耕作し年貢を納める人々のことですが、その取りまとめ役として「肝煎り・百姓代」という部落単位の代表がいますが、村の長
は「名主・庄屋」です。戸籍・年貢納入や村の行事、治水、警察機能・はたまた百姓の生活相談という村の行政の長の役割です。宿場もひとつの村という単位と
して江戸時代は代官などに管轄されていました。もうひとつ大きな役割があります。宿場ですから旅人の宿泊―旅籠―があります。単に泊るだけでなく参勤交
代の大名行列などの時、人足や馬を確保して、次の宿場にリレーする役割があります。幕府の御用もあります。公的な手紙など通達をやはり次の宿場に送りま
す。
当時は車とか電車はありません。人と馬が交通手段です。この事務機関が『問屋場』です。それを統括するのが
「問屋役」です。ですから、いはば今日のJRの駅長というばわかりやすいでしょうか。名主役は、世襲制といい、財産のある家柄が代々継続するケースが多い
のですが、問屋役は、有力な宿場の人が、交代で務めます。その構成員を「年寄役」といいます。民間に委託された事業という要素があります。幕府から少ない
ですが委託金もいただくのですが荒くれ人足―雲
助―などを統括し、威張り散ら
した武士など相手にするわけですから並みの人物にはつとまりません。大名行列のこと考えてみてください。仮に3千人の行列どうさばくかです。荷物は馬で運
びます。人足もつけます。大名のほうで用意する馬・人足もありますが、大抵たりません。仮に馬50匹、人足100人雇いたい、と言ってきたらどうするで
しょう。
宿場の人口も、一挙に倍にふくれます。お殿様は本陣に泊りますが、お付の武士たちの宿泊も手配しなければなり ません。宿泊は旅籠などに手配します、また人足は人足頭のもと流れ者など長屋に住まわせてありますので手配できます。しかし馬50匹は宿場で飼育しているわけではありません。幕府の御用で日常用意しているのはせいぜい20匹くらいです。これも幕府ご 用が優先ですから、勝手に使えません。そこで近隣の農耕馬を村々にお願いして借ります。これを助郷といいます。馬子つきです。せまい街道に馬50匹どう、 並べるのでしょう、また荷物をくくらなければなりません。いやいや大変なことです。参勤交代時に、外の大名とぶつかり合うこともあります。この宿場機能に ついては、いつかお話しできる機会を楽しみにしています。
藤沢宿本陣付近
八王子権現社
八王子権現社は常光寺の傍ニ在、武蔵坊弁慶の霊を祭 ルよし、是白旗明神を義経と云に対してなるべし、按るに当社今白王山荘厳寺にて別当す、然ども八王山と号し、当社を八王子権現と称すれば、正しく是常光寺 一山の鎮守なるべし、猶暇日考証
すへし。
常光寺の弁慶塚
先に紹介した小川泰堂の「我がすむ里」や相模風土記稿とほぼ同じことが書かれていますが、「是白旗明神を義経 と云に対してなるべし」とはっきりいっていることが気になります。改めて弁慶塚の向きを見ると確かに、白旗神社に向いて
います。
これは面白いです。夏祭りは白旗神社と同じ六月十五日です。戦中戦後以降から行われなくなったのですが、ここ から弁慶神輿がいったん移され、夏祭りにはここから白旗神社へ繰り出すことが行われていました。地元の人々の伝承です。 八王子社の跡地の下は、現在は常 光寺の提供した児童公園になっていますが、そこからのようです。
さて、この石碑もまた文字が削られています。「弁慶塚」の左右の文字です。前回放送しましたように、この常光 寺裏山もまた子供の遊び場でしたので、これもまた悪戯です。私の記憶では、右には「宝暦ニ年」とあったと記憶しています。左は「坂戸町」なんとか、トカ。 この記憶がただしければ、前回放送の小川泰堂「我がすむ里」---ページ24―太字アンダーライン----坂戸町名主加藤惣右衛門たちは1752年(宝暦2)に初めて御旅所を初めてたてます という記述と一致します。この時期に弁慶塚も建てられ、白旗神社の源義経の霊を、宿場の人々はここで見守るという弁慶の役割をもたせたのでしょう。三回目 放送の高山彦九郎の「小田原行」にあった----小高き所乾―いぬい―に向弁慶社在----19ページ と符号します。
さて、余談です。近年まで語り継がれている神輿のかつぎ方があります。これは今と違い、実にユニークなもので す。いまは神輿の掛け声は「そいや、ソイヤ」です。あまり進みません。ひと所で練り上げるといった格好ですが、戦後数年までは「わっしょい、ワッショイ」 でした。それも二言目の「わっしよい」でもう2.3メートルは前へでます。4.5回ワツショイでは、もう先の方、14. 5メートルはすすんでしまいます。担ぐというより走るといつたほうがいい、速度です。駕篭かき状態です。この速度には理由があります。白旗神社の氏子の範 囲は広く、西は湘南高校の手前まで、南はJR藤沢駅北口まで東は本町郵便局あたりまでと、神輿を担ぐ距離が広いためです。
神輿は無礼講です。日頃世話になる家々にも廻ります。酒を振舞われます。また逆に気に入らない家があると、神
輿ごと玄関に突っ込んでしまいます。その家の塀や入口の門などは壊してしまうという荒っぽいものです。衣裳が異様です。紫や紅い女性の長襦袢を若い男性た
ちが身につけます。当然顔は白粉に赤い紅、つまり女装です。日頃の抑圧からの解放でしょうか。それが出来たのは車社会になる昭和20年代まででした。交通
の事情と若者が神輿を担がなくなった時代の変化です。
荘厳寺
荘厳寺ハ、領家町の北二町斗り―ばかり―ニ在、白王山般若院と号ス、真言宗古義 にして同駅感応院の末寺也-- -略―元暦元年(1184)、覚憲僧都初メて一宇の梵営を草創せり、後、寛喜―かんぎ--・貞永―じょうえい--の頃ニ至て大ニ荒廃す、応量坊と云もの、嘉禎―かてい―元年(1235)是を再建す、是即、中興開山也、其後年を歴る事五百三年にして、桜町院御宇、元文―げんぶん―元年(1736)火災にかかり堂宇什物不残焼失す、後程なく宝暦年間(1751−64)、故有て今の地に遷し再建ス、 彼旧地ハ、今本屋敷と云、------(道治の注)文政三年(1820)庚辰―かのえたつ―二月八日真源寺出火、南風烈しく此時 白旗明神社別当荘厳寺共ニ不残類焼ス、文政末ノ頃漸々普請出来―しゅつらい--ス、今ノ神社并堂宇是なり
荘厳寺の最初は平安時代の末期、元暦元年(1184)、覚憲僧都に
よってほんの一堂からはじまります。その年1月は源義仲が義経等によって討たれています。その後しばらく寺は荒廃し、嘉禎―かてい―元年(1235) 応量坊によって再建されます。五百年ののち、元文―げんぶん―元年(1736)火災にあい、程なく宝暦年間(1751−64)、今の地―現在の白旗神社東となり--に移り再建します。元の位置は「本屋敷」として地名が残りますが、約60年後またまた火災にあいます。文政三年
(1820)庚辰―か
のえたつ―二月八日真源寺から
の出火です。この記録は第一回目放送のときにお話ししましたが、104軒も類焼し白旗神社・荘厳寺ともども焼け落ちてしまいます。10年後に普請が出来上
がります。 平野道治・小川泰堂が見た荘厳寺・白旗神社は、この再建当時ということになります。白旗神社の本社が天保6年西暦1835年に完成するその三
年前に源義経の位牌が作られます。
2.荘厳寺の源義経位牌
(位牌の表)
白旗大明神 神儀
(位 牌の裏)
清和天皇十代御末源義経公
御誕生平治元乙卯―きのとう―歳
文治五年乙卯―きのとう―閏四 月三十日卒
御歳三十七歳
崇 白旗大明神 天保三年辰歳
法印宥全調之
鎌倉市腰越の満福寺には、源義経の「腰越状」が残されています。寺の言い伝えでは弁慶の筆になるものとされて
います。現在も寺の宝として陳列保管され、一般の方々も見学できます。
全文は長いので一部末尾だけ左に掲げてあります。今はミニ版が寺の土産物としても販売しています。満福寺は江 ノ電「腰越駅」徒歩3分の距離です。
源義経27歳、1185年(元暦2)、前年二月一の谷の合戦に勝利し た源義経は、さらに平氏追討のため二月屋島の戦いでも勝利、三月に壇ノ浦で平家滅亡へと導きます、が軍目付けの梶原景時は、義経の不義を頼朝に報告、頼朝 は平家追討軍に義経の命令を聞かないように全軍に通達します。
五月義経は起請文―忠節に従う宣言書―
を頼朝に送りますが許されません。頼朝が最後の仕事として命じたのが捕虜となった平宗盛親子を鎌倉に送ること でした。
ここまで頼朝との対立が深まるのは、2年前からのことです。木曾義仲を追討するには既に頼朝は朝廷---当時は院政といい後白河法皇が実権をもつ--から東国沙汰権といい関東武士への支配命令権を許されていました。義仲追 討はそれを実行したわけですが、義経は一の谷合戦ののち勝手に院から左衛門少尉検非違使に任じてしまい、これが頼朝の怒りを買う最初です。頼朝としては院 と接近する義経は武士の統率から甚だ都合の悪いものです。さらに、義経は任官するだけなく平家滅亡のあとの領地をも支配していいという許しを院からもらっ てもいたのです。今の言葉では「独断専行」というところでしょうか。頼朝に起請文を書く、というのは決して反抗する意志はない、忠誠を誓う、という宣言で すが、これでは政治の世界では通用しません。 朝廷―院政政治の狡猾さに、義経は、翻弄されたというべきかもしれません。2.3年前に「誉め殺し」という言葉が 流行しましたが、
まさにそれです。梶原景時の「不義」とは
結果、頼朝の方針=東国武士の政権、に逆らったことになりますので、 不義そのものになります。
さて、1185年(文治元年)五月平宗盛親子をともない京都を出発,
五月十五日義経の一行は相模国酒匂―現在の小田原市―に到着、宗盛親子を頼朝に引き渡しますが鎌倉へ入るのを禁じられてしまいます。五月二十四日腰越から書状を
大江広元へ送り義経の心情を訴えます。これが世にいう「腰越状」です。全文は長くとても紹介できませんが、末尾の署名「源義経」に注目してください。正式
文書なら、ここに義経の花押--武士個人のサイン―が通常はあります。また吾妻鏡には、こ
の腰越状が全文掲載され、その部分は「左衛門少尉義経」とあります。実はこれだけでなく外にも根拠がありますが、歴史学会は満福寺のものは、後世の写しで
あるとしています。
満福寺は、これは大江広元に提出した控で、弁慶の筆になる草稿だ、と言い伝えています。 ここでは本当か嘘
か、
と言う議論をするつもりはありません。内容をよくみてみましょう。くどくどと長い文章を大まかに括ります。次のようになります。
1.鎌倉の代官の私は、朝敵平氏を倒し、武芸を世に知らしめたのに、梶原景時の讒言にあった。
2.讒言だけを取上げ真偽があきらかではない、鎌倉殿は兄なのに、残 念でならない
3.私は父が死んで、孤児となり京都にもいられなくなった。諸国を流 れ身を隠した。
4.義仲を討ち、平氏を壇ノ浦に沈めた、私が任官も受けたのは源氏に とって名誉だ。
5.いまは本当に嘆いている、神仏に頼ろうと起請文を書いたが、許さ れない
6.ここは大江広元を通じていますが、お考え直していただければ、安
心です。
かなり荒っぽい括り方ですが、ご容赦ください。義経ファンから叱られそうです。確かに心情あふれる文章で品位 がありますが、NHK大河ドラマで中井貴一が「九郎は、わかっていない」といいましたが、その一言につきます。私 も甘ったれるのもいい加減しろ、といいたくなります。がさておき、この義経の心情がのち、江戸期いろいろと演劇の世界に取り込まれ、悲劇の主人公だ、との イメージをもたせる根拠になりました。
この腰越状は頼朝に無視されます。六月九日頼朝から命令が下されます。護送したきた平宗盛親子を京都・奈良 に再度、護送するようにというものです。六月十三日源義経の所有する平家没官領―もと平氏の土地―を没収されます。これで義経は収入の道 を絶たれたことになります。六月二十一日宗盛を近江で斬ります。のち八月十六日、朝廷から義経は伊予守に任ぜられます。すでに罪人となっていた義経にで す。院政の嫌がらせとしかいえません。十月九日、ついに頼朝は義経追討を決断、院宣を得て頼朝自身が義経・叔父の行家討伐に鎌倉を出発します。あと義経は 京都を出、大阪で舟に乗りますが遭難、吉野の山中へと逃げ、奥州平泉へと向います。このことは有名ですので省略します。
こうしてみると、源頼朝は自分の腹心として代官として源義経を扱っていたことがわかります。が京都の院政は、 そうとは認識しないで官位を与え、服従しようとしたわけです。これでは対立するのが当然です。むしろ対立させることによって東国の武士の勢力を弱めようと する意図があったといえます。
1185年文治元年10月26日
頼朝が派遣した土佐坊を義経が捕らえ
殺す図---「義経記」より
2. 駿河次郎清重の伝承
「新編相模国風土記稿」に収められている「新編鎌倉誌」にはこう記されている。
笈焼松---笈焼松は片瀬村の西の方、民家の後竹薮のあいだにあり、 駿河治郎清重、笈を焼し所なり
この写真は、推定昭和初年に撮影、中野長司―たかし―氏所有
源義経四天王の伝承史跡が藤沢市片瀬4丁目にありましたが、今はありません。というと、より興味が沸いてしま います。「駿河次郎」とは武勇すぐれた富士山麓の駿河国の漁師です。1180年(治承4)源義経が黄瀬川の頼朝と の対面以来、家人となり、平家追討に功績があった義経四天王のひとりです。この史跡の伝承は、複刊『藤沢の文化財』--藤沢市教育委員会刊行―にあります。要約するとこうなります。 罪人となった義経が奥州に逃れ、義経の命を受けて鎌倉の情勢を伺っていた、が発見され追撃されて、ここ片瀬の地で証拠となる自分の笈を焼き払い、自分も自 害したと。
四天王と言う言い方、歴史上の話しではよく出てきます。四天王とはもともと、仏法守護の武神のことです。阿弥 陀様などの四方に置かれた持国天--東を守護する、広目天―西、増長天―南、多聞天―北、の神様です。甲冑に身を固め邪気―悪魔を踏みつける姿で悪人を調べ、国土 安全をつかさどります。有名なところでは徳川家康の四天王というのがあります。代表的な家臣を四天王に列して功績をたたえます。実はこれは江戸期の一般流 行語です。義経四天王とは江戸期の人々が芝居で登場させたキャストです。江戸人は大の義経判官びいきなのです。この呼び方は鎌倉・南北朝・室町期には史料 としてありません。
前の放送で少し紹介しましたが、藤沢2丁目の義経首洗い井戸にある首塚の石碑には武蔵坊弁慶と四天王の名が 刻まれています。
1. 亀井坊---亀井六郎重清
2. 伊勢坊---伊勢三郎義盛
3. 片岡坊―片 岡八郎弘経
4. 駿河坊―駿 河治郎清重
この石碑は、歌舞伎、安宅の関の有名な出し物「勧進帳」の登場人物です。それぞれ「坊」という言い方をしたの は歌舞伎などで、修験者としたためです。
1.2の亀井・伊勢坊は吾妻鏡にはありますが、あとの二人3.4の片
岡・駿河坊の記録はありません。駿河次郎は、江戸初期1633年(寛永10)に刊行された「義経記」で郎党のひとり「雑色―ぞうしき--」の身分で、いはば雑役相当の役割として描かれています。平泉に遁れた義経は兵を募るため九州の武将に呼びかけします。
書状を駿河次郎にもたせますが、次郎は京都で捕らえられてしまいます。
片岡も義経記で登場します。この江戸初期にかかれた義経記には四天王という表現はありません。のちの演劇の世
界からです。しかし雑色身分の駿河次郎を四天王のひとりとし、さらに武士としての「清重」と言う名をつけてしまいます。これは江戸期の舞曲で「清重」とい
う演目がありますが、これが駿河次郎をテーマとしたのです。
江戸人の判官義経への思いは、こうして讃えられ新しい物語を生みます。真偽はどうか、というよりその時代人の 精神文化に着目したいですね。
明治期錦絵 加賀
の国安宅関に弁慶主従の危難を救う図 国芳画 より一部
1.義経の胴体塚宮城県栗駒町との交流・供養祭
平泉町史史料編2には仙台藩士、相原友直著作の「平泉雑記」が掲載されています。
義経墳墓
此地ト云ルハ栗原郡三迫庄沼倉村ヲサス、義経高館ニ テ自殺ノ後、沼倉小次郎高次ト云モノ此地ニ葬テ墓ヲ築キタ リ、此所ニ高次ガ館址山上ニアリ、弁慶峰ト
云アリ、昔弁慶逍遥セシ地ナリト云、高次、義経ニ親 シカリシ者ナルベシ
碑文
大願成就 沼倉村善兵衛
上拝源九郎官者義経公
文治五年閏四月ニ十八日
宮城県栗原市沼倉の判官森にある源義経の胴体塚、源義
経没後810年供養祭が平成11年から行われました。沼倉の地
は、平泉から約20キロ、源義経が始めて奥州入りをしたとき栗原寺から藤原秀衡から迎えられた土地の近くです。
平成11年の春、それは突然に電話がなりました。聞き取りにくい東北弁の男性からです。栗駒町在住の菅原次男
さんといいます。栗駒高原の温泉旅館「くりこま荘」を経営されています。電話の話しには驚きました。藤沢には義経を祭る白旗神社があり首洗井戸の伝承史跡
がありますが、栗駒には胴体を祀る史跡があるといいます。判官森に「御葬礼所―ごそうれいじよ--」といい有
志で毎年供養をしていますとのことです。確かに首の史跡があるなら胴体の史跡があってもいいわけです。発想転換です。
義経の死後八百年もの間、首と胴体が分かれたままというのは寂しい、その霊を慰めよう、という提案です。それ
だけでなく、その魂を宮城県まで持っていこうといいます。まさか新幹線や車で高速道路を使ってというわけには行きません。菅原さんは、歩いて500キロ、
走破します、といいます。第二の提案です。また驚きました。無茶ですが、心がときめきます。ドキドキします。俄然私は忙しくなりました。すぐ栗駒に飛ぶよ
うにいきました。史料収集です。そして菅原さんは白旗神社さんにお願いしました。沼倉の駒形根神社さんにもお願いにいきました。その年は丁度、義経死後
815年目です、腰越の首実検の日6月13日を合同慰霊祭の日取りときめ、白旗神社さんは慰霊塔を建設すると言います。
間に合いました。但し、旧荘厳寺の跡地で不要になった鳥居がリサイクルされました。新しい史跡の誕生です。6月13日は白旗神社挙げての式典となりまし
た。栗駒町からは5名、修験者の出で立ちで、ほら貝を吹き参加します
。
菅原さんは兜を制作、歩くための笈も用意します。6月13日厳粛に神事が執り行われ兜に魂がいれられます。さ あ、500キロ歩きはじめます。平泉から腰越まで43日かけて首実検をした故事にならい、吾妻鏡と同じ43日かけて沼倉まで魂がかえります。私は43日の 間、全部は同行できませんでしたが、要所となる埼玉県栗橋の静御前墓所、福島の飯坂温泉の八幡神社、佐藤兄弟の菩提寺医王寺の参詣には参加できました。 43日目の7月25日には、早朝から暑い中、ご巡行の行列です。地元では「源義経の東下り」で有名な栗原寺、これは、1174年(承安4)源義経16歳のとき奥州平泉に入る玄関となっています。平泉の藤原秀衡らの使者が出迎えました。栗原寺では地元の 方々の八鹿踊りが出迎えました。勇壮な舞いです。当時栗駒町長らも出席しました。また栗駒町役場のある馬場では、たまたま夏祭りです。合同の神事となりま した。始めて菅原さんの用意された鎧に魂が入ります。もうひとつ沼倉判官森の御葬礼所に向かいます。魂を一緒にする神事がおごそかに執り行われました。藤 沢から私を含め有志5名が参加しました。義経の胴体に見立てた鎧と藤沢からの兜を合わせます。駒形根神社さんの神事が判官森でも執り行われました。
多くの人々の出会いと協力がありました。50歳代後半の菅原さんは、
こうした無茶--すごい冒険を計画、実行して、神事の最後には、男泣きをされました。男のロマンです。東北人と沼倉の地が、私は大好きです。ボソボソとし
た東北弁の人たちの中身は、土臭く、誠実です。
それから毎年、私は源義経供養祭には出席しています。
なんといっても米がうまい、水が澄んでいます。
2.胴体塚の史料 清悦物語
さて、この源義経胴体の伝承史跡は、いろいろな話があります。江戸期のものですが、碑文に「文治五年閏四月ニ
十八日」とあります。吾妻鏡とは違います。この根拠になった伝承があるのでは、と探していました。すると現地には「清悦物語」という書物が残されていま
す。宮城・岩手県内には異本があります。また清悦神社もあります。源義経の最後の戦い、通常「衣川の戦い」といいますが、非常に詳しいものです。清悦―とは、ある人物です。それは武蔵坊弁慶
と並んで、しばしば登場する常陸坊海尊といわれています。この物語の出だしにはこうあります。清悦は高館に篭城しますが、数万という死者を出してました
が、義経近習のもの四人が生き残ったというのです。のち約四百年生き残り、時代を経て仙台藩初代の伊達政宗公から呼び出され、御前で昔語りをしたというも
のです。その内容を書きとめ「清悦物語」として今日まで伝えられています。
話しは、実に荒唐無稽ですが、衣川合戦については実に詳細です。合戦は1185年(文治5)閏4月28日から始ります。義経に味方する武将と、藤原泰衡軍に加担する武士の抗争が克明に描かれています。30
日まで三日三晩の合戦には北上川には津波が押し寄せ大蛇2匹も登場します。また平泉の庇護者<藤原兼房も切腹しますが、義経の首を腹に入れ最後まで
守ろうとします。さて源義経の首は、鎌倉にもたらされます。畠山重忠が義経の口になにかあることに気付ます。書状を咥えています。これは腰越状でした。頼
朝はハラハラと涙をながします。これで源義経の気持ちが伝わりました。頼朝は、梶原親子を処罰します。五月十三日のことです。讒言だということがこれで報
われます。五月下旬頼朝は鎌倉を出て、沼倉の地に義経と衣川で戦死した家来たちの菩提を弔った----と清悦物語にはあります。これが後の世に伝説として
広がった義経の「含み状」というものです。東北地方にはこの伝承が多く残されています。義経は、生存して津軽から北海道へわたり、蒙古の地でジンギスカン
となった北行伝説だけではないのです。仙台図書館にいきました。昭和四年、盛岡藩の古文書類を編纂した「南部叢書」という全10巻の膨大な書物がありま
す。その中にもこの「清悦物語」は収められています。九巻目です。異本は岩手県古文書研究会が刊行し「岩手古文書館 巻5」に原文とともにえおさめられて
います。一般書籍として刊行されていないので、簡単に入手できないのが残念です。
平成11年7月25日 栗駒町ご巡行の様子 判官森を背景に
(撮影 : 平野雅道)
右の写真で、ほら貝をもっている人物が菅原次男さんです。沼倉入りには、馬2頭が用意され、私も式典のたび、
何度か乗りました。また記録ビデオも制作し、当時「藤沢ケーブルテレビ」にも放映されました。
1.『吾妻鏡』の源義経死後の記録
1189年(文治5)閏4月30日に衣川の館で、源義経は藤原泰衡に 襲われ自害しますが、源頼朝は本来の目的、奥州平泉の藤原氏を滅亡させ東国の支配を確立することにあります。6月25日泰衡の追討の宣旨を朝廷より受け、 平泉に出兵します。7月19日のことです。9月3日には泰衡を殺し、一応安定したかに見えました。
しかし奥州はくすぶっていました。吾妻鏡によると12月23日源義経・義仲・秀衡の息子だと名乗る集団が、鎌 倉を攻めるという風説が流れてきます。出羽国海辺庄―あまべのしょう―のあたりです。頼朝は越後・信濃の御家人に派兵を命じます。翌年1190年(文治6)1月6日には飛脚からの報告が届きます。首謀者は泰衡の郎党大河次郎兼任―かねとう--以下の集団でした。その軍勢7千騎です。秋田から多賀国府に向うといいます。鎌倉派遣軍は加担した一部武将を討ち取りま すが、2月12日には1万の軍勢が平泉の周辺で、またも戦を展開します。この戦場となったのは一迫・栗原です。首謀者の大河次郎兼任は残り五百騎で平泉・ 衣川を前に陣をひきます。これも栗原・衣川を合戦場として奮戦しますが、3月10日遁れた兼任は、栗原寺で樵夫―きこり―たちに斧で殺されてしまいます。
この反乱は栗原一帯を戦場としています。そしてなによりも源義経の死後、その子孫という名分を立て、鎌倉に反 攻を加えたことが注目されます。こうした土壌はのちの義経生存伝説を生み出す下地といえます。そのひとつ義経のニセ首伝説があります。
栗原寺と沼倉の地のほぼ中間、宮城県栗原市金成町に津久毛―つくも―城跡があり、一画に杉野目小太郎行信の
墓石があります。ここ一帯は古戦場です。
明治45年4月17日祭の碑文があり、正面中央に「源祖、義経神霊身替杉目太郎行信碑」とあり、藤原泰衡を初 め弁慶などの供養塔があります。
前回放送で、沼倉小次郎高次の館跡に義経胴体塚のあることをお伝えしましたが、地元伝説では、その弟が杉野目
小太郎行信で義経と顔かたち・身体つきが似ていたので身替わりとなったとしています。これが義経生存説の有力な前提となっています。津久毛城は、三迫川の
低湿地が一帯にひろがり、平泉の防御地点として最適の場所です。ここから沼倉―栗駒山の南裾を西にいけば出羽につなが
る交通の要所でもあります。ここ栗駒町は義経方の武将、駿河次郎の駿河館・亀井六郎重清の亀井館・鈴木三郎重家の鈴木館などの中世館の跡が残されていま
す。栗駒町から平泉へは有名な景勝地厳美渓を経由して20キロの近さです。
2.北行伝説
小谷部全一郎・佐々木勝三氏の研究
小谷部全一郎---成吉思汗(じんぎすかん)は義経なり
この著作は1924年(大正13)に発表されました。これは義経=ジ ンギスカン説の極め付きと言われています。江
戸時代から、蝦夷=北海道から海を越え大陸に渡ったとする伝説はありました。有名なところでは『義経勲功 記』は1712年(正徳2)刊行されました。著者の馬場信意―のぶおき―は、義経は衣川から脱出、蝦夷に渡海、
島の主となり長寿を全うした、子孫は蝦夷の棟梁になった、との伝説を書いています。これは庶民の間で浸透しますが、幕府の正史「本朝通鏡」・「大日本史」
そして新井白石の「蝦夷志」にも同様の記述があります。それらは伝説の紹介です。義経の衣川で破れ死んだことの史実には変わりありませんでした。このよう
に江戸期から義経の話しは、伝説の宝庫でした。
1717年(享
保2)に刊行された「鎌倉実記」、加藤謙斎は『義経勲功記』を拡大し、満州に渡った義経が子をもうけ、その子が将軍となったとする説を紹介します。その後
も満州に渡った伝説は、広がり、清朝の祖となったとする説まで登場します。江戸期の歴史学者は俗説としていましたが、俗説はさらに再生産されていきます。
明治時代にはいり、内田八弥は1885年(明治18)に「義経再興 記」を著します。満州伝説の変種ともいうべきジンギスカン=義経という説を作りだします。この説は当時の歴史学者から徹底的に否定されますが、学説を越え て再生産される伝説の強さがあります。英雄不滅信仰ともいうべき素朴な意識でしょうか---、大陸への関心もありました。とりわけ大正期のそれは、こうし た事情が背景にあつたといえます。とくに満州の領土拡大「五族共和」思想の火種となりました、そんな中で小谷部―おやぶ―全一郎の「成吉思汗(じんぎすかん)は源義経なり」が上梓されます。この説は著者自らが義経伝承の足跡を求め、満州の地を調査した情熱の作品で す。
昭和14年「成吉思汗は義経なり」
の復刻版、八幡書店 の挿絵より
『蒙古人の兜につける笹竜胆』
とジンギスカンの肖像
『源義経=ゲンギケイ』これがジンギスカンの発音、
或いは『クローの砦』=源九郎といった類語・音声を現地の見聞により記録されています。読んでいくと吸い込まれま
す。どちらかといえば民族学的―今
でいう文化人類学的な調査報告です。
この人物に興味を覚えます略歴を紹介します。
1867年(慶応3)秋田生まれ、横浜で英語を学び22才渡米、29 歳エール大学を卒業します。牧師としてハワイの日系人教育に尽力して、1898年(明治31)日本に帰国します。牧師としてアイヌ保護運動に奔走、北海道 に移住します。国立学校設立を44才のとき実現します。 神道を究め国学院大学などの講師を歴任、48歳大正八年、シベリヤ出兵のとき陸軍通訳官として従 軍します。このときに蒙古調査をしたわけです。53歳大正13年にこの著作を完成させます。のち52歳で日本ユダヤ同祖論を発表します。昭和16年73歳 で死去しています。
佐々木勝三---『義経は生きていた』
これは小谷部―おやぶ―全一郎の説を延長しています。北海道の義経神社の伝説紹介はありましたが、岩手・青森の義経脱出ルートが、 不十分でした。というより岩手県宮古生まれの佐々木勝三さんは、既に地元伝承をいろいろご存知だったのです。
昭和32年に東北社から出版、副題に「静の子も由比が浜で殺されていなかった」とあります。先に紹介したニセ 首伝説―杉目小太郎―の存在が前提になります。義経が平泉を 離れたのは前年の4月という説を打ち立てています。東北には文治4年に出された源義経の古文書があるためです。兵糧米をお借りするというものです。岩手県 宮古を初めとして久慈市・八戸市・青森市に義経潜伏の史跡を、歩き調査確認します。労作です。さらに北海道松前から義経伝承を追跡します。のち昭和47年 「源義経蝦夷亡命追跡の記、上下巻」を発表します。
略歴を紹介します。
1895年(明治28)12月、岩手県宮古生まれ、大正13年明治大 学商学部卒業、ワシントン州立大学留学、帰国後明治大学講師を務めます。戦後宮古に戻り宮古水産高校などの教壇に立ちます。そのとき源義経研究に情熱をも やし、以後30余年歴史家としての評価をうけます。現在はすでに鬼籍に入られています。
その極め付きは静の子供のことです。静の子は、殺されていないで赤子は由比が浜に捨てられたという吾妻鏡の記 録を基にして、岩手県閉伊―へ いい--郡、盛岡市の東あたりですが、佐々木氏に養われ佐々木四郎高綱である、といいます。その記録や系図もあ り、子孫は盛岡藩に仕えたというものです。
これらの伝説調査は現地の郷土史家ならではの情報網がなければなりません。日常的に時間を作り、伝承地を訪問 する、新しい史料を発見する作業は大変なものです。義経伝説を追う、これだけて実に多くの著作があります。ご紹介した2冊の本は、古書店でしか手に入ることはできません。
さて、北行伝説のポイントだけの紹介になってしった放送内容でした。各地に残されている伝承・伝説の数は源義
経に関係したものは実に多いのです。また参考文献も数多く、とても紹介しきれません。入手しやすく代表的なもののみお伝えします。
1.源義経 夢の跡 探求地図
平成17年4月に盛岡市の伝承研究ク゛ループが義経伝承だけをあつめ、全国地図に落とし込んだものがあります。「源義経 夢の跡 探求地図」といいます
が、発行は文化地層研究会の皆様です。平泉の旅行された方々は、平泉郷土館などで見たこともあると思います。これが最近の研究成果としてよく網羅されてい
ます。但し書店販売はなく下記のホームページからメールで申し込むことになります。
盛岡市仙北1-16-4 文化地層研究会
http://bunkachiso.hp.infoseek.co.jp/bunka_yoshitsune.html
メール ochamochi@aioros.ocn.ne.jp
2.源義経 流浪の勇者―京都・鎌倉・平泉― 文英堂 上横手雅敬編集
3.源義経 新人物往来社 安田元久著
4.源義経のすべて 新人物往来社 奥 富敬之編集
それぞれ巻末に資料文献一覧があり、さらに続けて勉強したい方々には最適です。
本日の放送だけでなく、全体通じて伝承伝説という流れでお伝えしてきました。テレビのクイズ番組のように、多くの方は「本当か、嘘か」と割り切ろうとしま
す。割り切りすぎて、現代的感覚で「ありえない」と捨ててしまいがち、です。これが大変気になります。何百とかけて日本の風土に定着した伝承伝説は、その
土地の信仰であったり、風土に根付いた精神文化であったり、いまでもその土地に生きている方々の誇りであったりします。丹念に追いかけると思いがけない貴
重な史料群に出会うこともあります。私も体験しています。中世そのものの実証という作業は、ときおり伝承がヒントになります。残された地名もそうです。宗
教の歴史として秘蔵されることもあります。また近世以降の歴史文学・芸能史に取り込まれ、或いは語りの世界に展開していきます。
わたしも歴史研究をする者のひとりとして、こう思うことにしています。交差点の信号にたとえます。
青信号 →「本当か、嘘か」これは、青信号でとくに安全確認をしないで通過する。分かりやすくていいが、奥の深さに気付かない。
黄色信号 → 安全確認をして通過する。いろいろ情報を判断、納得して進行する。
赤信号 → 立ち止まって現在のいろいろな情報を集める、危険なら進行しない。
源義経伝承は、黄色信号です。青にも赤にもなる要素があります。 完了
あとがき
本論は、藤沢市在住の郷土史家平野雅道氏が、「義経と藤沢」と題するラジオ放 送(藤沢市生涯学習大学放送:2005年11月1日ー12月20日:30分×8回)の ために書き下ろした講義テキストです。今回、弊サイト に掲載のご許可 をいただき、特別に掲載させていただくことになりました。平野氏は長年、地元 藤沢市の歴史発掘のために尽力されてきました。氏は明治大学在学中、人物叢書「源義経」(吉川弘文館1966年刊)を執筆された故渡辺保教授の薫陶を受け ま した。周知のように渡辺教授の「源義経」は、今や義経研究の古典に数えられるほどの名著です。平野氏の発想は、時に伝説や伝承を大胆に取り入れて新たな学 問的息吹を吹き込んでいる箇所があります。しかしその自由で挑戦的と思える発想の中にも、やはり恩師渡辺教授から受けた厳格な史料批判の精神が貫かれてい ることを強く感じます。 戦 後の歴史学がともすれば忘れがちだった伝説や伝承も的確に選別し、歴史と伝承の境界を埋める平野雅道氏の努力に対し、心から敬意を表したいと思います。簡 単ではございますが、これをもって、あとがきとさせていただきます。
2005年10月17日
佐藤弘弥
2005,10.17-20 Hsato