源義経公を弔う   
2002.6.23

衣 川 雲 際 寺
 

妙好山雲際寺

岩手県衣川村に義経公縁の寺がある。名は妙好山雲際寺と言う。これまでこの寺は、随分見 過ごされて来た感がある。この度(2002年6月23日)、義経公の北の方が再興し、義経公の位牌が奉納されているこの寺で、義経公を偲ぶ法要が執り行わ れた。

菅原次男氏を主催者とした一行約30名は、栗駒町沼倉にある判官森の義経公の御葬礼所に 花を手向けた後、一関の骨寺を巡り、この雲際寺に参詣した。一行には、義経公の最期の一夜を見事に描き切って、傑作「永訣の月」を完成させたばかりの村山 直儀画伯も同行、同寺の仏壇正面にこの画を安置し、稀代の英傑の冥福を祈ったのであった。

雲際寺は、衣川村にある古刹である。開祖は慈覚大師と言われ、天台宗牛局(うしまど)山 梅際寺と呼ばれていた。その後、寺は、中尊寺の別院となって荒廃していたようだが、源九郎判官義経が、文治二年十月(1186)に奥州に下ってきた時、乳 母の菩提を弔うために不動明王像(一説にはこの運慶作と言われる)を奉納し、北の方を新たな開祖として復興させたというのである。住職には、義経公が北国 街道を廻り険しい山々を分けて来る時、先達の役目を果たしてきた民部卿「頼然」という身分の高い僧侶が、乞われてその任に就く。

判官二度目の東下りの時、身分の高い三人の僧侶が、義経主従を守り、奥州に伴ってきたと 言われている。この時のエピソードが安宅の関を越える時の弁慶富樫の伝説の原形となったのであろうか。但し、実際には、山伏の特権など問題にならないよう な書状を持っての関所越えであったはずで、もう少しスムーズに奥州に入ったはずである。でも民衆は、苦労に苦労を重ねて、弁慶が心で泣きながら、義経を打 つような苦労噺が聞きたいのである。それが義経伝説を生む心情であり、民衆の「判官贔屓」の心の正体なのである。またこれはひとつの心のエネルギーでもあ り、だからこそ今でも日本人は、義経公を語る時には、老いも若きも、目が爛々と輝き出すのではあるまいか。そしてこの民衆の心の欲求に答える形で、芸の道 に生きる者は「義経記」を練り上げ、そこから能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」などが作られてきたのである。その義経物語創作の過程で弁慶という新たな架 空のスターがリアリティを持って作られて行ったということになるであろう。

さて衣川という河は平泉と衣川を分ける境界であり、衣河の館で自害した義経公は、聖域で ある平泉の中尊寺や毛越寺ではなく、この雲際寺に担ぎ込まれた可能性が高いと推測される。するとここでかの御遺骸は、整えられ、御首と御胴体が分けられた ということになる。

夏草の生い茂る雲際寺に来て、穏やかな表情の渡辺義光住職の読経と法話を聞きながら、ふ と往時の情景が偲ばれ、目頭が熱くなったのであった。すると裏山の方でカッコウが啼く声が聞こえてきた。(佐藤弘弥記)

自刃後に妻子諸共運ばれて郭公啼けり判官の寺
判官の妻子も共に眠るらし雲際寺なる古刹に詣で来(ま でく)


法要には「永訣の月」が運ばれた
 
 

義経公が奉納した?!不動明王像(運 慶作)
 
 

「永訣の月」を前に渡辺住職から寺の歴史を聞く
 
 

法要を終えて記念写真



 


雲際寺資料
衣 川 誌 より

(雲際寺二十三世 梅尾禅牛著)

はじめに

衣川誌は、雲際寺二三世住職梅尾禅牛師によって、明治三十年年頃に記された衣川の地誌である。底本は、雲際寺所蔵の原本を使用している。但し序 文や奥付は欠落している模様である。尚、ここに抜き出した本文は、衣川村史第三巻所収のものをデジタル化したものである。(2002.7.2佐藤弘弥記)
 

妙好山雲際寺

人皇五拾四代仁明天皇の嘉祥三庚午年、慈覚大師の開基にして、もと天台宗牛局山梅際寺と称せしが、後星霜を経るに従い廃頽(ハイタイ)に及びし が、降って文治二年十月に至り、源義経主従十二人、及び北の方を具して奥州に下向するに及び、山門の戒定坊、俊章阿闍梨、仲教阿闍梨、民部卿の禅師頼然 等、送りて平泉に至る。義経、仍て尽く之を慰籍して遺り還す。独り民部卿の禅師頼然を留め、文治三年、義経、北の方開基して、頼然中興開山とし本寺を中興 せり。文治五年、高舘没落し義経及び北の方自害するに及んで、頼然は位牌を当寺に安置して菩提を弔いありしに、其后年代を経て再び廃頽に帰せしを以て、人 皇百四代後土御門天皇の御宇、文明五癸巳年、同郡永岡邑曹洞宗報恩山永徳寺六世の孫僧珊光素玉和尚、曹洞に転宗開山して源今の如く改称せり。又当寺は今上 皇帝の御位牌及び義経、北の方の両位牌依然として今に伝わりありしを以て、住僧朝夕其の回向を怠ることなし。

牛局山梅際寺、往古は牛の局の峯と云う処にありたりと元禄年中の古書にあれども、現今にては牛の局の峯と唱うる地は何処なるか誰も知る者なし。

義経公 位牌 表 捐舘通山源公大居士神儀
       裏 文治五年閠四月廿八日 源之義経
北ノ方 位牌 当寺開基局山妙好尼大姉

同寺曹洞宗に転宗せし開山の法脈を左に録す。
曹洞宗祖師永平道元大和尚

御履歴は、人皇六十二代村上天皇九世の孫、久我内大臣源通親公の御三男にて、御母は松殿関白大臣藤原基房公の女なり。正治二庚申年正月二日御誕 生、建暦二壬申年春十三才にして比叡山の良観法眼の許に到り出家を求め給い、建保元癸酉年十四才にして四月九日天台座主公園僧正の許に到り得度を受けた り。十日に戒壇にて菩薩戒を給う。それより三井寺僧正公胤に随従、其後建仁寺の明全和尚に随従して愈々禅宗をはげみ、迚も日本にて吾が師と頼むべき人なし とて唐土に渡る。先ず明州の港に着き、七月天童山に登り無際了派禅師に随従す。師既に寂し給えば夫れより天童山如淨禅師の印可を受け、大宋の宝慶元乙酉年 九月十八日、仏祖釈迦牟尼仏より五十一世の正伝を受け給いて帰朝す。属々都に居りて后、越前国吉田郡志比庄に吉祥山永平寺を開山して、夫れより曹洞宗を弘 め始まれり。人皇八十八代深草院の御宇、建長五癸丑年八月二十八日、道元寂す。
后、伝東大師と謚(オクリナ)す。又、今上皇帝より明治十七年、承陽大師と謚す。是宗祖の果報と云うべし。

徹通義价大和尚 越前国永平寺三世 加賀国大乗寺を開く。
瑩山紹瑾大和尚 大乗寺二世    能登国諸嶽山惣持寺を開く。曹洞宗一派の惣本山として、
無端素環大和尚 総持寺三世    総持寺五ヶ院之洞川庵の開基。
道叟道愛大和尚 洞川庵二世    陸中国胆沢郡永岡村に下り、報恩山永徳寺を開山せり。
珊光素玉大和尚 永徳寺六世    文明五年衣川村に下り、天台宗牛局山梅際寺を曹洞宗に転宗して、妙好山雲際寺と改称す。当寺の開山なり。

義経公平泉に下りし鎌倉外伝、平泉実記に拠る書を録す。

義経、文治二年十月二日都を打ち立ち、同月二十一日栗原寺に下着し給い、鷲尾三郎義久、駿河次郎清重を御使にて、平泉へ斯と云い送り給いしか ば、秀衡大いに驚き、三男泉三郎忠衡を御迎いとして指遣わされ、平泉へ迎え参らせて様々にもてなされしかば、義経朝臣、北の方を始め御供の輩まで、始めて 安堵の思をばなしにける。

民部卿禅師頼然は直ちに奥州に留め、戒定坊、俊章阿闍利、仲教阿闍利等は御暇を給わって都に上りけり。
其頃、前の民部少輔基成朝臣と云う人あり。是は去る平治天中、舎弟右衛門督信頼卿の謀叛によって奥州に配流ありけるを、秀衡深く是をいたわり、衣川に居置 きて重くもてなされけるが、早晩(イツ)しか基成朝臣の息女に相馴れ一男を儲く。家嫡御舘泰衡是なり。
秀衡、義経朝臣を崇敬の余り、吾が居舘に置き奉らんは其恐ありとて、衣川の基成の宿所の辺りに舘舎を営みて、義経朝臣を入れ参らせ、尊崇して高館殿とぞ号 しける。とあり。

后年に及びて伊達氏所轄中、天和年中伊達綱村朝臣の家士、郡司川東田長兵衛定恒は、朝臣に申し上げ其の命を請けて舘跡へ一間四面の祠堂を創立 し、甲冑を着せし木像を安置す。堂の下に三拳の石あり。里俗伝え云う、義経腰を掛け自殺せし石なりと。義経の墳墓は、高舘にて自殺の后、沼倉小次郎高次、 栗原郡三ノ迫沼倉村に葬るを以て其墳墓を建て、此地は高次が舘址山頭の高山にあり。弁慶峯と称す。往古武蔵坊慶経歴逍遙地なりと、右封内名蹟志に出でた り。

義経北の方、東鑑に曰く、元暦元年九月十四日、河越太郎重頼が息女上洛す。源廷尉義経に嫁せんが為なり。盛哀記四十四に曰く、元暦二年五月、平 大納言時忠卿の息女を義経迎え取りぬ。と、是は河越太郎重頼が女もありければ、別の方をしつらえ居たりと云う事あり。義経勲功記に曰く、久我内大臣雅道卿 の御女を連れ立ち、奥州に下られたりという事あり。是に拠って見れば奥州に下られし北の方は、正しく久我内大臣雅道卿の御女なるべし。

以上

胆沢郡誌衣川村より

(昭和二年一月(1927)岩手縣教育会胆沢郡部会編)

 
雲際寺

山号 妙好山 曹洞宗
本尊 不動明王
開基及由緒 当寺は、人皇五十四代 仁明天皇の嘉祥三年の開基にして、元、天台宗牛局山梅際寺と号せしが其後文治二年十月源義経主従十二人及北の方(京の 姫)を具して奥州に下りし時、山門の戒定坊俊章、阿闍梨仲教阿闍梨民部卿の禅師頼然等之を送りて平泉に到る。義経仍て尽く慰籍して之を還し、独り民部卿頼 然を留む。文治三年義経の北方当寺を再建して朝夕崇めたりし守り本尊の不動尊を安置し頼然を中興開山となし、山号を妙好山と改む。
文治五年閏四月高館落城し、義経並に北の方共に自害しければ、頼然懇に、其菩提を弔はん為位牌を本寺に安置し、朝夕回向に怠りなかりしと云う。
其位牌に、雲形にして左の如く刻したり。
捐館 通山源公大居士神儀 文治五年閏四月廿八日源之義経

当寺開基 局山妙好尼大姉
其後、年代を経るに従い、廃頽せしかば、人皇百四代後土御門天皇の文明五年報恩山永徳寺六世の孫珊光素玉和尚改築して、曹洞宗に転宗し、妙好山雲際寺と改 め中興の開山となる。

以上

義経公ロマンの旅 収集資料より
雲際寺

所在地 胆沢郡衣川村下衣川字張山63−1

現住職 渡辺義光

開祖  慈覚大師

当寺は嘉祥三年(850)慈覚大師の開基による天台宗牛局(うしまど)山雲際寺で、関山中尊寺の別院であったともされている。文治二年 (1186)平泉へ再び下向した源義経公は、乳母の菩提のため当寺へ不動明王像を奉納安置し、翌文治三年には下向の時に随行してきた民部卿の禅師頼然が導 師となり、北の方を中興開基として廃頽していた当寺が復興されたという。文治五年(1189)義経公と北の方が自害された後住僧の頼然は、義経公の位牌 「捐館通山源公大居士神儀」(えんかんつうざんげんこうだいこじしんぎ:裏、文治五年閏四月二八日源義経公)と北の方の位牌「当寺開基局山妙好尼大姉」 (とうじかいききょくざんみょうこうにだいし)を安置し菩提を弔ったと伝えられ当寺に現存している。

応永の頃(1394−)からは住僧も定まらず、時折、中尊寺の老僧が閑居していたといわれるが、文明五年(1473)になって、報恩山永徳寺の 六世、珊光素玉(さんこうそぎょく)和尚の弟子智海(ちかい)が、当寺を禅寺に改めようとし、素玉和尚を開山の師として招き、応永時代の僧玄弘を二代とし て、智海は三代目の住職となって天台を曹洞に転宗し、寺号を雲際寺に改めて二度目の復興がなされた。

元和二年(1616)この地に転封された芦名盛信は、またまた荒れ果てていや当寺の地に移住することとし、本村の不動明王は北西の方に新たな不 動堂を建立して安置した。寛永八年(1631)頃、盛信の孫の重信は祖父の菩提のためその不動堂の場所に寺を新築し、標祭寺七世節翁和尚を招いて当時の三 度目の復興がなされ、山号を妙好山に改めて現在に及んでいる。正徳三年(1713)重信の曾孫盛連は藩命により奉行職となり加美郡中新田へ移ることにな り、芦名氏は九九年間の衣川在住を終わるが、雲際寺安泰のために慎重な配慮をしたと伝えられる。

現存する本尊等の宝物

 木造不動明王立像(像高56.8cm 昭和54年修理)

 木造矜羯羅童子立像(こんがらどうじりつぞう:像高34.2cm 天明七年)

 制タ迦童子立像(せいたかどうじりつぞう:像高34.0cm 天明七年)

 木造韋駄天立像(いだてんりつぞう:像高32.0cm 天明七年)

 木造如意輪観音半跏像(像高15.0cm)

その他宝物

 妙好山雲際寺伝記等。
                                                                        (以上 出典:衣川村誌 資料提供 衣川村教育委員会)
 

 妙好山雲際寺

曹洞宗、本郡永徳寺末寺、伝云、後土御門帝、文明五年、珊光素玉和尚開山、希文按、観迹聞老志・名跡志共曰、仁明帝嘉祥中、釋巨岳者所開、寺院 往昔在牛局山、仍号牛局山雲際寺、今改妙好山、寺中有義経牌子、曰義経通山大居士、二説不同、不知孰是、然曰此寺舊在牛局山、而号牛局山、則文明五年、移 于今知、素玉中興開祖、改号妙好山乎。(以上 封内風土記 巻之十九)
 

問い合せ先

 衣川村教育委員会 0197-52-3111
 雲際寺      0197-52-3068

 雲際寺のホームページ





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2002.7.1 佐藤弘弥