長崎幻視行


長崎大浦天主堂
(08年12月7日 佐藤弘弥撮影)

ダラダラと続くオランダ坂を上り、エレベーターに乗って、
長崎の街をグラバー・スカイロードから一望した。
師走ながら、心地よい風が頬を撫でるように吹いている。
昨日の吹雪から一転、快晴の日曜日だ。

ニョキニョキと色とりどりのマンションが、長崎の風景を台無しにしている風景が見えた。
さらに今、長崎県庁を、27階の高層ビル化する計画があることを聞いた。
もしもこれが出来ると、26人の殉教者が眠る西坂公園の視界が遮られることになってしまう。
これは風水の思想でもあってはならないことだ。

長崎が世界遺産になる可能性が高まっている今、
景観を害するような計画を県庁自らが立案していることが、どうしても理解できない。

細い坂を下り大浦天主堂と仏教式の墓をぬって歩いて行くと、
早いリズムの拍子木を打ち鳴らしながら、死者を弔う読経の声が聞こえてきた。
また墓の前に、新聞紙を敷き、正座をしながら、この師走の早朝、祈り続ける老いた女性が居た。
たった一本の細道を隔てながら、カソリックと仏教が共存している。日本人の宗教の多様性を思った。
言葉にすることは難しいが、強い感動を覚えた。

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寺と町屋が渾然一体とした寺町の風景
(08年12月4日 佐藤弘弥撮影)

師走の長崎へ行った。長崎は、12月6日、南国らしからぬ天候で雪が降った。
「長崎は今日も雨だった」という古い歌謡曲を思い出し、少しクスッとなってしまった。
長崎を一言でいうことは出来ないが、亡者と生者が一緒に、暮らしている町という印象を持った。
それはキリスト教の教会の周辺に、仏教の寺院が立ち並び、信者の読経の声が響いていたり、年老いた女性が、
師走の寒風の中、墓の前に正座して、手を合わせている姿を眼にしたからだ。
寺町を歩くと、墓の中に町があるという気がした。つまり長崎では、生きている人間も亡くなっている人間も、
一緒に生活をしているという事なのかも知れない。




坂本町にある山王神社の一本柱鳥居
(08年12月4日 佐藤弘弥撮影)

長崎は、原爆の被災地である。
外から見る長崎の印象は、どうしても世界で二番目に原爆を投下された都市としての暗く重たいイメージが付いて回りがちだ。
できれば、タイムマシンでの乗って、原爆投下の歴史をストップさせたい気持ちに駆られる。
しかし現在の長崎の現実を知る上で、原爆の悲惨を避けて通ることはできない。

昭和20年8月9日、午前11時過2分、長崎市上空500mで炸裂した原子爆弾は、
閃光を放って、7万数千人の人々の命を奪った。当時、長崎の人口は、24万人とされる。
そして今もなお、その時、被爆した罪もない長崎市民は、
高齢者となった現実と向き合いながら、原爆の後遺症と闘い続けているのだ。


寺町から、タクシーに乗り、「爆心地にお願いします」と告げると、
「写真を撮られるのですが、もし良かったら、一本柱鳥居があるので、通り道ですから、
ご案内します。料金は同じですから、10分位大丈夫ですよ。」と言う。
厚意を受けて、その写真を撮ることにした。

下から見ると、急勾配の階段の上に、太い石造りの鳥居が、
ポツンと一本足で見事に立っている。
階段を登ると、その傍らでは、ボランティアと思われる60代後半の男性が、
子供たちに原爆の話をしている。

「この地域では大変悲惨なことがあった。原爆で被災した人々が、この鳥居のある坂を越えて、
山を越えて、身体を引きずるようにして逃げた。
今では考えられないことだ。だから戦争だけはいけない・・・」

子供たちは、じっと鳥居を見つめ続けていた。子供たちの眼には、いったいどのように映ったのだろうか。

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田平天主堂
(08年12月5日 佐藤弘弥撮影)

平戸島に渡る海辺の丘に立つ田平天主堂に行く。
折りから霙(みぞれ)が降る悪天候の日だった。

この教会は、大正六年に竣工された教会で、言ってみれば、長崎の教会としては、新しいものだ。
設計は、長崎の教会群が世界遺産暫定リスト入りし、俄に注目を浴びる建築家鉄川与助(1879−1976)である。
田平教会は、彼の教会建築として、最高傑作と呼んで差し支えないであろう。
縁とは不思議なもので、今回田平教会に来るきっかけは、
故鉄川与助の孫にあたる建築家鉄川進氏らが中心となって企画した「世界遺産フォーラム in 長崎」が、
地元で開催されたことによるものだ。

煉瓦造りのがっしりした建物は、安定感があり、西海から吹き上げてくる海風にも動じない意思の強さのようなものを感じた。
かつて長崎のキリスト者は、自身の信仰を守り抜くために、さまざまな迫害と困窮に堪えなければならなかった。
今私たちは、日本国憲法の保障する「信教の自由」の中にいる。かつて、ここ長崎のキリスト者にとって暗黒の時代が長く続いた。
彼らは命を賭し、自身の信ずる道を歩いた。その結果、数多くの人々が、謂われのない迫害を受け、殉教者となって天国に召された。
この田平教会には、そんな人々の魂が、この教会のそこかしこに満ちあふれている気がするのだ。

内部入ると、真っ白な柱がアーチを描いて伸びている。
それはまるで、天上から救いの光が射しているように見える。

教会の壁という壁には、ステンドグラスが並び、キリストの苦難を己の苦難として共有する意思が示されている。
外では、霙(みぞれ)が、パラパラと落ちてくる厳しい天候の中で、
海岸縁に立つ教会とその横に続く信徒の墓とこの田平天主堂は、
霙など、どこ吹く風と、受け流すように見えた。

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平戸大橋から内海を望む
(08年12月5日 佐藤弘弥撮影)

平戸大橋から内海を見ると、バスの窓越しに暗鬱な空から光が僅かに射してきて、海がにぶく光っていた。
田平天主堂の荘厳な佇まいを視た後のためか、神がじっとこちらを凝視しているような錯覚に囚われた。

橋を渡って平戸島に行くと、別の世界が拡がっているように感じられた。
時間が少ないために、日本のキリスト教の大恩人とも言うべきフランシスコ・ザビエルの遺徳を記念して
昭和6年に建てられた平戸カトリック教会に行くことが出来なかったのは、残念だった。

平戸港から町を歩いていると、横殴りの雨が降ってきた。幸橋を渡り、
平戸城に行こうとすると、もう時間はない。
港に戻ろうとすると、雲が割れて、日光が,周辺を銀色の世界に変えた。無我夢中でシャッターを切った。
黒い雲が輝く日の光に晒され、ああやっぱり平戸は特別な空間だな、と感じた。

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平戸港から平戸城を望む
(08年12月5日 佐藤弘弥撮影)



二十六聖人殉教地
(08年12月7日 佐藤弘弥撮影)

長崎で、ここだけは行きたいと思う場所があった。

それは、二十六聖人殉教の地であった。この場所は、日本のゴルゴダの丘と呼ばれるなだらかな丘陵地である。
この場において、イエズス会から派遣された宣教師を含む計26人のキリスト教徒が、
日本中から連行され、磔(はりつけ)にされた場所である。
この蛮行を指示したのは、時の権力者豊臣秀吉だった。


今折りから長崎歴史文化博物館で「バチカンの名宝とキリシタン文化」(08年11月1日〜09年1月12日)という展覧会を開催中だ。
この冒頭に、隠れキリシタンの人々が、次々に処刑されている凄惨な絵が掲示されていた。

信教の自由を奪われた人々が、一箇所に集められ、それでも従容として死に赴いて行く姿を見ながら、
長崎という地域のみならず、人間としての気高さを思った。

長崎で去る11月24日、「列福式」というものが盛大になされたという。
これは世界中からローマ法王から、日本の188人の殉教者に対し、聖者に次ぐ「福者」の称号を授与される式であった。

この式に内外から、何と3万人の信者が集まった。
そんな深い信仰に感嘆しながら、夕暮れに眩しく輝く日本のゴルゴダの丘に佇んでいた。

ただひとつ、悲しい話を耳にした。
この西坂の丘から西に長崎港を見下ろす辺りに、二十七階だての長崎県庁を建てる計画が持ち上がっているそうだ。
一瞬聞き間違いかと思った。この丘は、長崎世界遺産のコアゾーンのひとつになっているのだ。
もしもこれが建設されるようなことがあれば、イコモスに問い合わせるまでもなく、長崎の世界遺産入りは絶対にないだろう。
いくら何でも、コアゾーンの真ん前に、二十七階の高層ビルはないだろう。これでは平泉の二の舞である・・・。

つづく

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2008.12.14-20 佐藤弘弥

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