春光眩しい清澄庭園を歩く 


「磯渡り」の踏み石から庭園のランドマーク「涼亭」を望む


紀州からみかん船を仕立てて豪商となった紀伊国屋文左衛門(?−1734)の邸宅跡ではないかと いう言い伝えのある江東区清澄にある清澄庭園を訪れた。近くには確かに当の文左衛門のお墓のある寺があった。その後、下総の久世大和守の屋敷になっていた が、明治維新が起こり、西南戦争で一財産を築いて三菱財閥を創始した岩崎弥太郎が、この庭園に手に入れて、明治13年(1880)、「深川親睦園」を開園 したという。

中に入ってみると、さながら石の名園「石庭」の風情があった。紀州の石は、もとより、伊豆の磯石、伊予の青石、佐渡の赤石、備中の御影石、京都保津川 石、、加茂新真黒石、真鶴石など、日本中からさまざまな石が集められている。これは文左衛門の時代にあったものに、明治以降さらに海運王となった岩崎弥太 郎が、資金力に任せて、名石を収集したものだろう。池(泉水)を取り囲むように配置されている石の上を歩いているだけで、この庭園から大自然のエネルギー を受けているような気がしてくる。

「磯渡り」と名付けられた踏み石の途中から、池の東に建つ「涼亭」を見ると、何とも言えない風情を感じた。この家屋は、三菱財閥の3代目実息久彌が、明治 42年(1909)に国賓として訪日した英国のキャッチナー元帥を持てなす為に建てられたものである。周囲には大きな灯籠が置かれて、庭園全体のランド マークとなっている。

残念ながら池の淵には、青粉が多く、水質は必ずしも良いとは思えなかった。人になれた鯉が、人影や足音につられて、水面に顔をのぞかせて、エサをねだる姿 は長閑だ。水鳥たちも、人などまったく気にする様子もなく、人影を踏む範囲まで、のこのことやって来ては、また空高く舞い上がるという感じだ。


雪見灯籠の上で水鳥たちがわが世の春を謳う

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自由広場で満開となったヒカンザクラを見上げる熟年ご夫妻
?涼亭の左には、駿河湾に擬したような湾を隔てて、富士山と呼ばれる小高い尾根が築かれている。湾の狭 まった奥には、大きな紀州の青石が楯に置かれ、伊豆の磯石などが、荒磯の風情を醸し出していた。石の上には、蕗の薹が芽吹いていて、春の深まりを感じた。

この湾を歩いて行くと、石作りの門があって、広い平地が確保されている。ここは現在周囲に花菖蒲の田が配置されているが、基本的に平地である。おそらく、 ここは庭園の亭主となった人々の屋敷があった場所だろう。隅田川の岸辺から運ばれた芭蕉の句碑が立っていた。無造作に、木造のテーブルと椅子が並んでい て、今はカンヒザクラが見事にわが世の春を謳歌するようにかっと目を剥いて咲いていた。

「さまざまなこと思い出す桜かな」という芭蕉の絶唱があるが、老夫妻が満開の桜の中で食事を楽しみ、桜を見上げる姿に、日本人の花を愛でる感性には、独特 のものがある、と再認識させられた。
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池の一角には石仏群がならぶ
?清澄庭園には、私たち戦後生まれの人間が知らない歴史がある。この庭園の最盛期は、明治から大正にかけ ての時代であったが、その頃には、現在の倍の三万坪の規模であった。

庭園の西北には、鹿鳴館や丸の内の三菱一号館をデザインした日本近代建築の父ジョサイア・コンドル(1852−1920)の設計によるバルコニー付き赤レ ンガ2階建ての洋館が威風堂々と立っていた。また、現在の入口横に立つ大正記念館の辺りに日本館が存在した。

しかし庭園は、大きな転換期を迎える。大正12年(1923)の関東大震災だ。洋館、日本館とも、この歴史的な災害によって全壊してしまう。しかしなが ら、この広い庭園は、被災した下町住民の避難所となり、東京復興のひとつの拠点となった。この時、俄に池は東京復興のための材木貯蔵池として、洋館跡は製 材所として活用された。災害の翌年(1924)には、庭園を所有していた三菱財閥の3代目のリーダー岩崎久弥(弥太郎の息子:1865ー1955)が、現 在の清澄庭園となる東半分を東京市に寄贈し、昭和7年(1932)市は、これを整備し開園をする。

しかし昭和20年(1945)3月10日未明、わずか2時間半で10万人を越える住民がB29による焼夷弾による無差別爆撃を受けて死亡した。この大空襲 で清澄庭園もまた壊滅的な打撃を受ける。ところが清澄庭園は、心ならずも亡くなった住民の仮埋葬所となり、生き延びた住民の避難所となり、瀕死の人々の救 済の場となって機能した。そんな歴史を、清澄庭園は持っている。


涼亭の彼方に高層化するマンション群が見える
?思うにこの庭園は、ただその形状や整備が行き届いているから美しいのではない。理不尽な災害や戦禍が住 民を襲う度、地元の人々の命のより所となってきた歴史が、庭園のいたることころに染みついているのを切ないほどに感じるのだが、もしかするとこの庭園に足 を踏み入れる者が、不思議な安らぎを得るのは、そのためかもしれない・・・。

そんなことを思いながら、この清澄庭園を歩いていると、関東大震災や東京大空襲は、遠い夢のような気がした。それほど2010年3月11日の春光は、実に 長閑で、この世に極楽浄土が現出したかのようであった。

でも実際、私ははっきりとこの耳で東京大空襲のことを聞いたことがある。橋の名は忘れてしまったが、その女性はこのよう言った。
「焼夷弾による爆撃で、橋の欄干の下に隠れた人が、橋からヌラリとした感じで流れ落ちる焼夷弾の業火に包まれて、焼かれていく人がいた。翌日、行ってみる と、その場所は、黒く人の影がはっきりと着いていた。何年か前に、同じ場所に行ったが、いまだにその跡が、私には見えた。」

それから、「日本堤近くの公園には、空襲で亡くなった人が山と積まれていて、夜になると、そこかしこから、人玉がふらふらと飛び出して来るのよ。しかし感 覚がマヒしていることもあって、少しも怖くない。むしろキレイだなと思った。」という話も聞いた。

おそらくは、この清澄庭園にも、それに近い話があるのだろう、と思う。私たちの少し前の時代の先輩たちは、そのような悲惨な目に遭いながら、その度に焦土 から立ち上がり、奇跡とまで言われるような復興を成し遂げてきたのである。一見、庭園というものは、だだっ広くて、この世知がない世の中では、無駄のよう に思われるが、実はその逆で、人間の感性に憩いを与え、また非常時には、この広いスペースこそが、災害からの隠れ家となる宝物のような空間なのである。

この清澄庭園の春光を浴びながら、高層化されるビルの影が、周辺に拡がっていることに一瞬、危惧の念を感じた。そして、この清澄庭園の美しい景色が維持さ れることこそが、日本人の「文化度」と「感性」の高さのバロメーターになる、そのように思った。

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2010.03.12 佐藤弘弥

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