相撲界八百長スキャンダルをヒモ解けば


相撲界の八百長スキャンダル報道が、加熱している。朝青龍スキャンダルの報道の時、「朝青龍問題、実は相撲協会問題」というコラムを書いたことがある。こ の時は、相撲協会の組織としての旧体質批判だった。今回は八百長という言葉の厳密な解釈に基づいて、過剰な批判に晒される相撲協会を若干擁護させていただくこととしたい。

あえて、今回の事件について「相撲界の八百長事件事件は、日本社会を映す鏡」と言いたい。日本文化の特徴は、大江健三郎氏の発言を待つまでもなく、その曖昧性にある。相撲界の八百長問題については、NHKが相撲放送を始めた昭和28年(1953)から、あの取組は怪しい「八百長だろう」という噂が流れたが、その度に、日本人は忘れやすい気質や、相撲界に比較的寛容な文化があって、やんわりと水に流してきた。

確かに、「八百長相撲か、そうでないか」の判断は極めて難しい。八百長を広辞苑で引くと、「相撲や各種の競技などで、一方が前もって負ける約束をしておいて、うわべだけの勝負を争うこと。」とある。要は事前の了解があったか、どうか、これが八百長か、そうでないかの分かれ道になる。広辞苑には、八百長について、金銭の授受などの定義はない。

さて今回の相撲スキャンダルの最大の問題は、金銭をもって、勝星を買うという行為が、それを行ったとされる携帯電話によって、動かしがたい証拠として突きつけられていることにある。

小説家だった石原慎太郎氏が、昭和38年(1963)の秋場所で、休場明けの柏戸が千秋楽で当時全盛期の大鵬を寄り切りで破って優勝した相撲を八百長呼ばわりして、協会から訴えられたことがある。石原氏は、言い過ぎがあったと謝罪をした。私はこれが八百長とは思わなかった。もしもこの勝負に、「今回は柏戸に勝ちを譲る」という事前の了解があったとすれば、八百長ということになる。しかし私の印象は、事前の了解があったという印象はなかった。この頃の大鵬、柏戸の間には、しばしば勝負が終わった後、互いの健闘をたたえ合うような美しい空気があった。この勝負もそのひとつとして私は見た。

ただ、この頃から、今の今まで、相撲界には、7勝7敗で千秋楽を迎える力士が、勝って、8勝7敗で場所を終えるケースは余りに多いことは事実である。広辞苑の定義をもってすれば、あらかじめ内通した上での勝負ならば、「八百長」と断言されてもしょうがない。しかし阿吽の呼吸で、今回は勝ちを譲ってやるか、ということも相撲の伝統にあることもまた事実かもしれない。これに広辞苑の「八百長の定義」を厳密に適用するならば、事前の了解はない中で「人情をもって負けてやる」行為を、これもまた八百長とするか、どうかは意見の分かれるところかもしれない。それに対し、あくまでもガチンコの勝負をすべき、との考え方もある。

さて、ここからが今日の私の主張である。日本の相撲が八百長に毒されているという考え方がある。保守的な旧制度で変わらなければ存続も危ない、との声も多い。

もしも、相撲が八百長で毒されているとしたら、大鵬があれほど強い大横綱になり32回も優勝できただろうか。あの時代には、柏戸以外にも佐田の山、豊山など、強豪がそろっていて、事前に相撲界の八百長力学が働いたならば、もっと面白い大鵬だけが6場所連続も優勝するような作り方はしなかっただろう。強すぎて、白けきった場所もあった。その後の北の湖時代もそうだ。北の湖は強すぎた。輪島や貴乃花もいたが、強すぎて白けた場所も数多くあった。もしも八百長が蔓延しているとしたら、こんなことはあり得ないはずだ。

それから外国力士時代に入る。まずハワイ勢の躍進。立ちはだかったのは、大横綱千代の富士、そして若貴兄弟である。この中でハワイ勢は、大関小錦、 横綱武蔵丸など、超の付く体力で大関や横綱に出世していった。これが八百長に毒された結果とは、とても思えない。八百長とは、事前の了解によって、勝敗が 決まることである。だとすれば、外国勢の躍進、特にモンゴル力士勢の今日のここまでの隆盛を説明することはできない。もしも八百長に毒されている相撲界だ としたら、間違いなく、八百長という手法で、資金のある部屋やタチマチが相撲界の中心に日本人力士を置いたはずである。?

それに相応しい日本力士が居なかったとは思えない。今、相撲界に巣くっているとされる八百長相撲があるということを否定することはできない。でもこれを もって、相撲界全体を八百長で毒されているとは言えない。仮に八百長に毒されているとしたら、生活の掛かった7勝7敗のようなケースが圧倒的に多いのでは ないか。しかもここに金銭の授受もなく阿吽の呼吸であった場合は「八百長」と言い切ってしまうことも難しい。

世間は、「八百長、八百長」と騒いでいるが、厳密に「八百長の定義」と相撲の歴史を冷静に考えてみれば、相撲文化の神髄が、そんなくだらないものに冒され たことは一度もない。強い力士は、たとえ外国人だろうが、ハーフ力士だろうが、大横綱と呼ばれてきた。騒動を見る限り、騒ぎ過ぎである。八百長の定義を厳密に判断し、この騒動の火を消さなければならない。

そこで、問題なのは、組織としての相撲協会が、相撲文化を時代に合わせてマネージメントできるリーダーと組織論を持っていないことに尽きると思う・・・。(2011.2.7)


2011..2.7 佐藤弘弥

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