千田孝信前中尊寺貫首を偲ぶ



ありし日の千田孝信師
(2002年8月19日 中尊寺本堂にて)




09年4月13日通夜が観音寺で午後6時から催行された

千田孝信師(ちだ・こうしん=大僧正 前中尊寺貫首 天台宗観音寺名誉住職)が、11日未明、自坊観音寺のある栃木県日光市内の病院で逝去された。

享年は83歳。戒名は散華心院大僧正孝信大和尚。

千田師は9日、腰痛により市内の病院にそのまま入院、10日に様態が急変し、11日午前4時過ぎ、大動脈破裂にて死去された。

葬儀は、密葬として、4月14日午後2時、日光市上鉢石町1003の鉢石山観音寺にて催行。(同日、中尊寺でも法要が営まれる。)喪主は長男千田孝明住職。来月5月14日2時、同寺にて本葬が営まれる。


略歴

師は、大正15年(1926)栃木県日光市観音寺住職千田孝海師の長男として生まれた。孝海師は岩手県江刺市の出身だった。昭和11年(1936)日光輪 王寺で得度し、県立今市中学、旧制浦和高校を卒業、昭和22年(1947)京都大学文学部哲学科を卒業した。翌年、直ちに県立日光高校の教壇に立つと共 に、亡くなった父の後を継ぎ観音寺住職の座に就いた。高校では英語や日本史などを担当した。この間、保護司として、罪を犯した人々の更生に尽力された。 1989年には、その長年の功労に対し、国から藍綬褒章を受章した。

  1993年5月、一切の公職を退き、中尊寺の貫首に就任。中尊寺金色院の住職となる。2006年9月まで13年間、重責の中尊寺貫首の座を勤め上げ退山。この間、1997年に金色堂の国指定百年祭、2000年に中尊寺の宝物殿である「新讃衡蔵」の落慶法要、同年の「中尊寺開山千百五十年祭」、翌2001年には、「金色院落慶法要」を、それぞれ中心となって奉修された。また2000年12月に世界遺産暫定リスト入りした平泉の世界遺産登録のために全国を廻り尽力された。

  中尊寺貫首退任以後は、故郷である日光市の自坊観音寺に戻り、名誉住職の座に就かれていた。

  08年7月、平泉が世界遺産入りを果たせず登録延期になった時は、一晩眠れず男泣きに泣いたとのこと。平泉が世界遺産の暫定候補となって以降、日本中を駆け回って、平泉の心を内外に伝えていただけに師の心中は察して余りある。やはり、師にとって、心残りは、2008年に世界遺産に登録されると思われていた平泉が登録延期になったことだったと拝察する。



千田孝信師の思い出

11日夕方、平泉の知人から、千田前貫首逝去の報が入り、茫然とした。やや大きめの眼鏡をつけた千田師の優しいお顔が脳裏に鮮明に浮かんできた。私が師とお会いしたのは3度である。

初めてお会いしたのは、2002年8月のことだった。場所は中尊寺の寺務所である。前年平泉が世界遺産の国内候補にノミネートされ、「平泉を世界遺産にする会」として、千田貫首に表敬訪問をしたのであった。

そこで師は、平泉の中心に何故中尊寺が建立されたのか、この都市を開府した藤原清衡公の心について話された。師は清衡公が起草させた中尊寺建立供養願文をについて、それが現在のユネスコ憲章前文に魁(さきが)けた恒久平和の理念であることを熱心に話された。

またこの清衡公の建都の理念を守るために、一山の寺僧と住民たちが、苦労に苦労を重ねたことを、吾妻鏡の「寺塔注文」を引用しながら、熱心に説かれた。こ のエピソードは、奥州平泉が、源頼朝率いる鎌倉勢に平泉を蹂躙された時、泰衡以下、都市平泉を護る兵士が一兵の居なくなった中で、中尊寺の寺僧「心蓮大法師」が、この世にも浄土はあるとの清衡公の建都の精神を唯一のより所として、頼朝と直談判に及び、平泉の寺社に指一本触れてはならぬと、認めさせてしまったことだった。

まさに平泉の900年に及び生き様は、信仰を唯一のより所として、清衡公の思いを後世に伝えようとしたことであり、この精神こそが世界遺産に相応しいということだった。

また千田師は、「一隅を照らす」という言葉を言われた。人間は、一隅でしか生きれない。しかしその一隅を照らすことが出来る時、普遍なものを照らすことに なる。これは金色堂のことを指す。たった六m四方の空間の中に、清衡公は永久に変わらない何ものかをイメージ(観想)させる空間を生み出すことに成功し た。大きな眼で言えば、これが中尊寺、そして平泉ということになる。そのように言われた。

二度目にお会いしたのは、2005年3月のことだった。この時は、少しお疲れ気味だったが、その理由を聞いたら、思わず師らしいと笑ってしまった。というのは、前日に世界的なピアニスト秋吉敏子氏が平泉郷土館でソロコ ンサートを開き、その後、意気投合した貫首と秋吉氏が、朝までお酒を酌み交わしながら、日本文化やら、今度は夫のルー・タバキンさんを連れて、バンドでコ ンサートを開きましょう、というのである。千田師は、とくかく気取らないざっくばらんなお人柄でお酒が大好きで、初対面の芸術家でも、住民ともお酒を介し て、親しくつき合うような人物だった。

最後の三度目は、2006年6月、衣川荘で開催された「衣川シンポジウム」の場だった。これは衣川の長者原廃寺跡が、平泉の世界遺産のコアゾーンに 入ったことで開催されたものだった。この時、シンポジウムの閉会の折、最後の挨拶をされたのであるが、衣川周辺が堤防のかさ上げ工事など、変貌しつつある 景観について、穏やかな表現ながら、「歴史を踏まえて、衣川らしい開発を」と真顔で説かれたのが、強く心象に残った。ご挨拶をすると、師は「わざわざ東京 からご苦労さんですね」と言われたが、少し体調がお悪いのか、顔色が良くないのが気になった。

同年秋、千田孝信師は、中尊寺の貫首の重責を13年間を勤め上げられて、自坊の日光観音寺のに帰り、名誉住職に補任されたのだった。

通夜の夜 観音寺の桜は満開

4月13日午後3時東武浅草駅発の特急「スペーシア号」に乗り、日光観音寺を目指し た。千田孝信師の通夜は午後6時から始まる。日光に近づくにしたがって、桜の木が元気に咲いているのを感じた。東京浅草の桜の名所「隅田公園」は、もう すっかり葉桜となっている。電車が北に進む度に、春の花の精たちの日本列島縦断の旅に追い付くような気がした。

日光駅に着いたのは、5時過ぎだった。観音寺は、駅から日光街道を神橋(しんきょう)に向かって、一キロほどの距離にある。手前には、石垣に囲まれたお城のような市役所があり、その隣になる。観音寺から神橋までは、およそ200mの道程だ。

日光駅からテクテクと古い街並みを歩いた。西洋人と思われる外国人が多く目にした。世界遺産登録以降、観光客の層も大分変化しているようだ。ミシュランガイドの観光地版で日光が載っているそうで、これが意外なブームをもたらしているのかもしれない。高野山でも、このガイドに載って以降、外国人観光客が増えていると聞く。ただし日光の場合は、都心部に近いせいもあって、長期滞在型の外国人観光客は少ないようだ。ミシュランガイドの最高ランクの3つ星に日光東照宮、2つ星に輪王寺、1つ星に二荒山神社、中禅寺湖などが入っているそうだ。

参道の前に、案内の方が二人立っておられた。案内されるままに、やや長い坂道を登ると、山門があり、右の柱に「山門不幸」の紙が貼ってあった。その奥に一 本のしだれ桜が絢爛(けんらん)に咲いていた。その鮮やかさたるや、その美しさたるや、言葉を失った。そのしだれさくらの袂に小さな朱色の御堂が立ってい た。その脇にはテントが張られ、椅子が並び、通夜の準備が着々と進められていた。師は敬愛する西行法師の「願わくば花の下にて春死なんそのきさらぎの望月 のころ」の歌のごとく人生を終えられたことになる。それは風流人の師らしい人生の終焉だったかもしれない。

山門の右脇にある本堂に入り、名を名乗ると、千田孝明住職がおいでになった。「父は長い闘病生活をすることもなく、9日に入院すると10日に様態が変わ り、11日に逝ってしまいました。」、「平泉の高橋一男町長も先ほど見えて、とんぼ返りで帰られました。」と言われた。高橋現町長(当時は町議会議長)は 千田貫首を、父親のように尊敬されていたのを知っている。さぞ、高橋町長も、平泉の世界遺産再登録のチャレンジを前に、心細い限りだろうと思った。

本殿の中央壇に御遺骸は置かれていた。大柄な師だったが、何故か、余計に棺が大きく見えた。お線香を二本手に取り、南無阿弥陀仏と二度祈る。遺影が、こちらに何かを語りかけてくるような気がした・・・。
 

 千田師と世界遺産との浅からぬ縁

中尊寺の貫首になる前、千田師は、日光文化協会会長(在勤期間:1985ー1993)の立場で、日光の世界遺産登録(1999年)において多大の貢献をされたと伺っている。本来、文化庁のプランは、日光山内全体を、世界遺産に登録する考えだったが、バイパスなどの公共工事が点在しているため、結局、日光東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺のみが登録されたものである。それはそれはがっかりだったと、千田師より、聞いた記憶がある。世界遺産の登録遺産を事前に審査するイコモス(国際記念物・遺産会議)の審査は、それほど厳密さを要求されているのである。

日光の世界遺産登録の経験を期待されて平泉中尊寺の貫首に納まったわけではないと思うが、ともかく、千田師と世界遺産の関係は、因縁深いものがあるようだ。

昨年7月のカナダのケベック市での登録の日、千田師は、心配で眠れずにいた。そして登録延期が決まった瞬間、ショックで涙が出て止まらなかったという。その時のお気持ちを察すると心が痛むような気がする。師にとって、平泉の世界遺産登録は、わが子のようなものだったかもしれない。十月十日で大きくなって生まれてくるはずのわが子が、流産してしまったほどの悲しみが師を襲ったのかもしれない。

中尊寺の在任中絶えず、清衡公の心を説かれた。そしてその建都精神の奥にある恒久平和への願いが、ユネスコ世界遺産条約の前文に規定されている精神の魁けであると言った。世界各国で戦争と紛争の絶えない二十一世紀初頭の現代において、平和安寧の理想都市を、平泉において実現しようとした清衡の構想力は、中尊寺金色堂を中心にした一隅において見事に実現されている。ありし日の千田孝信師は、まるで初代清衡公が甦ったかのように思われたこともあった。

この4月4日、文化庁は、推薦書作成委員会を開催し、9つの構成資産を5つに絞って、2年後の登録再挑戦へのスタートを切った。それでも、平泉の登録につういては難問が待ち受けていることが予想される。
 

はっきり言って問題は、平泉周辺に見える「公共事業」その他の乱開発による傷跡をどのように修景保全するかだ。またそのことをストレートに推薦書に明記することだ。千田孝信師の恩に報いる道は、やはり平泉世界遺産登録の関係者が、心をひとつにして、登録を実現することだと思う。合掌

2009.4.15 佐藤弘弥(c)

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