作家立松和平氏が亡くなった。享年62歳。何とも突然の訃報だった。死因は、つい約2週間前、かい離性動脈瘤破裂で緊急入院し、緊急手術を受けた が、結局この2月8日、多臓器不全で旅立たれたということだ。

栃木弁独特の朴訥な語り口で知られる立松氏は、生来の放浪作家であった。何事にも興味を示し、そこに行って、自らで体験を踏まえて、ものを書く人だった。

立松氏は小説「遠雷」(1980)でトマト農家の青年の青春を瑞々しく描いて、第2回野間文芸新人賞を受賞した。この傑作は、映画化もされたが、そのストーリーは、氏の語り口そのままに牧歌的で、人間と自然を見る目も地方からの視点が見られた。日本社会が急激に工業社会に転換していく中にあって、主人公の「農業青年」の生き様には、日本の農業が置かれた立場と地方の苦悩が象徴的に表現されていた。

立松氏を知る人によれば、その人たちが共通して語るのは、立松氏は、とくかく人の悪口を云わない人だったそうだ。かつての久米宏氏の人気番組ニュースステーションでは、さまざまな海に女性ダイバーが潜っている先で、立松氏がその場から例の朴訥な調子で解説を加えるのだが、その名口調が、今も耳に残っている。その時、私は思わず、女の子ばかり海に潜らせないであんたも潜りなさいと、何度がジョークを言ったことを思い出した。9

また「新・おくの細道」(俵万智氏と共著 2001年河出書房新社)という著作を出された時には、平泉バイパスが今建設中なのに、立松さんは、最近の高館の景色を見ていないのではないかと、疑ってみたこともある。

さて、同じ早稲田の同世代の作家でも、今や世界的な作家になってアメリカに住む村上春樹氏などとは異なり、立松氏の興味は、外国ではなく日本、しかも自分の内へ内へと向かっていたように感じる。立松氏は、故郷日光だけではなく、さまざまな霊山を精力的に歩き回った。そして神や仏に触れ、自分の内にある心の帰るべき故郷を探していたのかもしれない。

たまたま、先週の土曜日であったか、NHKアーカイブスの放送があり、曹洞宗の特集があり、福井の永平寺が流れた。その中に、立松氏が、08年に106歳で亡くなられた宮崎奕保氏(みやざき・えきほ=曹洞宗大本山永平寺貫首)にインタビューする姿があった。

今思えば、これが立松氏を生前に見た最後の番組となった。現代最高の生き仏と称される宮崎禅師を前に、立松氏は、その時、座禅をしている時は、何か考えますか、と質問した。すると、宮崎氏は、平然と、「無」と答えられた。その文言は忘れたが、その決然とした宮崎禅師の表情は、まさに生き仏そのもののようであった。その姿を見る立松氏の尊敬に満ちた表情が、また印象的だった。

今、二人はあの世で、改めて人の世の有り様。無常の意味について、語らっているのかもしれない。

62歳という作家にとっては、これから円熟の境地を迎えようとする時、突然この世を去る無常について、ご本人自身無念の思いがあるだろう。しかしその無常も無念も含めて立松和平という作家の人生なのだな、と今思うのである。生涯に渡り、旅を愛し、旅に明け、旅に逝った、立松和平氏の人生に、心からの敬意と哀悼の眞を捧げたい。合掌

2010.2.9 佐藤弘弥

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