金剛寺から高田松原のあった広田湾周辺を遠望する

  (鈴木紀子さん撮影)
 


被災地「陸前高田」には、日本百景にも選定されている「高田松原(たかたまつばら)」があった。

この松原によって、陸前高田は、陸中海岸有数の景勝地になった。およそ2キロの広田湾沿いに7万本も丹精込めて育った松林が砂山の背後に並んでいる。中には樹齢三百年にもなる老松もあると言われていた。

しかし今、そこには、美しい防風林が拡がる「高田松原」はない。東日本大震災による大津波で壊滅してしまったのだ。

いや、待て、そこにはた一本だけ、松が凛として立っている。何故、この松だけが、残ったのか。その哲学的な意味を考えてみたい。

調べてみると、この松林は、過去にこの地を襲った大津波に由来しているようだ。

作家吉村昭氏の名著「三陸海岸大津波」によれば、戦国時代から今日まで、数知れないほどの地震・津波が、三陸海岸を襲った。この松が植樹されるきっかけとなったと思われる千六百年代の記録だけをピックアップしてみる。

天正十三年(1585)五月二十六日
慶長十六年(1611)十月二十八日
慶長十六年(1611)十一月十三日
元和二年(1616)七月二十八日
慶安四年(1651)? ?
延宝四年(1676)十月?日
延宝五年(1677)三月十二日
貞享四年(1687)九月十七日
元禄二年(1689)??
元禄九年(1696)十一月一日

慶長十六年(1611)は、17日後に起こっている。大地震の余震かもしれない。

高田松原には地は、元々気仙川が運んだ白砂が広くたい積していて樹木などはなかった。たびたび襲ってくる津波被害に頭を悩ませていたところ、地元の豪商菅野杢之助(かんのもくのすけ)が、寛文七年(1667)に、黒松を砂山に植樹したのが最初だった。伊達藩もこれに賛同し、地元総出で、六千を越える松林を作った。

おそらく、大小の津波が襲って来る度に、松は失われ、それでも地元の人々は、陸前高田人の心意気に掛けて、この「高田松原」を守ってきたのであろう。その後、享保年間(1716〜1736)にかけて、津波が幾度も、この地を襲う中、松坂新右衛門(まつざかしんえもん)という人物が私財を投じて、さらに黒松の植林を進めて、今日の「高田松原」の景観が出来上がったと伝えられている。

しかし、その後も、津波は、この「高田松原」を、次々に襲った。

宝永元年(1751)四月26日には、高田大地震があり、大被害が出た。安政三年(1856)七月二十三日には、安政大地震。記憶に新しいところでは、昭和三十五年(1960)六月一日チリ地震津波が、三陸一帯を襲ったのだ。

高田松原の美しさの本源には、この地を、幾度も幾度も襲ってきた津波災害に、抗し続ける陸前高田人の不屈の精神にこそある。



高田松原に残った一本松だが、岩手日報などの新聞によれば、樹高30m、幹の直径80cm、推定樹齢200年前後。津波の際に、樹高の三分の一に当たる10mまで波を被り、根本から80cmにかけて表皮がふやけた状態にあるという。

また、津波に襲われ、樹木周辺の地下水も塩分濃度が高くなっている可能性がある。それだけに、今後の生存は楽観できないことは確かだろう。高田松原を守ってきた地元の関係者は、それでも何とか、この町の誇りの松の命を守ろうと、真水をかけたり、海水が侵入しないように、幹の周囲に土のうを積むなど、懸命な救命活動を続けている。

樹齢200年となれば、この松が植えられた年代は、寛政五年(1793)に起こった大津波の後に植えられた松の可能性がある。仮にこれが事実ならば、この松は、次の五つの大津波に耐えて命を全うしているの「松」ということになる。

 第一に、安政大地震(1856)の後、三陸を襲った大津波。
 第二に、明治二十九年(1896)の「明治の三陸大津波」。
 第三に、昭和八年(1933)の「昭和の三陸大津波」
 第四に、昭和三十五年(1960)のチリ地震津波。
 第五に、平成二十三年(2011)の東日本大震災の後の大津波。


この五回の大津波を被災しながら、持ちこたえて青空に向かって凜として立つこの樹木は、まさに「奇跡の一本松」ということができる。

もちろん、一本だけ残った理由は、単にこの松の根が他の松に比べ丈夫だったから残ったということはあり得ない。最悪の災害の中にあって様々な好条件が、重なって生まれた奇跡であることは確かだ。

それは例えば、東北随一の景勝地「松島」のように、松島湾に点在する島々が、大津波の威力を軽減する緩衝地帯となって、他の三陸地域とは、まったく被害程度が軽減された事実と符合するような気もする。

また、スマトラ島沖大地震(2004年12月26日)でも、その後の巨大津波に耐えた木麻黄(モクマオウ)という樹木がバンダアチェ・ウレレ海岸で、災害地の悲惨な光景を見据えながら天に向かって立っていた光景が数年ぶりに脳裏に浮かんだ。

私たちは、今回の震災で、自然の猛威の前では、人間というものが、本当に取るに足りない存在であることを知った。科学技術も、人間が奢って言うほど、確かなものではなかった。地震を予知という学が、あるいは「津波学」が、いかに頼りなく難しいものであるかも、つくづくと思い知らされた。もちろん、原子力発電というものが、人間の手に余る魔の領域を包含する危険極まりないことも身をもって痛感した。

もう一度、陸前高田に残った奇跡の一本松を見ていて、何故か、フランスの哲学者パスカル(1623−1662)が、残したあの謙虚な言葉が思い出された。

人間は一本の葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。」(パンセ)

それは一見すると、悲しいのだが、希望の樹木にも見える。「奇跡の松」から、「希望の松」へ・・・。

私には、この奇跡の松が、どうしても樹齢二百年を越えて、五回も大きな津波に耐えて来た丈夫な松には見えなかった。小さくて弱い葦だからこそ、残ったのかもしれない、とさえ思えた。

私たち日本人は、もっともっと自然に対して謙虚にならなければいけない。そして再び必ずやって来るはずの災禍を、いかにして被害を最少にしながら、生き延びていくか、そのサバイバルの方法と震災に強い新しい都市のイメージについて、この奇跡の松が発する「声なき声」に耳を傾けて、学ぶべきと思う・・・。了


2011.4.26 佐藤弘弥

義経伝説

思いつきエッセイ