穴八幡神社と五木寛之伝説
 
 


早稲田の正門を出て、馬場下交差点に向かう。横断歩道を渡り、交番の右手にある穴八幡神社へ向かう参道を登る。

「穴八幡」の名は、徳川家が、江戸の北の鎮護として、この穴八幡社を整備した時、崖下の横穴から、金銅製の阿弥陀さまが出土(1636)したことから、この社名が付いたものと言われる。

この神社の恒例行事に10月に開催される流鏑馬神事がある。現在は穴八幡宮から場所を近くの戸山公園に移して行われるているようだ。

流鏑馬の由来は、八代将軍徳川吉宗の時世、世嗣(家重)の疱瘡平癒祈願のために流鏑馬を奉納(1728)したのが始まりとされる。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄 除け祈願として奉納されてきた。

この神社のある場所は、南北になだらかな傾斜地となっており、流鏑馬(やぶさめ)の神事に適した立地のように見える。高田馬場という地名も、高田にある馬場ほどの意味から名付けられたものである。

一の鳥居を登ると、馬上から弓を持つ流鏑馬像が建立されている。石垣や楼門、本殿、宝物殿などが、かつてと比べ、実に立派に整備されていて驚いた。真新しい楼門の左右には、狩人姿の老若二体の神さまと御馬が鎮座していた。

手水舎(おもずや)の横に、名物の布袋様がどっかりと据わっている。丸いお顔が、参詣者の手垢で黒光りするほど光っている。おそらく、濡れた手で、次々と 布袋様を触ったためだろう。案の定、受験期にみえるわが子を連れた夫婦が、白い月が彼方に懸かる楼門を入ってきて、濡れた手で布袋様を触って祈っていた。

確かこの神社には、早稲田大学の露文で学んでいた五木寛之氏(1932ー )が、金欠でこの神社の境内で夜を明かしたことがあったということを、どこかで 聞いたことがあった。かつて苦学の若者は、自らの人生をデフォルメして「青春の門」を書き、売れっ子のもの書きとなった。そして今、翁の風貌となられ、巨 匠の域に達しておられる。時の移ろいというものは実に早いものだ。

※資料画像
穴八幡神社写真集

2010.04.28 佐藤弘弥

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