横浜の浄土式庭園「称名寺」を歩く



阿字ヶ池の淵から中島に伸びる反橋


横浜の金沢文庫にある称名寺に行った。毛越寺を模して造られた可能性のある浄土式庭園を拝見するためだ。3時頃、秋の日は既に西方を指し、阿字池に中島を経由して架けられた丸橋と平橋の朱色が夕陽に映えて輝いていた。池の向こうには、金堂の大きな瓦葺きの屋根が、この寺を建てたとされる北条実時の墓所のある借景の稲荷山を背にして威風堂々立っていた。

確かに毛越寺の伽藍配置を思わせるものがある。池の構造と中島に架かる橋。そして左の山(金沢山)は毛越寺の借景である塔山に、背後の稲荷山は金鶏山に擬せられるようにも見える。そんなことを思いながら、池の周囲を廻り、市民の憩いのハイキングコースとなっている市民の森(八角堂がある)に登ることにした。



浄土式庭園が鎌倉にあるとは驚きだ



称名寺の正式名称は、金沢山称名寺(きんたくさんしょうみょうじ)と言う。この寺を開いたのは、北条時宗の後見人であった北条実時(1224−1276)である。実時は、父実泰の住んでいた釜利谷の館を、今の称名寺から平潟湾を一望できる「武蔵六浦荘(むさしむつらしょう)」の高台に移したと言われる。

寺の由来は、実時が、実母の七回忌の供養をした時(1260)に、以前にあった持仏堂(阿弥陀堂=現在は跡のみ残る)周辺を整備したものと見られている。実時という鎌倉武士は、歴史や宗教や帝王学などさまざまな学問を好み、自ら集めた膨大な書籍をこの寺内に納めて「金沢文庫」の前身を作った文化人でもあった。

本堂(金堂)の本尊は運慶作の弥勒菩薩。浄土式庭園については、二代顕時と三代貞顕の時を経て、作庭されたと見られているが、博学の実時であるから、毛越寺の伽藍配置などを念頭に置いて、同じような浄土式庭園をこの地に、造ろうと発想を持っていたことも考えられる。

仁王堂の阿吽(あうん)二体の仁王像も本尊の弥勒菩薩と同じく運慶作と言われる。本堂の前にある鐘楼は「称名の晩鐘」と呼ばれ、金沢八景にもなっている名鐘である。その鐘銘には、実時が草した「ひとつその鐘の音を聞けば、願い叶って衆生は三界の苦を断ち、たちまち悟りに至る」(筆者訳)と、結ばれている。作者は、鎌倉円覚寺の弁天堂の梵鐘を造った鋳物師物部国光とその息子依光である。残念ながらこの日は、鐘の音を耳にすることはできなかった。



称名寺本堂



称名寺の池と伽藍の配置について、毛越寺の場合と方角を比較してみる。毛越寺の場合は、南大門を入ると、大泉ヶ池と間近に直面し、池から北の方角にの中島に向かい、朱色の橋が架かっていた。さらに中島からもうひとつの橋が架かり、金堂に向かって伸びていた。方角は北向きで同じ。称名寺の場合は、仁王堂から入ると、やや広い空間があって、反橋が中島に伸びている。しかし方角は、まったく一緒だ。

称名寺は、毛越寺同様、右手前側から陽や月の光を受けて、金堂側から西に沈む陽の光を拝むような配置になっている。

池の広さは、毛越寺の方がかなり広い。全体として、称名寺は毛越寺の庭園構造を受け継ぎながら、時代の流行であった禅宗の伽藍配置の影響を受けて、造られた寺院のように思われる。

その根拠は、称名寺に伝わる「称名寺大界結界絵図(重文)」に記載された造営当初の伽藍配置によく現れている。同じ鎌倉の建長寺や円覚寺などの禅宗寺院に見られる「方丈(住持の居住所)」、「雲堂(座禅道場)」、「浴室」という禅宗寺院の特徴である建築物が並んでいた。

また称名寺の配置について、毛越寺同様「四神相応」の方位学により吉地を選び抜いて建設されたことものであると思われる。称名寺の場合、東の青龍とは、もちろん平潟湾の青い海。西の白虎とは、惣門の前を東に伸び鎌倉に至る中世の六浦街道。北の玄武(亀)とは借景の金沢山、稲荷山、日向山の三山。南の朱雀(鳳凰)は、計算通りに穿たれた阿字ヶ池と思われる。

参考までに毛越寺の四神を上げれば、東の青龍は太田川。西の白虎は奥大道。北の玄武は金鶏山。南の朱雀は大泉ヶ池となる。

金堂の前を通り、北西の池の淵から、姥石という池中立石越しに仁王門の方を見ると、反橋に夕陽が金色に輝いていた。北条実時とその子孫たちは、西方に陽の沈む、この時のために、称名寺を造営したのだな、と思った。



八角堂のある金沢山から夕暮れの平潟湾



金沢山を登る。途中で経塚や子を抱く慈母観音に頭を垂れた。夕陽が西の山際を紅に染めている。ふと「もう辺りは、結界の外になるのか・・・!?」と、称名寺に伝わる重文「称名寺大界結界絵図」のコピーを見ながら思った。

山の頂上にある八角堂に辿り着いた時には、すっかり薄暗くなっていた。平潟湾の彼方に外国の貨物船が浮かんでいた。眼下に見える称名寺の金堂や釈迦堂、鐘楼が、まるでミニチュアのように見える。

さて結界とは、修行のために一定の区域を区切ることである。結界は、ハレの場である。したがって、結界地は、ケガレの侵入を許さない聖域となる。

結界で有名なエピソードと言えば、高野山を開いた空海が、高野山山上において、7日7晩に渡って、この儀式を行った。しかも大事なのは、高野山全体と中心になる壇上伽藍の二度、結界の儀式を行ったということである。大と小の結界をすることで、高野山は修行の妨げになるものを排除することになった。女人禁制はもっとも有名なタブーである。

称名寺では、50年ほどの間に二度結界の儀式が執り行われたようである。
先の結界の図の裏には、二度目の結界を行ったことの記録が記されてある。

一度目の結界は、1267年に審海という僧侶が、下野薬師寺より招請されて行なわれたと松尾剛次氏は「中世都市鎌倉の風景」と推測している。二度目の結界は、結界については、絵図の裏に1322年鎌倉極楽寺の長老俊海が、惣門の東南の角にある鶏冠木(かえでのき)を基点に開始されたとある。



反橋の上から夕闇に霞む称名寺


この図絵で、最初に気付いたのは、惣門の東脇にあったはずの薬師堂と尼寺であった海岸寺が不自然に抉られたように、結界の外に置かれていることである。尼寺が外された理由は、女人結界の可能性が高のではなかろうか。また金堂の背後の稲荷山にある開基北条実時の墓所が結界から外れている。これは死をケガレとして、結界したのであろう。

この点で、毛越寺と比較してみる。実は毛越寺の結界図というものは残っていない。しかし毛越寺の伽藍を見る限り、最初からケガレに通じるものの侵入を一切許さない純度の高さのようなものがある。それは結局、平泉の毛越寺の場合は、何もない空間に浄土式庭園をゼロから造ったことを意味する。それに対し、称名寺の場合は、最初からそのように造られたというよりは、北条実時以前に、次第に形成されてきた地域を、北条実時以降にになって、かつて奥州平泉に華開いた浄土式庭園のようなものを、この六浦荘に出現させようとした金沢北条氏の「文化的意図」を感じるのである。

もちろんそこには、当時の鎌倉の主流であった禅宗寺院の影響も色濃く反映していた。私はこの称名寺の佇まいの中に、世界遺産の登録基準に謳われている「価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すもの」(世界遺産登録基準10の内の2)の痕跡を発見した思いがした。

つづく

2009.11.20 佐藤弘弥

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