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「うみねこ癲狂院」
       『路上』67号(1993年5月)掲載



   始めからなかった 世界拒みたる少女の瞳に映らぬものは

   見殺しの罪重ねきし日々終わりこれ以上もうやさしくなれず

   少女のまま眠れる薄き胸の扉開いてみれば、コワレカケテル

   行くあてもない僕だから火を絶やさずいつまでもここで待っててあげる

   苦しくも悲しくもない 崖っぷちでひょうたん島を見送ってから

   人ひとり拒みし駿馬みぎわまで来てその先の海を歩まず
    あ ま            もだ
   海人絶えし海の真昼間黙ふかくひとすじの糸流れてゆけり
         め
   いるかの眸の、骸となりて乾ききるまでの哀しみのふかみどり
    と             さか
   鋭き声に仰げば空を離りゆく影もなき海鳥の羽摶き
                      しゅ ゆ
   雲間より羽毛いちまい紛れきて須臾夕凪の界にとどまる
                        まかげ          あい
   夕日降りてしとどに闇をしたたらす目蔭するその指の間より

   きれぎれに闇より来たる潮騒は浅きひとりの眠りに紛う

   金網に髪絡まりし魔女ひとり途方に暮れたまま朝が来る
             あかとき
   大男の黙狂ひとり暁の野辺に世界を支えて佇てり

   ひそやかに吐息を漏らすいわれなき手に手に摘まれながら花たち

   世界へとひらくことなどもう忘れた耳になら聞こえないか タスケテ

   誰も来ない今を盛りと咲いているそこよりは行き場なかりしあざみ

   枯葉掃き集めおり今はもう寒き息しか吐かなくなりし火男

   消え去るという夢果てて残りおり秋ひさかたの木洩れ日のはて
                                         え
   われのみがそこに見ていし思い出の開かれしはずもなき幻燈会

   子供の僕がふいに海から上がってくる狭き額に髪貼りつけて

   誰が胸の記憶かわれによみがえる 凧、押売り、虚無僧の笛の音

   人間のかたちを真似て僕はいた 紅うすき日暮れに生まれ

   標本の蝶回し見し理科室にて信じ始めしわが羽化の夢

   濡れ衣を着せようとして刑事くる雨降りしきる嵐の晩は

   灯を消して扉閉ざせば分電盤に影は平たくなりて蔵わる

   一匹の獣となりて潜みおり今宵ふるやのもりに怯えて

   倒れこむ音 またひとり何もない闇に重さをあずけてしまい

   かつて神童たりし科学者どこまでも交わらぬ線延ばしてゆけり

   逐電せし素人絵描きの遺したる耶蘇ならぬ自画像磔刑図

   いまはただ見てるだけ 皆と一緒には生きられなかった僕たちだから

   それは遠い国の昔の童話だから怖がらなくてもいいんだ誰も

   目閉ずれば闇に静かに炎えている行きつきし冬の果てなる椿
                                     あけ
   ひとりまたひとり去りゆく悲しみの夢もほどろになる雨の暁

   古傷を自慢していし軍曹も心筋梗塞で死んでしまえり
                           ひとかけ
   あてもなき客待つ朝のお茶会はシュガー一片溶けおわるまで

   アルバムを繰りつつ今日は古き佳き「おもひで」なども剥がしゆきたり

   自らに宛てて真白き便箋に字を書いている 母の手つきで

   病み上がりの男ひょろりと庭にいて手紙の束を燃やしていたり
                                  あわい
   触れずおれば蝶はつばさを休ませて意味ありげなる間をひらく

   たどたどとわが名を呼べり本当ははじめから言葉を知っていた鳥

   手すさびにカード切りおり今日明日のちゃちな運命など弄び

   格子窓ごしに斜めに光届きそこに誰かがいるような午後

   至福なる時か窓辺に医師眠るガーゼ煮ている湯を滾らせて

   瞼閉じてしばらく黙る戯れにひとの心を読むふりをして

   汽車よ行け 雪の花降るふるさとのやさしい兄を轢き殺すまで

   野にしあれば誰のものにもならぬ樹よそのきれぎれの声に寄り添う
                すく
   拒むがに肩顫わせて竦む影 ダレカガオマエヲアイシテイルカ


  「とむらい抄」 「さよなら天使」 「ZONE」 「癒されぢごく」 「始めの海へ」
  / 「血のマーメイド」 「ビョーキ天国」 「あすなろ短歌教室」 「TOKIOの噂」
  / 「アンドロイドK」
  目次 歌集『風見町通信』より 『見えぬ声、聞こえぬ言葉』のころ短歌作品(2003〜07年) / 短歌作品(2008年以降)
   
一首鑑賞 / 新作の部屋(休止中) うみねこ壁新聞 作者紹介