うみねこ かべしんぶん    2001年3月21日


『歌葉』と『たった今覚えたものを』と高野公彦氏の文章のこと。


どくぐも時評   第6回
 数少ない読者の皆様、お久しぶり。長いスランプがますます長くなりそうなどくぐもである。
 この『うみねこ短歌館』も開館以来、早いもので5年近くになる。最初はホームページを公開している歌人の数も少なくて、いっぱしの先駆者気取りでいたのが、いつのまにか数えるのもいやになるくらいの歌人たちがホームページを公開するようになり、ただページを作ってサーチエンジンや『電脳短歌イエローページ』に登録しただけではなかなか見てもらえないような、過当競争時代があっという間に到来してしまった。おまけに、フレームだのJAVAだの、昔はなかった技術がいろいろ出てきたおかげで、見かけも構成も開館当初とほとんど変わっていない上になかなか更新もされない当館などは、ダサさ丸出しの不人気ページに成り下がってしまったというわけだ。掲示板やチャットは管理が面倒だし、もともと大勢の人となかよくするのが苦手な北向き人間の私としては、孤立そのものはむしろ望むところではあるのだけれど。
 急速に拡大、拡散してゆくネット歌壇での出来事の中で、私のようなひねくれた人間から見てもほとんど手放しで画期的と評価できるのが、最近開設されたオンデマンド歌集出版サイト『歌葉』である。従来、歌集というのは、ごくごく一部の人気歌人を除き、百万もの費用をかけて自費出版するしかなく、市場にも限られた形でしか流通しなかったのが、『歌葉』の出現により、格段に割安な費用で出版が可能になり、しかもインターネット上で出版告知から受注手続までが可能になったことは、特に歌集を出す側の立場にとって、大変魅力的な選択肢がひとつ増えたと言い切っていいだろう。今後ここからいかに優れた歌集を出せるかが本当の勝負ということになろうが、私としては、ここでいち早く明るい未来を予言しておきたいと思う。たぶん、若い個性的な才能が、吸い寄せられるように集まってくるに違いない。(どくぐもの予言なんて当てにならんけどね)。
 私はその『歌葉』に第一弾としてラインナップされた5冊の中の2冊を読んだのだが、そのうち、玲はる名『たった今覚えたものを』に少しだけ触れてみたい。なぜなら、これは『歌葉』がなかったなら世に出なかったかもしれない歌集だと、私には思われるからである。(ちなみに、もう1冊の飯田有子『林檎貫通式』は、歌集としての出来から言えば『たった今……』よりも総体的に優れており、『歌葉』がなくても本になった可能性が高いし、どのような出版のされ方をしたかとは関わりなく、正当に評価されるべき一冊だと思う)。
 さて、玲はる名の歌集であるが、とにかく新作から成る前半(T部)はひたすら面白いのである。「心臓と角膜と脳、あと性器。唇以外はマルをしといて」など、私は正直言ってブッ飛んだ。ところが主に所属誌に発表した旧作を纏めたという後半(U部)は、「洗面器・ベッド・車の後部座席・玄関の前(失禁の場所)」のようなさらに強烈なのがあるかと思えば、習作としか呼べないような作品も収録されていて、この後半があることにより、歌集全体の作り方としては、オーソドックスな素人歌人の域を出ない代物にとどまる結果となった。ふだんから現代短歌に親しんでいる業界内読者にとっては、それもまた面白さの一要因となりうるのだろうが、そうではないニュートラルな一般読者のことを考えてみれば、内輪受け狙いを出ない旧来の手法を部分的に踏襲したこのやり方は、やはり欠点というしかないように思うのである。また、T・U部を通じて、無手勝流を自任する私のような者から見ても疑問を持たざるをえない表現が、この歌集には随所に見られる。わかりやすいところでは、たとえば、次のような歌。

 ほんとうに動脈通っているかしら。スパナで刺してみたくなるのよ
 体には傷の残らぬ恋終わるノンシュガーレスガム噛みながら

 1首目、作者は「スパナ」をほかの何か、キリとかドライバーなどと混同しているのではないか。いくら何でもスパナは刺さらないと思うのだが。2首目、「ノンシュガーレスガム」って何? 「ノン」と「レス」で二重否定になっている。無糖じゃない、ということは普通の甘いガム? たぶん、単なる推敲不足の結果なのだろうとは思う。だが、なんか変だぞ、と思いつつ、でももしかすると承知の上でこういう言い方をしているのかもしれないと不安にさせるだけの強引な力を、これらの歌は持っているのである。この歌集を読みながら、無名歌人にすぎないとはいえ先行して歌を作っていた者のひとりとして、何か試されているような居心地の悪い気分を味合わされたことを白状しておかねばならない。
 ところで、この歌集に収録された短歌を活字メディアで最初に取り上げたのは、私の知る限りでは、2001年3月18日付『東京新聞』の読者歌壇・俳壇面に掲載された高野公彦の文章「口語短歌の落とし穴」である。この文章は、短歌における文語使用推奨の立場から、まず斎藤茂吉の有名な一首「最上川逆白波のたつまでに……」を口語脈に直してみせて「うすっぺらな軽い歌」になるとした上で、口語短歌の例として玲の作品2首を引いている。

 そのキスはきのうごはんをあたためてカミカミしたときの甘さね
 「外人とやった」と舌を出す方が「きらい」と嘘をつくよりいいわ

 高野は言う。「内容はさておき、どこか子供っぽい感じを与える作品である。こうした《精神的な未成熟さ》が、口語表現にはつきまとう。語意によってではなく、語感によってそうなるのだ。」
 易しい言い回しで説かれてつい納得してしまいそうになるのだが、よく考えてみると、高野の言い分には重大な詭弁が含まれているように思えてくるのである。茂吉の歌を口語で言い換えたらダメな歌になるとか、玲の歌が子供っぽい感じだとかいう、ひとつひとつの指摘については、なるほどそのとおりだと思わされる。言葉には語意のほかに語感というものがあって、それが文の印象を左右するという主張も、多くの読者にとって異論のないものであろう。しかし、である。しかし、だからこそ、短歌作者は、詠いたい内容を表現するのに最適な語彙と文体を自ら選択し、その結果として、ある時は文語の、ある時は口語の、またある時には文語口語折衷の作品が生み出されるのではないのか。
 文語短歌として完成された茂吉の歌の文体だけを口語にしてみるなどは、それゆえ、はじめから無理な試みというほかはない。同時に、玲の歌から子供っぽさが感じられるとすれば、それはまさにその内容が子供っぽいからであって、内容に見合って選択された口語文体のせいで作品が子供っぽくなったわけではないのである。高野は同文中で斎藤史など文語歌人が時々作る口語短歌に言及し、精神的な未成熟さがないのは文語に習熟しているからだと述べているが、私に言わせれば、それは歌の内容そのものがもともと未成熟さとは無縁のものであるからにほかならない。つまり、彼らは未成熟さと見合ったものとしてではない別の理由から時として口語を選ぶのであり、そのことは、口語の持つ多様な可能性を指し示す証左のひとつとしてこそ取り上げられてしかるべきだと、私は思うのである。
 高野の論を逆手に取るならば、玲の歌集はまさに“子供”の歌集である。それも『サラダ記念日』のような優等生的な若者ではない、気ままで扱いづらいちょっと困った子供が、大人の世界である短歌界に殴り込みをかけている図。こういう歌集は、作者が恐いもの知らずの“子供”でいるうちに勢いで出してしまわなければ世に出ない性質のものであると思う。その勢いに手を貸したのが、『歌葉』だったというわけだ。旧来の歌壇とは少しずれた場所から支持の集まりそうな本であるが、殴り込みをかけられた大人たちの側は、叩けばいくらでも埃の出そうなこの歌集を、ひとつ存分に叩いてみてほしい。『歌葉』のさらなる発展のためにも。

[付記]
 高野の文章で引用された玲の歌には、出典も作者名も明記されていない。ただ「口語で作られた現代の若い女性の歌」と紹介されているのみである。これは、著名な歌人が新聞歌壇や結社誌の片隅に載った無名作者の歌をよくない歌の例として引く際に時々なされるやり方だが、法的にもモラル的にも引用のルールを逸脱した“無断使用”というべきであろう。今回のケースに限って言えば、たまたま玲の歌集を読んでいた人以外には、出典についての情報を得る手だてがなく、作者が「短歌21世紀」という「アララギ」直系の結社に所属することなど知るよしもないということになってしまう。
 えらい(と自分で思っている)評者がえらくない(と評者が思う)作者の作品をけなす場合にかけるべき作者に対する思いやり。たぶんそういうことなのだと推測するが、有名であれ無名であれ、また作品の出来がどうであれ、ひとたび署名入りで自作を公表した以上、その作者にはどのような批評にさらされてもそれを正面から受け止めるだけの覚悟ができていると考えるべきであろう。相手の人格を尊重した上で売るケンカでないなら、それは単なる闇討ちになってしまうと思うのである。
 高野の文章のそこにまず大きな疑念を抱き、徹底的に疑いながら二読、三読した結果生まれたのが、上掲の拙文である。すっかり他人のふんどしで相撲を取ってしまった感じの
どくぐもでした。

 

山田 消児 (umineko@st.rim.or.jp)


   「うみねこ壁新聞」99年11月25日号97年7月7日号 97年6月17日号96年9月9日号96年7月7日号
   目次 歌集『風見町通信』より 『アンドロイドK』の時代 『見えぬ声、聞こえぬ言葉』のころ歌集以後発表の新作 / 新作の部屋(休止中)
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