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『風見町通信』
    1992年12月3日、雁書館刊定価2,060円。



 自選30首

   やわらかき風のさ中を駆けてきてやがてうしろに反るふくらはぎ

   昔読みし漱石読みて時過ごすまだ人生が始まらぬので

   かざぐるまそれは明日へと吹く風を孕みきれずに鳴るセルロイド

   頼りなきわれを率いて影は行くこぶし固めて唇噛んで

   休日の電車競馬紙読むわれと覗き読みする喪服の男

   油蝉、遠き鐘の音、生欠伸 爆破予告の刻は至れり

   名残りとて人さんざめく夕まぐれ腹話術師がつと紛れこむ

   死にはまだ遠く向日葵一面に咲き乱れている中の一茎

   誰も呼びに来ない日暮れはひっそりと夕焼色の絵具を混ぜる

   腹見せて転る天道虫もいてなべて命を持てあます夏

   障子一枚開ければ影絵の蝶消えてよりどころなき明るさとなる

   旅立ちは悲しきまでの闇夜にてくわえ煙草の火が先を行く

   夜店にて買う金の斧暴かれし嘘ほんとうに近づけるため

   もう誰も席を立てない燭冴えて今宵百番目の物語

   一斉に玩具箱から脱け出して、らったったった 朝の僕らは

   白線の内側にまだいる未練十五分後の終電を待つ

   名刺など配り歩いて昼間からわがもの顔の僕のにせもの

   言い訳をする したというそのことを永く憶えていてもらうため

   終電に靴ひだりだけ残る夜はその子の夢の王子になれる

   純情を強いくるように雪の降る土曜日ポルノ映画見に行く

   しずけさに覚めし夜更けの枕辺に時々もうひとり私がいる

   呼鈴をひとつ鳴らして待ってみる私のいない私の部屋

   信ぜざるわれひたすらに見入りたる涙ぐむでもなきマリア像

   罪もなき人々よ薄き掌を合わせいそいそと何を赦されにくる

   十二月の街に行き交う大人たち誰もが抜き差しならぬ目をして

   声低くミサ始まれり円天井あたりに悪しきものらも集い

   募金乞う少女らの視野にはいりゆくすでに拒みし顔つきをして

   選ばれて買われゆく嘴たった今研ぎ終わりたる十姉妹

   受話器取れば真夜いくつものまごころがむしろ沈黙を極め込んでいる

   時の涯まぢかき霧の荒野にて野いちごと唖者の瞳と出遭う


  目次 『アンドロイドK』の時代 『見えぬ声、聞こえぬ言葉』のころ 短歌作品(2003〜07年) / 短歌作品(2008年以降)
    
一首鑑賞 / 新作の部屋(休止中) うみねこ壁新聞 作者紹介