一首鑑賞

      野樹かずみの一首
      小笠原和幸の一首
      早坂類の一首
      蝦名泰洋の一首
      枡野浩一の一首
      正岡豊の一首
      宮本孝正の一首
      松野志保の一首
      森島章人の一首
      キクチアヤコの一首
      富哲世の一首
      大橋弘の一首
      村田マチネの一首
      外山恒一の一首
      川崎あんなの一首
      大久保春乃の一首
      森川菜月の一首
      木下竣介の一首
      坂野信彦の一首
      木下龍也の一首
      喜多昭夫の一首
      フラワーしげるの一首
      天野慶の一首
      松木秀の一首
      佐藤モニカの一首
      松村正直の一首
      阿波野拓也の一首
      足立香子の一首
      柾木遙一郎の一首

 ◎ これらの文章は、所属誌『遊子』連載の同人による競作コラム欄「一首燦燦」に発表したものです。


 
 死ののちは心おきなく獣にもなるべく戒名さずけられたり    野樹かずみ

 戒名をさずけられるということは、生き残った者たちによって「死者」として認定されるということである。もう生きた人間ではない──そのことを後腐れないように確認しておくためのものものしい儀式をもって、生者たちは死者をあの世へと送り出す。生きているがゆえに時に獣にも等しい罪を犯さねばならない人間たちの屈折した死への憧れ、あるいはまた、人間と獣との間を行きつ戻りつした死者の晩年が終わったことによる安堵感、そうしたさまざまな感情に送られて、死者は人間であることをやめるのである。
 この1首を含む「相姦図」20首(『短歌研究』1992年7月号)により、野樹かずみの名ははっきりと私の胸の内に刻み込まれた。

 父よ思い出したくないか遠い日に支那で犯した少女の名前
 その朝の雪のなかから生きはじめたわたしを殺すのは必ずわたし
 それも遺品のひとつとなりし押捺の母の指紋が眠る引き出し

 生きている限り常に加害者対被害者の関係に立たざるをえない人間の悲しみ。その関係の中で自らは被害者の側に立つことをどこかで望みながら、それでいて必死の悲鳴をも発してみせる純粋で気難しい少女の面影。そして、歴史的・社会的事件に仮託して自らの思いを吐露しようとする独特の虚構意識。
 彼女の作品の中には、作者その人とは違うもうひとりの「野樹かずみ」が確かに生きている。一介の読者にすぎぬ私は「わたしを殺すのは必ずわたし」と叫ぶ彼女に対し、たじろぎつつも、いつか知れず心寄せ始めていたことに気づくのである。

  『遊子』創刊号(1995.5)掲載


 
 光芒サヘ屈折スル夏死ヲ思フ者ニ妄リニ声ヲカケルナ    小笠原和幸

 真夏の濃密な大気の中、燦々と降り注ぐ光の筋は思い思いに屈折し、散乱する。その光を全身に浴びながら、ある者はひたすらに死を思う。人気なき山の絶巓で、あるいは都市の雑踏の中で。死を思うという一点においてその者は必ず独りであり、心はどこにも開かれてはいない。その開かれていない心に向けてもしも他人が声をかけたらどうなるか。背を押されたように死の谷へと身を踊らせるか。あるいははっと我に返って群衆の一人として日常の中に紛れてゆくだろうか。「死ヲ思フ」とは死を望むという意味なのか死を恐れるという意味なのか、いずれにしても片仮名を使用した無機質な文体からは「死ぬ奴は死なせろ」という作者の冷徹な声が響いてくるかのようである。

 生きることの意味を忽ち悟って死ぬ冷夏に咲いて枯れる向日葵
 運の尽きた者にかまふな枯枝がたとへ未練の手を振らうとも

 小笠原和幸の第二歌集『テネシーワルツ』(ながらみ書房・1994)は、全編かくも深き諦念に満たされている。口語脈の言い回しを旧仮名で表記する文体はその虚無的な作風とみごとに融合し、ゴムのように手強い独自の表現意志の存在を主張する。一首一首に流れるそこはかとないユーモアは唇をほんの少し歪めただけの冷笑にも似て、読者の舌に苦く突き刺さる。
 小笠原の歌には何かを望んだり懐かしんだりするということがない。この頑ななまでの姿勢がいったいどこから来ているのか、作品は語ってくれないが、断念の深さはそのままかつて抱きそして敗れた望みの深さをも表しているはずだ。破れてなおも執念く望み続ける自らに対しこの作者は繰り返し繰り返し短歌という引導を渡し続けているのである。

  『遊子』第2号(1996.2)掲載


 
 生きるならひとり真夏の叢の人に知られぬ井戸よりもっと    早坂 類

 かつてそこに建っていたはずの屋敷はとうに跡形もなく取り壊され、どれほどの時が流れたのか、今では草が無秩序に生い繁る無人の叢である。丈高い夏草を踏み分けてゆくと、朽ちかけた木の格子で蓋をされた井戸が、わずかにかつて営まれた人の暮らしの名残りとして、今も存在し続けているのに出会う。その井戸よりもっと……。
 井戸よりもっと、どうだというのだろうか。もっと深く、もっと暗く、もっと狭く、もっと淋しく、もっと強く、もっと永く……、生きたい、あるいは生きよう、生きるべきだと言っているのだろうか。しかも、ひとりで。
 総じてこの作者の歌は、一見軽めの外貌とは裏腹に、意外なほどの暗さ、重さを内に秘め、時に哲学的とさえ感じられることがある。

 その夢の赤土道をえんえんととびはねてゆく精霊バッタ
 死後に来る春にほのかに咲いているしずかななずなしずかななずな

 精霊バッタやなずなの花のイメージを鮮やかに提示することにより、早坂は此岸と彼岸とを結ぶはるかな道を瞬時に往還する旅へと読者を誘い込む。掲出歌の井戸や、その井戸を人に知られぬように隠している真夏の叢の濃緑もまた、危うい生の象徴でありながら、同時に逃れがたい死への誘惑を内包している。「もっと」の先にあるものは、言葉では決して表現することのできない生と死の本質であるにほかなるまい。
 早坂類の第一歌集『風の吹く日にベランダにいる』(河出書房新社・1993)は、大手出版社のシリーズものの一冊として、華やかな装いをもって世に現れた。だが、見ただろうか。カバーに写る作者とおぼしき女性の両腕が少しぼやけ、その指の先から今し消えようとしているのを。井戸は叢にのみならず、私たちの住むこの街の至るところに口をあけているのである。

  『遊子』第3号(1996.12)掲載


 
 おおぜいの他人の中に君はいてだれでもなかったそのときはまだ    蝦名 泰洋

 他人と接するとき、私たちは、多くその人の社会的地位や役割に対し、同じく自分自身の地位や役割をもって接しているのではないだろうか。その関係にとどまる限り、お互いはほかの誰とでも差し替え可能な人生ゲームのコマとコマであるにすぎない。おおぜいの他人と関わり合いながら生きてゆくために、私たちは知らず知らずそのような方法を選ばされているともいえる。
 だが、おおぜいのうちの特定の誰かがほかの誰とも替えがたい存在として浮上してくる、そんな瞬間のあることを、私たちはまた経験的に知っている。そして、その瞬間から、誰でもなかった誰かが、愛し愛され、また憎み憎まれる主体であり対象でもある「君」へと変貌し始めるのだ。
 掲出歌では、僕が君に恋愛感情を抱いている(あるいはいた)らしいことだけが確かで、今現在ふたりがどのような関係にあるのかは明らかにされていない。そしてまた、それゆえにこそ恋することの喜びや哀しみや苦しみやその他もろもろの感情をひとつかみに表現しえて、一首は読む者の心に柔らかく突き刺さる。その矢を抱えたまま、やがて私たちは「君」が「だれでもなかった」あの頃を、郷愁とともに振り返ることになるのである。
 第一歌集『イーハトーブ喪失』(沖積舎・1993)において、蝦名泰洋はあまりにも純真無垢な内面吐露への誘惑と文学的達成を目指す強固な意志との葛藤に身を委ねる。

 サーカスはどうしてここへ来たのだろうみんな大人になった日暮れに
 影青く君の右頬照らすのはあれは地球という名の異邦

 甘い。確かに甘いけれど、作者の並々ならぬ技倆がその甘さを甘さのままに文学たらしめている。稀有なる光景というべきであろう。

  『遊子』第4号(1997.7)掲載


 
 新しい I LOVE YOU の言い方は「君のエイズをうつしてほしい!」    枡野 浩一

 第41回角川短歌賞候補作品「フリーライターをやめる50の方法」(『短歌』1995年6月号)から引いた。下の句、エイズをうつされてもいいから君とセックスしたい、それくらい愛しているんだよという、真面目半分ふざけ半分の愛の告白の科白である。今や不治の病の代表格となった感のあるエイズだが、肺結核や癌などと比べ、イメージの上でどこか頽廃的で隠微で、それゆえ不当な揶揄の対象ともされやすい。この歌でも「君」は実際にはエイズではない(少なくとも告白する側はそう思っている)ことが前提となっていて、いわば「エイズ」という言葉の持つイメージを巧みに利用していいかげんな恋を皮肉を込めて描いてみせたというのが、一読した限りにおける印象である。
 枡野浩一の歌には、社会や他人や自分自身を斜めにしたり裏返したりした上である切り口を定めてすぱっと論評してみせるといった趣のものが少なくなく、徹底した口語使用とも相俟って、実に楽しくすらすらと読み通すことができる。にもかかわらず何かが引っかかる。どうも、どこか本質的な部分でこの作者の発想はねじくれているような気がして、ついつい深く勘ぐってみたくなるのである。たとえば掲出歌、もしかしたら本当に「君」はエイズで、口説いている側もそのことを知っているのではないか、だとすれば……、と。

 この星でエイズにかかっていないのはあなた一人だ 孤独でしょうね
 絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合いたい

 枡野浩一短歌集U『ドレミふぁんくしょんドロップ』(実業之日本社・1997)の巻末近く、その勘ぐりに答えるかのように、歌は世界を反転させる。どうせもうエイズなんだから、みんな愛し合おうじゃないか──。したたかなる教祖・枡野浩一は、無防備な読者をどこへ導こうとしているのだろうか。

  『遊子』第5号(1998.5)掲載


 
        鈴
      それも
     海ほおずき
   に少し似た形の
  あなたのなかで鳴る
       鈴            正岡 豊


 即物的な情交の場面を一瞬連想し、すぐに打ち消す。打ち消しつつ「あなたのなかで鳴る鈴」とはやはり「私」の比喩なのだろうとひそかに思う。
 海ほおずきは本来貝の卵嚢なのだそうだが、私たちの知っているのは、子供が口に含んで吹き鳴らす昔懐かしいおもちゃとしてのそれである。ペコペコと「あなた」の中で海ほおずきが鳴る。いや、そうではない。鳴るのは海ほおずきではなくて、海ほおずきに少し似た形の鈴。海ほおずきと鈴とがそれぞれの持つ形と音のイメージを介して微妙に共鳴し合い、「あなた」に寄せる「私」の思いを「あなた」の中に結晶させる。鈴を象るように文字を並べてみせた一首の体裁は、さしずめその結晶の視覚的表現というべきであろうか。
 掲出歌は正岡豊のホームページ『天象俳句館』掲載の小歌集『クリスマス・ナイツ』から引いた。

 夕焼けるように終れば君のなか泣いている雨のモリアオガエル
 きみのからだに野ウサギの穴さがしてるぼくにかぶさる四月の森林

 かつて処女歌集『四月の魚』(まろうど社・1990)でこう詠った作者にとって、人を愛するとはすなわちその人の内側に自らを入りこませることであったのかもしれない。
 『四月の魚』一巻を遺し短歌から俳句に転じた正岡豊が、八年の時を隔てて歌の別れから帰ってきた。その変わらぬ若き青年の面影は、読む者にひととき時の流れを忘れさせてくれる。

  『遊子』第6号(1999.4)掲載


 
 思案顔の犬むくむくと膨れ上がり五月の空を気球のやうに    宮本 孝正

 人間に最も近しい動物といえば、何といっても犬であろう。人語を発することこそできぬものの、その鳴き声、仕草、顔つきには人間と共通のコードに従って読み解くことのできる「表情」が明らかに含まれている。小首を傾げ、宙に視線をやるときの愛らしいその表情は、時に人間のそれよりも純粋に、自らの物思いの深さを主張してみせる。
 さて、掲出歌。物思いに耽っていた犬が突然むくむくと膨れ上がって気球のように空を飛んでいってしまうというのである。表現は平易、文意は明瞭で、気球のように膨らんだ犬が雲ひとつない青空を漂うさまが、一読鮮やかに目に浮かんでくる。だが、この歌、どこか変ではないだろうか。現実にはありえない光景だからというだけではない。そのありえない光景が、まるで当たり前のことのように、何かの比喩としてでもなく、格別の作為も背景も窺わせぬままに、ポンと読者の前に投げ出されている。作者の思いつきに過ぎない非現実の世界の出来事を写生よろしくそのまま記述してみせるという手法が、作品に奇妙な手触りを与えているのである。
 「冗句・格言・短詩集」と副題された宮本孝正の一冊『不完全燃焼』(審美社・1999)は、その前半部、「いくじなし【育児なし】 子供を育てようとの気概に欠ける人のことをいう。」などといった、奇想といえば聞こえはいいが、常識的な読者なら怒り出しかねないような彼独特の駄洒落や屁理屈に満ち満ちている。が、後半の詩、短歌、俳句の頁に到り、著者はにわかに憂い顔のロマンチストへと変貌する。収録された短歌は31首。その大部分は「雨の日のチェロ傾きて振り向きざま痛烈に失われたるものよ」のような、自己愛を隠そうともせぬ甘美な嘆きの歌である。その憂愁のトンネルを抜けたところに突然現れる掲出の一首。してみれば、思案顔の犬を空に放ったのは、単なる思いつきなどではなく、作者自らの新たな出発への意思表示であったかもしれぬのである。

 針穴を駱駝が通り抜けるとき咲き乱れたりいちめんの薔薇

 作者にとって、それはまさに駱駝が針穴を通り抜けるような一瞬の奇跡であったに違いない。

  『遊子』第7号(2000.4)掲載


 
 美しいものを見せてよそのためだけに生まれたふたつの水晶体に    松野 志保

 「ふたつの水晶体」とは、むろんこの一首の主人公であり発話者でもある「私」のふたつの目のことである。私は美しいものをこそ見たい、見せてほしいという切なる願いが、眼球の主要部分である水晶体の鉱物的イメージを重ね合わすことで、一層の思い入れを伴って表明されている。思えば、およそ美しからざるものばかりが溢れているこの世であるには違いない。であればこその希求。その理不尽なまでの激しさが、行きずりの読者を歌の前に立ち止まらせる。掲出歌は第39回短歌研究新人賞最終選考通過作品「純血」の中の一首(『短歌研究』1996年9月号掲載)。
 そして、4年後、第43回同賞候補作「永久記憶装置」(同誌2000年9月号)において、松野志保は次のように詠うのである。

 終末より永遠を怖れる君に青く聖別のチェレンコフ光

 この歌を理解するためには少しく解説を要するだろう。チェレンコフ光とは何か。
 1999年9月末日、茨城県東海村のウラン加工施設で日本国内初の臨界事故が発生した。その現場にいて大量被曝した作業員が事故の瞬間に見たという青い光、それがチェレンコフ光である。当時の新聞は「水やガラスなど、透明な物質の中を電子などの電気を帯びた粒子が高速で運動すると『チェレンコフ光』という青白い光が発生する」と説明した上で、日本原子力研究所による次のようなコメントを紹介している。
 「今回の場合、作業員が見たのは、(中略)自分の目の水晶体の中で起こったチェレンコフ光が青白く見えた可能性がある」(『朝日新聞』1999年10月1日夕刊)。
 その類い希なる美しい光は、「美しいものを見せてよ」と望んだ「私」ではなく、一作業員の水晶体の内部において発光したのだった。思いがけず選ばれし者となった彼は、やがて高レベルの放射能に全身を蝕まれ、自分一人の終末の中に貴重な一生を閉じることとなるのだけれど。
 悲惨な事故を詠いながら、一首の印象は決して悲惨ではなく、むしろ凄絶なまでの美しさに満たされている。そして、一瞬の美しさを目の当たりにすることのできた犠牲者のことを、作者は羨望のまなざしをもって見つめているようにさえ見えるのである。

 雨にうたれて死んでもいいの愛でなく愛によく似た何かのために     「永久記憶装置」
 華やかな破滅は来ないゆっくりと酸性雨に溶けてゆく東京

 一見環境問題を題材としているようなこれらの歌にも、本物の愛であるかどうかよりもどれだけ愛によく似ているかの方を重視し、一瞬のうちに訪れる華やかな破滅を待ち望む主人公の美意識のありようが、強烈な個性をもって刻みつけられている。美しいものを見せてよ……。松野志保は社会に対し、歴史に対し、ついに満たされることのない相聞を詠い続けるのであろうか。

  『遊子』第8号(2001.4)掲載


                      
 燐光のごとき悪などたくらめる少年美しき鎖骨を持てり        森島 章人

 この世に悪というものの存在することに気づいた時、人はすでに自らの内にささやかな悪の芽を育て始めているのかもしれない。通常厭われ忌避さるべきものであるはずのそれが、時として他にはたぐえることのできない稀有なる輝きを発する瞬間のあることを、この一首は主張しているかのように見える。
 いまだ大人には遠い胸板薄き少年。その無垢を象徴するかのように浮き出た両の鎖骨の下あたり、未成熟な精神の闇の中にあってはじめて発光する「燐光のごとき悪」の青白い光は、美しいというよりはむしろ一種の残酷さを感じさせさえする。悪を知ることが一人前の人間になるために昇るべき不可欠の階梯であるとするなら、この一首はその第一段目に爪先を掛けたばかりの初々しくも危うい一瞬を詠い留めたものということになるのであろう。

 神の首よこざまに抱く少年よ夕焼けの肋より走り出せ
 てのひらに火薬のせたる少年を世界の芯に置きて紫陽花

 森島章人の第一歌集『月光の揚力』(1999・砂子屋書房)には、掲出歌のほかにも少年を詠った歌が頻出する。そこに登場する彼らは、いずれもありきたりの純真な少年像とは無縁の、幼いがゆえにたやすくそして果敢に破滅へと向かうことのできる思想なきテロリストとして描かれている。
 知らず知らずのうちに大人への階段を昇り切ってしまった私たちには、かつて神の首や火薬を自らの手中に収めていたことがあったかどうかさえ、今はもう思い出すことができない。確かなのは、ただ、自分が神の首を抱いて疾走することも、掌上の火薬に火を放つこともしなかったという事実だけである。
 些末な世知や常識に満たされてうすぼんやりと明るむ私たちの胸郭の中で、安っぽい悪のレプリカたちはもとよりどのような光をも放つことはできず、色褪せた外貌をさらし続けるばかりである。誰にも逃れることのできないそのような無惨から徹底して目を逸らし、かつてあったはずの時間に永遠の長さを与えようとする森島の歌の世界は、かの少年の鎖骨のように美しく、そして限りなく脆い。

  『遊子』第9号(2002.5)掲載


 
 しまい忘れたシャベルでうさぎは殺されて  五月 天気雨の夕ぐれ      キクチアヤコ

 校庭の一隅にある金網張りの小屋で兎や鶏が飼われている。今も昔も変わらぬありふれた小学校の一風景である。餌をやり、糞を掃除するのは、ウサギ当番やニワトリ当番の子供たちである。ところが、そんな平和な日常を暴力をもって踏みにじろうとする者がいる。数年に一度、いや、実際にはもっと少ないのかもしれないが、新聞の社会面に掲載されて何ともいえぬ不安感と居心地の悪い義憤を掻き立てる事件記事のことを、この歌はまず思い起こさせる。
 掲出歌は、キクチアヤコのホームページ『纏足哀歌』内の『夢乃部屋』というコーナーに収録された十二首連作『スクール・エンド・ガーデン』冒頭の一首である。そして、私たちは、その一連を読み進むにつれて、正体不明の変質者などではなく、被害者たるべき子供たちのうちにこそ潜む底知れぬ悪意の存在に気づかされることになるのである。

 理科室のバーナーの火は見えにくく わたしをいじめた子の手が焼けた
 彫刻刀右目に刺さった木製のおんなのこがいる図工準備室

 単純にいじめの加害者を糾弾するのではなく、人間が本質的に秘めている自己防御本能と表裏一体となった激越なまでの攻撃性を、幼年の持つプリミティブな残酷さの中に浮き彫りにしてみせた点に、これらの歌の特異性はあるというべきだろう。
 善意の人の小さなミスを衝いて罪もない兎を殺す犯人の醜悪な意志は、いじめっ子が間違って手を焼くのを見て内心ほくそ笑むいじめられっ子の「わたし」や、物言わぬ木彫りの胸像に復讐するしか術を知らない無名の被害者の胸にも確実に宿っている。稚拙さの残る舌足らずな文体が、そのことを、訳知り顔の大人ではない子供の生な肉声として読む者に伝えてくる。風さわやかな五月、晴天の空の彼方から降り注ぐ天気雨は、かくも罪深い人間を生み出してしまった神の詮無い涙であったのかもしれない。
 なお、同じ作者の第一歌集『コス・プレ』(2002・新風舎)では、書名のとおり、子供らしい肉声はきらびやかな衣装の下に蔵い込まれており、ときおりちらちらと襟元からその片鱗を覗かせるのみである。

 閉店間際くすり屋で買うマニキュアは深く潜っていけそうな青

 いまだ傷つきやすい生身を持ち続ける作者であるからこそ、ひとりの大人として、身を護りつつ生きていくためのコスチュームを探し求めなければならなかったのであろうか。

  『遊子』第10号(2003.2)掲載


 
 空櫃に灯る春色入れ込めて
 父祖へ父祖へと渉る谷原        富 哲世

 「空櫃」は「屍櫃」との掛詞であろう。山峡の偏狭な平地を運ばれてゆく一基の柩。しかしその柩は空っぽで、内には仄かに明るい春の光を湛えているというのである。
 火葬場はかつて人里から外れた山間の地などに立地していることが多かった。そこを目指して、いったい何人の祖先たちが遺骸となって運ばれていったことだろうか。そして、新たな死者もまた、父祖らの待つ黄泉へと旅立つため、縁者一統に守られながら同じ道を辿ることを定められているのである。
 そんな野辺の送りの光景もほとんど見られなくなった今の日本であってみれば、掲出歌に描かれた場面も、全体を作者もしくは作中主体の心象風景と取るのが妥当なのかもしれない。それにしても、遺体の代わりに柩に入れ込められた「春色」の何とあえかで物悲しくあることか。命のみならず死者の肉体さえも不在とすることで、作者は遺された者の抱え持つ喪失感の深さを一層際立たせようとしたのに違いない。

 まなうらに春の家族の睦み居り
 笑ふごとくに焼ける父かも
 酸漿の頭抱へてもどるなり
 草うなだれし新盆の道

 富哲世の歌集『死明』(窓月書房・2002)は、全編にわたり亡父の気配を濃密に漂わせている。実際に柩に入れられ運ばれていったのは父の亡骸だったのである。
 幸福だった日々をまなうらに甦らせながら父は笑うごとくに焼かれていった  。そう信じて死出の旅へと送り出したにもかかわらず、いまだ容易には亡き人への愛着から逃れることができない。だから、主人公は、新盆の法要からの帰り道、まるで父の身代わりででもあるかのように、野辺に灯る酸漿の赤い実を持ち帰らずにはいられないのだ。

 群青を抜けて水面の客となる
 夕べ梨はなさかしまに降る

 木の枝からではなくどことも知れぬ空の彼方から降り注ぐ無数の白い梨の花が、「谷原」を貫流する川の面を埋めてゆく。「さかしまに」とは、あるいは水鏡に映る花びらが水中から水面に向かって降るように見えることを述べているのであろうか。
 そのとき、水面いちまいを隔ててこの世とあの世はひとつにつながることになる。ならば、また、酸漿を抱えて戻ってきたのもほかならぬ死者の魂だったかもしれぬと一瞬思い返してみたりもするのである。もとより、弔いや供養ということの中には、死者との交歓の意味がなにぶんか含まれていよう。その交歓の場を、作者は作中の谷原や花の降る水面に求めたのではなかったろうか。
 経本を思わせる和紙和綴じの造本からも、歌集に注いだ作者の深慮が滲み出る。身近な死者への抑えがたい思いが生み出した異形の一巻というべきであろう。

  『遊子』第11号(2004.2)掲載


 
 取ってから疑問に思うエプロンをつけた私もきのこだったの      大橋 弘

 「エプロンをつけた私も」と言っているからには、エプロンを取ったあとの今の「私」もやはりきのこなのである。エプロンを手にぶら下げたきのこが台所に立っている何とも珍妙な情景が、一首から浮かび上がる。しかも、このきのこ、エプロンをつけていたときの自分と取った自分との同一性に疑いを抱くという、およそきのこらしからぬ哲学的思考様式を具えているらしい。
「きのこ」を「人間」と変えても十分読むに足る作品だと思うが、しかし、やはり作中主体をきのこにしたことで歌の魅力は格段に高まったと見るべきであろう。作者自身あるいは一首全体を何事かの比喩として書いているのかもしれないが、それを詮索することにさしたる意味はない。読者はただ、この前代未聞のきのこ短歌を理屈抜きで楽しめばいいのである。

 誰にでもいいから電話をかけたくて深夜だるまになることもある
 かどうかも定かじゃないが枇杷の実は剥くとき指に噛みつくらしい

 大橋弘の第一歌集『からまり』(ながらみ書房・2003)には、動植物や無生物が人間同様の意思や感情を持ったり、人間がそれらに変容したりする歌がいくつも収められている。人と人ならざるものとの垣根を限りなく低くすることにより、逆に人間精神の深い襞がさりげなく露わにされていると言ったら、いささか大げさに過ぎるであろうか。

 ひとつだけ部品が足りず百足でも蚯蚓でもなく人間である

 そうか。人間を百足や蚯蚓から区別しているのは部品ひとつの違いに過ぎなかったのか。しかも部品は人間の方が少ないという。
 もしかすると、冒頭の歌に登場するきのこもエプロンをつけていたときにはまだ人間だったのかもしれないと、今さらながら思えてくる。諷刺や皮肉ではないが、さりとてナンセンスというわけでもない。どこか歪んだ発想が生み出す異形のファンタジーの世界。そこは人間にとって決して安住の地ではあるまい。何しろ、油断しているといつきのこにされてしまうかもわからないのだから。

  『遊子』第12号(2005.2)掲載


 
 自分史を書き進めいし猫カント 子の刻ふいに筆を折りたり      村田マチネ

 ドイツの哲学者カントの名をいただくくらいだから、さぞかし生意気な猫なのであろう。すっかり人間様になった気分で、自分史の執筆に余念がない。が、所詮猫は猫でしかなく、ある真夜中、突然筆を放り出してしまった。
 子つまりネズミは猫の大好物であるところから、いろいろと深読みを試みてはみるものの、これはという答はついに出てこない。猫とネズミがなかよく喧嘩する古典アニメを思い浮かべたりもするが、まず関係はなさそうだ。
 しかし、「所詮猫は猫」だとは、われながらずいぶん偉そうに言ったものである。だいたい、自分史にせよ何にせよ、一度やり始めたことを途中で投げ出すのは、ほかならぬ人間様の得意技ではなかったか。だとすれば、「猫カント」とは、頭でっかちなだけで根気に欠ける作者自身の戯画化された自画像だったとしても、少しもおかしくはないのである。
 歌集『アルカイックセンチメンタリズム』(思潮社、2004)を手に取ったのは、帯に刷られた一首「ドーパミン溢れる夜に詩は生まれ世界は単純な錯覚なのよ」の滑稽かつ深刻なニヒリズムに惹かれてのことであった。詩が生まれる場所はもちろん作者村田マチネの頭の中にほかならない。
 いかにも斜に構えた作風ながら、作者は、しばしば自らの人生の断片と覚しき現実風景を、歌の中で小出しにしてみせる。決して錯覚などではなかったはずのそれらが、神経伝達物質により過剰に活性化された脳の内部に「詩」として定着されてゆく。その結果こそがこの歌集であり、同時に村田マチネにとっての自分史であったのかもしれぬのだ。
     グーニャン   ベイジン
 反米の姑娘を抱く北京の朝 革命の匂いかすかに

 性欲処理中のいく組もの男女が描かれた恥ずかしい装幀も見るほどに物哀しくなる、そんな一冊であった。

  『遊子』第13号(2006.5)掲載


 
 子を思う母の涙に涙して天動説に転ぶガリレオ      外山 恒一

 これと符合する逸話はないようだから、フィクションもしくは何事かの比喩なのであろう。
 歌意は読んで字の如くで、解釈の分かれる余地はほとんどないといっていい。だが、この歌、言葉の平易さとは裏腹に、その内容にはいささか複雑な屈折を含んでいる。教皇庁の弾圧に屈しなかったガリレオでさえ母の涙には勝てないと一首は言う。そして、天動説が誤りである以上、その涙は結果的に真理への道を閉ざす役割を担ってしまうことになるのである。
 作者が詠おうとしたのは母の愛の崇高さなどではもちろんない。上句のわざとらしい言い回しや「転ぶ」という否定的なニュアンスの濃い語の使用からは、むしろ、母の涙とそれによって動かされる子の心に対する揶揄と嘲笑が感じ取れる。肉親の情を尊ぶ世の中の常識に揺さぶりをかけて面白がる作者の小さな悪意。本作品の魅力はそこにこそあるというべきであろう。
 掲出歌は、「獄中連作短歌『百回休み』」と題された109首のうちの1首。インターネット上のホームページ「前衛政治家 外山恒一」に掲載されている。サイト内の記載に従えば、不当な裁判によって作者は2年間の刑務所暮らしを強いられ、短歌はその服役期間中に書かれたとのこと。

  犯罪者同盟/第二、第三の、そして無数の宅間守を!
  鉄格子ごしに眺める夏の空 世界はおれに借りを作った

 従来の獄中短歌のイメージとは大きく異なる攻撃性、外向性も、作者が罪の意識を持たないことと結びつけて考えればそれほど意外ではない。
 さて、ガリレオの歌を連作の中に戻して読み直してみると、面会に来た母の涙にほだされ更生を誓う受刑者の姿がすぐに浮かんでくる。だが、それは、所詮贖罪とは程遠い自分可愛さゆえの逃避にすぎないのではないか。
 許されざる罪を犯して裁かれたあとも極悪人たることを貫き通し、改悛を拒否するかのように自ら死刑台に向かった宅間守のような犯罪者は、まさに稀有の例なのだ。第二の宅間たらんとする者より世間的な正しさの側にあっさりと転ぶ者の方が圧倒的に多いという現実。その欺瞞に満ちたつまらなさを、作者はあえてこの稀代の殺人鬼を引き合いに出すことによって暴き、嘆いてみせたのであろう。
 出所後の2005年、外山恒一は、109首を50首に絞り別の筆名を用いて角川短歌賞に応募、予選通過を果たしている。また、07年春には東京都知事選に立候補し、芝居がかった口調と身振りで政府転覆を訴える政見放送がネット上で話題を集めた。

  『遊子』第14号(2007.8)掲載


 
 その鳩のすこしも動かざりしことさつきからわたしだけが視てゐる      川崎あんな

 少しも動かない鳩など本当にいるのだろうかと、この歌を読んで思わず首をひねる。しかし、見ているのが「わたし」だけである以上、真偽のほどを云々することはほかの誰にもできはしないのだ。ただひとつ言えるのは、動かない鳩とそれをさっきからずっと見続けている「わたし」との間に、事の客観的真偽とは別に、妙にぴりぴりとした緊張感が漂っているということであろう。
 何であれ自分ひとりだけが知っているという認識を持つことは、自己の存在意義を支える有効な補強装置となりうる一方で、そのことに関わる責任の一切を背負わされるという意味で、大きな重荷であるともいえる。この歌において、何の属性も背景も持たないただ見るだけの「わたし」が不思議と確かな存在感を具えているのは、作品世界の中において「わたし」の占めるそのような位置づけゆえなのではないだろうか。
 歌集『あのにむ』(砂子屋書房、2007)では、書名どおり無名かつ素性不明の誰かが見たその誰か自身をも含む世界の姿が、どこか捉えどころのないあやふやさで詠われている。掲出歌においても、作者イコール作中の「わたし」と取るのが自然でありながら、歌は情景全体を俯瞰する超越者の位置から詠まれているように感じられるところに、緊張感と同居するこの捉えどころのなさの最大の要因はあるように思われる。
 私性を拒否してフィクションに走るのではなく、作者は、視点を「私」の外部に置くことで「私」自身を他の事物と同格の世界の構成要素として風景の中に閉じ込めようとしたのだろう。閉じ込められた方の「私」が風景の一部となってアイデンティティを薄れさせていくのと引き替えに、それを視る方の「私」は、ただ視るということのみによって、現実を生きる人間にふさわしい質量や手触りを伴わないままに、奇妙な存在感を獲得する。

  いたましい花をさかせてさしぐみし せつめいぬきにうるめるせかい
  たまかぎるゆふぐれを啼くかなかなのこれはかなかなのだれを喚ぶこゑ

 花が咲いていることもかなかなが啼いていることも、まるで薄く透明なガラスでできた容器の中の出来事のように感じられてはこないだろうか。そして、作者は、あくまでもその「せかい」という器の外側にいる。歌集『あのにむ』は、世界を「わたしだけが視てゐる」という自負によってはじめて成立しえた異形の一冊なのである。

  『遊子』第15号(2008.12)掲載


 
 鏡のなかに耳を澄ませば遠い日のさよりの骨がちいさく軋む      大久保春乃

 著者の第二歌集『草身』(北冬舎、2008)から引いた。
 情景として浮かんでくるのは、鏡に向き合っている作者もしくは作中の主人公の姿である。だが、彼女は、化粧をしているのでも、服装を整えているのでもない。ただ鏡の奥に向かって静かに耳を澄ましているだけである。そして、その耳には、さよりの骨の軋む音が聞こえてくるのだという。
 透明感ある白身の刺身。銀色に輝く刀身のような魚体。そんなさよりから浮かぶイメージを言い表そうとすれば、繊細さ、鋭利さといった言葉がまず頭に浮かぶ。さよりの骨のように小さく微妙であるがゆえに一度刺さってしまうとよけいに取り除くことが難しい過去へのこだわりを、作者はこのように詠ってみせたのだろう。
 「遠い日の」とあるところからして、何か古い記憶が関わっているらしいことは確かだが、それが何なのかは全くわからない。そうした具体的な背景は抜きにして、言葉が生み出す詩的喚起力により直接読者の感性に訴えかけてくる作風といえる。普段は忘れている切ない悔恨の情が胸の奥底でふと軋む瞬間がある。鏡とは、その前に立つ者と時空を超えた場所とをつなぐ魔法の通路の入り口なのであろうか。
 掲出歌を含む一連「魚心」には、魚介各種と人間の心模様との意外な組み合わせで読ませる歌が多く並んでいる。屈折した哀愁を含みつつも、語り口は決して暗くはなく、どちらかといえばむしろ楽しげでさえある。

  つばきどまりの湯引きの鱧にすだちの香 同じ心というまさびしさ
  棒に振る、なりをひそめる つづまりは吊るし切られるあんこうのきも

 生きものの命を食することに対する罪の意識はここには見えず、食われる者たちへの愛着や共感のようなものが自然と滲み出しているのが好ましく感じられる。

  『遊子』第16号(2009.11)掲載


 
 君を撮る。君が四角くないせいで隙間に空が写ってしまう      森川 菜月

 確かに人間は四角くはない。それゆえ写真のフレームに隙間なく嵌ることはありえず、必ず被写体の人物以外の何かが一緒に写ってしまう。一首は、直接的には、そんなあたりまえのことを今はじめて気づいたかのように詠ってみせているだけである。
 だが、人間が四角くないとは、外形的な意味だけではなく、内面の複雑さをも含めての比喩的な表現だということは、誰にも容易に読み取れるところだろう。捉えようとしても、隙間によけいなものが入り込んできて、なかなかしっかりと捉えきることができない。「君」が恋人のことだとすれば、掲出歌は、よくある恋の一場面を通して、他人である「君」を理解することの困難さを象徴的に描いたものとして読むことが可能となってくる。
 それでも歌が開かれた明るさを失っていないのは、どこか割り切ったような語調に加え、隙間に写るのが「空」であることの効果でもあるだろう。青い空を背景に持つことで「君」がいつにもまして輝いて見える。そのとき、カメラのファインダーを覗く「私」は、「君」が四角くないからこそ生まれてくる愛しさの感情にあらためて気づいたのではないだろうか。

 自分さえ知らぬ自分の名を呼ばれそうで待合室が苦手だ
 親が子に泣いてあやまる結末を知らずに買ったきれいな絵本

 同じく着眼の意外さで読ませるこれらの歌からは、自己意識の強さゆえの傷つきやすい心性が滲み出る。他者のみならず自分自身のことさえよくわからないという自覚は、恋人やわが子や周囲にいる人たち皆とわかり合いたいという強い希求と表裏一体のもののように思える。そのわからなさの部分をあっさりと埋めてしまう「空」に対して、「君」を愛する作者は限りない羨望の眼差しを向けるのである。
 掲出歌三首は、いずれも森川菜月の第二歌集『空は卑怯だ』(ミューズ・コーポレーション、2010)から引いた。

  『遊子』第17号(2010.11)掲載


 
 目覚めると船の舳先に立っていた ラストシーンだと教えてもらった      木下 竣介

 目が覚めてみたら自分が映画の登場人物のひとりになってラストシーンに臨んでいたというのである。実際にはありえないそんな状況を描きながら、しかし一首の手触りは不思議なくらいリアルに感じられる。
 船の舳先に立っているということ以外、一切の経緯はわからない。読者だけでなく、作中主体本人にもよくわかっていないはずである。海戦に勝利して意気揚々と引き上げていく戦艦の艦長なのか、十年一日のごとく今朝も舟を出す老いた漁師なのか、沈没直前の難破船の客なのか。いずれであるにせよ、作中主体は彼ら自身ではなく、彼らを演じる演者であるにすぎない。そこに生じるのは、フィクションを支える役割を担わされているがゆえの緊張感だが、役になりきっている演者にとって、その緊張は現実のそれと何ら変わることのないものであるともいえる。
 さらにまた、この歌は、優れた映画や小説が具えているような虚構の物語ならではの迫真性をも感じさせる。もうじき全てが終わるとわかったときに私たちが覚えるであろう高揚感や期待や悔恨や不安といったもろもろの感情がひとまとまりになって、創作物としての歌を通してひしひしと伝わってくる。この歌のリアルさの根源は、まさにそこにこそあるといえるのではないだろうか。
 掲出歌は第五十四回短歌研究新人賞候補作「スマイル・アゲイン・アゲイン・アゲイン」(『短歌研究』2011年9月号)のうちの一首。同じ一連にはほかにも物語性に富んだ次のような歌が並んでいる。

  孤独にも初心者がある僕たちは初心者のまま国境を越える
  部屋中の全てのものに傍線を引きっぱなしで街へ出かける

 文意は明晰ながら、歌はさまざまな示唆を含んで安直な鑑賞を許さない。明るいがどこか切なくて、胸の奥の方にある柔らかな部分に刺さってくる。そんな作風がとても魅力的だ。

  『遊子』第18号(2011.11)掲載


 
 つきしろにししむらしろくてられつつわれはみてをりわがしかばねを      坂野 信彦

 一読して浮かんでくるのは、死後ほどなく肉体を離脱した魂が天井に近い中空から自らの遺骸を見下ろしている場面である。窓から差し入る月の光が死者をひっそりと照らし出す。家族・親族が近くに付き添っているのが普通だろうが、一首の情景としては死者以外誰もいない方がしっくり来るような気もする。
 それにしても、死を詠んだ歌であるにもかかわらず、醸し出す雰囲気は妙になまめかしい。よほど特殊な状況でない限り遺体は何らかの着衣を纏っているはずだが、「ししむら」という一語の存在がその内側に包まれている裸体を想起させ、生の名残りを濃厚に漂わせる。主語が「ししむら」から「われ」に変わることで上句と下句の境目に生じた空隙は、分離したばかりの肉体と精神との微妙な距離感を表しているようでもある。
 坂野信彦の第一歌集『銀河系』(雁書館、1982)は全体が二つの章に分かれており、そのうち掲出歌を含む「U」には、無辺の世界の中の微細な一点に生きる「われ」の孤独を凝視するような歌がたびたび現れる。

  喰ひをへしみかんのふくろさびさびと累(かさ)なり ふいに晩年は来む
  さんさんとまひるの墓地に日はふれど永久にからつぽの乳母車

 生まれ、生きて、死んでいく。その間さまざまな他人や事物に出会うけれど、究極のところ誰もが独りであるほかはないのだと、作者ははじめから知ってしまっているのだろう。生も死も、また喜びも悲しみも、人生の豊かさや意義深さといった価値の内部に位置づけられることの多い短歌というジャンルにあって、これらの歌の寂しさ、寒々しさはほとんど比類を見ないのではなかろうか。
 坂野信彦は、のちに、「深層短歌」と称し、日常的な論理や認識を排除して意味よりも韻律を重視する呪文のような歌を提唱した(『深層短歌宣言』邑書林、1990)。その実践編にあたる歌集『まほら』(同、1991)には、「すいすいとねむるをとめのむなぬちの血まみれの肉くちやくちやうごく」など、言葉の表面的な意味はわかっても普通には鑑賞しづらい、まさに呪文に近い歌が並んでいるが、ひらがなのみで通した掲出歌にもこれと同様の呪文的要素が多分に含まれていることに気づかぬわけにいかない。
 「深層短歌」の、独り善がりに終わることなく完成されたひとつの形が、言挙げ以前に世に出た第一歌集の中にすでにして存在していたのではなかったか。そんな問いが今ふと浮かんだりもするのである。

  『遊子』第19号(2012.12)掲載


 
 愛してる。手をつなぎたい。キスしたい。抱きたい。(ごめん、ひとつだけ嘘)     木下 龍也

 さあ、嘘なのはどれ? 答はもちろんひとつしかありえない。でも、迷うことなく選べてしまう自分ってどうなんだろうと、少々複雑な気持ちにもさせられる意地悪な感じの歌である。
 いや、そうはいっても……、と、さらにいろいろ考えてみる。カッコがついているのだから、嘘の言葉が混じっていることを彼は彼女に伝えてはいない。ただ心の中でそのことを謝っているだけだ。ぺろっと舌を出しているようでもあるし、性欲だけが先行する自分を本当に後ろめたく思っているようでもあり、本音は今ひとつよくわからない。逆に、彼女の側が彼に好意を抱いていることは、ほぼ間違いないような気がする。
 彼女はきっととてもかわいい子で、愛してると言われて心から喜んでいる。彼の方も、今はそれほどではなくても、この先もっともっと彼女のことを好きになるのかもしれない。愛がないのではない。まだ不十分だから問題なのだ。恋愛初期のふたりの関係のありようやその後の展開をいろいろと想像してみたくなるこの歌。それとなく読む側に自主的判断を促す結句が絶妙である。
 素直な語り口と軽快な韻律にやさしく誘い出され、気がつくと見知らぬ場所に置き去りにされている。木下龍也の第一歌集『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013)を読んでいて、何度かそんな、不条理な夢でも見ているような感覚を味わわされた。

  ああこれも失敗作だロボットのくせに小鳥を愛しやがって
  いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する
  銃弾は届く言葉は届かない この距離感でお願いします
  カードキー忘れて水を買いに出て僕は世界に閉じ込められる

 読むほどに引きたい歌が次々に出てきてきりがない。言葉つきの軽さとは裏腹に中身はどれも重く、そして鋭く物事の核心を貫いている。そのアンバランスがよけいに読む者の心を波立たせるのである。

  後ろから君の名前を呼ぶ声がするだろうけど振り向かず行け

 一首だけを抜き出せば、冒頭の掲出歌と同じく、発話者と「君」との関係をどう想定するかによっていく通りもの読み方ができる歌だといえる。だが、歌集ではストーリー性のある連作の末尾に置かれており、鑑賞のし方は限定される。連作の中で、この歌は、病気で死んでしまった「君」への届かぬ呼びかけの言葉なのである。
  『つむじ風、ここにあります』には、本稿で引いたほかにも、死んだり殺したりといった死にまつわる歌が多く含まれている。さらりとさりげなく詠われているため、つい見過ごしてしまうのだが、そこには、悲傷や悔恨や残酷さや罪深さなど、人間の内部に巣くうもろもろがかなりリアルに渦巻いている。個人の実体験を裏づけとするのではなく、あくまでも物語の力によってそれらが描き出されているのがたいへん魅力的である。

  『遊子』第20号(2013.11)掲載


 
 にんげんが蟻ン子みたいに見えてくる ひとつ残らず潰してまわる     喜多 昭夫

 甘いものの匂いを嗅ぎつけた蟻がどこからか列を作って家の中に侵入してくる。そんな蟻ン子たちを廊下や縁側で親指を使ってプチプチと潰していった幼い日の記憶を持つ人もいることだろう。だが、この歌に描かれる想像上の行為は、そんな幼年ならではの無邪気な残酷さによるものなどではない。人間が蟻のように見えると言っている時点ですでに露わな社会への違和感は、その蟻みたいな人間たちを潰してまわる下句でさらに深い憎悪へと姿を変える。自分は蟻ン子じゃないという自恃と疎外感の綯い交ぜになった感情が傷ましく伝わってくる一首である。
 この歌を含む「相談室」三十二首は、母に反発し友人たちからも孤立して心を閉ざす女子高校生の自己吐露の言葉を中心に、相談室で彼女の相談を受ける教師の視点を交えてまとめられている。掲出歌のほかにも「怒りから錨へメタモルフォーゼしてもののはずみに入院したい」「ベランダに出て飛びおりる夢をみた 夢ならさめてほしくなかった」など、一見軽い筆致ながら、少女の屈折した内面を鋭く抉り出した歌が多く見られる。

  きさらぎの寒気をついて星よ降れ 神話になった少女のために

 歌から読み取れるストーリーは少女の転学で終わっている。右は連作末尾に置かれた一首。問題は何一つ解決してはいないようだが、もうひとりの主人公である相談室の教師(詞書の中で「喜多先生」と呼ばれている)が、あまり指導らしいことをせず、少女のありのままを受け容れて傍らにただ寄り添おうとする姿勢を取り続けることもあってか、きついテーマのわりには深刻にならず、読後感は意外なほどに爽やかである。
 喜多昭夫の新歌集『君に聞こえないラブソングを僕はいつまでも歌っている』(私家版、2014)は、相談室担当の高校教師である「僕」=「喜多昭夫」が生徒「君」への思いを述べる言葉で溢れている。右で取り上げた連作のようにシリアスな領域にまっすぐ踏み込んだ作品は例外的で、全体としては、悩める女子生徒との心の交流をやわらかな語り口で、むしろ楽しげに綴った歌が大半を占める。

  くちびるにふれてしまえばなにもかもうしなうだろう うしなえばいい
  ひとりではできないことを君とする 小さな部屋を広場と呼んで

 歌集後半では生徒への恋慕の情を隠そうともしない歌があちこちに出てくる。この先生大丈夫なのかと思って読んでいくと、結局はきれいな別れで終わってほっとしたりするのだが、どうも私はすっかり作者の術中にはまってしまっていたようなのだ。
 作者喜多昭夫はあとがきで次のように書いている。

  これらの作品は虚と実で編みあげたタペストリーである。(〜中略〜)なにが〈虚〉でなにが〈実〉であるかという腑分けには意味がない。なぜなら、虚実皮膜が物語(ストーリー)の本質であるからだ。

 そう、これこそがまさに私の思う文学としての短歌の基本だったはずではないか。
 でも、喜多先生、本当に大丈夫だったのかな。いやいや、それはわからない。だって〈虚〉と〈実〉の腑分けには意味なんてないのだから。

  『遊子』第21号(2014.11)掲載


 
 棄てられた椅子の横を通りすぎる 誰かがすわっているようで振りむけない     フラワーしげる

 棄てられた椅子なのだから、たぶん誰も座っていなかったはずだが、通りすぎてしまった今となっては確信が持てない。実は座っていたような気もするし、さっきは座っていなくても、自分が通りすぎたあとで誰かが座ったかもしれない。気にしなければよかったのに、一旦気にし始めてしまったらますます気になってしかたがない。でも、振り向いて確かめるのは何となくためらわれる。誰か座っていたら怖いし、座っていなくても、それはそれでやっぱり怖い。見ていないときにはそこにいるのに、見ようとした瞬間にいなくなってしまう。そんな「誰か」がこっそり存在していたとしたら、などと考え出すとますます怖い。
 振り向いてみたところで、通りすぎてから振り向くまでの間の出来事を見ることは今さらできない。自分の目では決して確かめられない時空間がそこに生じてしまった取り返しのつかなさが人を不安にさせるのである。
 右はフラワーしげるの第一歌集『ビットとデシベル』(書肆侃侃房、2015)に収録された一首。同じ歌集からさらに引く。

  ずっと窓だと思っていたのだけれど違っていてそれは開くこともなく
  ずっとひっかいているこっちに来たいもの どうかこっちにこないで

 別々の連作の中に置かれた二首をこうして並べてみると、開かない窓が外へ出ることを妨げる障壁であると同時に外部から異物が侵入してくるのを防ぐ防壁でもあるという二重性が浮かび上がってくるのが面白い。この世界にはそれぞれの人にとって不可視、不可触の領域が、現実と隣り合ってあちこちに存在している。そのことに気づいたときの好奇心と怖れの入り混じった感覚が描かれている点において、これらもまた冒頭の椅子の歌と通じる一面を持っているといえよう。
 開かない窓なんていやだ。できれば窓は大きく開けて外の空気を吸いたい。こっちに来たいものがいるなら迎え入れたらいいし、通りすぎたあとの椅子が気になるなら、思い切って振り返ってみたらいい  。そんな励ましも意味がなさそうな、ちょっといじけた風情が持ち味のホラー短歌である。
 『ビットとデシベル』には、自在というか自分勝手というか、五七五七七の定型を意識的に外したというよりは、わかっていて自然体で守る気がなさそうな作品が最初から最後まで並んでいる。だからといって短歌じゃないと断定もしきれないこの微妙な外れ方の向こう側に、短歌ならではの韻律をはたして感じ取ることができるかどうか。試されているのは読者の方なのかもしれない。着想に詩的なオリジナリティを滲ませる歌が少なくないにもかかわらず、文学作品ではなくひとりの人間がふと漏らしたつぶやきのように言葉が伝わってくるのも、散文の断片かと見紛うこの文体の効果によるところが大きいのではないか。異端の意気込みも異端ゆえの悲しみも感じさせないあっけらかんとして自由な書き方に、少しだけ(あくまでも少しだけ)羨望を覚えてしまったのだった。

  『遊子』第22号(2015.12)掲載


 
 見つかれば名前がついてしまう罰 花とヒトとがするかくれんぼ     天野 慶

 この歌を読んで真っ先に思い出したのが「雑草という草はない。どんな草にも名前はある」というどこかで見た覚えのある言葉である。言ったのは誰だっけ、と思い、調べてみたら昭和天皇だった。
 だが、少し考えてみればわかるように、植物に限らず自然界に棲む生きものたちに名前をつけたのは人間であり、彼ら自身がはじめから名前を持っていたわけではなかった。名前なんかなくても花は何の不自由もなく生きていける。なのに、ヒトに見つかると、勝手に名前をつけられて人間界の秩序の中に位置づけられてしまう。それをこの歌は「罰」という一語で否定的に表現しているのである。
 花の立場になってみることで、自分たちが世界の支配者だと信じて疑わない人類の傲慢さが見えてくる。そして、そういう自然とヒトとの関係は、花の命名のみならず、あらゆる場面に共通するものであることに、私たちは気づかされることになるのである。
 天野慶の歌集『つぎの物語がはじまるまで』(六花書林、2016)には、物事の本質や見えづらい側面に視線を向けさせてくれる歌が数多く含まれている。語調がやわらかく文意も明瞭だが、さりげなく意外なところを衝いてくるので、はっとしたり、おっ、こう来るか、と感心したりしながら、すらすらと楽しく読み進めることができる。

  絆とは紐で繫がることだからそれよりも手を繫ぎ合いたい
  靴下を重ねて履いて準備する守らなければうばわれるもの

 では、これらの歌はどうだろうか。「絆」は東日本大震災後にしきりに言われた言葉であり、当時日本の社会全体を覆った抜き差しならぬ雰囲気を連想する人も少なくないと思われるが、実は、この二首とも、原子力の負の側面に着目し、近未来の地球に終末を予見する作品群に入っているのである。「天動説唱えるようにわたしたち原子のちからを信じていたね」というわかりやすい歌を連作二首目に置き「わたしたちの最期の花火をきれいって見てくれる星がありますように」で終わる一連『天動説/ナウシカのような/いつか逢いましょう』は、人類が放射性物質に汚染された地球を捨てて脱出するまでを描いたものとして読める。あとで数えたら66首もあって驚いたが、一首一首がエピソードとしての完結性を保ちながら物語の流れを形作っており、長さは少しも感じなかった。
 作者は、歌集収録の歌や巻末のあとがき、略歴を見る限り、震災の被災者やその関係者ではないと思われる。そういう人が震災を意識して詠んだ短歌として、この一連はかなり高い達成度を示しているといえるのではないか。原発事故があったから生まれた作品には違いなく、読む側も事故の記憶と重ね合わせて読むのが普通だろうが、仮に震災より前の時代に持っていったとしても価値の損なわれないものになっている、つまり歌が事実に寄りかかっていないと思うからである。
 現に被災者ではない以上、被災者ではないからこそ詠める歌を目指すべきなのではないか。天野慶は、事実ではなくフィクションの力を活用することで、その難事を軽やかに成し遂げているように見える。
 天野の歌は徹底して口語で書かれているが、同時に、定型を大事にし、きわめて滑らかな声調を具えてもいる。口語は短歌の韻律とは馴染みにくいといった類いの主張をときおり見かけるが、この歌集一冊の存在だけでそんな決めつけはたちまち無効化されてしまうだろう。
 物語への意志、わかりやすい言葉、優れた韻律性。それらが揃ったことで、短歌本来のよさを守りつつ読みのスキルなど持たない読者をも楽しませる歌が実現した。歌集『つぎの物語がはじまるまで』を読んで、そのようなことを思ったのだった。

  『遊子』第23号(2016.12)掲載


 
 誰しもが「空気を読んだ」だけだろう沖縄戦の集団自決     松木 秀

 その場の雰囲気にそぐわないことや既定の方向性に逆らうようなことを言ったりやったりする人を「空気読めよ」と言ってたしなめる。主に若い世代の間で「空気を読む」という言葉のそんな使い方が一般化したのは、ここ十年ほどのことではないだろうか。周囲への気遣いを求めると言えば聞こえはいいが、異論を封じ、多数派への同調を促すこの言葉が、その場の安寧と引き換えにひとりひとりの自由で主体的な言動を妨げる機能を果たしていることは明らかだろう。
 掲出の一首は、現在において「空気を読む」ことと太平洋戦争末期の沖縄戦の集団自決とを結びつけることで、大勢に流されることの怖さを描いてみせる。沖縄戦の集団自決は、実質的には国家によって強制されたものだったとしても、形の上では当人たちの自発的な行為として行われた。日本人たちの多くが、開戦以前からそのときどきの時勢を支配する「空気」を読み続けてきた結果のひとつが、沖縄戦の集団自決なのだ。自分の考えよりも「空気」の方を優先する行動様式が行き着く先の最悪の事例を示すことで、この歌は現在の政治や社会の状況、そして何よりも、そのような状況下に置かれた私たちの身の処し方について鋭く問いを投げかけてくるのである。
 掲出歌は松木秀の第二歌集『RERA』(六花書林、2010)所収。右の鑑賞文は、私が初めて読んだときの直感的理解に基づき、あらためて筋道を整えながらまとめたものである。が、実は、この歌には、私の解釈とは全く異なる読み方をする人たちが存在する。たとえば次のように。

「たしかに、アメリカ軍の侵攻で異常な精神状態になり、他の人が自殺するのを見て引き摺られるように死んでいった人々もいただろう。しかし、それを「空気を読む」と同じものだと捉える認識は受け入れがたい。現代の「空気を読む」というのは、お互いに内心を計り合って、自分が反感をもたれないようにする、臆病な行為であろう。それを戦争中の極限状態に当てはめるのは無理がある。「「空気を読んだ」だけ」の「だけ」にも悪意のようなものを感じる」(吉川宏志「読みと他者」。吉川の短歌時評集『読みと他者』2015年刊に所収。初出は「短歌現代」2010年6月号)。

「光森(裕樹…引用者注)氏は松本(ママ)秀氏の〈誰しもが「空気を読んだ」だけだろう沖縄戦の集団自決〉という一首の不快感は歴史への無知以上に、「だけ」と限定した時点で作者が思考停止に陥っていることを挙げ、自身への警鐘とする」(加藤英彦「シンポジウム「時代の危機に立ち上がる短歌─今、沖縄から戦争と平和を考える」に参加して」「歌壇」2017年5月号)。

 こうした読みに接したとき、私の気持ちはざわざわと波立つ。歌の解釈が読み手によって食い違うのは珍しいことではないが、何かそれだけでは済まされない大きな落とし穴がここには潜んでいるように思えてならないのである。
 まず言えるのは、吉川や光森は言葉の表面上の意味でしかこの歌を読んでおらず、文学作品としての短歌ではなく作者その人のコメントとして受け取ってしまっているということだろう。この歌の中において本来の意味で「空気を読んだ」のは、集団自決した人たちではなく、当時の日本人全般である。その結果として、彼らは沖縄の人たちを集団自決にまで追い込んだのだ。「誰しも」という言葉はまさにそのような意味を込めて使われているのであり、時を隔てて現在の私たちもまた容易に「誰しも」のひとりになりうることを一首は暗に主張しているように読める。しかるに、吉川や光森の読みでは、「誰しも」は集団自決した当事者のみで、それ以外の人々、いわんや現在の私たちや読み手自身は端からそこに入っていない。「空気を読む」ことの手軽さとそこに秘められた危険性とのギャップの大きさを表現した「だけ」という語を作者の「悪意」や「思考停止」と捉えるに至っては、いったい思考停止しているのはどっちなのかと首を傾げたくなる。
 普段短歌を読み慣れていない人ならともかく、ふたりは歌壇の第一線で活躍する専門歌人である。実作者として繊細微妙なレトリックを使いこなす彼らが、他人の書いた社会詠を読むとき、ここまで無造作でかつ第三者的になってしまうことに愕然とせざるをえない。社会的な主張を五七五七七の形式に嵌め込んだだけの歌をスローガン短歌と呼んで批判することがあるが、それに則して、スローガン読みとでもいうべきこのような読み方が歌界の主流になるなら、短歌はその短さを武器にすることができなくなり、社会の現実にたちまち搦め捕られてしまうことだろう。
 短歌が文学であり続けるために、社会の状況などよりも先に、ほかならぬ短歌自身について、空気を読まない批評意識を持ち続けていきたいものである。

*光森氏の発言に関わる記述は、シンポジウムの出席者がその一部分を要約、紹介した記事のみに拠っており、発言そのものやディスカッション全体を踏まえたものではないことを付記しておきます。

  『遊子』第24号(2017.12)掲載


 
 次々と仲間に鞄持たされて途方に暮るる生徒 沖縄    佐藤モニカ

 前回に引き続いて沖縄のことを詠んだ歌について考えてみたい。
 中学生だろうか、数人の生徒たちがおり、そのうちの一人がみんなの鞄を持たされて途方に暮れている。じゃんけんで負けた子に持たせるルールの遊びなのかもしれないが、気の弱い子に押しつけて面白がっているのだとすれば、いじめの場面ということになろう。が、最後に「沖縄」が出てきて、歌の様相は大きく変わる。一首は読者に何を訴えようとしているのだろうか。
 この歌は2018年6月に那覇市で行われたパネルディスカッション「分断をどう越えるか─沖縄と短歌─」で取り上げられた。「現代短歌」同年8月号の特集「沖縄の歌」に収録されたその時の記録を読むと、司会者を含む四人のパネリストの間で読み方が大きく二つに分かれているのがわかる。
 ひとつは、一人の生徒だけが鞄を持たされている場面を同じ日本の中で沖縄だけが米軍基地などの負担を強いられている現状の比喩として読む読み方、もうひとつは、一人の生徒だけが鞄を持たされている場面が実景としてあり、それが起こっている場所が沖縄である、ということを歌は言っているにすぎないとする読み方である。後者の立場を取るのは、四人のうち屋良健一郎一人であり、彼は、ディスカッションの中で「それをわれわれが解釈している。沖縄をいじめにたとえているとわれわれが感じるわけです。その感じを生み出す力がこの歌にはあると思うんですね」と述べている。つまり、その生徒を沖縄の比喩と受け取ることを否定しているわけではなく、読む側の解釈や認識の問題として捉えている点に注目しておきたい。
 私自身がこの一首に接したときに抱いた印象は、後者、すなわち屋良の読みの方に合致する。詠まれている場面が沖縄の置かれた歴史的、政治的状況に重なるという見方には何の疑問もないが、そうした見方は歌を読んでからやや間があってのちに浮かび上がってくるもののように、私には思えるのである。
 このパネルディスカッションは「沖縄と短歌」をテーマに沖縄で行われ、パネリストたちはもともとこのテーマに相当の知識と関心を持っている。それゆえに、歌に描かれている場面が沖縄の現状とすぐに結びつき、屋良以外の三人は、実景として思い浮かべる間もなく比喩として解釈する読みへと瞬時に向かうこととなったのではないだろうか。
 比喩と捉える側のパネリスト平敷武蕉は「沖縄が強いられてきた歴史的な現実(〜中略〜)をいじめの場面でたとえるのは認識として軽すぎるんじゃないか」と発言しており、これに対しては、高校を卒業したばかりだという会場参加者(浜ア結花さん)から「いじめが軽いと思うのは、大人の感覚でしょう。学校の中にいたら、いじめは死ぬほどつらい」といった意見も出されたという(後者の発言はパネルディスカッションの記録では割愛されており、司会を務めた吉川宏志のエッセイ「六月十八日、辺野古」の中で紹介されている)。このことからは、沖縄にいないから沖縄の苦しみがわからないことと学校の中にいないから学校でいじめられるつらさがわからないことの共通性も浮かび上がってくる。
 沖縄のことを深く考えたことのない読者ほど、屋良のように、生徒たちの場面をまず沖縄の比喩ではない実景の描写として読むだろうと予想できる。そして、その読者にとって、いじめが身近なものであったとしたなら、いじめを詠んだこの歌を通して沖縄への関心や理解が深まるということも大いにありうるのではないか。沖縄以外の日本が沖縄だけに負担を押しつけている。その沖縄でも、沖縄以外の日本と同じように、多数の生徒たちが一人の生徒に鞄を押しつけている。この二つのことを対等のものとしてひとつに合わせたとき、そこには分断を越えて両者を繋ぐための橋が架かる可能性が見えてくるような気がするのである。
 どのようなテーマについてであれ、何かを主張するためだけの言葉として歌を作ったり読んだりすることは、作品世界を単色化させ、鑑賞の幅を狭めることにつながる。主張に賛同する者たちは「そうだそうだ」と頷き合い、賛同できない者たちは「それは違う」と反発する。掲出歌は、いわゆる社会詠が陥りがちなそうした不毛な対立を肩肘張らぬ表現で乗り越えた好個の例であると思う。
 作者の佐藤モニカは、沖縄出身の夫とともに東京から沖縄の名護市に移り住んで一子を儲けており、第一歌集『夏の領域』(本阿弥書店、2017)には結婚と移住を含む約七年間の歌が収められている。掲出歌は「樹木のごとし」という連作中の一首だが、子育ての日々が詠われる中で、これとそのすぐあとの歌だけが「沖縄」「基地」を詠み込んでおり、いささか唐突な印象を受ける。だが、その印象は初出(「現代短歌」2017年2月号)を見れば一変する。そこでは、歌集にはない日付と詞書が全作品に付されており、掲出歌の日付は「12/13」、詞書は「名護市安部沿岸にオスプレイ不時着の速報。/わが家の上空も多い時は日に三度軍用機が飛ぶ。」である。つまり沖縄では米軍基地問題は子育てと同じく、まさに日常の一部としてあるのだとわかって、愕然とさせられる。と同時に、作歌時の作者にとって「実景」なのはむしろ基地問題の方で、いじめの場面はやはり比喩であったのか、との思いも湧いてくる。歌の解釈・鑑賞は作者の意図を推し測ることとは違うとはいえ、歌集に収録するに際して作者はなぜ日付と詞書を外したのかという点も含め、いろいろと考えさせられるところではある。

  『遊子』第25号(2018.12)掲載


 
 上流へむしろながれてゆくような川あり秋のひかりの中を    松村正直

 言うまでもなく川は上流から下流へと流れる。だが、見る位置や角度、光線の加減などによっては、逆向きに流れているように見えることが確かにある。一首が描いているのは、おそらくそのような瞬間の風景だろう。あるいは、流れが下流に向かっているのはちゃんと見えているのだが、そのうえで、川または情景そのものが纏う独特の風情があたかも上流に向かって流れているかのように感じさせる様子を描いているのかもしれない。
 水面に散乱する秋の光が景色を彩り、やや強引に差し挟まれた「むしろ」の一語が現実を微妙に揺るがせる。掲出歌を読んだとき、私の頭の中には、歌に描かれていない岸辺の木々の紅葉までが、逆流する川の流れに映って鮮やかにイメージされたのだった。
 歌集『紫のひと』(短歌研究社、2019)所収の連作「おとうと」には、ほかにも、何でもない風景がちょっとした言葉遣いによって思いがけぬ色合いを帯びる歌がいくつも含まれている。

  曲がりゆく道に沿いつつ私からやや離れゆく私のからだ
  よく撥(は)ねてころがる石にみちびかれ坂のぼり来るランドセルひとつ
  木の鳥居あるに気づきぬ 振り向けばこの径は細き参道である

 道が詠まれた歌を三首引いた。一首目は、自然と道なりにカーブしてゆく身体と他方向にも意識が向く精神とのズレを表現したものと読んだ。二首目は、坂を転がり落ちる石と上ってくる小学生という逆方向の動きを「みちびかれ」でつないで一体の現象として捉えたところが面白い。三首目。川の上流・下流とは違って道の行きと帰りは相対的なものにすぎない。この歌からは、行きか帰りかなど気にせずに歩いてきた道が特定のどこか(この場合は鳥居の向こう側の聖域)に向かう道だと気づいたときの慄きが伝わってくる。
 連作には、「私にはいるはずのない弟が囁きかける夜の跨線橋」ほか、作中の主人公が幼いころに事故か事件で弟を亡くしたのではないかと疑わせるような歌が散在する。が、それらもまた写実と幻想の重ね撮りのような詠いぶりで、不穏な空気を漂わせたり、また打ち消したりして、なかなか尻尾を摑ませない。
 現実と虚構、見えているものといないもの、行くものと帰るもの。この連作を特徴づける最大の要素は、そうした方向性を異にするもの同士の二重写しではないかと思う。「上流へながれてゆくような」と詠われることで、ある読者の脳内では、かえって、川は実際には下流に向かって流れていることがより強く意識されるかもしれない。だが、それこそが真実だと、はたして誰に断言できるだろうか。
 そうではない可能性を否定したとき、世界はたちまち窮屈で不自由になる。わずか一行の内に物事の多面性、多層性を描き出したこれらの歌が、あらためてそのことを教えてくれるのである。

  『遊子』第26号(2019.12)掲載


 
 キーボードの反力を指に灯しつつ書き換えられてゆくWikipedia    阿波野拓也

 誰もが自由に利用できるインターネット上の百科事典Wikipedia。何か調べたいことがあってウェブ検索してみるとたいていこのWikipediaの項目が上位でヒットする。インターネット利用者にとっては今や基本中の基本のレファレンスツールといっていいだろう。その大きな特徴の一つとして、利用者一人一人が事典の記述に手を加えられる点が挙げられる。たとえば、ある記述について、説明が不正確だと感じた人や、自分はもっと詳しい情報を持っているという人が、直接文章を修正したり書き足したりして内容を変更することができるのである。
 「書き換えられていく」と受身形で書かれているが、一首全体を読めば、書き換えているのは作中主体自身であることがわかるだろう。作業そのものは至って単純、手元で入力した文字が画面の中のWikipediaに反映されていくだけである。が、パソコンの前にいる匿名の一個人と世界中の人々が利用する百科事典の記述がリアルタイムで連動している情景は、どこか現実ではないような不思議な感覚をも抱かせる。
 とはいえ、インターネットが存在するのが当然の世代であろう作中主体にとって、ネット上で百科事典を編集することは何ら特別ではない日常的な行為にすぎないのかもしれない。自分がやっていることなのに「書き換えられていく」と他人事のように画面を見つめる醒めた目線からは、ネット時代になって昔とは大きく変質してしまった個人と世界の間の距離感が浮かび上がってくる。
 匿名的でシステマティックなネット社会の一コマを詠んだこの歌は、同時に血の通った生身の人間の姿をも描いている。指がキーボードにタッチするたびにキーボードが逆方向の力で押し返してくるという上句は、一利用者とWikipedia、ひいてはサイバー空間に隔てられた個人と世界との間に相互作用が存在することを、端的に、かつ象徴的に示していよう。その相互作用が、作られたシステムとは無縁の指の触覚によって実感されていることに、なぜか少しほっとするような気分になったりもするのである。
 IT化の進展に伴い、指でキーボードを叩くといったような物理的接触を伴う作業工程は、ますます少なくなっていくのではないかと思う。そのとき私たちは世界と自分との関わりをどのようにして感受すればいいのだろうか。
 阿波野拓也の第一歌集『ビギナーズラック』(左右社、2020)は、若者の視点でどうということもない日常の体験や見聞を描いた歌集である。ナイーブな感性と軽いけれども抑制の利いた表現が特徴的だが、掲出歌のように現代という時代をことさらに感じさせる作品は、実はほとんど見出だせない。それどころか、昭和の若者が詠んだと言われても違和感のない内容の歌がかなりの割合を占めてさえいる。Wikipediaのほかにメールやゲーム、iPhoneなどもたまに出てくるが、それらは普通に身の回りにある事物のひとつとして、あまりにも自然に歌の中に溶け込んでいて全く目立たない。昔と変わらないものも変わったものも今を生きる当事者にとっては同等に現実を構成する要素のひとつにすぎないという側面を、この歌集はあらためて私たちに意識させる。

  本の帯をいためてしまう愚かさで暮らしていくだろうこれからも
  ホッピーセットをおごってもらう一日の終わりにそれを思い出してる

 短歌を詠むぞ、という身構えの感じられない自然体そのものの詠いぶりは、結果的に最も的確に時代を映した歌を生み出す可能性を秘めているように思える。願わくは、そこに生身の指の感触がいつまでも灯り続けていてほしいものである。 

  『遊子』第27号(2020.12)掲載


 
 原子炉に入るロボットに息をのむよかった人の形をしてない    足立香子

 人ではなくロボットでよかった、ではなく、ロボットが人の形をしていなくてよかったと一首は言っている。おそらく、東日本大震災によって破損、停止した福島第一原発で廃炉作業のためにロボットが原子炉に入っていく場面だろう。放射線濃度が高くて人が立ち入れないため、遠隔操作のロボットを使って作業が進められているのである。
 ロボットというと、鉄腕アトムやマジンガーZのようにフィクションの中に登場する人型機械のキャラクターがまず思い浮かぶ。現実世界で実用化が進む現在でも、単に人間の代わりに作業をしてくれるだけではなく、機械でありながら姿かたちや動作、行動に多少なりとも人間的な要素を具えたものをイメージするのが普通だろう。だが、原子炉に入っていくロボットは人らしい形をしていなかった。それを見て「よかった」と感じるのは、そこが人間の立ち入るべきではない場所だと知っているからである。
 文意も一首に込められた思いもわかりやすいが、少し考えてみると、その思いはいささか複雑であることに気づく。作者は決して心の底から「よかった」と安堵しているわけではないだろう。人間の力では制御できないものをほかならぬ人間自身が創り出してしまったことへの悔恨やそのようなものと共存していかなければならないことの恐怖が、この「よかった」の裏側にべったりと貼りついている。
 掲出歌は足立香子(こうこ) の第一歌集『蝸牛』(砂子屋書房、2018)から引いた。同じ歌集には「郵便屋さんを見るときはほっとするロボットなどにゆずらないでよ」という歌も見られる。人間社会の営みの中には、廃炉作業などとは反対にロボットには譲らないでほしいものも多くあるのである。それでももし郵便配達がロボット化されたとしたら、作者はそのロボットには人の形をしていてほしいと思うのではないだろうか。機能的に必要かどうかにはかかわらずロボットの多くが人型であることの意味が、この二首を読み比べるだけでも何となく見えてくるような気がする。
 歌集あとがきによれば作者は「平井弘短歌塾」で作歌を学んだとのこと。その平井は、跋文で「芍薬の大小の芽が地獄からの拳にみえてこの春おどろ」などを挙げて、この作者の「もっとも顕著な特質」は〈奇想〉だと述べている。
 芍薬の芽が地獄から突き出された拳に見えた作者の目には、原子炉に入っていく人の形をしたものの姿が一瞬映ったのではなかったか。ふと我に返ると、それは人には似ていないロボットだった。あらためてそう考えたとき、作中の「よかった」が一層の切実さを伴って伝わってくる。奇想は非現実的でありながらどこかで現実とつながっているからこそ人を惹きつけることができるのである。
 はたして、近い将来日常生活に入り込んでくるかもしれない人工知能に、私たちは人の形をしていてほしいと願うだろうか。かつてクリーンエネルギーとして期待を集めた原子力の現状とも重ね合わせつつ、人間が立ち入ってよい領域はどこまでなのだろう、などと考えずにはいられなかった。

  『遊子』第28号(2021.12)掲載


 
 透明であるゆえ濁りきっていた世界の色を映す瞳は    柾木遙一郎

 透明ゆえに濁っていたとはいったいどういうことなのか。不可解なこの上句の意図するところが下句によって露わになる。透明な瞳だからこそ世界の色をそのまま映す。まだどんな色にも染まっていないがゆえに濁りきった世界を直視しなければならぬ者の受難を一首は表現しているのだろう。
 掲出歌は柾木遙一郎の第一歌集『炭化結晶』(ながらみ書房、2022)のうち「少年展翅」と題された一連に収められている。そこからさらに二首引く。

 美しいままでありたい少年の指先にこびりついた鱗粉
 展翅板の上で乾いた少年の折り畳まれた前足を折る

 透明な瞳を持つ少年も永遠に少年のままでいることはできない。外の世界から流れ込んでくる濁った色にいつしか染まってしまうのが世の習いというものである。それでもあえて無垢を保とうとするなら標本にして時の流れを止めてしまうしかない。
 右二首から読み取れるように、少年は蝶を展翅する側であると同時に、展翅される蝶でもある。そのことは、少年を詠む作者自身が、単に一人称「僕」を使用するというだけでなく、自らのありかを明らかに作中の少年の上に置いていることとも符合する。「浮かび立つ砂塵に、いつか君の手が仕留め損ねた蝶が去りゆく」など、歌の中で少年はしばしば「君」と呼ばれるが、呼びかけるのは大人ではなく同じ少年の「僕」である。ふたりの少年はやがて重なり、「君」こそがむしろ本当の「僕」の姿であるかのように見えてくる。
 すぐあとに続く連作「永久前夜」には、「病葉を指先に持つ少年に春の羽虫が集って腐る」「指先ニアイヲ宿サバ所詮オマエモ課金デ救ワレル程度ノイノチ」など、「君」と「僕」が互いに悪態をつき合うような歌が並んでいる。少年であることへの憧れや執着、その裏返しとしての疑念や嫌悪、少年でなくなることへの希求と怖れ。そうした相反するさまざまな感情が入り混じった混濁の中から浮かび上がってくるのは、終わりのない自問自答や自虐である。
 実は、濁っていたのは世界ではなく、世界を映す瞳の方ではなかったか。文意どおりに読むならば、はじめから歌はそう言っている。少年だから汚れがないなんて嘘っぱちだ。彼の内部にどろどろと渦巻く自意識は透明な瞳を濁らせる。そして、そんな濁った瞳だからこそ世界の色を映すことができるのかもしれないのである。
 少年であることを意識し始めたとき、少年はもう少年ではいられなくなる。少年が少年でなくなるまでの短い間だけ彼の濁った瞳に映る世界と、その世界を見てしまった者の葛藤を、作者は当事者である「君」と「僕」に託して詠おうとしたのではないだろうか。

  『遊子』第29号(2022.12)掲載


  目次 歌集『風見町通信』より 『アンドロイドK』の時代『見えぬ声、聞こえぬ言葉』のころ 短歌作品(2003〜07年) / 短歌作品(2008年以降)
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