黒板 勝美 著

義 經 伝


目 次
一  武士道の権化

二  源平の関係

三  義經の幼児

四  均勢の破壊者

五  宇治勢多の戦

六  一の谷合戦

七  屋島合戦

八  壇ノ浦海戦

九  頼朝の不興

十  義經の都落

十一 義經の亡命

十二 義經の奥州落

十三 義經の最後



 
 
凡   例
  1. 底本は、創元社「日本文化名著選」「義經伝」(初版昭和十四年六月十五日刊)の第五版(昭和十九年一月二十日刊)を使用した。
  2. この本の性格から、著者の思想を歪めない範囲において、中学生の国語力で本文が理解できるよう以下のようにデジタル化した。
  3. そのため旧漢字・旧仮名遣いは、新漢字・現代仮名遣いに改めるようにした。
  4. 送り仮名も同様である。
  5. 尚、難解な漢字・熟語・置換すべきでない旧漢字には( )内に読みを附した。
  6. 「余」という語を、「私」と置き換えた。


注記事項

戦時中に執筆された為か、一部皇国史観的表現が見うけられる。特に第一章「武士道の権化」はその傾向が顕著である。本文庫ではそれも義経公の歴史的評価の変遷を端的に顕している歴史的表現として敢えてそのまま全文を掲載している。ただ冒頭の「我が大日本帝国は尚武の国である」という部分だけは流石に「わが日本国は尚武の国である」と改めさせていただくことにした。したがってもしもこの伝記を以て若年の読者に供する時は、その辺りを充分考慮していただきたい。2000.9.6佐藤弘弥

 


例言

一 本書は大正三年七月黒板博士が東京文會堂書店より出版せられたる義經伝を上梓したものである。

一 世に市電に関するものは多いが、本書の如く歴史家自らが、史上の人物に愛と情熱を傾け、確実なる史料によってその生涯を叙したものは少ない。加ふるに流麗なる行文、自ら著者の胸襟を伝へ、日本武将義經を伝して余すなきものであろう。

一 博士の予定によれば本書に続いて数種の史伝が執筆される筈であったが、世に問はれたものは遂にこの義經伝のみに終った。即ち本書こそは史家黒板博士の心情を永く伝へるものである。

一 博士は今病を得て御静養中であるが、御快癒の日を祈ると倶に、種々御配慮を煩はした黒板昌夫氏に深く感謝の辞を捧げる。

昭和十四年五月末日

日本文化名著選刊行同人
巻首五則

一 今人をひょする已に難い古人を伝するあにそれ容易ならんやこの小著もと余が孔子多忙の間日本史談の第一編として椛イ筆を執れるものその虎を画かんとして猫に類する多きを恥づといへども余が数奇なる英雄に寄する敬意と同情とは先ず読者のこれを諒とせられんことを望む

一 由来義經に関せる著書汗牛充棟も啻(ただ)ならず何ぞ屋上屋を重ぬるの愚をなさん然れどもその伝へらるるところ多く稗史(はいし)小説にして世を誤まるもの少なからざるは余が久しく遺憾となししところこれ自ら揣(はか)らずこの小著ある所以なり

一 高尚なる史論精緻なる考証固(もと)より本書の主とするところにあらず故に多少研究の餘に出でたるものありといへども力めて観想なる叙述を避け文章は平易ならんことを期し論評は通俗を逸せざらんと欲す

一 義經に関せる著作の多さに反してその根本史料となるもの古文書にあつては高野山書簡集神田男爵所蔵文書等に数通を存し記録に於いては玉葉及び二三の日記と大夫尉義經畏申記とあるのみその他吾妻鏡源平盛衰記平家物語平治物語等を除かば義經の事蹟また攷(考)ふべからず彼の義經記の如きはただ稗史として隅々参考せらるるに過ぎずこの小著時に推論を加ふるところあり時に憶説を出せるところある博雅の君子幸に高批を吝(おし)むなかれ

一 史書は編者の主義鮮明なるものありて始めて精神あり伝記は著者の同情深厚なるものありて始めて生命ありこれ余が史書を編し伝記を筆するに当たり真摯なる研究態度と相まって紳に書するところなり若しこの小著に於いて余を罰すべきものあらば余は即ちこれを甘受せん

大正三年七月上澣

青山白雲荘に於いて

著者しるす


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2000.9.6
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