十二 義経の奥州落
  
さきに義経の和泉の浦で別れた行家は、小細工的な彼の手腕も最早施すに由なく、ただその所縁の人々を頼り、辛うじて潜伏し居たところ、何時となく和泉の日向権守清実の家に隠れていることが京都に聞こえた。この時京都では、もっぱら一条能保が、守護として頼朝を代表し、近畿地方をも管轄している。そしてその下に追補の職に補せられ、当時の警視総監として辣腕を振るったのが、北條兼仗時定であった。

文治二年五月十二日、時定は常陸坊昌明と共に行家の捕縛に向かった。行家は討手向かうと聞き、後の山に逃げ入り、一時民家に隠れたが、遂に探し出されて、昌明に搦め取られ、時定に首を打たれた。行家の子光家もまたやがて誅に伏し、以仁王の令旨を諸国の源氏に伝えて、天下大変動を起こさしめた十郎蔵人行家は、ここに悲惨なる最後を遂げたのである。

さて多武の峯から十津河に落ちた義経は、かく行家んおように危うく最後を遂げる人物であったろうか。また彼は行家のように世の同情を失った武士であったろうか。否。彼はこの際、僧俗の同情と庇護とにより、天性の大胆と細心とをもって、日本全国に引き張られた鎌倉幕府の捕縛網、その網の目を潜って、自由自在に大和から京都の間を、出没変幻極まりなく行動せんとしていたのである。

朝廷で、彼の名を摂政兼実の子三位中将良経と、同じ訓であるからといって、義行と改められたのは、むしろ彼に取って幸先がよかった。彼は至るところ、よく行かざるはなく、今日奈良にあるかと思えば、明日には叡山にあり、鞍馬、仁和寺、追補の武士はただ奔走に労れて、いつも義経の去った跡に茫然としていたのである。彼の行動はどこどこまでも機敏なるものであった。

彼は始め吉野や多武の峰にその足跡を印したが、その勢力の多く頼むに足らざるを観るや、たちまち十津川に隠れて行方を晦(くら)ましたが、彼の予定の目的を達するには、如何にしても一度京都に入って、後白河法皇に依らねばならぬ。また如何にしても寺院の二大勢力たる南都北嶺に頼らねばならなかった。

そこで彼は十津川から路を大和宇多郡の辺に取って北上した。この地は、彼が襁褓(きょうほう:産着のこと)の内に母常磐と共にしばし隠れていた所縁の所、龍門であったと想像される。そして常磐の伯父であった、その地方における豪族を頼ったのであろうと思う。されど幕府の探偵眼は、最初からかかる所縁の人に注がれている。義経は直ちにこの地を去らねばならぬ。彼はまた大胆にも機敏に非常線を突破して京都に入って来た。

行家が滅んだ日から三週間ばかり以前のことであった。義経が京都に隠れて、叡山の僧徒彼に同意しているという噂が、鎌倉に聞こえて、その捜索を朝廷に願い出て、「もし朝廷で捜索が出来ぬようならば、武士を叡山に差し向けたい」と、師中納言経房によって奏聞せしめた。これに対する五月六日附けの御返事には、「義経の行方を捜索する事は等閑(なおざり)にしているのではない。彼方此方と手を尽くしているが、少しもその踪跡(そうせき:ゆくえ)が分からぬ。猶出来るだけ捜すであろうが、今証拠もないのに叡山を騒がす訳には行かぬ。然るべく承知してくれ」との事であった。

何ぞ計らん。この時義経は既に京都にあって、後白河法皇、もしくは院の近臣に庇護せられつつあらんとは、「玉葉」五月十日の条に、藤中納言定能法皇の御使いとして、摂政兼実に仰せうぃ伝えられたことが記してある。その中に、義経が院中か摂政基通の邸内かに潜んでいる噂がある。捜し求めねばならぬであろう。また兼実が夜討を恐れて九條亭に帰ったという事であるが、いかなる次第ぞ、などお尋ねがあったので、兼実はその返事に困り書状を以てただ「前摂政の夜討さるべしとて、騒がるゝとこそは聞食しか云々」と申上げている。

思うにこの法皇の仰せは、それとなく兼実の意中を探られたもので、法皇は表面どこまでも知り給はぬ体でなかったろうか。仮に一歩を譲り、もし法皇ご自身、猶未だ知り給はずとするも、院の近臣は、既に義経のことを庇護していたらしく思われる。そして法皇の寵臣なる前の摂政基通が、さきに義経の事により、解官されしは、やがてその義経に対する態度をも察することが出来るであろう。されば法皇は、基通の身を気遣い給い、また一條能保を院に召し、基通が夜討の企てをするなど、皆他人の虚言に過ぎぬ。恥じかまじきことのないよう取り計らえと、丹後局を以て仰せ伝えられ、全く前の噂を取り消して了わった。要するにこれ法皇の苦肉策で、義経を庇護したまうのであろう。

義経の没落後、頼朝が後白河法皇に対する態度は、前章にも述べたように、大分強硬を加えて来た。あるいは院の御領を停めたり、あるいは院の近臣を解職したり、朝廷は最早その威圧に忍び得たまうところでなかった。それで一時法皇は頭も剃らず、手足の爪も切り給わず、恐れ多くも絶食して持仏堂に閉籠らせられ、御念願があったとまで伝えられている。それに前摂政基通をはじめ、義経の事によって、解官せられたものも多く、院中頼朝に反対する空気が充ち満ちていた。さればこの義経を庇護する計画は、むしろ主として頼朝に反抗し幕府を図らんとしたまうもの、ただ義経を利用してこれを遂行せんとせられた為、これに義経を庇護することとなったのであったろう。

しかし義経は自ら進んでこの計画に加わったであろうか。彼はその安全な隠れ家として、院中もしくは、前摂政邸を選んだに相違ないが、頼朝に反抗せんが為に、この密謀に与(あず)かったかは疑問である。彼が幾程もなく去って、縁故深き鞍馬に移ったことは、むしろそれを否定する理由となるようにも思う。

五月二十九日、鞍馬寺の僧円豪という者、西塔の法院實詮に、義経がその山寺に潜伏しているといってやった。そして實詮からこれを一條能保に密告したので、能保は六月二日、その事を法皇に奏聞した。しかるに法皇は、すぐ武士をやって、義経を追補させては、鞍馬一山の破滅であるから、まず別当に命じて、義経を搦め出でさせようとの仰せを伝えられ、能と追補を延引あり。能保は一両日の後また参院して、官兵いよいよ追補に向かうと全寺に触れたら、無論義経が、山中に隠れていることはないであろうと、鞍馬寺の別当からいって来た。この上は、国々に追討の宣旨を下されたい。また鞍馬寺に土佐君という僧がいる。義経の知辺である。召し出して訊問するよう取り計られたいと言上した。

六月七日となった。大内惟義は義経の所在を聞き込んだといって、早速追捕に向かったが、いうまでもなく失敗に終わった。そしてこの月二十六日、一條能保が鎌倉に遺した報告には、義経はその後仁和寺の石蔵あたりに隠れて居る風評があったので、梶原朝景、後藤基清などを遺ったところ、全く虚聞に過ぎなかった。當時は叡山にあって、山の悪僧どもに助けられて居るようであるといっている。
 

叡山は當時に於ける寺院中最も勢力あるものであった。固より武士の輩が山上に踏み込んで、罪あるものを掴め取ることなど、絶対に出来なかったといって可い。それに三法師には、所謂悪僧と呼ばれた僧兵が居って、朝廷ですら思うように制御することが六ヶしかった、これが實に義経の眼をつけた所以で、彼の聲望を有せし此の三法師の間には、彼をよく庇護せんとするものが多かった、幕府が閉口したことは、またこの點にあったので、今叡山にして義経に加擔せば、或は義経に京都を恢復さるる恐あらんと、一條能保をして盛に朝廷を威壓せしめ、叡山の座主に義経追捕の命を下さると同時に、土肥實平の如き有力なる武士を坂本に遺し、兵力を以てこれに迫らんと計畫(計画)した。

がこの月十六日義経の頼にして居た伊豆左衛門尉有綱は大和の龍門あたりで、かの北條時定に襲われた、彼は戦利あらぬを見て、深山に入って自殺を遂げ、悲壮なる最後を遂げたということである。しかも義経の損失はこれに止まらず、七月十五日彼の股肱伊勢三郎義盛また一條能保に梟首された、義経の落胆察するに餘あるであろう。

そればかりでなく、閏七月の初ごろ、義経の小舎人童五郎丸、能保の手に捕らえられて、「六月二十日ごろまで、義経は■に(既に)叡山に隠れて、悪僧俊章、承意、仲教の輩が彼に同心して居た」と、白状に及んだ。この中俊章というのが、後に義経を奥州まで送ったえらい坊さんである。能保はこの事を聞くや、直ちに法皇に奏聞すると同時に、これを叡山に通じたが、叡山からは、最早逃げて了ったと返事があった。併し閏七月十一日となって、矢張り(やはり)まだ叡山に居るという風評があったので、また能保からその趣を奏聞し、十六日院の路上でいよいよ公喞僉議ということになった。

摂政兼實をはじめ、前權中納言雅頼、權中納言實家、同家通、同士御門通親等着座あり、まず叡山座主以下僧綱等に尋ねられたところ、「山中の悪僧ども座主の下知に従はぬものもないではないが、こんな大事件に於ては、無論朝命の重きことを存じて居るから、實は搦め取ろうとしたところ、遂に一方を破って遂電したことは、如何にも恐れ多い」などと、彼等は、誤魔化して了った。

それでこの次第を能保に傳へ、且つ武士が山門を攻襲ふ風聞あるは如何にと尋ねられた。能保はこれについて、山門の業徒が朝廷の掟を忘れて、謀叛人を隠すは不當である、實は土肥實平など坂本を固めて、山上を捜索しようというのを、様々な計略を廻らして制止を加えて居るところであるから、早く座主以下の人々を檢非違使廳に付して譴責して貰いたい、と主張した。無論武士に山上を探さすることは、佛法の上からいっても重大なる問題で、攝政はじめ全然反対であったから、翌十七日座主全玄に院宣を下し、「全山の僧坊衆徒に觸れて、悪僧等を捜し出すように、猶叡山は、近江北陸道の方にも縁故があるから、その邊をも捜索せよ」と勅命があった。

されば一方に武家の壓迫があり、かく朝廷で非常に御心配になって居るので、叡山からも遂にこの関係者の悪僧三人を差し出した、そして皆これを檢非違使廳に下して訊問せしむることとなったが、二十日のころ、今度は義経に同心した仲教承意の母を生捕ったと叡山から申出で、二十一日には仲教もまた搦め捕られたが、義経の行方は依然として分からなかった。

九月二十日に、比企藤内朝宗京都に隠れて居た堀彌太郎景光を生捕り、厳しく義経の行方を鞫問すると、景光も遂に包むに由なく、「義経は當時奈良興福寺の觀修坊得業聖弘というものの許に潜んで居る、彼は義経の使者として、度々木工頭藤原範季を訪うたことがある」と白状に及んだので、一條能保は早速朝宗に命じて奈良に下らしめた。

二十一日朝六時と覺しきころ、朝宗ははや奈良に着いて、二三百騎を率いて興福寺に至り、観修坊の得業聖弘の佳房なる放光房というのを打圍み、坊内隈なく捜索したが、義経既に逃れて在らず、聖弘もまた遂電して居たので、朝宗以下の武士、如何にも手持無沙汰の體で、京都に引き上げた。
朝宗がく兵を率いて興福寺に踏み込んだのは、興福寺の衆徒をして非常に激昂せしむることとなった。元来武家不入の神聖な寺院、特に藤原氏の氏寺として、朝野の尊崇並びなきところ、今武士の馬蹄に蹂躙されて、そのまま引込んで居る訳に行かぬと、衆徒は春日神社の唯識會に出づるを拒み、講師聴衆など多く姿を隠して、唯識會も遂に中止せられて了った。それでこの會の奉行として下向して居た摂政家の家司左京權大夫藤原光綱は、己むを得ずそのまま歸洛して、摂政兼實にこの事を告げ、神社の附近四五房まで傍杖を喰ってひどい有様であるなど、委しく追捕の仔細を申したので、兼實大に驚き、直ちにその趣を法皇に奏聞し、且つ一條能保に問合せた。

能保はこの下問に恐れ入り、早速自身で兼實の邸に至り、「堀彌太郎の白状によって、義経が興福寺に匿ること實説と思はれ、朝宗に捜索させたところ、聖弘も義経も遂電して了ったから、下人の僧一人を捕へて訊問するに、實は京都から追捕の武士が向うという報知があったので、急に逃げ去ったのであるとの事、然らば興福寺にも咎なきにあらず、その旨別當僧正へ申遣はされたし」と言上に及んだ。

兼實は聞き咎めて、従来っかることがあれば、前似て通知あるべきに、この度出し抜けの追捕、甚だ以てその意を得ずと詰れば、能保頻りに辯解して、今後を慎むであろうというので、兼實も心和ぎ、やがて能保より法皇奏して、義経追討の院宣を賜はり、これに兼實の長者宣を副へて興福寺別當僧正に下されたのが、二十三日のことであった。

されど義経に同情して居た衆徒は、却ってますます武家の壓迫を憤慨した、そして更に使者を上せて、最も大切な年中行事となって居る法華、維摩の雨會を中止せんとまで朝廷を威嚇するに至った。兼實はこの天下第一の大事であると雨會を止むるようなことがあったら、寺としても、長者としても、甚だ相済まぬと、是非遂行するようにと命令と下したが、獪ほ心配に堪へず、別當僧正を召して、いろいろ相談した程であった。

かくて義経はまたその踪跡を晦まして了った、彼の前には、流石辛辣な手段を有せし一條能保も、北條時定も、殆んど小供のようなものであった。しかし丁度堀彌太郎景光が捕はれたのと同日、彼が奥州を出て以来形影相従って忠節を盡した一の郎黨、佐藤四郎兵衛尉忠信を失ったことは、彼に取って最も大きな打撃であった。

忠信は大和の宇智郡あたりで義経に別れ、先づ獨り京都に上った、恐らく義経の密旨を帯びて入浴し、計画するところがあったであろう。少なくとも義経と京都に落ち合い、影ながらこれを守護せんとしたのであろう。然るに彼が隅々前に知って居た女に手紙を送ったところ、その女が現在の夫にこれを示したことが、遂に露顯の絲口となり、九月二十日に迫捕の武士不意にその隠家に押寄せた。忠信は固より武勇人に勝れし剛の者、大勢を相手に防戦して居たが、捕手の武士だんだん馳せ加はるを見て、今はこれまでと、郎黨二人と共に自殺し、遂に義経の先途を見届くることが出来なかったのは、嘸遺憾に思ったであろう。

義経は先に有綱義盛を失い、今また景光忠信を失った、彼が年来の幕僚たる股眩爪牙に別れた心中果して如何ぞや、彼には惜からぬ命を永らうるのが、死以上の苦痛であった、しかも彼はこの苦痛を、家のためと覚悟して、南都北嶺の間を出没して居た、がこの時、後白河法皇を中心とした秘密計画はだんだん進行した、そしてその失敗した結果、義経が遂に院の庇護から遠ざからねばならなくなったのは、是非なき次第である。

尤もこの計画は、餘程秘密を保たれたと見え、何等これを捕捉することが出来ぬ。ただ『玉葉』などの中に揣摩し得べきある物を発見するに過ぎぬが、まづ權勢朝廷を壓し、彼の兼實の如きさへ憚って居た丹後局が、背後に操って居たであろう、前に挙げた前攝政基通も加わって居たであろう、また義経の事によって流罪となった刑部卿頼経もその一人であった。そして恐らくは、後に頼朝の勢力を一蹴して政治的変動を起した源通親もその一人であったろう。しかもこれに攝政兼實の家司木工頭範季が加擔して居たのは更に注意すべきことである。

範季は高倉範兼の子である。その妹承明門院の三位は、實に後鳥羽天皇の女御承明門院の母君で、初め法勝寺執行能圓に嫁し、後源通親の妻となった。またその女修明門院範子も同じく後鳥羽天皇の女御で、順徳天皇の母后たるお方である。のみならず、他の一女を義経と最も関係深かった高階泰経の子経仲に嫁せしめている。

こんな関係からこの秘密計画に加へられた彼は、一方に於てまた頼朝の非常な信頼を得その推擧により攝政となった兼實の家司であった、そして三河守範頼はもと彼の子となり養育されたもので、その間にもまた親密なる関係がある。此等の関係が或はこの計画をして遂に秘密のまま葬り去らしめた所以の一つであったかも知れぬ。が兎にも角にもこの計画が暴露されんとしたことは、ますます義経の追捕を厳にせしむることとなり、朝廷の態度漸く一変して来たのである。

元来この計画は頼朝に反抗し、朝廷に封する幕府の威壓から免れんとしたのが主であった。義経を庇護したのは、その武勇によってこれを遂げんとしたために過ぎぬ、従って義経に同情したということはあるであろうが、義経のために起ったものと断定する訳に行かぬ、しかも義経の真意は亳も頼朝に反抗せぬところに存して居る。彼は恐らく夜討を命ぜられたことがあったかも知れぬ、が無論彼はそれに反対したであろう、京都を騒がせもせねば、叡山の僧兵を煽動もせぬ、どこどこまでも恭順にただ暫く己の身を永らえ時機を待たんとして居たのである。若し然らずとせば、眼中能保なく自定なき義経にして、何故にただ一日の安を愉しんで、所々を逃れ隠れて居るであろうか。義経の真意はまたこの際に於ける行動に想像されると思う。

尤も当時幕府でも、薄々朝臣の中で義経と聯絡せるものがあることに心付いて来た。丁度そのところに、堀景光の白状によって、藤原範季が関係して居るように見えたので、頼朝は急ぎ飛脚を京都に上せた、そして一方に於て北條時定に取調を命ずると同時に、また吉田中納言経房にもその事を言って遺った。それで経房は範季を訊問して見ると、義経に同心の義は全く無實、また堀景光とは一両面会したばかりである、ただその折彼を搦めて出さなかったのが、範季の怠慢であったというふうに止まり、その隠謀については口を噤んで了った、そして幕府でも何等これを追究しなかったのは注意すべきことである。

尤も範季の答えた中に、彼は義経が院宣に依って夜討の企をして居ると聞いて、早速攝政兼實に申して置いたということがあった。それで法皇から左少辨定長を使とし、御下問になったところ、兼實は無論これを否定し、範季の申状全く存ぜぬことである、若しくは謬言を奏したに過ぎぬと言上した。この義経が夜討の計画をしたというのは、直ちにただ範季の作りごととすべきであろうか、もし然りとせば範季は何故にこんな虚言をいはねばならなかったろう、また何故に院宣によって義経が計画したといったのであろう、或は後白河法皇と義経との間に、何等かの聯絡あるべきを暗示し、自らその罪科を免れんことを試みたと、揣摩されぬこともないような心地がする。

この頃、義経に対する最も大なる同情者は實に仁和寺宮守覺法親王であらせられた。法親王は後白河法皇第四の皇子、御学問の道にも造詣深く『差記』『右記』という御著述ばどもあった位であるが、その『左記』の前書は、實に親王の御心を窺い奉るに足るものでる。先づ世の有様に感慨無量の涙を濺ぎたまひ、

この四五年の間、君臣和に乖き、上下乱を起こす。これによって、國に亡國の怨める声あり。
世に治世の安き思なし。或は東開の雲の外に、鳥合の郡悉く秋霧を集め、或は西海の波の上に魚鱗の陣皆暁月を争へり。血を以て路を洗い、屍を以て巷を埋む、鬼となって塚に哭する魂、鱗に伴って水に没するの類、幾千萬なるを知らざるもの歟。
 
と、平氏が外戚として栄華を極めた夢の跡は、源家が武将として勢威日に加わる幻の世や、法親王は盛衰浮沈を眼前に見て、或は安徳天皇の御入水に懇志を寄せたまひ、或依は後白河法皇の御祈祷に心肝を揣きたまひ、また或は平家の一族にして舊好浅からぬ輩に同情の筆を運ばせられ、さて、
爰に聊か思う所あるによって、密に義経を招き、合戦軍旨を記す、彼の源廷尉は直なる軍士にあらず、張良の三略、陳平の六奇、其藝に携はり、其道を得る者歟。
と、義経を賞揚せられて居るが、この『左記』は實は文治二年の御述作である。「爰に聊か思うところあるによって密に義経を召す」といわれたのに、もしこの年密に義経を招き給ひしものと推測するを得べくんば、当時亡命潜行して居た義経を、また仁和寺に御庇護ありしことも想像させられるであろう。

当時既に法親王が義経に御同意であるという噂が立った。『吾妻鏡』には、義経都落の時、兵船準備の為に摂津に下って殺された風評のあった太夫尉友實の家を、北條時政が調べたところ、仁和寺の近辺であったので、御室御所に掛け合ったら、叛逆人の家ではないと、法親王より御返事があった、併しその實御室から貸されて居るものであったことが分り、頼朝は、法親王が義経に御同意ではないかと嫌疑をかけ、よく子細を取調べさせたと書いてある。義経に同情したまへる守覚法親王の御態度をして、この事もまた事實であったろう。

かくて義経に対する幕府の方針はますます厳重となり、その追捕の手段はいよいよ悪辣となって来た。頼朝は遂に法皇に奏し、京都奈良の二京、延暦寺、興福寺、さては吉野、多武峯、在々所々義経に興力するものが多くて、従来のような手緩き方法では、到底義経を追捕すること困難であろう、困って二三萬騎の兵を上せて、山々寺々を捜し求めしめん覚悟である、いよいよそれに決して準備が出来たら、大事に及ぶかも知れぬ、それで今一応朝廷の御沙汰で、義経を召捕る方略もあらば承はりたいと、威嚇的文句を並べ立て、また仁和寺宮始終義経を庇護せらる趣これも申し上げて置くを、強硬なる態度を以て朝廷に迫った。

朝廷ではこの奏状を得て大に驚かれ、十一月十八日、院の殿上に於て公卿各その意見を述べ、第一に追捕の宣旨を下さること、、第二に神佛に祈ることから、或は京中その他家々の人敷を調整し、若し宿泊の旅人がいれば、その姓名を注進せしめよといい、或は義経の縁者郎従たりとも、義経を搦め出せば恩賞を興ふることを触れ廻さんといい、或は闘所を固めて京都中の大捜索を行はんなど、いろいろの説があった。

摂政兼實は庇等の意見に就て更に評議を凝した結果、此上は第一に神沸の力によらんと、五壇法という御祈祷を行うことになり、一條能保に延暦寺、園城寺、醍醐寺などの僧を召さしめ、且つ仁和寺には特に使者を遺り、京都の中をば検非違使廳に仰せて方々を捜索せしむることに決した。そして二十五日また、畿内北陸等の追捕の宣旨を下され、朝廷の義経に対する態度は全く一変して了った。

その宣旨は所々方々に下されたと見え、大和法隆寺の『東院縁起』というものなどに、この宣旨に対し、朝廷に差出した精文がある、そしてこの宣旨の下ったのと同日、早く義経の行衛が知れるようにと、前に義行とされた義経の名を、更にまた改めて義顯(義顕)とし、それをこの宣旨に載せられた。

やがてこの年も暮れ、文治三年となった。が義経の踪跡は少しも知れぬ、そこで朝廷に於いてもまた僉議を始められ、二月八日、摂政の直廬で、いろいろ御相談あり、更に諸宗諸山に祈念を凝らし秘法を修せしむると同時に、方々の寺院をはじめ、國々に仰せて義経を捜し求め、嫌疑の輩を召して究問するなど、一條能保に命じて沙汰せらることとなった。
これが實に義経追捕に関する最後の評定で、しかも何等手懸りがなかったことを想えば、この頃義経が全く跡を晦まし、最早幕府も朝廷も殆んど為すところを知らなかったことが想像せらるるのである。

これにつけても義経が如何に巧みに潜伏したかを察せられるであろう、また生き残りたる彼の左右が、如何によく彼に仕へたかも知られるであろう、そして至るところで彼を庇護った人が如何に多く義経に同情し、朝廷も恐れず幕府も恐れず、その身を犠牲にして彼を奉じたかを推奨せねばならぬ。是は全く義経の人格が然らしめたのである、彼の人物が、彼に接近したものすべて心服さした結果である。

彼の興福寺の観修坊聖弘を見よ、彼は企朝宗に踏み込まれて一時遂電して居たが、十數日の後その居所が分り、遂に興福寺の別当から摂政兼實に引渡された、そして一條能保によって、この年の春鎌倉に下され、三月八日頼朝の面前に出て、義経のために祈祷としたり、また同心したことを鞫問されたとき、聖弘が忌憚なく吐いた言葉は如何に、「伊豫守殿、君の御使として平家を征ち給ひし時、合戦勝利に属せんため、」
 
 
 

第十二章  つづく
 


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源義経研究

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2001.06.28
2001.09.20 Hsato