十一 義経の亡命
  

義経行家が院の御所を拝辞し、都を落ちて西国に向かったのは、鎧の袖も涙に時雨るる霜月の三日であった。頼朝に志ある在京の武士馳せ重って矢を放つを、義経散々に蹴破って、その日の中に攝津に入り、やがて河尻に着いて船に乗らんとするに、ここにも多田蔵人行綱、太田太郎、豊島冠者など、陣を構えて一行を遮らんとしていた。
 

義経はまたこれを追い散らし、五日の夜、大物が浦に宿し、はや船上の人となり、将に発せんとするところに、藤原範資、折節在京せる範頼の兵を催して馳せ向かい、豊島冠者と力を合わせ、近辺の在家に陣取って、義経の兵に追い縋り、また合戦に及ばんとする、と夜半の頃、大風俄に起こって逆浪天に激し、義経行家等の乗船悉く破損して、過半は海底の藻屑となり、あるいは大物が浦、あるいは住吉の浜に打ち上げられ、一艘として完きものがなかった。
 

さすがの義経も今は策の出でんやうなく、漸くと行家と共に小舟一艘に乗り、和泉の浦、今の堺あたりに落ち行いて息をつく。九州は愚か高麗朝鮮までも主の先途を見届けんと決心した随兵は多くはり覆没した、偶々生き残れるものも、また範資等の兵に、あるいは討たれあるいは生け捕られ、殆ど全滅して終わった。『玉葉』によれば、その中に豊後の武士も交じっている。
 

行家は元来和泉河内のあたりに、その勢力を有していた、彼は恐らく義経に説々に、同じくその附近に一時身を潜めて、再興を謀らんことを勧めたであろう、しかし義経はこれを聞かなかった。彼は宇治河以来死生を共にした手兵の全部を失った、案内者として頼みにした豊後の武士にも別れた、彼が九州に下らんとした望は最早絶え果てて、その胸中に書いた計策は全く書餅に帰したのである。彼の失望落胆果たして如何ぞや。彼既に鎮西八郎たるを得ず、また何ぞ一死を惜しむものならん、しかも源氏の将来を思えば、なおも未だ死すべからずと、この失望落胆から復た蘇って、彼は第二の計書に移らんと決した。が、行家の勢力は多く依頼するに足らぬ。彼はむしろ他に援助を求むるに如かずとなし、濁り心に肯いて断然行家と別れ、伊豆左右衛門尉有綱、堀彌太郎景光、及び愛妾靜と主従僅かに四人、攝津に入って六日の夜天王寺に一宿し、彼はここから行方も知れず跡をくらました。
 

九條兼実は、義経が難風に遭ったと聞き、その日記に書していう、「その事もし実ならば、義経のような仁義の武士に感報巳に空しともいうべきである、大功を成しながらその甲斐もなかったことは、如何にも遺恨千万の至りなれど、彼が武勇と仁義とは、後代までの佳名を残すものである。嘆美すべし嘆美すべし」と。しかり、義経の武勇と仁義とはただに当時の人に賛嘆の声を放たしめたのみならず、今日まで国民の崇仰するところとなっている。しかも彼の性格と真情とが、なおも多く研究せられず、頼朝が彼を誤解したるが如く、世にこれを誤解せるものあるは慨嘆のいたりである。 

頼朝は黄瀬川の陣中で二人の没落を聞いたのが十一月十七日であった、そして法皇が九州を義経に、四国を行家に支配するを許されたこともまた同時に知れたので、追討の宣旨といい、院庁の下文といい、法皇の御処置、いかにも頼朝の功を無にされた仕方と、大に怒って翌日直ぐに鎌倉に帰り、大和守重弘、一品房昌寛を使者として京都に上せた。
 

法皇は、こんな成り行きとなった以上、無論関東へ然るべく仰せられるる積であったが、頼朝の憤非常に激しいと聞き召され、十一日取り敢えず院宣を畿内近国の国司等に下されて、「義経行家反逆を巧み西海に趣く間に、大物の浦に於いて忽ち逆風に遭い、難船の風聞ありといえども、あるいは亡命せるや疑いなきにあらず、早く武勇の輩に命じ、山林河澤を捜索してその身を召し進めしめよ」と厳命があった。 

頼朝は鎌倉に帰った後五日、十二日の日にまた書を駿河に遣り、「義経都を落ちた以上、一時上洛を見合わせするが、矢張り各用意をして追っての沙汰を待て」と触れさせ、又義経の舅河越重頼の婿下河邊政義の所領を没収して終わった。
 

十三日には関東の武士が京都に入って来た、多分前に出した重弘昌寛等の一行であろう。京都はまた恐怖に打たれて、いろいろの噂が伝わった。あるいは頼朝既に足柄を超えたといい、あるいは法皇に対して恐れ多きことがあろうかといい、人々の危惧の中に日を過ごすと、折りも折り、梶原景時の代官播磨にあって、国司を追い出し、その倉に封を施した事件が起こった、そしてこの度は、帝王といい攝政といい、頼朝がひどい目に遭はせんと決したなど、日一日と人心恐々たる有様であった。
 

法皇も、頼朝の怒が太しきを看取せられ、非常なる御心配であった。そして今後は更に政治に関係しまいとまで、御決心があった程であるが、この時また義経に関係深い大蔵卿泰経が人々を語らって、入道関白松殿基房に、天下の政治を委任さすることになったという風評が立った。右大臣兼実はこの事を聞いて、早速法皇を諫めたところ、法皇の仰に、朕(ちん)が政治と離れて遁世するのは、全く本心から出たことで、泰経などに勧められたためでないと御弁解のなっている。
 

しかし頼朝が義経の一件で、朝廷に対して非常に怒ったのは、ただ必ずしも義経に頼朝追討の宣旨を賜ったためのみでない、更にその裏面に大なる理由が伏在していた。それは頼朝が武家の棟梁として、大いに勢力を展さんと覗っていた好機が、今や到達したためである。義仲は討たれ、平家は滅んだ、目の上の瘤と思う義経も没落した、天下また恐れるものがない、彼は従来の朝幕関係に向かって更に一歩を進め、ここに幕府の勢力を発展せんと考えたのである。
 

これまでも武士的階級は、無論鎌倉の命を奉じ、官途の推挙等皆頼朝の口入れによることとなっている、また平家の没官領もすべて頼朝が自由にすることが出来るようになっている、しかし没官領以外には幕府の権力がなおも及んでいない、従って武士の内でも直接鎌倉の御家人となっていぬものも多かった、殊に朝廷に対しては、頼朝といえども殆ど一指だに染めることが出来ず、ただ僅かに頼朝に好意を有せる朝臣と、内々連絡を通じていたに過ぎぬ、どうしてもこの際、進んで朝廷を威圧し朝廷の政治に容啄せねばならぬと決心した。
 

それには頼朝に最もよい相談相手があった。京都を去って頼朝の幕下に投じた大江廣元がすなわちその人で、彼は政治の故実に通達し、朝廷の内幕を知り抜いている、そして一生の間彼が涙を浮かべたことを、見たものがないという程、極めて冷酷な性格を有し、政略にかけては、北条時政と相並んで、頼朝の帷握の臣となり、幕府政治の根底を作った人物である。彼は今頼朝の気色を窺って献策していふやう、「天下に叛逆人の跡は絶ゆるものであるまい、東海道は鎌倉に近いから、心配する必要もないが、もし他の地方に事が起こったら、その度ごとに関東から、武士を向けねばならないのは、如何にも煩わしく、費用も多くかかる次第である。この機会に、日本全国の国衛莊園に、守護地頭を補任してこれに備えること、構はず決行あては如何」と、利害を説いて頼朝に勤めれば、頼朝は、それこそ我が意を得たれと、大いに喜んで早速その計書に取りかかった。
 

かかる計書己に成り、かく雲行きがだんだん険悪になったとは知りたまわず、後白河法皇はまた御内旨を下され、院の別当泰経使者を鎌倉に馳せ下らしめたのが、十一月十五日のことであった。その趣をかい摘めば、「行家義経の所為は天魔の所業である、頼朝追討の宣旨を賜はらねば、院中で自殺するとまでいうので、法皇も已むを得ず、宣旨を下さるることになったのである、固より叡慮から出た次第でないから、悪しく思ってくれるな」というような意味であったが、頼朝は、「何に天魔の所為と申されるか、天魔というは佛法の妨をなし、人間の患となるものである、頼朝は幾たびか朝敵を降伏し、しかも政治の事は一切法皇に任せ奉るに、忽ち叛逆人となされたのは、果たして叡慮にあらずして院宣が下ったのであろうか、行家といい、義経といい、御召捕にならぬところから、国々も疲弊し人民も難儀をする。日本一の大天狗は外に居申さぬぞ」と詞セを発して使者を拒絶し、暗に法皇を大天狗と罵倒して、先づ朝廷威嚇の第一砲を放った。

そこでこの月十九日には、土肥実平一族を率いて上洛する、二十五日には北條時政また京都に入って、頼朝が非常に不満であることを言上する。朝廷でも捨て置かれずと、また二たび宣旨を出され、頼朝に仰せて義経等を捜索せしむることとなった、がこの宣旨は実に大江廣元の献策によって、頼朝の胸中すでに決せる守護地頭設置の伏線となったもので、二十八日時政は、義経行家の捜索に便せんが爲めと號し、諸国に守護を置き、荘園公領を論ぜず地頭を補し、且つ田一段について兵糧米五升づつ加微したいと奏聞し、翌日遂に勅許となった。

この守護地頭の設置は、日本国中に鎌倉幕府の権力を実際に認めたもので、守護は警察と兵馬の事を掌り、鎌倉でも重なる武将が任せられたのである。また地頭は、院宮懽門、寺社などの荘園でも、はた朝廷の公領でも、總べてその土地の収入を監督し、兵糧米を徴収するものであった。尤も地頭といってもすでにこの以前から補せられたものが多い、それらは皆鎌倉幕府の恩賞で、婦人でも、小供でも、これになったものであるが、この時朝廷に奏して天下一般に置いたのは、前にいったように少しく従来の恩賞を異なって居る、そしてこの守護地頭と兵糧米のことは後屡々(しばしば)朝幕の間んい交渉あり、守護の外はやがて停発されたけれど、武家政治をすべて天下に承認せしめんとした頼朝の主たる目的は十分に達し得られた。

これと同時に、頼朝が第二の目的たる朝廷に対する計量も、時政によって着々進行された。義経と最も関係の深かった高階泰経は、すでに二十六日その出仕を止められ、十二月六日頼朝から奏上した旨によって、いよいよ十七日に、先づ大蔵卿泰経、その子右馬頭経仲、義経の異父弟侍従一條良成、義経の佑筆少内記信康、右馬權頭平業忠、兵庫頭章綱、太夫判官知康、同信盛、右衛門尉信實、同時成、参議平親宗、右大辮光雅、左大史隆職、刑部卿?経など、義経に味方した人々を皆解官に処して終わった、そして議泰の公卿十人を置き、右大臣兼実を攝政とし、院御廐別当以下、辨官、職事、史官の輩に至るまで、一々内奏そてその人を補任し、且つ兼実以下に領国を興るなど、彼は進んで積極的に朝廷の事に干渉を加え始めた。

平大納言時忠の子時実は、義経と共に西国に赴かんとしたが、途中で捕らえられ、一旦鎌倉に喚び下されて取調を受けたところ、遂に申開も成らず、京都に送り還された後、周防に流罪と定まり、また泰経は伊豆に、頼経は安房に流されることになり、まづ一件は落着した。

さて天王寺で行衛知れずとなった義経の消息は如何に、天を翔るか、地は潜るか、その後彼の踪跡は變幻出没、、吉野にあるかと思えば、多武の峯に落ちたいという風評が傅はる、或はまた十津河に潜めり、奈良にあるなど、噂は噂を生んだが、この踪跡を調べるのは、當時にあって、既に幕府の大に手古擦ったところ、七百年後の今日、二三の記録を便りに何處から何處と尋ねて行くことが困難なことは、固いよりいうまでもないことである。『義経記』などに面白く、義経主從が、吉野に入り吉野を落ち、南都に忍び北国に下ったことを委しく述べてあるのは、全く一種の種史的想像に過ぎぬ。

が、『吾妻鏡』や『玉葉』には、朝廷の評議、幕府の手配、さては巷説風評、時として義経の踪跡を通るべきものがないではない、またその間伏在せる義経と法皇との関係なども、機微の中に発見せらるるところがある。そして夫れに、義経の人格が影さして居るのは、史を読むものの意を用うべきところであろう。

義経が虎の尾を踏み龍の髪を撫づる思いを爲し、近畿の間に亡命潜行したのは、抑も彼に如何なる胸算があったためであろうか。彼は卑怯にも一日の安を愉んで、逃げ隠れて居たのではない、彼の閲歴と性格とは、一つの怯懦な振舞を許さぬ、一の臆病な行動に興せぬ。また彼は死を畏れるものでなければ、私の爲めに計るものでもない、彼は自ら信ずるところあって、死せざえるべからざる命を永らへ、忍ぶべからざる耻辱を忍び、跡を暗まいして居るのである、その家の将来のため、猶ほ未だ死すべからずと心に誓い、流難困頓の間に苦心焦慮しているのである。

彼は九州に下る第一の計書が全く水泡となって、行家と別れるに臨み、彼が頼らんとしたものが二つあった。その第一は実に後白河法皇である、法皇の恩寵はその心に銘ぜしところ、彼が頼朝追討の宣旨を賜はつて、最後の御暇を申すや、恐らく優渥なる勅諚を蒙つたものであろう。第二に彼が依らんとしたのは近畿地方の寺院である、南部北嶺をはじめ、富力に於ても、兵力に於ても、舊時代の勢力として、優に武家階級に對抗せるのみならず、當時幕府の草創日猶浅く、鎌倉の威力は未だこれに加えられず、多くの守護不入の特権を有して、檢断追捕も武士の自由にならぬところであった。彼が幼時から関係深き鞍馬はいうに及ばず、叡山、興?寺、さては多武の峯、吉野山など、また所?なきにあらず、彼は此等寺院の衆徒に頼ると共に、法皇の庇護によってその身を全うし、好機の到るを持って、その家のために盡さんと決心した。

彼は先づ後日河法皇に頼らんとしたであろうが、京都はすべて鎌倉方の武士がこれを固めて居る、そして攝津から要所々々を破って上洛するは易けれど、また輦轂の下を騒がすは固より義経の意ではなかった。彼は天王寺から吉野へと志し、暫く潜伏することとなり、愛妾靜を呼び迎へて數日ここに逗留し、衆徒などを説いたが彼等が一致して義経を援くること六ヶしいため、十一月二十二日靜をはじめ佐藤忠信等と、落ち着くところは京都ぞと、再會を約して別を告げた。

やがて彼は雪踏み分けて多武峯に上り、大織冠鎌足の影前に額づき、その武運を祈った後、南院藤室の十字坊を音問れ、その庇蔭の下に、また暫く滯留して居た。そうすると一日、十字坊が義経に相談するには、
「この寺は広くもなく衆徒も少し、永く隠れ居たまうべきところ非ずと存じ候、十津河は人馬も通はぬ深山なれば、御隠家には屈竟の処なるべし、早く落ちさせたまへ」
と、懇に義経を勞はりつつ、道徳、行徳、捨悟、捨禪、樂圓、文妙、及び文實など、武勇の聞え高き僧八人をして、十津河まで送らしめた。

静は吉野に義経と袖を分ったが、遂に吉野執行の手にかかりて生捕られた、そして十二月八日時政は早速兵を吉野に遺し、義経を捜り尋ねしめ、その行衛を静に尋ねると、
「大物が浦の大風に散り散りとなり、その夜天王寺に一宿し侍り、伊豫守殿一人跡を晦まし給ひしが、その折の御言葉に、今一雨日もせば迎のものを遺し候はん程に、暫し待候へ、もし猶ほ日數立たば、早く何方へも逃げ隠れようと仰、やがて其日となり馬送り給ひつれば、これに乗りて、何處とも知らず急ぎ侍る程に、三日を経て吉野山に着きまいらせ、五日ばかり逗留せし後、既にまた伊橡守殿と別れまつる、その後の行方更に存じ侍らず、妾とh深山の雪を凌ぎ、漸く蔵大堂に辿りしところを、執行の手には捕らへられ侍る」
との返答に、時政早速この趣を鎌倉に報告したが、その結果はいよいよ関東に召し下さることとなった。

翌くれば文治二年三月一日、静は母の磯禪師と共に鎌倉に着いて、安達新三郎清経の宅に預けられた。三四日旅の勞を休めた後、清は營中に召し出され、筑後守俊兼、平盛時の二人を以て、改めて義経の事訊問あり、「先達ての申状に、義経吉野山に逗留する趣、如何にも信用されぬ次第」と詰められしに、清は憶する色もなく、
「山中と申したるには候はず、吉野山の僧坊とこそ申し侍れ、吉野の衆徒蜂起して、伊予守殿を攻めると聞え候により、山臥の姿したまひ、大峯に入らんとして、かの坊主に送られ、山に入り給ひしを、妾も慕ひて一の鳥居あたりまで参り侍りしに、女人の入峯禁制のよし、見送りの僧申し候へば、引き還して京都に罷り上らんとし侍りしが、伴につれ侍りし雜色等女と侮り、所持の金銀を盗みて遂電し候ひつれば、降り積む雪に踏み迷い、蔵王堂に出で出で侍る」
重ねてその坊主の名を尋ねると、清は忘れたりとて口を閉づる。京都でいったことと、口状に相違あり、法に任せて召し問へと、頼朝は大に不興であった。

四月四日。頼朝は夫人政子と鶴が岡八幡宮に参詣舞のの序、静を廻廊に召し、彼女の舞曲を見ようということになった。元来静は常時京洛に隠なき舞の上手、鎌倉に着いた後既に一たびその命があったけれど、病気と称してこれに應ぜず、この度の仰にも、「身の不肖は致し方ないが、義経の妾として、かく晴の場所に出づるは、如何にも恥辱に思う」といって渋っていた。しかしこの天下の名人が、隅々鎌倉に下って、帰京の日も近づいたのに、これを見ぬのは、如何にも残念と、政子が頻りに所望するので、されば八幡宮の冥鑒に備へ奉れとて、更に厳命を下さるるに、静はなおも、「義経と別れてまだ日も立たず、別離の涙止められず、舞を舞う心地もせぬ」と、座に召されながらも固く辞退したが、再三の仰、今はとて彼女はその優しき顔に決心の色を浮かべて起ち上った。

工藤左衛門尉祐経は鼓の役、畠山庄司重忠は銅拍手の役、二人は楽座に直って畏まった。頼朝は政子と居並んで簾中にあり、居並ぶ鎌倉武士を前に控え、静は水干を着けて、その絶妙な?芸を舞い始めた、そして歌い出した和歌一首。

 よしの山峰の白雪路み分けて
  入りにし人の跡ぞこひしき

彼女の前には、頼朝もなければ、政子もない、また何ぞ片々たる鎌倉武士あらんや、ただ吉野の雪中に別離の紅涙を濺(そそ)いだ、九郎判官その人の優しき姿が、彷彿として眼前にちらつくのみである。彼女の舞はその感情と共に、今やその高潮に達し、白雪の袖を翻へし立舞ふさまは、正に八幡社頭壮美の極であった。

 やがて別物の一曲を歌った後また、
  しづやしづ賤のをだまき繰反し
   昔をいまになすよしもがな

と和歌を吟じ終り、舞の袖を収めて舊の座に復れば、一座酔へるが如く感に入り興を催すばかりであった。

その時頼朝は一人眉打ひそめて、「八幡宮の賽前に於て芸を施すときには、関東の萬蔵をこそ祝すべきに、余の面前をも憚らず、反逆人の義経を慕い、別の曲を歌うには奇怪至極」と頗る不興の身体であったが、政子は流石に女である、

「我が君流人となり、伊豆におはしましし頃、妾が君を慕いまいらせし折の心にくらべ、また石橋山の合戦に、濁り別れて伊豆山に留まり、君の生死も知らず、日夜魂を消ししことを思い出し侍れば、今もし静の心中、伊予守多年の好を忘れて、恋い慕はぬこともあらば、貞女の姿に候はず、あはれ色に顯はし風情に寄せ、心の中の悲しみを、それとなく延べ侍りしは、奥床しき静の振舞、枉げて賞翫(しょうがん)あらせたまへ」

と和めたので、頼朝も仕方なく、卯花重の御衣を簔外に出し、纏頭(てんとう)として静に賜うた。

この八幡社頭に於ける静の振舞は、鎌倉時代に於て最も忌憚なく、女子の貞操と意気地とを示したものである。その武将の愛妾となり、その夫の末路にあって、流離艱難の末、權勢家の前に引き出されたことは、義経の母常磐と最もよく似て居る。いはば嫁と姑、不思議にも同じ経路を辿り、同じ運命に弄ばれて居るのでありが、二人の性格は全く相反して居る。常磐は温順しい、そして情よりはむしろ分別力に富んだ女で、義朝に操を立て通さず、遂に他に縁づいた、常時に於ける普通の婦人であった。静は感情的な勝気の婦人で、飛ぶ鳥落す頼朝の前に、忌憚なくその義経を慕う心中をいって退けたのは、如何にも天眞爛漫な痛快なところがある、これまた實に義経に愛せられた所以。

常磐と静、その天下の美人であったことは同様であるが、常磐は初め九條院の雑仕で、むしろ腰元気質を最もよく現はして居る。しかし静はもと京の白拍手、舞に於て常時並ぶも操が如何も気高く且つ健気であったかは、次の事實で証明さるるであろう。

五月十四日のことであった、工藤祐経、梶原景茂、千葉常胤、八田朝重、藤判官代邦通など、面々若等を相具して静の旗宿に推参し、静の郢曲(えいきょく)を肴に酒宴を催し、打興じじさへ静には無礼と思われしに、中には景茂藪盃を傾けし後、静に向って艶めかしい言葉を通ずるに至って、静は泣いてこれを怒り、
「伊予守殿は鎌倉殿の御連枝、妾は彼の御方の寵者、御家人の文際として、慮外にも程あるべし、伊予守殿牢浪の身となりたまはずば、和主など封面するも六つかしきに、かかる艶言武士とも覺えぬ」
と、言葉鋭く面責した。鎌倉随一の佞邪な人物として恐れられ、その夫義経をして踏天跼地の人たらしめた梶原景時の第三影茂に、かくまで手痛き耻辱を興へて、全く顔色なからしめたのは、実に義経の妾たるに反かぬ烈婦といはねばならぬ。

時に静は義経の胤を宿して居った、それがまた頼朝の耳に入り、二葉の中に艾れと無情な厳命が、安達清経に下り、その子の生るるまで、静母子を鎌倉に留むることになって居たのである。もっともその子が女子ならば別に咎もないであったが、やがて月満ちて閏七月廿九日、静は玉の如き男子を生んだ、そして彼女が刹郡の喜は、忽ち永劫の非と変わって、安達清経も同情の涙なき武士ではなかったのであろうが、君命是非なく、その男子を由比が濱に引き出して捨てさせんとした。静はどうしてもその子を出さぬ、母の磯禪師が鎌倉の譴責を恐れ、如何に静を説いても、静はその子を放さなかった。それで無理に赤子を取ってヤツト清経の使者に渡したということである。鶴が岡の社頭に於て義経に対する静の愛情が最も明快に示さるると当時に、ここにまたその子に対する彼の女の慈愛が極端に現されて居る。誰かまた静に同情せぬものがあろう、政子も頻りに頼朝を宥めた、しかし意思の強い、政治的に極めて冷静であった頼朝は、遂にこれを聴かなかった。

この點に於ても、また静と常磐ともに面白い反対がある。常磐は母を助けんが為に、義朝の忘れ形見三人を伴って六波羅に自首した、がその母は老先き短き命惜しからじと、その身を捨てて三人の公達を助けようと嘆願している。然るにこの公達の一人であった義経の妾静は、自ら死んでもその子を放すまいと抵抗するのに、その母は、その身のために、この子供を奪って之を殺させようとした。常磐の母には堅気な武士的家庭が偲ばれ、静の母には白拍手子のような遊女的家庭が浮んで来る。

九月十六日、静は涙ながらに、母と共に鎌倉を出発して帰洛の途に就き、政子や姫君からはいろいろの物を賜うて労はり還された、がこの後静の消息は遂に聞くところがない、恐らく彼女は果敢なき浮世の悲惨なる運命に泣き暮らしたことであろう。

 

第十一章  了
 


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源義経研究

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2001.06.28
2001.09.17 Hsato