義經の幼児

 
義經の幼児における事蹟は詳しく分っておらぬ。平家の全盛の陰に隠れて僅かに成長した源氏の公達の幼児がむろん当時の正史に載っているはずがない。それで多くは伝説である。確かな記録には何ら出ていないと言ってよい。ただ僅かに他の事件の関係などから想像し得られる位に過ぎぬが、普通の場合で考えて見ても、幼児の事蹟というものは大抵詳しく分からないし、また間違ったことが多い。本人は固(もと)より後世の証拠となる様な物を書いておらず、世間でも後日その人が偉くなって始めてこれを穿鑒(せんかく)して伝記を作るのである。近頃の人物伝でも幼児の事には意外に誤っていることがある。義經の如き数奇の幼年時代を有するものにあっては猶更のこと、いろいろ面白い話が加わっているのもやむを得ぬ次第である。がまたその間に一條の光明が義經の幼児を照らしている。それが軍記物語などにおいていかに彩られているかをみよ。

さて平治の合戦に敗れて、左馬頭義朝は東国を指して落ちて行く。軍(いくさ)に伴った程の子供は矢張り一緒に引連れて行ったが、何分危急の場合、洗浄から直に落ちたのであるから、幼い子供や女の子などは何とも処置を付ける暇がなかった。これは平治元年十二月のことである。しかして義朝は尾張の国まで行って、野間の内海で殺され、源氏はほとんど滅亡という有様で、源氏の公達の運命は実に悲惨なものであった。

始め義朝が都を落ちる時は同勢三十人余であったが、途中で二十余人に暇をやり、又中には討たれたものもあり、近江の国青墓へ着く前には嫡子悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、三男右兵衛佐頼朝、その他鎌田兵衛正清、金王丸などの郎党主従合わせて八騎となった。青墓の長者大炊(おおい)が女(むすめ)延寿は豫て義朝に愛せられ、夜叉御前と言ってその時十歳になる女の子がある。で一旦大炊(おおい)の許(もと)に着いて、義平は東山道を攻め上れ。朝長は信州に下って甲斐信濃の源氏を催すべし、義朝は自ら東海道を攻め上らんと、再挙の謀(はかりごと)を定め、まず義平は飛騨へ向かって出発し、朝長は信濃を指して出かけたが、朝長は手創を負っているので、堪えがたくなって途中から引き返してきた。そしてこの処にいて敵に生捕られんよりも。なにとぞ自分を殺してくれと言うのを聞き。それでこそ義朝の子であると、義朝は涙を揮(ふる)って彼を刺殺し、やがて尾張の方へ発って行ったのが、その最後の運命であった。

悪源太義平は飛騨へ行った。一時は付き従う兵も多かったが、義朝が討たれたと聞いて皆心変わりして逃げてしまう。義平は失望して自害しようとしたけれども、いたずらに死ぬよりは、清盛なり重盛なり、一人でも討って無念を晴らさんと思い返し。竊(せつ)に京都に上って六波羅を窺(うかが)ったところを、遂に露見して捕らえられ、六条河原で斬られた。

頼朝はまだ十三の子供で、終日の軍(いくさ)に疲れてはいるし、途中後れがちであったが、青墓の手前行き深い山路でとうとう一行に遅れてしまい、やっと山賤の老人夫婦に助けられて一月余も隠れていた。翌平治二年二月となって雪も消えたので、彼はまた青墓に下り、大炊(おおい)が許(もと)へ行って色々好遇されたが、やがて東国へ下らんと急いで出発したところ、美濃国関ヶ原で平ら頼盛の家人彌平兵衛宗清が尾州より上洛するのに行き遇い、これに捕まって京都へ連れて行かれた。かの延寿の女(むすめ)夜叉御前は、頼朝が捕まったからには、自分も義朝の子である以上、とても助けられはすまいと行って、身を河に投げて死んだ。武士の子は幼い女でもその様に雄々しいものかと、哀(あわれ)を催さぬ者(が)なかったということである。

頼朝は宗清に預けられて愈々(いよいよ)殺さるることに定まったが、宗清は情深い武士である。頼朝が親も兄弟も討たれたからは、出家して後世を弔いたいと言うのを聞き、いかにもこれを憐れと思い、頼盛の母で清盛の継母に当たる池の禅尼に縋(すが)って命乞(いのちごい)をした。池の禅尼は慈悲深い人でもあり、亡くなった実子右馬助家盛の幼立つに、頼朝が似ていると聞いて、一途に頼朝を助けたく思った。まず重盛に頼んで清衡を説かせたが、清衡が頑として聴き入れなかったので、禅尼は老いの一徹涙を流して清衡を怨むという様な次第、重盛も閉口して、再び頼朝と二人で色々清盛に執成し、頼朝一人を殺しても、尽きる家宝ならば尽きねばならぬ、平家の運が末になれば、国々の源氏は皆敵になるであろう。、頼朝を助けて置いても、平家の運さえ盛(さかり)なれば恐れるに足らぬと、理攻めに清盛に説いた末、清盛も遂に我を折り、頼朝の命を助けて、伊豆の国へ流すこととなったが、それは虎を千里の野に放つようなものであった。

義朝は東国に落ちて行く際にも、この公達のことが気に懸かり、郎等金王丸を途中から帰して「今は合戦に打負け、何処を目的ともなく落ちて行く、何処なりとも落ち付いたらば迎え取るであろう。それまでは山の中になりとも身を匿(かく)して消息を待て」と行ってやった。常磐の悲嘆は言うに及ばず、幼い子供も声々に父上何処と泣き慕う意地らしさ、金王丸もしばし涙に暮れていたが、かくてはならじと、急ぎ暇を告げて義朝の跡を追った。

やがて平治元年も暮れて、常磐は涙の中に新年を迎えていると、正月五日の朝に金王丸がまた訪ねて来て、馬より飛び下り、しばしは涙に沈んでいたが、右馬頭は去る三日に尾張の国で長田四郎に討たれたと言う。常磐をはじめ幼い子供も泣き悲しみながら、途中の事なども聞き、然(しこ)うした軍(いくさ)の中からもかくまで気に懸けていられた子供の事。これから奈何して育てようかと、常磐はただ途方に暮れているのみであった。

平家の方では義朝の子供の詮議(せんぎ)が始まった。常磐の腹に生まれた三人、それも皆男子であるというので、いよいよ捜索が厳しくなった。常磐はこれを聞いて、自分は右馬頭に後れて何という頼(たより)もなく、この遺(わす)れ形見があればこそ慰みもするに、もし敵に捕らえられるようなことがあったら、片時も生きている心地はせぬ、さればと言って何処に隠れるという便もなし、おのれ独(ひとり)の身を隠すことすら難しいのに、まして三人の公達を伴っては、誰に匿(かくま)って貰えようと頻(しき)りに嘆き悲しんだ。

余りの頼りなさに、年比信仰する観音菩薩の力に縋(すが)る外はないと、常磐は三人の子を引き連れて清水寺へと志し、老婆にも知らせねば供をも伴われず、今若を先に立てて乙若の手を引き、牛若を懐(ふところ)に抱いて夕暮に宿を出て、仏前に参って終夜祈誓をこめ、翌朝師の坊に入れば、坊主は平素知合の事とて、不便に思ってしばらく忍んでいよ、と言ったけれど、この処は六波羅も程近し、何時平家の人々に知れぬとも限らぬと、又夜中に清水寺を辞し、南の方大和路を指して落ちて行く。

女子供の習わぬ旅路に、二月十日の頃ならば余寒なお烈(はげ)しく、足は破れ衣の裳(すそ)は血に染み、ようやく伏見に着いて姨(おば)を尋ねた。が今は謀反人の妻子、余の聞こえも五月蝿のであろうか、不在と称して相手にせぬ。常磐はもしやと思って空しく待つ中に、日もいつしか暮れ果てた。やむを得ず怪しげな民家に淋しき一夜を明かし、又辿って行く程に、今若乙若もはや疲れ果てて地上に打伏すのを、一人を抱いた上に二人の手を引き腰を押し、行き艱(なや)んだ有様目も当てられず、行き過ぎる旅人も憐(あわれ)を催し、子供を抱いてやり背負ってやった。そしてようやく大和国宇陀郡龍門という所に着いて、常磐は侘びしく伯父の許(もと)に隠れていた。

平家では常磐の行方が知れぬので留守の老母に尋ねたが、一向に知らぬと言う。清盛はさらば先ず老母を搦め取れと、武士を遣って六波羅に引き出し色々に責め問うたが、自分は六十にも余る老いの命、今日明日も知らぬ身を惜しんで生い先長き孫の命を失うはずもなければ、知っていても言いはせぬ、況て知らぬものを何と答えようと、老母は健気にも抗弁するので、水火の責にも及ぼうとする。常磐は大和にあってこの事を伝え聞き、この公達も謀叛人の子とあるからには遂に殺されもしよう、所詮隠しおおせぬ公達のために、科もない母の命を失うに忍びぬと、復三人の公達を伴って都に帰り、先ず前に仕えていた九條院の御所へ参り、何とぞ妾を六波羅へ送って、母の苦しみを止めさせたまえと願った。女院を始め祇候の人々常磐の心を汲み、年比この御所へ参ったのは皆人も知っていることであるからと、相応の身装させ、綺麗な車に乗せて、母子四人を六波羅へ送り届けられた。

常磐は六波羅へお尋ねの公達伴い参れり、早く母を助けたまえと涙ながらに嘆願する。いかにも神妙とあって清盛常磐に対面すれば、常磐は今若乙若を左右の脇に引き寄せ、牛若を抱きつつ、母は元より科なき身なればおゆるしあれ、また子供の命を助けられよとは申さず、されど親の子を思う心に変わりはない、子供を失い片時もこの世に生きている心地もし侍らねば、先ず妾を殺して後、この公達をいかようにもせられたならば有難い御情け、この上命を長らえて夜嘆き悲しむに堪えぬと。落ちる涙を抑えもあえず掻口説けば、六つになる乙若母の顔を見上げて、泣かずによく話しを申したまえと、幼心に母を案ずるいじらしさ、常磐はいよいよ涙に咽(むせ)んだ。

さしも強情な清盛も頻りに涙を催したが、押し拭(ぬぐ)い押し拭いして左あらぬ体を装うている。居並んだ強者どもも皆袖を絞り、中には座に堪えずして出て行ったものさえあった。常磐はこの時二十三歳、もと九條院に召し抱えられた時、千人の美女の中より百人を選び、百人の中より十人、十人の中の一人として選び出された絶世の美人、幼少の時より官仕をして物にも慣れ口の利きようも上手で、何ともいえぬその風情に、人々の感動したのももっともであった。

かくて老母は許されることとなった。しかし老母はいかにも健気な婦人である。明日をも知らぬ老いの身の助かったとて何になろうぞ、常磐はなぜこの老人を助けようとて、かのいたいけな公達伴い申したのであろう。和こよりも常磐よりもまずこの老母を殺したまえと泣き悲しむ。清盛はややしばらく打ち案じ、義朝の子供の事は清盛が私の計らいあらず、君の仰せにより執り行うべきもの、朝廷に伺った上、いずれとも定める外はないと言う、一門の人々並びに侍(さむらい)ども、いかにも心弱いこと仰せられる、かの者どもの生長は今すぐのことなれば、後々のため恐ろしい心地がすると、顔見合わせて清盛の決心を促せば、誰も然り思うに無理はないが、既に兄頼朝を助け置く上は、すぐ幼い弟を殺すと決する訳に行かぬと、清盛は遂にこれを取り合わなかった。

で母子もろとも一まず命を助かって沙汰を待っていると、いよいよ頼朝は伊豆に流されることとなった。三人の公達はいずれへ流罪になることかと、常磐は頻りに心配していたが、まだ幼少の身であるというので、そのまま都に留まり、何事もなく済んでおった。

以上述べたところは「平治物語」に見えた筋である。この物語は元より事実を修飾して、面白く美しく書いてあるのはいうまでもない。これをすべて事実であると考えるのは無論間違っている。しかし全然これを作者の文筆に任せて造り出した話とも観ることができぬ。かの大和国龍門のあたりに常磐が身を寄せたことなど、後に義經が都を落ちて逃げ隠れる折、義經主従がこの地方に行ったのを考え合わせれば、必ずしも全く縁がないことではない。又常磐が美人であったことも事実であろうし、清盛がこれに対面した記事が宛然一場(えんぜんひとば)の演劇を観るが如き中に、義經ら兄弟三人が助命せられる相当の理由があるように思われる。そして彼らがただに流罪とならなかったのみならず、京都附近に住むことを許されたことも、この後の事実で明瞭である。

この「平治物語」の外に、この間の事情を詳しく面白く書いたものが「義経記」という有名な書物である。この書は義經の出生から最後まで、全編ほとんど小説といってよいほど歴史から遠ざかっている。したがって「源平盛衰記」などにない部分が、特に詳細に描写されている。中には、あるいは単に作者の想像であるまいかと思われるような、そしてあるいは今日に伝わらぬ材料を有っていたではないかと考えられる程、事実らしいところがないでもないが、それはただ作者の想像が、最もよく事実に近づいたというに過ぎぬ。

それで私はもとより「平治物語」の全部を信ずるものではないが、多く当時の言伝えを存し、その根拠とするあるものを有したことを難有(はははだありと)思わねばならぬ。そしてその著述の年代が、鎌倉幕府時代であったことに、武士道の黄金時代ともいうべき六百年のわが国民思想が窺われるもの多いと信ずる。もしこの国民思想が、義經の出現した頃―平家の全盛時から鎌倉幕府の初めまでにも既に観るべきものがありとすれば、「平治物語」によし誤ありとしても、その間に現れている人々の関係と、それから起こった各人物の思想とを辿るには、他に好い材料がない以上、多くのこの類の書に拠る外はないと思う。さればこの「平治物語」の一段には、主人公たる悪役清盛も活動している、が常磐の老母が、いかにも義気に富んだ行動は、さすが将来において武士道の権化たるべき義經の祖母として恥ずかしからぬ一個の烈婦たることを、最もよく活躍せしめられているのを、私は作者に感謝する。

かくて常磐が三人の公達を助けて貰った後日談はいかに。彼女は果たして清盛の妾となったであろうか、「平治物語」や「源平盛衰記」は簡単にそのことを是認している。清盛は常磐を愛して六波羅の近所に住まわしめこれに通っていた。そして女の子が一人その腹に生まれた。その女が後に花山院の左大臣兼雅公の上臈女房となり、三條院とも、廊の御方とも称し、和琴の名手であり、非常に書が巧みであった。もっとも一説には、大納言有房卿の北の方になったと伝えられている。

しかし常磐は永く清盛の寵妾ではあり得なかった。やがて一條大蔵卿長成の妾となって、その間に数人の子ができた。そしてその子息がこの縁に繋がれて、後に義經を援助したことも事実である。「吾妻鏡」には、清盛の妾となったことについて何らの記述がないが、義經は父の喪に遇ってから、継父一條長成の扶持により、出家のために鞍馬に上ったと出ている。少なくとも常磐が長成の妻となったのは疑いないことであろう。

常磐の節操については、昔からいろいろの人が色々の議論をしている。第一に、常磐が清盛の意に従い、その三人の公達を除名せしめ、遂に源氏の再興となったのは、偉い節婦で、貞操を破って貞操を全うしたのであると評している。またあるいは夫、義朝の敵たる清盛の妾となったのは一個の淫婦である、これを烈婦などなどとは思いもよらぬことで、日本の婦人としてこれを恕すべきではないと非難する。第一説は結果から原因を論ずる論理の誤謬(ごびょう)で、第二説は後世の心をもって古(いにしえ)を律する道学的酷評である。

婦人の貞操について、極端な女大学的倫理観が出来上がったのは、まず江戸時代に入ってからであろう。源平時代の社会では、まだそんな考えは生じていなかった。もっとも夫の死んだ後に再嫁せず、一生操を守ったものも、早くからわが国の歴史に現れている。そして王朝時代には、これを節婦としてシナ流に門閭(もんりょ)に旌表(せいひょう)せられたことが散見しているのであるが、当時源平時代にあっては、夫の没後再婚することが、普通に当然であると考えられていたように思われる。

木曽義仲に愛せられてその最後まで従った勇婦巴御前も、虜にされた後、頼朝方の和田義盛の婦人になったという伝説がある。この巴御前と並び称せられた板額も、捕らえられて、おめおめ敵方阿佐利興一の妻となったことが「吾妻鏡」に出ている。また清盛の子を産んだ厳島の内侍は、越中の前司平盛俊の妻となったが、後一ノ谷の合戦で盛俊が討たれてから、今度は土肥実平の妻となったと伝えられ、かの有名な曾我兄弟の母は、兄弟の父河津三郎祐康が殺された後、曾我太郎祐信に再縁したではないか。今暫且「平治物語」や「源平盛衰記」の説に従って、常磐が清盛の子を生み、また長成の妻となったのを是認するも、当時においては、別に世人から非議せられたり、噂に上るようなことがなかったであろう。要するに常磐はその時代における普通の婦人に過ぎなかった、いわばその時代の産んだ婦人であったのである。

また常磐が源氏の再興を図るためにその貞操を犠牲にしたというのも、常磐を一種の烈婦にしたい考えから、彼の「義経記」に基づいて編み出したものであろう。「義経記」には、清盛が常磐を引見してたちまち心を動かし、もし我に従いさえすれば、後にはいかなる仇ともならばなれ、三人の公達を助けんと、七條朱雀に常磐を置いて、絶えず文を遣ってこれに迫った。常磐は貞女両夫に見えずという語にも外れ、世の人の誹(そしり)やあらんと、初めはその文を取りても見ずにいたが、三人の公達を助けて源氏を再興したいばかりに、遂に清盛の意に従ったと述べてある。これは常磐に同情し、清盛を悪み、また常磐を主人公たる義經の母として、非常に偉い婦人としたい所から、後世の心で想像を加えた根拠のない説である。

もちろん常磐はその母を助けたいため、その身を犠牲にして六波羅に自首したのであるが、また三人の公達を、いとし可愛いものと思ったに違いない、されどその公達が助けられるように、その身を犠牲にして清盛の意に従い、しかもそれが源氏を再興せんためであったと考えられるであろうか。後に牛若を鞍馬に上らせたときに、牛若が武芸にのみ心を寄せ、毫も出家の素振りがないのを心配して、常磐が後夫の長成と相談し、牛若に出家させようと、いろいろ手を尽くしたのを観ても、そんな意志がなかったとするのが妥当である。

想うに三人の公達を除名させられたのはむしろ常磐の思い設けなかったことで、もし彼らを出家させて義朝の跡を弔うことが出来たら、それで満足したであろう、そしてそれ以上貞操の問題には没交渉であった。確かに貞婦両夫に見えずという語に反している。要するに源氏の再興と常磐とを結びつけたのは、後に頼朝が起こり、義經が活動したことから附会された憶説に過ぎぬ。それで常磐に大使、もし罪すべきものあるならば、むしろ時代の罪、その時代の道徳について攻撃の矢を向けねばならぬ。私は現今においても、社会道徳の改善が根本的に必要であると、常磐を評するについて痛切に感じるのである。

次ぎに清盛をただ単に常磐の色香に迷って義朝の遺子を宥(許)したというのも、清盛にとっては少し冤罪ではあるまいか。仮に「平治物語」の説くところを事実として考え得るも、荒くれ男の膝詰談判とは違い、絶世の美人に泣きつかれたならば、清盛の強情も多少鈍ったか知れぬ。しかし三人の公達を、いかにしても宥さねばならなかった大いなる理由は、兄の頼朝を赦したことであった。頼朝は義朝の最も望みを託したいた子供で、十四にもなって既に官位はあり、戦争にも出た、いわば後世最も恐るべきものである。その頼朝を宥しておいて、頑是ない子供を殺すのはいかにも道理上矛盾であると、清盛自身感じたのは当然であろう。頼朝は清盛から既に重く見られていたと見えて、池の尼が命乞いをしたときに、頼朝は官位も兄に越えているには定めし偉い所があるのであろう、父もそれを見込んだが、重代の中にもとりわけ秘蔵の物具などを与えている、旁々棄置難しと、清盛が言ったことがある、然るに一方はまだ八歳や六歳の今若、乙若、ましてや二歳の牛若が、将来軍陣に臨んでは頼朝以上に恐るべきもので、終わりに平家の運命に止めを刺したかの義經であろうとは神ならぬ身の清盛が知るよしもなかった。否、何人といえども予想し得たことではない。

以上常磐に関する事実は、とにもかくにも、その三人の公達はここに命を助けられた。そして兄の今若は醍醐寺で出家の身となり、禅師公全成、いかにも荒っぽい人であったから悪禅師と言われて、後に駿河に下った。次の乙若も出家して公卿円済と言い、後には後白河法皇の皇子八條宮法親王に仕えて坊官となった。最後の牛若はまだ乳離れもせぬ子供なので、やがて一條長成の家にその母と共に養われていたが、彼が七歳の折、鞍馬寺に上って東光坊阿闍梨を師に頼むこととなった。「平治物語」には東光坊の弟子、禅林坊阿闍梨覚日に預けられて遮那王と言ったとあるが、後に義經が頼朝と不和を生じ、踪跡(そうせき)を暗ました折、東光坊阿闍梨が隠(匿)まった嫌疑をかけられた事実から徴(しる)しても、禅林坊はとにかく、東光坊と義經の師弟の関係があったことは確かである。

牛若が鞍馬に上ってからの事蹟には、またたちまち黒幕が下りる。それを切って落とすと、「平治物語」または「源平盛衰記」などに多少の矛盾と衝突とをもって、義經の修養時代の活劇が始まってくる。

牛若は十一の歳となった。ある時、家々の系図を見ると、清和天皇十代苗裔、多田満仲の末孫八幡太郎義家、引き続いて六條判官為義の嫡男左馬頭義朝の末子が、彼自身であることをはじめて知った牛若は、ここにはじめて平家を滅ぼし、父義朝の亡霊を慰めんと、幼な心にも思い立った。この後彼は、昼は終日学問をしていたが、その学問は多く六韜三略であった。そして夜になると、人知れず鞍馬の山奥に武芸を稽古し、早足飛越、人間の業とは思われぬ程に上達した。師匠の東光坊をはじめ、牛若に出家を勧めると、二人の兄が出家したのさえ残念であったなどと言って、牛若はなかなか承知せぬ。強いて言えば手向うという有様、母の常磐も継父の一條大蔵卿も力を添えたが、何と言っても聴かないので、一時は平家に聞こえることを心配し、ただハラハラとしているばかりであった。

やがて牛若が十六の歳になったのは、高倉天皇の御宇承安四年、平重盛が宇近衛大将に任ぜられた平家の全盛時、牛若に取っても、記憶すべきことが起こった年である。頃は弥生の春、大宮人が都の花に浮かれていたとき、鞍馬の山に参詣した一人の商人があった。それは京奥州を上下していた金売吉次というもので、牛若は吉次に、何とかして奥州に連れて行ってくれ、奥州には偉い人を知っている、謝礼には黄金を貰ってやると頻(しき)りに頼んだ末、密かに鞍馬を抜け出でて、その夜近江の国境の宿に着いた、そして自ら髪を取り上げ、懐から烏帽子を取り出し、心ばかりの元服式を挙げて、源九郎義經と名乗り、日を重ねて吉次に伴ひ奥州に下った。

この事は『源平盛衰記』によると、少し異なった話しになっている。牛若は鞍馬に上ったけれども学問はせず、ただ武勇を好んで弓箭、太刀、刀、飛越、力業などをして谷峰を走り廻るという風で、師匠も持て余していたが、十六の歳の正月、師匠が出家をさせようとすれば、僧は経を読み書物を知っていなければならぬ、自分の様な文盲な者は法師になっても仕方があるまいといって嫌がるので、師匠も勝手にせよと笑って止んだ。それから牛若は七八日の間頻りに何か考えている様子であったが、夜の内に突然居なくなってしまったので、母の常盤なども一緒に一緒に方々を尋ねたけれど見えなかった。するとその年の二月に、尾張から上がってきた弟子僧が話しの序に不思議な事には此所に居れれた遮那王殿が元服をして、金商人と連れ立って下られるのに行遇った、よくよく見ればまだ鐵漿(てつしょう)も落とさず居らるる、そこでこっそり尋ねて見ると、如何にもして亡父の耻を雪(すす)がうと思い立ち、運を天に任せてこれから東の方に行くが、板東に名有る者一人として父や祖父の家来でないものはないと聞くから、何とかなるだろうと思って下るのである、師の御坊にもよろしく伝えてくれといって、涙を流されたと物語った。そして師匠も常盤も外聞を憚(はばか)り、この事は秘密の中に葬って終わった。

牛若が初めから奥州の藤原秀衡に頼らんがために、金商人吉次を道案内として鞍馬を抜け出でたのであるか、また板東の武士が皆父祖以来恩顧の臣であるから、何とかなるであろうという考えで東国に下ったのであるか、今いづれともここに定むる訳には行かぬが、この両説は共に相当の理由がある。『吾妻鏡』に近江源氏の佐々木秀義が平治の乱に敗れて知行を没収されたとき、子息を引き連れて東国に下ったのは、秀衡に頼る積であったと見えているのでも、当時平家の権力外で、源氏に好意を持っていると思はるるところが、この奥州であったことは争はれぬ。義經が若し金商人に案内されたとすれば、牛若の心中すでに決していたであろう。しかも東国の武士と源氏との関係が深いことも、牛若はまたよく知っていたに相違ない。それでこの両説を総合して考えれば、あるいは初め東国に落ち着くところがあったら、東国に留まらうし、若し東国に落ち着くところが見出せないなら、陸奥まで下ろうという考えであったとするのが、如何にも自然ではあるまいか。

とにかく牛若は亡父の仇を討たんがために、出家にもならず、密かに鞍馬寺を逃げ出して東国に下り、奥州に落ち着いたのは事実である。そしてこの陸奥は青年時代の隠れ家として最も安全なところであったばかりでなく、後に失意の末路に於いて、その最後の地をこの奥州に選んだ程、奥州と義經とは因縁深きものとなった。ここに少しく奥州の藤原氏について述べて置くのも、徒事ではあるまいと思う。

奥州の藤原氏は平将門を討った藤原秀卿の子孫といわれているが、その勢力を得たのは後三年の役に義家を助けた清衡以来である。前九年の役に安倍氏の所領は清原氏に帰したが、その清原氏の有がまたこの時清衡の所領となり、清衡は殆ど奥州の全部を領して、白河の關から外が濱まで二十日を要するという位、時に攝政関白たる藤原氏の家来となって代々その富を私している。それにその地には砂金を産して、財力の豊かなことはまた他に見られぬ国であった。

されば京都の有名な建築家や、彫刻家などを頼んで、輪奐たる寺院、壮麗なる仏像を始め、当時中央を凌ぐようなものが造立された。清衡の建立した中尊寺の如き、最も盛なる時は、寺塔四十余り、僧坊三百余り、その中でも金色堂といって今なお有名な建築は、上下四方の壁内殿皆黄金を塗り、堂内に須彌壇を設け、その柱など皆螺鈿(らでん)を鏤(ちりば)め、本尊の阿弥陀如来を始めとし、仏像は有名なる佛師定朝の作であった。その壇の下には清衡以後の遺骸を納めた立派な棺が安置され、江戸時代に修繕の折り、清衡、基衡、秀衡三代のを出して見たら、その遺骸が木乃伊の様に、まだ完全に残っていたということである。

また一切経なども金銀泥経の非常に立派なもので、今もその経堂に残っている。清衡はまた延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺の如き大寺院のみならず、支那の天台山などで千僧供養などを営んだ、その費用は莫大なものであったろう。死ぬ年には逆修といって生存中自分の供養をする。それを毎日続けて百ヶ日目に無病往生を遂げたとある。二代目基衡の建立に係わる毛越寺は、寺塔四十余り、禅坊五百以上、金銀を鐫(せん)えた紫壇などを以て金堂を造り、壮観眼を驚かすものであった。その本尊薬師如来を作るについての一の話しがある。それは当時の名工雲慶にその費用を尋ねたところ、上中下の三段があると答えたが、流石の基衡も中段で御免を被った。しかしその中段というのが、先づ黄金百両、鷲羽百尾、水豹皮六十枚、絹千匹、細布二千反、駿馬五十匹、白布三千反、忍綟摺千反、これに山海の珍物などを添えて、それで三年かかった。その間馬で物を運ぶに絶え間もない程であったが、尚もその外に引出物として生絹を船三艘ほど贈った。佛師に大いに悦んで、練絹ならば尚も有り難いといったので、更に練絹を船三艘贈った。

もちろん仏像の製作は京都でやったのであるが、鳥羽天皇がこの事をお聞きになって、佛像を御覧になったら、非常に立派なので、これは京都から出してはならぬとの仰せがあった。基衡は大いに心配して、時の関白に頼んで漸(ようや)く勅許を得たということである。佛像一つにこれだけの金を掛ける位であるから、以て他を推すべしであろう。

尚、藤原氏の財力の豊富を証するものは、後文治三年の六月に奈良の大仏の修復について、幕府の棟梁(とうりょう)たる頼朝が黄金千両を寄進したのに対し、秀衡が5千両を寄進したことである。また頼朝が奥州征伐の時、秀衡の子の泰衡はその平泉の館に火をかけて逃げたが、焼跡数町に及んで、僅かに庫が一棟火を免れていた。頼朝がこれを検分させたところ、沈紫檀などの唐木製の厨子(ずし)があって、それには牛玉、犀角、象牙の笛、水牛の角、瑠璃の笏(しゃく)、その他、錦繍綾羅数え切れない程、入れてあったというが、これらの品が当時いかに貴い物であったかは、ここに言う必要もあるまい。

かく財力が豊かであれば、したがってまた兵力も盛んであったに違いない。かの『義経記』に金売吉次が牛若に向かって盛んに秀衡の優勢を説き、十四道の弓取り五十万騎、伺候の郎党十八万騎といったのは、むろん作者の駄法螺(だぼら)ではあるが、そのいかに東北に雄を称していたかが想像せられる。

右のように藤原氏の勢力は強盛であり、奥州の土地は沿革であるから、秀衡の代においても、平氏の勢力はついにここまで及ばなかった。いわば藤原氏は平家の管轄以外で、必ずしも平家の命令を聴く必要がなかったので、後に頼朝が兵を挙げたとき、平家から頼朝追討の命を秀衡に発したこともあるが、無論秀衡は、その命を奉じている平家全盛の時代において、見渡すところ平家と拮抗し得るもの、また平家の追補を免れる隠れ場所は、実際この藤原氏の外になかったのである。かの金売吉次なるものが、義經に話さなかったとしても、秀衡の優勢は当時隠れなき事実である。しかも藤原氏は義家を助けて功を立て、それから勢力を得たのであるから、源氏とは深い縁故がある。義經が唯一の隠れ家として、また平家を討つ後援者として、これに眼を着けたのは当然と言わねばならぬ。

義經下向の後、秀衡がいかにこれを待遇したか、詳しい事は分からぬ。『平治物語』などには公然義経を奉ずれば平家に聞こえて面白からず、追い出しては弓箭の恥なり、両国の間国司目代の外はみな秀衡の自由になれば、それとなく忍んでお在あれと言ったとある。だいたい平家に楯突く必要もないのであるから、この際平家に知れぬ様に巧みに匿っていたことであろうと推測する。

義經はかくてついに奥州に下った。そして平家を討つ機会を狙らいつつ、腕をさすってここ数年の光陰を送っていたのである。
 

第三章 了
 
 


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源義経研究

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2000.9.5
2000.10.12Hsato