五 宇治勢多の戦
  

義経は黄瀬川の陣で、はじめて兄頼朝に対面し、共に鎌倉に帰った後、九郎御曹司殿と敬われていたが、元来彼が藤原秀衡の忠告をも聴かず、無理に奥州を飛び出したのは、その兄を思った真情は無論のことであるが、ただ一日も早く平家を滅ぼし、亡父義朝の怨を報ぜん為のみであった。されば頼朝が徐(おもむろ)に天下の形勢を窺(うかが)い、容易に鎌倉を出なかったことは、如何に彼をして懊悩煩悶せしめたであろう。

養和元年の七月、鶴岡八幡宮の上棟式に、頼朝は義経と共にこれに臨んだ、そして大工の棟梁に馬を引けと義経に命じた。義経は一応辞退したところ、頼朝が怒って、卑い役であるから余の命に従わぬのであろうとまで詞セ(れいげん)を放ったので、義経も已むを得ず、畠山重忠、佐貫廣綱を従えて、二疋まで馬を引いたということである。かくて義経は、頼朝の命ならば、どんな事でも之に従った。また頼朝は、その弟でも平御家人同様、絶対に彼の命令を奉ずべき実例を、ここに示して見せたのであろう。

されどこの時また、頼朝の胸中にはや義経を代官として上洛せしめんと決していたのではあるまいか。よし東国が根柢から既にその勢力範囲となっても、頼朝はなお自ら軽々しく根拠地たる鎌倉の地を離れるものでない、彼はその代官となり得べき、地位あり才略あるものを物色して、ここに義経という申し分なき最も適当して人物を得たのである。それでこの上棟式に於いて、かかる卑役を義経に勤めしめたのは、その代官となる後といへども、何事に依らず彼の命令に服従すべきことを暗示したものであるまいか。

この年十一月、三位中将維盛が東国に打って下ると聞き、頼朝は義経を大将とし、足利義兼、土肥実平、土屋宗遠、和田義盛以下の軍兵を率いしめて、遠江の国まで出陣させた、これが実に義経の大将となって軍陣に臨んだ最初である。しかし維盛は近江あたりに滞陣して何時下向するやら分からず、それに十郎蔵人行家が、尾張の国で平家の軍を防いでいた

から、頼朝はその軍を一時鎌倉に引き帰さしむることとした。義経が髀肉(ひにく)の嘆は蓋(けだ)し想像以上であったであろう。

然(しか)るにやがて時機は到来した。寿永二年の冬、平氏は次第に勢力を回復し、安徳天皇を奉じて将に京都に迫らんとしている。義仲は京都にあって後鳥羽天皇と後白河法皇とを挟み、ますます暴威を振るってきた。頼朝も最早東国に引き込んでいるに堪え得なくなった、しかも後白河法皇が内々秋波を頼朝に投げていられるではないか、頼朝はいよいよ決心した。この年閏十月ごろ、まず東国の年貢を朝廷に上つるという口実の下に、義経に齋院次官中原親能を副へ、五六百騎の軍勢を従えしめて、京都に向かい出発させた、しして十一月の上旬にははや近江あたりに到着し、義経は窃(ひそか)に京都の様子を窺(うかが)っている。

この時京都では、義仲の率直な、粗野な武士的行動が、一変して狼藉(ろうぜき)となり、乱暴となった。この月廿一日の法住寺殿の焼打、さては公卿殿上人の解官など、彼が思うままなる振舞に、後白河法皇は遂に密勅(みっちょく)を頼朝に下して、義仲を討たしめ給うこととなった。義経はその折り一時伊勢にいたらしい、院の使北面の下臈(げろう)公卿朝等は、伊勢で義経にその旨を伝えている。義経は「頼朝の下知なくては義仲を討つ訳に行かぬ」といって、早速飛脚を差し立てて鎌倉に下し、その帰り次第上洛しようと返答した。やがて使が鎌倉に着いて頼朝に委細を通ずるや、機到れりとばかりに頼朝は直ちに院宣を奉じ、更に弟蒲冠者範頼を上せて、義経と共に義仲を討たしむるに決し、急ぎ御家人を催した。

『源平盛衰記』には、はじめ年貢を京都に上った時から、範頼も上洛の途についたとある、そして院使が義経に遇ったのを、尾張の熱田であったように書いている。しかし当代に於ける日記中の白眉ともいうべき『玉葉』に記してある事柄を総合すれば、義経は十一月の初め、不和関から近江に入っている。そして朝廷でも、京都に入らしめようと、義仲との間に御相談があった。恐らく義経は、佐々木一族を率いて、その旧領地たる佐々木庄あたりを根拠として活動したらしく思はるる。或いはその間また平家と関係深き伊勢伊賀などを討って、後顧の憂なからしめんと計画したではあるまいか。

想うに義経は、鞍馬の山にいた時から、一日も亡き父の仇を報いることを忘れる暇がなかった、か今や彼は、年来の仇たる平家を討つ前に、まず義仲と雌雄を決せねばならぬのである。当時義仲は殆ど百戦百勝の武将で、旭将軍の雄名は天下に轟き、その下には樋口兼光、今井兼平などの四天王が控えている。義経如何に心ばかりは逸っても、まだ二十六歳の若武者、しかも軍陣に於いては一度も経験がない、それに彼と共に大将となった範頼が平凡な人物であることも、彼のよく知っていたところであろう。勝つも負けるも、その運命は一に彼の双肩に懸かっている。彼は何らの神算鬼策をもって、義仲の軍を蹴散らし、京都に討ち入らんとするぞ。

元来京都に入るには、丹波口が大原道、摂津からは山崎の橋と淀の渡、この三道は西国から京都へ入る搦手(からめて)と大手である。関東からは、第一に近江の勢多を渡り、逢坂山へかかって栗田口を入るのが、当時の本道であったが、それよりも京都に取って大切な入口は、搦手ともいうべき大和口なる宇治の橋、これは奈良法師が春日の神木を奉じて嗷訴(ごうそ)するとき、いつも武士に防がしむる所で、治承四年以仁王の落命せられた戦場の跡、源氏にとって思い出多いところである。

瀬多も宇治も、琵琶湖から流れ出づる急流滔々(とうとう)として矢よりも迅(はや)く、共に京都に大切な要害であるが、宇治は瀬多よりも更に要害であった。そして一度これを破れば、直ちに長駆(ちょうく)して京都に入ることが出来る、従って瀬多よりも、その防備がまた厳重を極めていた。

まず橋坂を取り去って、それらを北岸に積み上げて櫓(やぐら)を構え、垣楯を作っている、そして水底には乱杭逆茂木隙なく打ち、大網小網を引張り流し懸けて、鴦(おしどり)、鴨などの水鳥でも輙くくぐり通ることが出来ぬかのよう、しかも川辺狭くて大軍の寄せ付くべき所がない、所謂一夫之を守れば萬卒攻め難しといふべき要害、無論義経は自ら之に向かって進むことに決心した。

義仲は東軍が攻め上る噂を聞いて大いに驚いた、同時にまたその兵が平軍に備前に水島で敗北し、平家が近く京都に向はんとする報を得て、彼は今や東西に敵を受ける不利な境遇にあるのを覚った。この際如何に所すべきかは、その最も苦心したところであらねばならぬ。年来の仇たる平家と今更連合することは、固より大なる苦痛であるが、しかし頼朝とは到底両立し得ぬことを知り抜いている。彼は遂に決心して平家に和睦を申し込み、一ト先づ北国に下って後圖をなすことに定めたのである。然るに平家は一日も早く京都に入りたいので、また政略上から打算して、一時休戦的和睦を結ぶことは、決して平家に不利でない、それに義仲から頻(しき)りに平和を申し込むだのであれば、立派に優勝者たることが出来るのであるから、幾たびか交渉の末、義仲と平家との和睦は成り立った、それは元暦元年の正月九日である。

そこで翌日の十日、義仲は後白河法皇を奉じて北陸道に下らんとしたが、それは失敗に終わった。恐らく後白河法皇がいろいろ阻害せられたにもよるであろうが、また平家も、今義仲に法皇を奉じさせて北国に下らしむることは、ただ義仲の勢力を加える所以であるから、これに故障をいって来たと思われる相当の理由がある。

さり乍ら後白河法皇の運動も平家の故障も、或いは義仲が予期していたことであろう、もし京都に踏み留まることが危ういならば、彼は無理にも北国に下ったに相違ない。彼は寧(むし)ろ平家の軍お見縊(みくび)っていた、しかし東国兵の手並みは彼の大に恐れたところである。ゆえにこの場合、もし源氏の大軍が殺到したことを知ったら、その寡兵(かへい)を以て京都に踏み留まるを敢(あ)えてしなかったであろうが、近江に出して置いた郎党から飛脚があって、義経の軍勢は僅かに一千騎ばかりに過ぎぬ、到底味方に敵でないから、北国へ下向するに及ばぬといって来た、それに平家がいよいよこの十三日に京都に入るという前触れがあったので、固より義仲とても心からの和睦でなく、京都を平家に委することを欲しなかったことは当然の事であるから、彼は遂に北国に下ることを中止した。

義経が急に多数の兵を近江に集中しなかったのは、義仲をして北陸道に下らしめぬ作戦計画の一つでなかったであろうか。彼は一挙して義仲を滅ぼすには、義仲を京都に引き止めしかも平家との連合が固くなる前に、一日も早く討たねばならぬと考えたに相違ない、ゆえに近江にはただ一部隊を出して義仲に安心すると同時に、もし北国に下るようなことがあったら、直ちにその後を押さえて、京都との連絡を断つ形勢を示し、その軍兵は出来るだけ後方に集中せしめ、機の到るを待っていたのであろうと思う。

それで義仲は、幾たびか北国に下らんとして、しかも断然京都を去ることが出来ず、遂に俎上(そじょう)の魚となって、義経に料理せらるるに至ったのである。

正月十五日、義仲は征夷大将軍の宣下を蒙ったが、それはただ春宵一刻鷹生の夢で、粟津が原の朝霧と消ゆるまでの運命に過ぎなかった。そしてこの十五日に、義経は近江にあった東軍を前進せしめて、義仲が出して置いた軍兵を威嚇したらしいので、義仲の軍勢は皆引き上げて京都に馳せ還り、東国の軍兵数萬騎攻め上り、衆寡(しゅうか)敵せずと報告に及んだ。
これには流石の義仲も非常に驚き、十六日にはまた後白河法皇を奉じて勢多に向かうなど、風評とりどりであったが、東軍は急に攻め寄せる気色を見せぬので、義仲は遂に京都に留まった。がさきに不和となった十郎蔵人行家、河内に立て籠もって敵対に及ぶとの注進に、まずそれを討てと、彼は樋口兼光を大将として軍勢を河内に遣した。

しかしそれは全く義仲の失策であった、彼は余り多からぬ軍勢を、更に小勢として了(おわ)ったのである。しかもこの時、東軍は既に勢多宇治に迫って、将に京都に攻め入らんとしている。彼はこの小勢をも、また三つに分けねばならぬこととはなった。まず今井兼平、三郎先生義廣を将とし、五百余騎の兵を率いて勢多に向かわせ、根井行親、楯親忠を将とし、三百余騎を率いしめて宇治に向かわせ、彼自身は僅かに百余騎の手勢で、京都に留まり院の御所を守護している、その総勢合わせて一千余騎、ただ東軍の馬蹄に蹂躙(じゅうりん)せらるるを待つのみであった。

義仲は余りに勢多宇治の天険を頼み過ぎた、また余りに義経を見くびり過ぎていた。この時彼にしてもし後白河法皇を奉じ、その総勢を纒(まと)めて勢多に向かい、範頼を破って更に義経と戦はんか、萬一利あらざるも、直ちに北国に下り再挙を図ったら、ただに死地を脱することが出来たのみならず、或いは大いに源氏の軍を苦しめたかも知れぬ。しかし義仲をしてこの最後の策出でしむるには、義経の策戦計画は、より以上に巧妙であった。義経は前にもいった如く、一方では義仲に気を許させて京都に留まらしめ、一方では後方に味方の軍を集中し、機を見て急に京都に迫らん準備をしていた。そしてまた義仲の兵力を出来るだけ割かんと謀(はか)ったであろうと推測されるのは、この際行家が兵を河内に挙げたことで、恐らくその間密に連絡を通じていたのではあるまいか。行家の挙兵と共に、疾風の如くその兵を前進せしめて、義仲に迫った義経の胸中には、既に確信があったに相違ない。

かく義仲の兵力を寡くするに苦心したことから考えても、『源平盛衰記』に東軍の数五萬五千騎とあるのは、軍物語に常なる誇大された兵数で、余程割引きせねばならぬと思う。

義仲の一千騎に対する五萬五千騎、凡そ五十五倍の大兵が、東軍にはないのはいうまでもない、が両軍の兵数を比較したら、無論東軍が優勢であったろう。義経には今度の合戦が初陣である、また東軍の全部も初陣といってよい軍気を引き立てる上から見ても、必勝の算が立たなければ進んで攻むべきものではない、丁度日露戦争に於ける鴨録江戦のようなものである。

それに義経は義仲が平家の大軍を破った手並みを知っている、また勢多にせよ宇治にせよ、天険に拠(よ)った防備が十分出来ていた。この場合攻撃軍の兵数が、防御軍よりも多くなければならぬのは、戦略上昔も今も変わらぬ原則である。且つ頼朝に取っても今度は天下分け目の第一戦である、鎌倉から出来るだけ多くの軍勢を上せたことも想像するに余あるであろう。しかしその実数は、後ち一の谷を攻めた兵数から推して、如何に多く見積もっても、まず三四千騎以上に出でてはおらぬ。

さて東軍はいよいよ勢多宇治を攻めることとなったが、前にも述べた通り勢多も宇治も、河は底深くして流荒し、しかも共に橋を引いて厳重な防御を備えている、普通の馬のよく渡すべきところではない、この度の合戦に必勝を期せねばならぬ義経の苦心は、その兵数を多くすると同時に、その軍兵を如何にして渡すべきかというにあった。ことに当時の戦争は騎兵戦であったから、ただに河を渡すばかりでなく、優秀なる馬を有っていることが必要であった。幸なるかな東国は奥州をはじめ名馬の産地が昔から多かった、武士も多く馬術に熟練していた。義経は最初から最もよくこの東国の馬と、その馬に馴れた武士とを利用せんと考えていた。そして侍所の命令によって御家人の面々、大名小名我も我もと駿馬を引いて上洛の途に就いた。

『源平盛衰記』によれば、義経の科には薄墨、青梅波という名馬、範頼は一霞、月輪という駿馬、熊谷次郎直実は権太栗毛、畠山重忠は秩父鹿毛、大黒人、妻高山鹿毛と、皆当時に名高き逸物を引いたのであったが、ここに佐々木高綱と梶原景季とに関し面白い挿話がある。或いは全然作者の編み出したものであるか、或いは多少の誇張を加えたものであるかを問題としても、この挿話にはいかにもよく鎌倉武士の面目を躍如(やくじょ)たらしめている、そしてまたこの際彼等が如何に名馬に執心したかをみるに足るものである。

ここに頼朝が秘蔵の名馬に生妾、磨墨という二頭があった。御家人の面々いよいよ出陣する際となって、景季は頼朝の御前に参り、弓矢取る身の冥加に生妾を下し賜わって、この度宇治河の先陣勤めたしと、傍若無人に申し出たので、頼朝はやや暫く案じていたが、「この馬は大名小名八ヶ国の者は兎に角、蒲冠者にすら許さぬものぞ。源平の合戦、さては義仲の追討に、もし頼朝自ら出陣することもあらば、その時の料にせんと思う、それにも劣らぬ磨墨を預けん」
と、厩から磨墨を引き出さしめて景季に賜わった。元より磨墨とてまたなき名馬である、景季は面目を施して退出し、勇んで出陣の途に上った。

翌日朝まだき、また頼朝の館に伺候した一人の武士があった。彼は近江から最後の暇を告げるため、鎌倉に下ってきた佐々木四郎高綱その人である。

「近江より直ちに打ち入るべきに候えど、軍の習ひ命を君に捧ぐる上は、再び生きて帰らん心候はず、今一度見参に入って御暇を申したさと、何れの討手に向えとの仰承りたく一旦鎌倉に馳せ下って候。志はかように候えど、一匹持ちし馬は疲れて役に立たず、親しき者どももはや打立ち、誰に尋ね乞うべき人もなく、大名小名既に上りぬるに、今までかくて候」

と申すに、頼朝もその真心に動かされ、
「態々下向、今に始めぬ志神妙なり、今度の合戦宇治河の先陣渡すや如何に」

高綱畏(かしこま)って、
「近江育ちの者にて候、間近き宇治河、深さ浅さ淵瀬まで委しく存じてこそ候え、彼の手に向かい申さば、先陣は高綱と思し召されよ」

高綱の答を聞いて、頼朝は、必ず先陣つとめて高名せよと、遂に第一秘蔵の生妾を賜った。
高綱今生の御恩、希代の名目と、生妾を引いて館を出でんとするに、頼朝はまた暫しと呼び止め、
「この馬、蒲殿をはじめ所望の人多く、中にも梶原源太執心なりしが、もしもの事あらば自身の料にせんとて、誰にも許さぬものぞ、その旨を存ぜよ」
とあるに、高綱落ち付き払って座に直り、

「宇治河の先陣勿論にて候、高綱もし軍以前に打死したりと御聞あらば、先陣は人に渡されたりと思し召せ、もし又戦場に生き残ると御聞あらば、先陣は高綱なりと思し召せ」
言い切って高綱は御前を退出した。

さて各鎌倉を打ち立って、足柄箱根と、思い思いに京都を指して馳せ上り、やがて駿河の浮島が原に人馬を休めていたが、その間も梶原景季は、磨墨ほどの名馬を引けるものなしと誇り顔に振る舞っているところに、生妾を引いて通る舎人があった。誰の料ぞと尋ねるに、高綱の馬と聞いて、彼は非常に憤慨した。再三懇望した生妾を高綱に賜わるとは遺恨千萬、左様な偏頗(へんぱ)なる事せられる上は、時に取って目の敵、高綱と引組んで刺違え、恥ある侍二人失い、鎌倉殿に損させんと、景季は高綱を今か今かと待っている。高綱は何心なく来かかり、景季の只ならぬ容子を見、さては頼朝の注意この事なりと、子こりしながら打通らんとすれば、景季は、
「如何に佐々木殿、あの御馬は上より給わり候か」
といひ懸けて押し並んだ。高綱莞爾と打笑う、

「馬に事闕き、御厩の馬一匹預らんと内々聞き合するに、磨墨ははや御辺に賜わったり、生妾は蒲殿にも御辺にも、再三の所望なりしに御許しなしとの事、所詮高綱などに賜はらんこと六ヶし、さりとて君の御大事、この度の軍、馬なくては叶はじ、後々の咎(とがめ)あらばあれと、御厩のものを語らい盗み出したり。只今にも御咎の使あらんかと心元なし、もし御勘当もあらば、御辺然るべく執成したまへ」
といへば、景季誠と心得、

「如何にも佐々木殿、輙く盗み出されたり、この定ならば景季も盗むべかりしを、兎角正直にてよき馬は得られぬものよ」
と笑いつつ、心打解け共に連れ立って途を急いだ。

勿論この話し事実としても、多分粉飾されているであろう、しかし高綱と景季の二人が、如何に宇治河の先陣を心懸けていたかという意気込みが想像されるではないか。ただに高綱景季ばかりでない、それは東軍全体の心であった、そしてまた実に義經が必勝を信じて義仲の軍に当たった所以の一であった。

義経の軍は伊賀路を笠置くへかかって宇治に出で、平等院の北の辺富家の渡に着いた。それが正月二十日のことである。河辺に出て見ると、無論宇治橋の橋板は引かれている。義経はまず水練の達者なものに命じて瀬踏をさせ、河中に張り渡した縄を断ち切らせた。そして同時に平山武者所季重、渋谷右馬允重助、熊谷次郎直実等は橋桁に上り、矢を放ってこれを掩護(えんご)していたが、やがて畠山重忠をはじめ、全軍流を乱して宇治川を渡さんとする所に、平等院の小島崎からかけ出づる二騎の武者があった。それは高綱と景季である。いずれか先陣と見るに、景季颯(さっ)と討ち入って一段ばかりも先に進んだのを、高綱後より声かけて、

「如何に梶原殿、この河は大事の渡。御辺の馬の腹帯窕んで見えるぞ、鞍踏み返して敵に笑われ給うな」
というのを聞いて、さもあろうかと景季は馬を止め、鐙踏張り立ち上り、弓の弦を口に加え、腹帯を解いて引き詰め引き詰めしている内に、高綱打渡して駆け抜けてしまった。馬は生妾とい屈竟(くっきょう)の逸物なり、宇治河早しといえども、淵瀬といわず、一文字に渡して向うの岸に打上り、佐々木四郎高綱宇治河の先陣と名乗れば、景季は欺(あざむ)かれたりと続いて渡し、中流で押し流されながら、必死の勇を鼓して遙下より第二陣に上陸した。

この先陣争は、前の名馬と合わせて有名なる話しであるが、少なくともこの二人は宇治河の殊勲者であった。夫は後に義経が院御所に伺候(しこう)するとき、重忠重助等と共にこれを随へているのでも推量されるであろう。或いは承久兵乱の折、北條泰時が大将として宇治を攻めたとき、佐々木信綱が先陣した『吾妻鏡』の記事に、多少jその間に類似があるので、それから潤色された作り話であろうという人もあるが、余は寧(むし)ろ今度の合戦が後に泰時の手本となったではないかと想像すると共に、いつも関東武士の勇ましかった面影を偲ぶものである。

佐々木梶原一陣二陣に渡すと見るや、秩父、足利、三浦、党も高家も我も我もと打渡し打渡して河を渡したが、中にも畠山重忠の勇ましき活動は人目を驚かした。ここに『源平盛衰記』に見えている、河を渡す馬の扱い方は、実に当時の水馬先法が如何に進んでいたかを知るに足るものである。曰く、かやうの河を渡すには馬筏(いかだ)を組み、健き馬をば上手に立ててはげしく流を防がせよ。弱き馬をば上手に立てて、ぬるみに付けて渡すべし。馬の足の届かん迄は手綱をくれて泳がせよ。馬の足はづまば弓手の手綱をさし広げて、妻手の手綱をちと縮めよ。四居(馬の鞦(しりがい)の辻)にのりこぼれて泳がせよ。手綱強く引いて馬を引かれて誤ちすな。尾口沈まば前輪にすがれ。馬に石突せさすな。

水しとまば三頭(馬の付根)に乗さがり、鞍坪を去って水を通せ。河中ににして弓引かざれ。射向の袖を真顔に当てて、鐙(あぶみ)を常にゆり合わせよ。敵は射るとも射かえすな。相引して■射らるな。痛くて俛て頂辺射らるな。水の上にて身繕いすな。物具に透間あらすな。弓に弓を取違えて、前なる馬の尻輪三頭に、後の馬の頭を持せて息を継がせよ。我が馬弱しとて、人の馬にかかりて二人ながら推流されるな。水強くして流れん武者をば、弓の弭(ゆはず)を差し出して取り付いで泳がせよ。馬の頭を水面に引き立てて、弓の本筈童すがりに打ち懸けて、えい声を出して馬に力を添えよ。金(流と直角)に渡して過すな、水に従い流渡に渡すべし。これは義経の下知にも、重忠の指図にも略同様である。そしてまた彼の以仁王の合戦のときに、平家方下野国の住人足利忠綱が三百余騎を率いて宇治河を渡した條にも見えている。

義仲方は主将根井行親武勇萬人に勝れた強者であったが、ハヤ東国勢に河を渡されたり、七八度まで返し戦ったけれど、衆寡(しゅうか)敵せず遂に退却して、その兵も四方に散って了(おわ)った。

そして義経の軍は直ちに長駆して、木幡醍醐路にかかって阿彌陀峰の東麓に出でたのもあれば、小野、勧修寺を通って七條に出たのもあり、或いは深草、伏見と道は異なっても同じく京都に乱入し、義仲の軍と六條河原に戦った。

義仲は宇治の敗報を得るや、まず院の御所に参り、法皇を奉じて出ようとし、既に御輿を寄せて臨幸(りんこう)を強請せんとしているところに、東国の軍勢最早木幡伏見まで攻め寄せたと聞いて、止むを得ず臨幸の意志を抛(なげう)って院中を駆け出で、六條河原に至って宇治の残兵を合せ三百余騎となったが、義経の軍と戦って散々に打敗られ、粟田から長坂の方に出で、勢多の軍に加はらんと、近江を志し落ちて行った。

義経は直ちに後白河法皇の御所に参り、門外にあって馬に乗りながら高声に、頼朝の使者として、舎弟義経宇治路を破って馳せ参じたる趣を奏聞した。この時義経に従った兵は畠山次郎重忠、渋谷右馬允重助、河越小太郎重房、佐々木四郎高綱、梶原源太景季、主従六騎門外に下馬し、法皇の御気色によって中門の外、御車宿の前に並んで立つ。法皇御覧の上、一同の年齢姓名住国などを御下問あって、面魂骨柄勇々しき壮士であるとの仰に、皆々面目を施した。上も下も皆義仲の乱暴に閉口していた最中に、乗り込んできた義経が歓迎されたことは、想像せられるであろう。

勢多に向かった範頼は、田上の貢御瀬を渡り、石山道に攻め上って今井兼平と戦った。兼平の兵は僅かに五百騎、範頼の軍に敵すべくもあらず、防ぎ兼ねているところに、宇治の手既に敗れて、東国勢京都に入ったとの報知が来た。兼平今は義仲の身の上心元なしと、討洩された三百騎ばかりを率いて、大津の方に向かう途中、粟津の浜で義仲に行き遇った。見れば義仲は悪戦苦闘七八騎に打ちなされている。主従の眼底には涙があった。

やがて瀬多の残兵また馳せ集まって、四百余騎となったのに力を得、義仲は越前の方に下るつもりであったが、範頼の大軍に立ち替わり入れ替わり攻め立てられ、三百騎となり、二百騎となり、百騎となり、遂に二十騎となって東軍に攻籠められた末に、それをやっと駆け破って後に通ると、去年六月北陸道を上った時数萬騎と称した義仲の勢は、今粟津の戦の終に、いよいよ主従二騎となっていたのである。そしてその一人は実に義仲の乳兄弟今井四郎兼平であった。

頼朝を漢の高祖とすれば義仲は今楚項羽と同じ運命となったのである。向こうの岡に見える一村の松の下に、心閑に自害せんと、畷(なわて)に沿って歩ませ行き、氷柱むすべる田を横に打つ程に、深田に馬を乗り入れて、打てども打てども動かばこそ、馬も弱り主も疲れたり、兼平やつづくと振り返ったその刹那、東軍の矢彼の額に当たって忽(たちま)ち生命を奪った。そして兼平も最早これまでと、馬上に太刀の切先を啣(かん)へ、落ち貫いて壮烈なる自害を遂げた。

かくて旭将軍の威勢を振るって京都を振駭(しんがい)せしめた義仲の最後も、思えば存外脆(もろ)いものであった。が、之をして然らしめたのは、実に九郎義経その人の力で、これからいよいよ天下は源平の対立となり、義経をして亡父の怨みを晴さん宿志を達せしむることとなって来た。
 
 

第五章 了
 


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源義経研究

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2000.10.2
2000.10.20 Hsato