一 武士道の権化
 
 

我が大日本帝国は尚武の国である、神武天皇、日本武尊、神功皇后をはじめ、皇室の方々は申すも畏し、建国以来ここに数千年、武を以て功を成し名を遂げた幾多の名将勇士が、炳焉(へいえん)として国史の上にその事蹟を留めている。そしてその間に、我が国の精華というべき武士道は、比類なき発達をなすに至ったのである。

さりながら彼の平清盛の如き、源頼朝の如き、さては東洋のナポレオンと称せられる豊太閤や、日本のシャーレマン帝と呼ばれる徳川家康など、武将から出た大人物が、必ずしも武士道の権化ではない、彼等はむしろ大政治家の標本となるのが適役である。又た武田信玄、上杉謙信をはじめ、戦国時代の豪傑も、多くは風雲に際会して、旗を京師に樹てんとした功名心に駆られたもので、余がここに伝えんとする武士道の典型ではない。

古来我が歴史に現はれた、もっとも武士らしい英雄の一人として、先づ指を屈すべきは、坂上田村麻呂であろう。田村麻呂は、長い間叛服常なかった蝦夷を討ち平げ、我が東北の辺土をして、全く王化に潤(うる)わしむるに至つた大将軍である。怒れば猛獣も潜伏し、笑へば赤子も懐(なつ)くと伝えられているのでも、その人物が想像せらるるではないか。

この田村麻呂に次いで、武士道に光輝を放っている名将は、何というても八幡太郎義家である。義家は板東武士を率いて、前九年後三年の両役に勇名を轟かし、優に柔しき武士、物の哀(あわれ)を知れる大将として、非常に将士の心を得、遂に源氏の根拠を東国に置いたと言われている。彼が安倍定任を追懸けて弓を引きながら「衣のたては綻(ほころ)びにけり」と詠じたのに、定任後振り向いて「年を経し糸の乱れの悲しさに」と、直ぐ上の句をつけた風流に感じ、彼が定任を見逃した事は、武士道の美談として、世に名高い話である。また後三年の役に、義家が清原武衡を討つのに困難せる際、その弟新羅三郎義光が、兄の危急を救わんため、検非違使の官を抛(なげう)って、京都から遙々(ようよう)奥羽に赴(つ)いたことも、実にこの兄にしてこの弟ありというべき武士道の佳話で、今なお人口(じんこう)に噌炙(そうしゃ)するところである。

しかし田村麻呂も、八幡太郎も、新羅三郎も、武士道史の上から観れば、まだ発展時代中の人々で、しかもその事功が、主として奥羽地方なる東北の辺陬(へんそう)に限られ、その当時の中央舞台に大なる活躍をした次第でない。若し今、その人出でずんばの感あらしむる程、我が国史の上に重大なる関係を有する人物にして、武士道の典型と仰ぐに足るものを捜さんとするならば、矢張りこれを武士の黄金時代というべき鎌倉時代前後に求めねばならぬ。

後醍醐天皇南狩以後にあっては、極めて少数の人々を除いて、武将の多くが只管権勢(しかんけんせい)を得んとし、功名心の奴隷となつて了ひ、彼の戦国時代の如き弱肉強食の世となり、ここに武士道の堕落時代が現はれて来た。されば英雄も出で、豪傑も出たであろうが、純粹潔白な、毫末(ごうまつ)の私心を挟(はさ)まぬ、一身を犠牲にして武士道に殉ずるやうな武将は、最早(もはや)殆(ほと)んど観ることが出来なくなった。従って武士道の権化と称すべき武将は、源平時代から南狩時代初期までの間に、これを求むるの已(い)むを得ざることとなるのである。

ただここに一言すべきは、鎌倉時代を中心としても、歴史上に大なる関係を有する人物を物色すると、またその多くは権略に長じ、政治家的色彩を帯びている。従って武士道の典型権化として仰ぐべきものは、実に指を屈するに足らぬほどで、余はただ僅に三人、しかりただ三人を得たのみである。先づ至誠君に奉じ、挙族賊に斃(たお)れた楠木正成、皇国の興発を双肩に荷つて、大勇猛心を決し、元寇を追払った北条時宗、及び家のため親のために、獅子奮迅(ししふんじん)その身を顧みるに暇なかつた源義經、この三人に過ぎぬ。この三人は皆国史の上に至大なる関係を有し、その人出でずんば、如何に歴史が変化せられたであろうと思わしむる人物で、しかもそれぞれ最も善く武士道の各方面を人格化したる我が国民の精華である。正成の忠君、時宗の護国、そして義經の孝道、それがすべて武士的に発現せられて、武士道の三方面が、この三人によって最も高潮に達していることを、吾々国民に示している。

楠木正成の忠魂義膽(ちゅうこんぎたん)は、早く『太平記』で伝えられた、そして水戸義公が「鳴呼忠臣楠氏墓」の碑(いしぶみ)を建てられてから、楠公は永く国民崇敬(すうけい)の標的(まと)となり、今も湊川に祭られている。また北条時宗が護国の為に尽瘁(じんすい)した勲功(くんこう)は、北条氏の罪を償って余りありとまで、日露戦争によって我々国民に痛切なる感動を与えた、そして当時贈位の宣命(せんみょう)まで賜っている。

義經も、『源平盛衰記』や『義經記』に先ず数奇の運命を書かれ、あるいは謡曲に、戯曲に、恐らく義經ほど、多く主人公として我が文学に活動し、その家のため親のために、身を犠牲としたことは、多くの世人に閉脚せられている。あるいは、単に一個の兵略家たる武将として、むしろ一般に知られているが、その兵略戦術についてすら、進んでこれに十分研究を加えたものはないといって良いのである。甚だしきに至っては、兄頼朝との不和を以て、罪を義經に帰し、その人格までこれを疑うものがある。が余は今ここに明言する。義經は武士の花である、武士道の権化である。武士道から観た孝道、親の敵を討つためには、その身をも、何物をも犠牲にした勇士であると。そしてこの武士道の権化たる義經にして、若し多少なりとも古来寃(えん)を蒙っているならば、これを雪(すす)ぐことが、実に幼少の頃から最も好きであった九郎判官その人に対する、余の義務であるかのように感じるのである。

最も我が国の政治史の上からいえば、あるいは義經は大なる人物でないかも知れぬ、又大なる事功を成した人でないかも知れぬ。しかし義經の出現は、当時の歴史において頗(すこぶ)る重大なる関係を有している。頼朝が鎌倉に幕府を開き、遂に六十六国の総追捕使、征夷大将軍右代将となることが出来た、その一半の功は義經に帰しても差し支えないのである。若しこの時義經が出なかったとしたら奈何であろうか、栄華を極めた平家の潜勢力はなおも日本の半を支配し、北国を根拠として掘起(発起)した木曽義仲は、京都に後白河法皇を擁(よう)して旭将軍の威を振っている。関東の勢力を集中して、偶を負った虎の如く自重して動かざる頼朝に假令猛士林の如き、三代重恩の諠(よしみ)を報ぜんと構えているにもせよ、又北条時政の如き、大江廣元の如き、謀将策士を控えているとは言え、ほとんど手も足も出すことが出来なかったであろう。この時に当たって、まず義仲を粟津が原の露と消えしめ、進んで平家を西海の波に沈めて、頼朝をして独り威力を擅(ほしいまま)にすることを得しめたものは、実に九郎判官義經その人であった。しかも義經の末路を観よ、兄頼朝はその事功を奪い、彼を悲惨なる運命に陥れて終わったではないか。これ義經が天下後世に多大の同情を得る所以ではあるが、また彼の事功が多く覆われて蔽(おおわ)れている所以であろう。

されど余が義經を伝せんと欲するのは、ただその事功に重きを置くものでない、寧(むし)ろその人物である。武士の権化として仰ぐべき人格に在する。一言にしていえば、彼は日本人気質を最もよく具備している、率直な、豪勇な、しかも情深い、仁義に厚い武将であった。彼が一代の歴史は、竹を割るような痛快な生き方に、変化に富んだ数奇の生涯を貫いている。その間に花も実もある武士的性格が憚るところなく流露して、ただに源平時代を飾れる随一の花形役者であるのみならず、我が国史を通じて、最も尊敬し、最も追慕すべき人物である。

更に翻(ひるがえ)って、前に挙げた坂上田村麻呂、八幡太郎義家、新羅三郎義光の事功人物と、義經とを比較せよ。余はこの三人を合わせて造り上げたような武将が源平時代に出たのを、源九郎判官義經でないかと思う。

第一、義經を坂上田村麻呂と比較するのは間違っていないか。田村麻呂は桓武天皇の時代において、奈良朝以来幾度か失敗し、ほとんど手古摺(てこづ)っていた蝦夷征伐を仕遂げて、さしも凶暴な蛮族をしてこの後大に反乱すること無からしめた人である、身の丈五尺八寸、體(体)量二百斤もあったという偉丈夫、その戦争の仕方は正兵堂々、まず一歩を占むれば能くその一歩を守り、段々と進んで行く筆法、終に蝦夷の巣窟を覆した。義經はこれに反して小柄な軽捷な体格であったらしく思はれる、その戦争もむしろ奇兵を用うるに長じ、強襲を試しみることにおいて、古今独歩の妙を得ていた。しかも田村麻呂の相手は、ただ頑強な夷というだけで、今日における台湾(だいわん)の生蕃(なまはん)見た様なものであったが、義經の相手は味方の兵と同等、若しくは同等以上に進歩したものである。

この様に相手の相違があったためでもあろう、二人の行き方は、その体格の相反せる如く、多く相反している。併(あわ)しながら戦えば必ず勝つと言う点において、またその戦略の見るべきもののあるに至っては、異曲同功と言わねばならぬ。啻(ただ)に異曲同功と言うべきのみならず、その戦争の相手に依って考えうるも、又陸において水において、常に成功した点においても、義經はあるいは田村麻呂以上の大将と称して差し支えあるまい。又啻(ただ)に田村麻呂以上というばかりでない、彼は実に日本一の兵家であった。義經を正成なり、信玄、謙信なり、さては秀吉、家康などと比べて観ても、もしそれ等の人々を義經の地位に在らしめたなら、果たして能く義經だけの成功を収め得たかは、必ずしも断言することが出来ぬであろう。

八幡太郎義家は王朝時代における源氏の最盛を致した人である。父頼朝に従って苦心をした前九年の役、猶(なお)も引き続いて清原氏を討った後三年の役、彼は長い間板東武士を率いて、彼等と陣中に起臥(きふ)を共にしたが、当時板東の武士は必ずしも源氏ばかりでない、寧(むし)ろ平氏の方が多かった位であるにも拘わらず、然ういう人々が悉(ことごと)く皆この八幡太郎に心服して終わった。そして義家の方でも後三年の役の後、朝廷から何等恩賞が無かった為に、私財を擲(なげう)って将士を犒らったほどで、板東の武士は遂に源氏と切っても切れぬ関係となったのである。後に頼朝が関東を根拠として旗を挙げることが出来たのは、正しくこれ等の余沢であると言われている。

今この八幡太郎を源九郎と比較することが間違っていようか。義經はそういう工合に永い間武士を率いていたのではない、又実際その率いた大部分のものは頼朝に従って起こったもので、啻(ただ)僅かに幕僚とも言うべき極少数の人々が、股肱(ここう)の臣として義經の左右を離れなかったに過ぎぬ。しかもこの股肱(ここう)というのがまた、譜代恩顧の者とては一人もいなかったといってよい。佐藤継信兄弟は、義經が奥州の藤原秀衡の許しを辭(や)して西上する時に、秀衡が特に附けて遣った人である。伊勢三郎義盛も、義經が奥州下りの折りに主従をしたと言われている。鷲尾三郎經春の如きも、一の谷合戦の際に発見した一個の少年に過ぎないと伝えられている。

そういう事情であったにも拘わらず、継信兄弟を始めとし、謡曲で名高い弁慶以下の面々が如何に義經の為に粉骨砕身したかを思えば、義經が又如何に好くその臣下を遇していたかということが解る。又その妾静御前の行動を見ても、彼の人物を思い浮かべることが出来ぬであろうか。必ずしもこれ等左右の人々ばかりではない、彼が僅か一年計り京都にいった間に、大蔵卿高階泰經の如きは、非常な好意を以て彼の為に幹旋した。又容易に人に許さなかった九条関白兼実の如きすら、その日記『玉葉』の中に、義經を仁義の武士と言って賞賛している。

関東武士の間でも義經に心を寄する者の多かったことは、この兼実の日記にも記してあるが、ただ種々の事情の為に兄頼朝と不和になったその末路において、これ等の同情を寄せていた人々も、恐らく涙を呑んで知らぬ風をしなければならなかったのは、是非も無い次第であった。しかし義經が都落ちの場合に、如何に能き種々の方面が、彼を助け彼を匿(かくま)ったかという事実に見ても、彼が人望のあったことは推察されるであろう。

無論義家と義經とは、一生の経歴も、主従の関係も、前に述べた如く異なっているが、優に柔しい武士であって、能く将士の心を得ていたことは同一である。ことにその末路の特に哀なりし場合において、義經の家来は一層痛切に、義經の為に苦心し、忠節を尽くしたという実例を我々に示している。

最後の新羅三郎義光との比較は、ここに詳しくいうまでもなく全く同様である。頼朝がいよいよ旗揚げをしたと聞いて、当時奥州にあった義經は、その唯一の後援者たる藤原秀衡に頼って自分の勢力を張るか、若しくは木曽義仲の如くその起こった地方を征服して、自分の権力範囲とするような野心がなかった。それは寧(むし)ろ秀衡の義經に勧めたところであったが、義經はその諌(いさめ)をも聞き入れず、単身舘を抜け出て西上し、兄頼朝の幕下に投じた。新羅三郎が検非違使の弦袋を解いて殿上に置き、密かに東国へ馳せる下ったのに比べて、いずれかこれ兄弟の情に変わりがあろうぞ。その後援者の言をも退けて自ら犠牲的に身を挺(ぬき)んで、義光が後三年の役に義家を扶(たす)けた以上に、頼朝のために活動したことは、ここにも武士道の権化として、義經を尊うべき所以(ゆえん)が存在しているのである。

武士道は前にも述べた通り、最もよく君臣主従や一族の関係に現れているが、その精神は要するに犠牲的である、義の為には利を忘れ、身を顧みざるところにその価値がある。義經において見られるべきこの犠牲的精神は、いかなる方面に最もよく現れているのであろうか、君臣の関係か、はた国家関係か、無論これらの関係において義經の武士的精神が発揮せられているところも多いが、しかし田村麻呂以下三人になくして、特に義經にのみあるものは、実に父子という関係から生じた武士道の産物である。父の仇は倶(とも)に天を戴(いただ)かずと、親の敵を討ってその無念亡執を晴らすことは、我が歴史において早く上代から現れている、それが武士階級の出現するに及んで、武士たるものの孝道となり、後には普通の人まで敵討ちに出掛くることとなった、その武士的行動を為せる最初の一人は実に義經であった。

建久四年富士の巻狩に、曽我十郎五郎兄弟が工藤祐経を討ったのは、従来敵討ちの始と伝えられて、既に当時多くの人々が同情したのみならず、頼朝すら、後に赤穂義士に対する将軍綱吉の様な態度がなかったとはいえぬ。曾我兄弟がその目的を達した後、頼朝は非常に感心して、兄弟が最後の折りに母に送った手紙を出させ、幼い時から敵を討つ考えであったと、委(くわ)しく書いてあるのを見て涙を流し、これを自分の手文庫の中に入れて置くことにした、そして五郎時致を助けようとしたのであるが、祐経の子供の願に依って己(や)むを得ずこれを殺し、その義父曽我太郎祐信には、特に領地の年貢を免じて、兄弟の菩提を弔はしめた程である。これを見ても、敵討ちの思想が既に源平時代において、深く人心を支配していたことが了解される。

又『石清水文書』を見れば、鳩屋という鷹が、母鷹の敵の鷲に復仇した話しなどが行われていたのも、鎌倉時代の初めと思われる。あるいは彼の悪源太義平が六波羅を窺(うかが)ったことを、敵討ちのように思う人もあるが、それは半ば彼自身の遺恨を晴らすのであった。が、義經の平家を討ったのは、全く父頼朝の憤を安めんためで、彼の言動は最もよくこれを説明している、そして源氏の再興ということが、自らその問いに含まれることとなっているのである。

『吾妻鏡』の巻に一義經が始めて頼朝と会った條に、「鞍馬に上がって出家になる筈であったが、年頃になって頻りに会稽(かいけい)の思いを催し、手自ら首服を加えた」とある。この会稽という語は当時の言葉と見えて、その頃の書き物には、皆これを敵討ちという意味に用いている、すなわち義經は父の敵を討たんが為に、鞍馬を逃げ出して自ら元服を加えたのである。これは五郎の箱王が箱根の別当坊を抜け出し、ついに北条時政を烏帽子親として元服したのと同じではあるまいか。若し平家が盛であって戦争をする様な機会が来なかったならば、義經はきっと曾我兄弟の先駆けを試したに相違いないと思う。尚も又かの有名な腰越状にも「累代弓箭の芸を顕はし会稽の耻辱を雪(そそ)ぐ」とあるのみならず、讒者(ざんしゃ)の言に依って兄弟不和となったことを悲しんでは「亡父の尊霊再び誕れ給はずば誰か我が心の悲嘆を申し披(ひら)かん」と言い、「述懐の様ではあるが、義經は身體(体)髪膚を父母に受けて幾日も経たず左馬頭義朝がたかいになり、頼りのない孤児となって母の懐中に抱かれ、一日片時安堵の思いをせず、効なき命を長らへてこの所彼所にみを匿くし、遠い奥州までも下っていたが、愈々(いよいよ)天運熟してついに平家の一族を追討することとなり、あるいは一の谷峨々たる厳石を馬に鞭って下り、あるいは漫々たる海上に舟を出して底の藻屑となるも厭はず身命を竭(けつ)したのは、全く亡魂の憤を安め奉り、年来の宿望と遂げんとするの外は何もない」と言っている。字々血涙、よく義經の心持ちが推さるるではあるまいか。

されば義經の一生は、この血を吐くような申條でも、半ば以上父義朝の敵を討つにあったことを忘れてはならぬ。頼朝にも無論この考えは有ったであろう、しかしこれは頼朝に取って主要な部分をなしてはいらぬ、頼朝が伊豆に流されていた間の事から旗挙げの工合などをみても、いよいよ時節が到来したので、平家を討って、しかして自分の勢力を得るのが、その大眼目であったらしい。その行き方によるも、あるいは関東だけ自分のものにすればよいと一時は思ったかも知れぬ位である。頼朝の人物は、義經のようにただ率直な天真爛漫の武将ではなかった。寧(むし)ろ度量の大きい、沈重で、しかも冷静な、その身の権勢のためには何物をも犠牲にすると言う政治家であった、単に親の敵を討つためにその身の危きをも顧みぬというような人ではなかったのである。

さて今日まで義經が親の敵を討ったという風に、多く考えられていぬのは、その敵討ちの仕方が一騎打ちの勝負でなく、日本国という大きな舞台の上で、戦争という大がかりの芝居を打った、その陰に行われているのと、表面頼朝の代官として常に働いた姿になっているのと、今一つ源平二氏の争いという一層範囲の広い問題の中に巻き込まれて終わっているからである。義經は戦争をしている際には、無論頼朝の代官として、頼朝のために働くという考えも有ったであろうし、又源氏の一員として、源氏一族のために平家を滅ぼすという考えがあったとしても、彼の本色は寧(むし)ろ親の敵を討つというのに発揮されている。

義經が、子として亡父の仇を討つという、彼に取りて一層切実な、また一層強烈な念を抱いていたことは、多くその事蹟に現れている。屋島や壇ノ浦の合戦で、あれ迄に思い切った行動を取り、頼朝が非常に気にかけていた神器の問題すら、あるいは忘れていたのでないかと思はるる程であるのも、この最後の一念に激成された結果で、頼朝の代官となったのは、その弟たる位置を忘れなかったためである。従ってこの考えで義經の一生を観察して、はじめてその行動の真相が解決せらるるのみならず、その犠牲的の精神が如何によく溢れていたかもこれが為であることが分かる。余はこの敵討ちがこの後武士道の重要なる一網領となったのを見ても、その先駆者たる義經を、この方面における武士道の権化として必ず伝えねばならぬことを断言する。
 



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源義経研究

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