二 源平の関係
  

二組に分かれて勝負を争うことを、今でも源平勝負という。日本の歴史上およそこの源平の両家ほど、その旗色の赤と白とが示している如く、最も著しい対照を為、判然と両方に相分かれて、しかも久しく対立し拮抗したものは無い。

源平二氏、一は清和源氏、一は桓武平氏、共に皇室から出た因縁を有して武将の家となり、ほとんど同時代に相前後して起こっている。一栄一落、一方が盛んになれば一方が衰える、一方が上れば一方が下るという具合に、随分長く続いて来た両家の関係は、畢竟(ひっきょう)その赤旗と白旗とを取って縒合わせた一條の縄のようなものである。ただ或る時代には白の色がハッキリとなって赤色が褪紅する。ある時代には赤色がますます赤くなって白い色が蔽はれて仕舞う。それを具体的に歴史が源平二氏の間に現れて、藤原時代から院政時代となったが、遂に平家時代となり、源氏の白い縷(ろう)、将に絶えんとした時に、この縄の一端に画然(かくぜん)と句切を付けて、その赤の縷を残らず断絶して了(おわ)った直接の当事者は実に義經である。

そしてこの後は更に白、赤、白、赤と源平二氏相交代して、我が国の実権を握るという武家時代が引き続くこととなった。故に今義經の評伝をする前に、溯(さかのぼ)ってその紅白の縄の由来、即ち源平二氏の起こりから平家時代までの関係を一通り述べることは、之を読む人に取って必要でもあり、また趣味あることと思う。

元来我が国の政治中心は無論皇室であって、天皇陛下が実際政治の局に当せられたのであるが、一時大臣大連の専権時代となり、後、天智天皇によって中興の世となり、王朝の隆盛時代となったが、鎌足以来藤原氏が段々勢力を得て、遂に天皇の外戚となり、摂政関白を以て総ての政治を行うことになると、皇族の御方まで排斥して威福をその一門に集めるに至ったので、この皇族方の子孫をはじめ、中央において政権から離れた人々などが、漸次地方にその勢力を張り、固い地盤を築き上げて、ここに新たなる武士階級が出現した。

これには王朝の制度がだんだん破壊されて地方政治が紊乱(びんらん)した結果もあり、荘園がだんだん多くなって、その実利が此等の人々に帰したためでもあるが、盗賊を捕まえたり謀叛人を取鎮めたりするには、詩歌管弦のみ事とする大宮人は、奈何してもこれ等の中で勢力家を頼まねばならぬようになった。そして彼らは国司に任ぜられても任地に赴かず、多くは地方の豪族に事務を委任し、また荘園領地の支配を依頼したので、是等の豪族は武威財力二つながら非常に強大を来し、牢として抜くべからざる勢力を扶植するに至って、だんだんまた中央の舞台に首を出すこととなり、朝廷も藤原氏も自衛の必要からこれを引き入れて、遂にはその実権をその代表者ともいうべきものに奪われるようになった。

この武士階級の代表者は、第一に桓武天皇の皇子葛原親王から出た平氏、第二に清和天皇の後胤と称せられる源氏、そしてこの二つの豪族が頭角を露はして来たのは既に朱雀天皇の頃からで、又平将門が検非違使の官を望んでその望が藤原氏に容れられなかったために、東国で兵を挙げたのは、実に武士階級が中央の執政者に反対して鳴らした第一の暁鐘(ぎょうしょう)であった。そしてその東国で兵を挙げたのは、その地方に平家の一族が多く広がっていたからで、一口に板東八平氏と云ったくらいである。その中には武勇の聞こえあるものも多く、将門を討った貞盛の如きは鎭守府将軍に任ぜられ、余五将軍などは武勇に於いて随一と伝えられている。しかし平家の人々は政権を握れる藤原氏との関係が割合に面白くなかった、そして中央の舞台に於いては常に源氏に一籌を輸していたのである。源氏は之に反し、既に将門の乱に出でた六孫王經基という人物、将門が兵を挙げるに至ったのもまたこの人との関係からであったと云われているように、藤原氏と親密なる関係を結んだので、この時から源氏と平家との対立が既に始まっているのである。

 

つづく


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源義経研究

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2000.9.6 Hsato