七 屋島合戦
  
義經が一の谷を攻め落とし、平家の荒膽(こうたん)を挫いて、また二たび京都を窺うことあたわざらしめた元歴元年の二月七日から、、平軍三年の根拠地たる屋島の本営を襲うて、長門の壇の浦に彼らを全滅せしむこととなった文治元年二月一九日までは、その間丁度一念余りの日月を経過している。宇治勢多の戦後、疾風迅雷、耳を蔽(おお)うに暇なきかのよう、機敏の行動を取って一の谷に迫った義經が、何故にこの一年有余を空しく過ごしたであろうか。

義經が空しく手を束ねて、この一年の時日を過ごす武将でなかったことは、無論分かり切った話である、しかも彼をして一年以上も空しくせざるを得ざらしめた事情が、この間に生じてきたことを知るならば、誰かまた一掬の涙を濺(そそ)がざるものぞ。彼は一の谷合戦の後、人も羨む威望を負い、最も得意な時期の人となったが、その実ハヤ数奇なる生涯の第二期?もし彼の用事を第一期とせば?に入って来たのである。彼の顔は勝利の光栄に輝いていった。しかし彼の心は人知れぬ淋しい悲哀に満たされていた。

彼は頼朝の代官として京都を守護し、近畿地方を治めて、勢威赫々(いせいかくかく)たる有様であった。また後白河法皇の御気に入って、公卿の間にも大いに人望を得ていた。されどこの赫々たる勢威と、京都における人望とが、かえって彼を禍(わざわい)する基となって、空しくこの一年を経過せればならぬこととなったのである。

もっとも義經は、宇治勢多の戦後一の谷に迫ったように、急に屋島を攻むる考えがあったのではない。彼は元来必勝の算が立たなければ、けっして軽々しく動くものでなかった。宇治の合戦も、一の谷の合戦も、幾多惨憺たる苦心の結果である。彼はいかにも無謀なように見せかけ、ただ突進突撃勝利を得ているようではあるが、何時も周到なる策戦計画が出来た後、はじめて猛然ととして兵を動かす大将であった。

かれは平家がなお瀬戸内海の制海権を握っているのを知っていた。中国四国さて九州の水軍は、ほとんど皆平家の傘下に属しているのを知っていた、がこれに反して東軍には、なお未だ船の準備をする暇がなかった、そして東国の兵は水戦に習ったものが少ない、もし水軍に習い、船の準備が出来ていたら、一の谷を攻めるにも、あるいは他の策戦計画を立てたかも知れぬ。それに宇治勢多の戦から、一の谷の戦に懸けて、東軍の損害は、けだし少なかったであろう。中には戦終わって直に引き帰ったものもある。また義經と共に京都に残った軍勢も、宇治勢多から一の谷と引き続いての合戦に、ほとんど休養する暇がなかった、今急に屋島を攻むることの困難なことは、よく義經に了解せられたであろうと思う。

義經はこの度の西上に、まず義仲を討ち、また直ちに平家を攻め、ほとんど寧日なき有様であった。したがって近畿地方は、なお十分関東の勢力圏に入って居らぬ。ことに伊賀伊勢は、多年平家の根拠地で、最も因縁深い地方である、今遠く義經にして京都んぼ地を離れたら、たちまち事変が起こるかも知れぬ。果たせるかな、この年七月、伊賀伊勢のあたりに平家の残党が兵を挙げた。「三日平氏」の運命に過ぎなかったが、その余類は逃れて京都に入り、一時は非常の騒擾(そうじょう)であった。幸いにして義經が京都を守護していたため、たちまち誅戮(ちゅうりく)に伏して終わったのである。
されば義經は、おもむろに平家に対する策戦計画を立てんと思い、京都に凱旋して、しばらく留まっていたのであろう。それに朝廷でも、平家の追討については、多少なお、予(あらかじめ)せられる事情があったので、前にも言ったように、平家の追討よりもむしろ三種の神器を一日も早く、無事にお迎え申すというのが希望であった。それで一の谷の戦で三位中将重衡が生虜となったのを幸いに、重衡に手紙を書かせて、死者を屋島に遣わされたのが、二月一五日の事である。
 
これに対する宗盛の返事は、その月の末ごろ京都に着いた。神器還御のことは、必ずしも此方で渋っている次第ではない、何時も関東の武士を出して防がせられるから、だんだん延びているのである。源氏は院宣と度々下向して合戦に及ぶが、我々は自衛のために防ぐばかりで、進んで合戦をしたことはない。元来源氏と言い、平氏と言い、互いに意趣があるべきはずもないから、相和睦するはもちろん、速く合戦を止めて天下の禍を払うことを主とせねばならぬのは、万々承知している。神器編御の事も、源氏和平のことも、二つながら公平の御態度をもって、分明した院宣を賜りたい。

これが宗盛の上がった返事の一節である。要するに彼は、和平固より望むところなれど、それは源平相並んで朝廷に仕え奉る意味である。神器だけ差し上げて、降参することは承知がしかねると、きっぱり言い切ってしまった。これは平家の側から言えばもっとも尤千万(ゆうせんばん)のことで、彼らが神器を奉じているのは、彼らにとって非常な強みであった。平家の威令は実にこの神器を奉ぜしために、よく京都なる後白河法皇の院宣に対し、中国四国、さて九州等の武士を服することが出来たのであると言ってよい。

そこで朝廷でも、平家追討の宣旨を下されねばならぬようになったのであるが、頼朝もまた、この宗盛の返事を前後して死者を上洛させ、義經の下知に従って出陣するよう、畿内近国の武士に仰せ下され、且つ平家追討の宣旨を賜りたしと奏請し、同時に義經に向かっても、海路難渋であろうが、ことに急いで平家を討てと命じ、勲功の賞は頼朝追って計らい申さんといって遣(や)った。

義経はこの命令を得てその実困ったことであろうが、とにかく一時は三月一日に出陣と決した噂もあった。されどかれは鎌倉にその意見を言い送ったのであるが、たちまち延引に決して、やはり京都に留まり、まず土肥実平、板垣兼信等に山陽道をしたがえしめ、漸次九州に入って四国を孤立せしめんと計画した。実平等は、三月八日に京都を出発している。

これについては頼朝も同意したであろうと思われる。三月一日鎌倉から九州の武士に書を与えて、鎌倉の御家人となったら本領を安堵しようとすると共に、平家追討の命令を下した。もっとも実平は、その後一時鎌倉に帰って様子を報じたので、頼朝はいよいよ六月頃、海上平穏の時を期して合戦すべしと定め、四月の末に、平家追討の奉行として、斎院次官中原親能を、実平景時と共に上洛の途に就かしめた。

が、この時ハヤ頼朝には義経を疎外する素振りが見えて来た。梶原景時の讒間(讒言ママ)は、既に頼朝の胸中に、何物かを蟠(わだか)まらしめたのである。一の谷の戦に、景時は初め義經の軍奉行と定められたが、頼朝の恩寵に誇って、人も無げなる振舞多く、少しも義經の気に入らなかった、そして景時居たたまらず、遂に範頼の手に属しておったが、景時は鎌倉に帰って、いかに悪しざまに義經を頼朝に讒(ざん=そしること)したであろうか。

頼朝は無論武士を統御する大いなる度量を有していた。しかしまた同時に妬み忌むという性質の人で、源氏に通有であった一族相い鬩(せめ)ぐという遺伝性があった。彼は二十余年流ざんの身をもって今や関東の主となっている、彼はその威望を繋ぐために、いかに武士を駕御(がぎょ)せんかというに苦心していた。しかもまた一度も自ら大した戦争に望んでいない。義仲を滅ぼしたのも、平家を追い落としたのも、その代官として上洛した義經の功である。彼は義經の声望次第に大いなるを観て、心の中に不安を感じて来た。少なからず危惧の眼をもって義經を監視するようになった。そこえ景時の讒間(讒言)が、ますます疑いの雲をさしめたのである。「源平盛衰記」には義經が美濃暇(いとま)も申さず、潜かに鎌倉に下り、景時の讒言を申し開いたとあるが、多分誤伝であろう。義經の気象(気性?ママ)と人格から考えれば、彼は当時なお頼朝を新字ていた、また景時の讒言を予期していなかった。たとえ景時が讒言するとしても、頼朝が決して動かされるような兄でないと思っていた。彼は宇治の一の谷に、兄に川って粉骨砕身戦功を立てた、頼朝も必ず弟に感謝しているであろうと、彼は想像していたのである。彼は人を疑うには余りにも人格が高かった。しかれども悲しいかな、頼朝の心には既に疑惧(ぎぐ)の暗雲が棚引(たなび)いていた、そして、義經の粉骨砕身、事に当たったことが、かえってその仇となってきたのである。斎院次官親能を上洛せしめたのも、一は義經を平家追討の大将たらしめぬ前提であった。

それを義經はまだ分からなかった、枯葉頼朝の大寒として京都を守護し、案じて近畿諸国を支配していた。この年三月、紀州高野山の衆徒愁状を捧げて、阿弖(ママ)河庄を寂樂寺から押領されたことに就いて裁判を請うたので、五月の二日特に自筆を染めて、一書を衆徒に与え、且つ早く無道の狼藉を停め沙汰すべしと命じている。また同じ頃京都擬音神社の訴訟も、自ら下地してその請を容(いれ)るなど、流れるが如き裁決に、その人物のきびきびとしたところを示し、彼が当時いかに衆望の帰するところとなったかは、想像するに余りある感じがする。

六月五日、朝廷に小除目が行われた、そして義經から観たら無能の大将、しかも一度頼朝の喚起を蒙った範頼が、頼朝の推挙によって三河守に任じ、従五位下に叙せられることとなった。義經は初めて非常に驚いた。かれが宇治一の合戦における勲功は、朝廷にも、はた頼朝にも認められていると、自ら新字ていたばかりでなく、頼朝の代官として京都にいるについては、無位無冠では朝廷との交渉など思うに任せぬことも多かったので、既に幾たびか官途の推挙を頼朝に願っていた。然るに意外にも彼の願いは頼朝に顧みられず、範頼をはじめ、余りに功もなき輩数人に、叙任の恩命が下ったのである。こんな偏頗(へんは)な兄、こんな無慈悲な兄を有った義經の心中如何なりしぞ。

ところがここに義經を引援された御方がある、それは後白河法皇であった。法皇は当時院政という旧勢力の代表者であらせられた。その旧勢力を維持するために、初めは清盛を登庸して藤原氏を抑えんとし、返って清盛の壇権時代を出現せしめ、次には平家を抑えんとして一時御失敗の後、以仁王の挙兵となり、あるいは義仲を率いて平家を追い落とし、あるいは秋波を頼朝に送ってまた義仲を滅ぼし、その結果今や頼朝の勢力益々大ならんとするを観たまい、これに拮抗し得るものは、ただ義經あるのみと御考えになることとなった、そして法皇の御炯眼(けいがん)は早くも頼朝が義經を疎外しつつあることを看破せられたのである。

かくて義經は法皇の寵臣となった、そして法皇から優握なる恩旨が下った。しかし彼はどこどこまでも、頼朝の代官を以て任じている、この法皇のありがたき仰せも一応再応しきりに辞退した。が、度々勲功黙し難しとあって、達っての院旨により、遂に頼朝の推挙を経ず八月六日彼は検非違使左右衛門少尉に補任せられた。

義經は今や板挟みの境遇となった、そこで早速その趣を鎌倉に報じ、叡慮によって止むを得ず任官したことを告げると、頼朝は非常な不興である。思うところあって今日まで、義經の官途を聴き入れなかったのに、今度の任官、恐らく義經内々の所望によって宣下せられたであろう。義經が頼朝の旨を背いたことは今度ばかりでないなどと、大いに起こって断然義經の平家追討使を止めておった。

元来頼朝は、武家政治を布かんとして、鎌倉に幕府を開いたのである。武家政治とは、日本全国の武士という階級を統率し、自らその棟梁となるなるのである、武家に関することは、一切朝廷から離しておき、すべて幕府の管轄とするのである、任官でも叙位でも、皆頼朝の口入がなければならぬ、直接に朝廷から賜る人があったら、官を解き、位を奪って終わるというのであった。

義經は頼朝の代官である、素よりこれを知っている。彼がしばしば頼朝にその推挙を願ったのもこれが為であった。が頼朝は顧みぬ、後白河法皇はしきりに朝恩をかけられる、情の人たる義經は、理として鎌倉の推挙に待つべきを知っていながら、遂に法皇のありがたい思し召しを拒まなかった。否日本国民として拒むことが出来ぬのである。そして既に任官した以上、頼朝が何処までも義經を追窮しようとし、義經が頼朝の怒りを解かんと苦心したところ、ここに悲劇は始まるのである。

いよいよ義經はその数奇な生涯の第二期に入った。言わば後白河法皇と頼朝との勢力関係において、武家政治のための犠牲となったのである。彼は既に一度任官した。そそて一歩は一歩と、深い淵に引き込まれて来た。九月三日また従五位下に叙せられ、叙留して太夫判官と呼ばれることとなったが、やがて十月の十一日院内並に昇殿を許され、拝賀の式作法美々しく、八葉の車に駕(乗)り、衛府三任、共侍二十任騎馬で扈従(こじゅう)し、まず庭上において、舞踏の後、義經は剣笏(けんこつ)撥(はつ)して殿上に参り法皇に謁した。またこの月二十五日大嘗会(だいじょうえ)の御禊(ごけい)には、義經先人に供奉(ぐぶ)したところ、長(丈ママ)短かけれど色白く、容貌優美にして進退の優しさ、義仲などの類にあらず、事の外に京馴れて見えたとは「源平盛衰記」の作者が義經を褒めている言葉である。

さて六月ごろ、土肥実平は、備中備後あたりまで行っていた。梶原景時じゃ播磨に出掛けていた。が平家は既に勢力を回復し、源氏の軍は一方ならず困憊を極め、屋島を討つなどとは思いもかけなかった。平家が都落ちした時の様であると「玉葉」に言っているのは事実であろう。それで鎌倉でも評議の末、範頼を大将として、足利義兼、千葉常胤等をはじめ一千余騎を率い、九州に下らしむることとなった。

範頼は八月八日鎌倉を出立ち、二十七日入洛、二十九日追討使の宣旨を蒙り、翌九月一日京都を出発し、やがて播磨の室泊に着き、安芸に入ったのが十月の頃であった、この解き平家の水軍は、知盛これを率いて、長門の彦島に城を構え、門司が関を抑えていたが、範頼が平家の根拠地を衝かんと、周防までその軍を進めたのは、むしろ無謀の挙であった。

知盛は余程巧妙な態度を以てこれに対している。彼が中国付近の船を奪い、かつ東軍の糧道を絶って範頼を苦しめた。源氏の軍には船もなければ、兵糧も続かず、武士の面々互いに和合せずして、範頼は進退ここに窮まり、るる使いを鎌倉に馳せて窮状を訴えた。それは十一月の事である。

鎌倉ではいろいろ評定を加え、やむを得ず関東の方で船を用意し兵糧を送ることに決し、九州の人々にも、範頼の下知に従い、同心合力平家を討つようにと命令したが、範頼には頼朝自ら仮名消息細々と認め、あるいは戒め、あるいは励まし、かつすこしも過なき様、安徳天皇二位の尼等を迎え奉れといって遣った。

文治元年正月十一日、範頼は周防に居たたまらず、長門赤間関に至り、平家を攻めんが為に海を越えんとしたが、船がなくて渡るに渡れず、意はず数日を過ごす内に、兵糧はまた欠乏する、軍兵は退屈する、皆本国を恋しがって、和田義盛の如きさえ、密かに鎌倉に帰らんとしたほどである。幸いに豊後の臼杵惟隆、緒方維栄等八十二艘の兵船を献じ、周防の木上遠隆、兵糧米を上(のぼ)ったので、僅かに豊後国に渡ることが出来た。この時下河辺行平など、甲冑を売って小船を買ったというので見ても、源氏の軍が如何に困難せしかを推すに足るであろう。

かように範頼の平家追討は、こうも成績が上がらなかったのみならず、かえってその軍を死地に陥しいれていたのである。彼はまったく策戦計画を誤った、平家が屋島を根拠として瀬戸内海を横行しているのに、四国をそのままにして、九州に行ったのが大失敗の原因で、これが為に平家は、るる備前あたりに兵を出して、その後を威嚇し、ほとんど京都との連絡を絶っていた。彼の佐々木三郎盛綱が藤戸の渡で先陣し、あるいは平軍を破ったこともあるが、それはただ一時の勝ちで、東軍は兵糧も続かず、非常に困難を極めることとなった。しかもまた兵船の準備なくして、平家水軍の根拠地に近づいたなど、無謀無策の至りであった。

頼朝も既に範頼の策戦が誤れるに気づいた。彼は範頼に、九州攻めを止めて四国を討てと命じて居る、が既に晩かつた、範頼の軍には兵船も少なければ、最早ほとんど食糧が絶えておった。それに軍士の間に心変わりするものすら、続々出てきた程で、もしこのまま経過したならば、征討軍が全滅することになったかも知れぬ。頼朝は遂にまた義經に平家追討の大将たることを命ぜざるを得なかったのである。

義經はこの命令を受け取る前、心中既に決するところがあったであろう。彼は後白河法皇の叡慮によって、頼朝の推挙を待たず、検非違使左右衛門尉に任ぜられ、大に頼朝の不興を蒙っている。また景時の讒言が多少頼朝を動かしたことも感じいる。無論頼朝の意に逆らったことは、実に弟義經その身に取りて非常な苦痛であった。彼はいかにしても兄の怒りを解こうと考えたが、また寸時も亡父の仇を報ずる大なる義務を忘れることが出来ぬ。そして範頼の元来無能な大将であるのも彼はよく知っている、範頼が死地に陥り、自ら起たざるべからざるは、恐らく彼が予想していたことであろう。

頼朝が許すであろうと想像した。彼が従五位下に叙せられ、昇殿を許され、美々しき拝賀の礼をやったとき、彼あるいは既に死を決し、最後の花を風乱としたしたのではあるまいか。かれが大嘗会(だいじょうのえ)の御禊(ごけい)に供奉(ぐぶ)し、事の外に京馴れたりと評せられたのも、一世一代の思い出であったろう。

義経は京都を出発するに当たり、まず院の御所に参って暇を申し、大蔵卿高階泰経を以て奏聞するよう、「今度罷り下り申さば、人は知らず、義經においては、平家の輩ことごとく討ち取らずば、二たび王城に帰り上らぬ覚悟に候。喜界が島、高麗、百済、新羅までも命を限りに攻めんつもりにこそ候へ」と言い切って、院の御所を拝辞し、いよいよ出発するに臨んで、国々の兵に向かい、「後足をも踏み、命をも惜ししと思わん人々は、これより罷り帰り候へ、打ち連れてはかえって源氏の名折れなり、義經は鎌倉殿の代官たる上、かたじけなくも勅宣を承(うけたまわ)ったれば、死を決して出陣するぞ」

かくて枯葉その決意を告げて、勇ましく京都を離れ、淀の津から摂津の渡辺に向かった。「源平盛衰記」にはこの暇乞いの日を正月十日の事とし、その淀を打ち立って渡辺に下ったのを十三日としている。それを事実とすれば、彼が暴風を冒して四国に渡った二月十八日の払暁まで、およそ一ヶ月余の間渡辺に逗留していたことになる。思うにこの一ヶ月余は、兵船の準備、兵糧の徴発と、彼をして最も苦心せしめたことであろう。梶原陰時が逆櫓を設けたいとの申し出に、義経が罵り返してこれを拒絶したという挿話は、この間の出来事であった。この逆櫓の争論は、あるいは全く稗史的記述であるかも知れぬが、その中にある義經の言には、ただに義經その人の性格と、彼の戦略が基づくところをみられるばかりでなく、また我が武士道の一面を道破しているものである。

「軍というは、家を出てし日より敵に組んで死なんとこそ存ずることなれ、身を全うせん命を死なじと思はんには、基より戦場に出でぬには如かじ、敵に組んで死ぬるは武士の本意なり。命を惜しみて逃げるは人ならず、義經が舟にはいまいましければ、逆櫓という事聞くとも聞かじ」
義經は実際退くということを知らぬ武将であった、また何時も進んで勝つことを知った戦略家で、進んで勝つという事には、この言葉の精神が常に籠もっている。

この時、義經の兵数は「源平盛衰記」に安田重忠、大内惟義、田代信綱、佐々木高綱等をはじめ十万余騎とあるが、もちろんこれを信じる訳にはゆかぬ。まず「吾妻鏡」に、義經が後に暴風を冒して先発したときの兵百五十騎、船五艘に分乗したとあるから、一艘三十人づつの割合となるが、それも「源平盛衰記」には百余騎、「長門本平家物語」に宗徒のもの五十余人とあるから、一艘平均二十騎位であったかも知れぬ。しかるにその後、梶原景時以下の兵百四十余艘屋島に向かったといえば、前の割合から、多くて四千騎か、三千騎となるのであるが、この百四十余艘の中には、兵糧船も加わっていたであろうから、義經が実際の兵数は二千騎から三千騎の間に過ぎなかったであろうと思う。この推定は、前の宇治一の谷の兵数や、また義經が急に追討使となった事実に考えても相当のことではあるまいか。たとえ淡路あたりにいた梶原景時などが馳せ加わったとしても、一時に十万などという大兵が徴発せられるべきものではない。

義經はかくてしきりに出師の準備に忙しきところに、二月十五日、京都から大蔵卿泰経見送りのため渡辺に下って、義經の旅館に至り、義經が先陣に向かうのを聞き、諫(いさ)めて言うには、
「泰経は兵法など存ぜぬものに候えど、推量の及びところ、大将軍はたるものは第一陣をかけるものには候はじ、まず次将を先陣として遣わさるべきならずや」

義經はこの言を聞いて厚意を謝した後、
「殊に存念あり、一陣において命を棄てんと思い候」と答えたので、泰経もその心中を察し、また返す言葉がなかった。

泰経が下向したのは、また後白河法皇の旨を含んで、その出陣を止めんがためだと伝えられている。法王は、義經にして京都を去らば警護の武士がいないので、ご用心の為にこの命令を下されたということである。しかしこれが事実としても、もとより義經が承引すべきはずはない、枯葉早くより死を決していたのであった。殊に存念あり、一陣において命を捨てん覚悟であった。

併(あわ)し彼は決して無謀の戦をする武将ではない。彼の策戦計画は既に決していた。彼は東軍が元来水軍に習わぬことを熟知している、屋島の攻撃もまた背面攻撃より外によい方法はないと信じた、そして四国から平軍を追い落とし、瀬戸内海の制海権を収めて、平軍を西え西えと追い詰め、高麗支那の果てまでも攻めるつもりであった。

さていよいよ十六日の夕纜(ともずな)を解き、渡邊を漕ぎ出すと、空模様急に険悪を加え、暴風遂に起こって兵船多く破損し船を出すことが出来ぬ、一日逗留して風の静まるのを待っていたが、益激しくなるばかりである。義經は、朝敵追討使として発向する上は、一時も躊躇すべきでない、風波の難など顧みるに及ばぬと軍兵を激励していると、十八日の午前二ごろ、南風止んで返風となり、木を折り砂を揚ぐる有り様に、水手楫取恐をなすを、義經、風既に直ったり、只今出し候へ、かかる順風は願うところ、敵の不意に出でよやと、決死隊を抜って、馬一匹舎人一人づつを具し、兵船五艘に分乗せしめ、屈竟の水手楫取ここを必死と乗直し乗直し、大浪をくぐり、小浪を飛び越え、取梶になり面梶になり、漕げや者共とえい声を出して船を走らするに、普通に押して三日に漕ぐ所を、僅か三四時間で午前六時ごろには阿波の勝浦に吹き着けられた。

義經がこの暴風を冒して阿波に向かったのは、鵯越以上の冒険で、また一件無謀のように思えるが、これが義經の機敏な、機曾を捕らうるに優れていたところで、義經にして始めてこの暴風を利用し得たのである。『源平盛衰記』などにある通り、もし天気も良く、海の静かな日ならば、今日こそ源氏は渡るであろうと、平家も用心して、津々浦々に兵を差し向け、上陸を妨げたであろう。鵯越の天険すら、義經には平地も同様であった。今度の暴風、義經は呼んで順風といっている。彼の兵略は到るところとして可ならざるはない。そしてこれは義經の言葉を借りて言えば、職場に向かった日から敵に組んで死なんと思えという、彼の平生の覚悟から生まれて来たのである。

義經は勝浦に着くや、決死の勇士我劣らじと馬に鞍置き、直ちに上陸して、近藤親家を案内者とし、まづ阿波民部大夫成良の弟櫻庭良遠を攻め落とし、揉みにもんで得意の強行軍、十八日の夜半に、阿波と讃岐の国境大坂越を打越え、二日路を一日に、途々平軍の形勢を探り、十九日の朝屋島内裏の向浦に着いた。

屋島は一つの臺地になっている山島である。天智天皇の御代、その上に城を築いて瀬戸内海の防御としたことがある要害で、その位地は内海の要衝に当たり、彼方此方に通ずるも都合よく、前には小豆島、豊島を控えて、近く備前の邑久、児島と対し、守るに便に、攻めるに難し、その東麓には屋島浦の入海深くして兵船を泊すべく、南方一條の干潟天然の塹壕にも似たり。内裏の趾は山上と伝えたれど、山麓屋島浦近く陣屋と共に建てられ、今も総門の跡というのが残っている。

が、平家はこの時背面防御を怠っていた。彼等は恐らく、阿波は民部大夫成良の所領、讃岐一員また平家の勢力範囲であったために、源氏が背面から攻めて来ようとは夢にも思い懸けなかった。それに義經がかく急に暴風を冒して攻めんなどとは、なおさら考えつかなかったことで、実は阿波讃岐の浦々島々に、五十騎三十騎、あるいは百騎二百騎と兵を出して守備とし、その他は丁度伊豫の河野通信を攻める最中で、屋島は非常に手薄であった。

義經は牟礼、高松(今の古高松)の在家に火を放って大軍と見せかけ、塩干潟について山のそばに打沿い、潮花蹴立てて押し寄せれば、平家は不意を襲われて周章狼狽し、一とまづ安徳天皇を初め、建礼門院、二位尼以下一門の人々、汀に用意する船に乗って海上に浮かんだ。

義經その日の打扮は、赤地錦の直垂に、紅下濃の鎧を着し、黒馬の太く逞じきに跨った大将振勇ましく、田代信綱、金子家忠、同近則、伊勢三郎義盛等を打従えて、先陣に進み、濱邊に出でて下知すれば、平家方も船を抑え、ここを必死と防ぎ戦い、何時果つべしとも見えなかった。この間に佐藤繼信、忠信の兄弟、後藤実基、基清の父子など、内裏や陣屋等に火を放てば、黒煙天に漲って、白日為に光を蔽はんばかり。

平家方ははじめて敵の小勢を知り取って返さんとしたが、はや内裏に火を懸けられて、詮なくも見捨てねばならぬこととなった。が、平家の武士にもさるものあり、越中次郎兵衛尉盛嗣、上総五郎兵衛尉忠光等船を下って再び上陸し、内裏の門前に陣して源軍に渡り合う内、奥州以来義經の左右を離れず、忠勤を尽くした佐藤繼信は、平軍の矢に中って討死した。『平家物語』などによれば、この時盛嗣、金子家忠に射落され、能登守教経怒って船を漕ぎ寄せ、渚に飛び降りて義經を一矢に射落さんと狙ったので、伊勢義盛、繼信忠信兄弟の者共、矢面に馴せ塞がったが、真っ先に進んだ繼信遂に義經の命に代わったということになっている。

義經は繼信の戦死を悲しみ、一人の僧を頼んでこれを千本松の下に葬り、法皇より賜って、行幸の供奉さては職場に乗り廻していた太夫黒という愛馬をその僧に興え、厚く繼信の菩堤を弔わせた。弟忠信を始めとしてこれを見たる侍共、涙を流して、此君の為に命を捨つるは露程も惜しくないと、義經が臣下を愛する情の厚きに感じた。

この屋島を落とすことに就いては、義經は余程信ずるところがあったものと見えて、十八日までに遣いを京都と鎌倉とに出している。その使いは後鎌倉に着いて、自分は合戦を見ずに出発したが、播磨の国から遙か後ろを顧ると、屋島の方に黒煙が立ち昇っているので、最早合戦も終わって、内裏巳下が焼けているのだと思ったといっている。

二十一日、平家は終に屋島を退いて、同じく讃岐の志度道場に籠もったが、義經はまた八十騎ばかりの兵を率いて進撃した。やがて田口成良の嫡子左衛門尉成直も義經に降参し、伊豫の河野通信は三十艘の兵船で義經の軍に加わり、熊野別当湛層の兵船また田邊の湊を漕ぎ出でて源氏の味方となったので、平家は遂に志度にもいられず、知盛の水軍に合せんと、西を指し落ちて行った。そして梶原景時以下渡邊に残った軍兵は百四十騎余艘で、翌二十二日屋島に着いたが、所謂喧嘩過ぎての棒千切、頗る着栄がしなかった。

この屋島の合戦にはいろいろ面白い話が伝えられている、中にも名高いのは那須興市宗高が扇の的を射た話である。
源平お互いに引き退き、また戦わんとしていると、沖の方より装り船一艘渚に向かって漕ぎ寄せ、緋の袴をはいた女房が、紅地に日の丸を出した扇を竿に挟んで舳先に立て、射よとばかりに源氏の方をさし招いた。

これは射外したらば平家が勝、射おほせたら源氏が勝という占のためであったが、義經は遙かに望み見て、畠山重忠を呼び、これ恐らく義經が正面に出で見物する所をねらって射落とす謀略であろう、併し誰かあれを射る者なきかと問えば、重忠畏まって、下野国の住人那須興市宗高を呼び出した。宗高生年十七歳、弓の取り様、馬の乗貌優に波打ち際に出て見れば、沖には平家船を並べて見物し、陸には源氏轡を揃えてこれを見る。

遠浅に馬を打ち入れて進んだが、折から西風吹き来って、船は動き、扇はくるくると廻って狙つかず、宗高心中に神々を念じて目を開き見るに、扇は暫く座に静まれり。鏑矢抜き出し、滋藤の弓に打食はせ、能引いてひやうと放てば、鏑は浦響くまでに鳴り渡り、要より上一寸置いてふつと射きる。要は竿に止まって、扇は空に舞い上がり、暫しひらめいて颯と海へ落ちた。平家は舷を扣いて感じ入り、源氏は箙を扣いて喝采した。

この「扇の的」に次いでは、義經の弓流し、これもまた武士の鏡と、義經が後世から慕われる談柄の一である。
合戦の最中、義経は勝に乗って、馬の太腹まで海に打ち入れて戦った。越中次郎兵衛尉盛嗣、義經を目がけ、熊手を下して義經を懸けんとするに、義經は懸けられまじと、太刀を抜いて熊手を打除け打除けしていると、脇に挟んでいた弓をフト海に落とした。義經失敗したりと弓を取り上げんとすれば盛嗣は熊手を以て引懸けんとする。

源氏の兵共、あれはいかに、その弓捨てたまえたまえと聲々に呼べど、義經は太刀を以て熊手をあしらいながら、左の手に鞭を取って、遂に弓をかき寄せ取って上った。軍兵共「たとえ金銀を延べた弓なりとも、如何で命に代え給うべきか」といえば、義經「弓を惜しむのではないが、叔父為朝の弓の様な強弓ならば熊とも落として置くけれど、弱い弓を敵に取られて、これこそ義經の弓よと嘲弄せられるのが口惜しいためである」と言う言葉に、一同恐れ入って感心せぬものはなかった。

恥を知るというのは、武士道に於ける信條の一である。この物語が作り話としても、義經は恐らくこんな人物であったろう。扇の的に宗高の勇名は児童走卒にまで知られている。弓流しに義經が武士の典型たるべき一面はもっともよく見れている。
 

第七章  了
 


HOME

源義経研究

義経デジタル文庫

2000.11.19
2001.04.09 Hsato