六 一の谷合戦
  

この時平家は、既に山陽南海の両道を徇(したが)え、屋島を引き払って因縁深き兵庫の港に上陸し、摂津播磨の国境、一ノ谷の要害に城郭(じょうかく)を構え、幾たびか京都に入らんとして機会を窺っている。しかも長い間にだんだんと勢力を加え、十分なる準備と、慎重なる態度で、必ず京都を回復せんずる意気込みをもって、堂々と出かけて来たのである。もし義経にして、前章に述べたように、機敏なる行動を取らず、宇治瀬多の一戦に、義仲を打滅ぼさなかったら、或いは東軍よりも一足先に、京都に帰っていたかも知れぬ。

義経はこの形勢を見、如何に平軍に対せんとするであろうか。宇治瀬多の激戦に、打死もあり手負もあり、味方の兵力は多少弱められた、のみならず、後援の軍はなお未だ到らぬ、彼は果たして平軍の寄せ来るのを、京都に待っているものであろうか。

今仮に平軍が攻勢を取って京都に攻め入るとする。追手は山崎と淀、搦手は丹波路の大原道、共に宇治勢多よりも天険要害でない。宇治勢多をだに破った経験を有する義経が、おめおめ平軍の侵入を待ち受け、第二の義仲となる愚を敢えてするであろうか。義経の如き戦略に達した武将、何時も機先を制して敵をアッといわせるものが、かかる挙に出づべき筈がない。

彼は何処までも攻勢に出づる大将である。彼は、攻勢に出でなければ、勝利を得ぬという、戦略上の原則を知っている。無論この際にあっても、彼はまた進んで平軍を討つことに決心した、まして平軍を討って父義朝の亡執を晴すのが、義経多年の目的で、今や正にその機が到来したではないか、恐らく義仲を滅ぼすや否や、彼は直ちに平家追討の院宣を請たであろう。

されば義仲の滅亡した翌年元暦元年正月二十二日、朝廷に於いて已に平家追討の御評議が始まった。まず後白河法皇から、右大臣九條兼実に御下問があったが、これと関連して難しい問題は、実に三種の神器を無事に京都に迎え申すに、如何なる方法を取るべきかということで、法皇をはじめ、朝廷の人々が皆心を痛めたところである。それで追討使たる範頼義経に副えて、朝廷の使者を平家に遣わしてはとの叡慮もあったが、これに対して兼実などは、もし三種の神器を安全に迎え申さんとならば、一トまず追討を見合せ、別に御使を出して誘はれた方がよい、追討使と共に勅使を遣わすことは如何であろうかと返奏した。

畢竟(ひっきょう)するに、朝廷では一日も早く平家を討ちたいには相違いないが、それよりも安全に神器を迎えるのが更に大事である、それでまず神器を迎えた後、平家を追討しようというのが一般の希望であった。

二十五日の夜、平軍入洛の噂があった。それはすぐ虚伝と分かったが、法皇からは翌二十六日、いよいよ静憲法印という人を使とし、平家に遣されることとなったところ、翌日朝議また一変してやはり追討ということに決せられた。これは全く、法皇に近侍せる公卿(くぎょう)で、朝方、親信、親宗などが御勧め申したのであると、兼実はその日記に書いているが、恐らく義経がこれ等の公卿(くぎょう)に便って、密に追討を御願いした結果ではあるまいか。義経は二十五日夜平家入洛の噂を聞いて、心の中に一寸吃驚(きっきょう)したであろうが、今一刻も猶予すべき時でないと決心したとも見え、翌二十六日まだ院宣を蒙らぬに、早くも東軍の先鋒は行動をはじめ、既に京都を出発せんとしている。

この二十六日には義仲の首大路を渡され、検非違遣は六條河原で義経からこれを請取り、高梨忠直、根井行親、今井兼平等の首と同じく獄門に懸けた。何者の所業であったか、この獄門の木の下に札を立てて、次のような落首が書いてあったと伝えられている。

   信濃なる木曽の御料に汁懸けて

            ただ一口に九郎義経

義経の威勢はこれでも想像される心地がする。もっとも義仲四天王の随一樋口兼光は、さきに河内に下って行家を攻め、義仲の最後にも遇はず、武運拙(つたな)く義経の手に捕らえられたが、武蔵の国兒玉党の輩が兼光と親戚であった関係から、頻に命乞をするので、義経も院に奏聞して死罪を免じ、この日大路を渡して禁獄した。されど罪科軽からずとて、法皇御許容なく、翌二十七日獄舎から引き出し、五條西朱雀で首を刎ねられてしまった。

義経がかく義仲追討の跡始末を急いだのは、実に一日も早く京都を出でて、平軍と雌雄を決せんが為であった。そして同時に彼は、宇治勢多の瘡痍(そうい)未だ癒えず、その休養なお十分ならざるに係はらず、東軍をして機敏な行動を開始せしめたが、正月二十九日には全部京都を出るまでになった。

然らば義経の策戦計画は如何に、彼は果たして無謀に攻勢を取ったのであろうか、まづその兵数から調べて行こうと思う。

『源平盛衰記』によれば、追手の大将軍は蒲冠者範頼で、相従う輩には、稲毛三郎重成を始め、梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、千葉介常胤一族、兒玉秩父の輩などその勢凡そ五萬余騎、搦手の大将軍には義経自らこれに当り、安田三郎義定、畠山庄司重忠、大内冠者維義、土肥二郎実平、三浦別当義澄、和田小太郎義盛、熊谷次郎直実父子をはじめとし、その勢一萬余騎、合せて六萬余騎となっているが、『吾妻鏡』には追手の軍五萬六千余騎、搦手の兵二萬余騎とあって、『源平盛衰記』よりも一萬六千騎ばかり多くなっている。これに対し平家の軍は、『吾妻鏡』には数萬騎とあるばかりでその数を明記せず、『源平盛衰記』には十萬騎と見えている。

この両軍の兵数は共に信用するに足るであろうか、東軍は宇治勢多の合戦終わってから、近々五六日の間に、もちろんその補充が出来る筈もなく、後援軍の加わった様子もない、むしろ宇治勢多の兵数よりも減じたとする方が穏当である。これに反して平軍は山陽南海、或いはまた畿内近国、九州の軍勢も加わって居たので、兵数は割合に多かったに相違ない、恐らくこの両書の記するところは、軍物語に常套(じょうとう)なる誇大された数であろう。余は今『玉葉』によって、平軍を二萬騎とし、東軍を二三千騎とするのが実に近いものであろうと思う。それで源平両軍を比較すると、平軍はおよそ源軍の七八倍であった、それに一の谷の城郭(じょうかく)は、天険に據(よ)った要害である。義経は如何なる戦略を用いたであろうか。

東は生田の森を城戸口とし、西は一の谷を城戸口とす。その中三里、福原兵庫の市街を控え、北は山の麓、南は海の汀、人馬の隙ありとも見えぬ有様。陸には此所彼所に堀をほり、逆茂木を引き、二重三重に櫓を掻き、垣楯を構えている。海上には数千艘の船を浮かべて浦々島々に充ち満ちている。兵粮物資の運送には十分の便利と準備があった。それに一の谷は口狭くして奥広く、北には峨々たる深山高く、屏風(びょうぶ)を立てたらんようで、馬も人も通うべきところがない。南には漫々たる巨海浪繁く、水軍に習わぬ東国の兵、差流石の義経も策の出すべきものがなかった。

されど義経は敵の優勢を懼(おそ)れるような人ではない、ただ如何にしてこれを挫(くじ)かんと苦心する名将であった。また天険や要害を恐れる人でもない、彼の前には天険もなければ要害もないのである。殊に平家追討は、表面院宣を奉じ、頼朝の代官として局に当たったのであるが、義経自身に取っては年来の宿志である。これがために鞍馬山をも飛び出し奥州をも離れた、亡き父義朝の怨を晴らし、會稽の恥を雪ぐことは、彼が今日まで千辛萬苦した所以である、院宣がなくとも、頼朝の命がなくとも、彼は平家を亡ぼさねばならぬ、彼には平家を亡ぼして親の敵を討つという外、何物もなかったのである。

尤も院宣は大切である。頼朝の命令には服従せねばならぬ、万一神器の授受によって、後白河法皇と平家の和平が成立ちでもすれば、平家を討つ機会たちまち去って、義経の立場がなくなってしまう。またぐずぐずしている間に、慎重な態度を取る用心深き頼朝から、後援の軍を送るが為に、少しく出兵を見合わせよという命令でも来たら、或いは平家に先んぜられて、防御する方に廻らねばならぬかも知れぬ。今は義経が、敵の優勢と、天険に據れるが為に猶豫すべき時でない、要は一挙にして平家を一の谷から追い落とすにある、しかも寡兵を以てこの天険に據れる優勢の敵を討つには、正々堂々の戦では行かぬ。彼はここに於いてか、奇兵を用いる外はない、夜討、焼討、奇襲、ただこれあるのみと、その胸中は既に決した。

寡を以て衆を破るには、六韜三略(ろくとうさんりゃく)をひくまでもなく、彼は夜討や焼討の如何に有効なることを知っている。遠く実例を求むるに及ばぬではないか、彼の父義朝が保元の乱に於いて既に実行して成功した。鎭西八郎為朝がこれを主張して悪左府頼長に沮(はば)まれたのに反し、義朝は白河殿を焼討にしてたちまち勝ち軍となったのである。また木曽義仲が、捷に乗って北進する平家の大軍を、一撃の下に潰滅せしめて、倶利伽羅谷を敵の死骸で埋めた、礪並山の合戦も夜襲であった。いま義経の策戦計画は既に定まった。眼中また敵軍なし、彼は搦手の大将軍として機敏に行動を始めたのである。

そこで彼は追手搦手とも、出来るだけ早く一の谷に迫らんとしたが、搦手の軍は追手に比して、非常に迂回せねばならぬ。丹波路を取って亀岡、園部に至り、更に西して篠山に出で、また西南に方三草山を指して行く、この山を越えて播磨国に入り、印南野を南下すれば一の谷の西に出づるのである。もしこの大迂回を為す間に、平軍が攻勢に出でて範頼の軍を討つこともあらば、また実にゆゆしき大事であった。そこで義経は、まづ二月三日に一の谷を攻撃すると声言せしめて、平家から討って出ぬように之を牽制(けんせい)し、直ちに強行軍を以て丹波路に懸った。『源平盛衰記』などに「二日路を一日に打つ」とあるのはこの事である。

これば義経は丹波路の道程を計って、二月七日の朝総攻撃と決して居たのである。無論三日に一の谷の攻撃は開始されなかった、そして四日は清盛の忌日なれば、仏事を妨ぐることは罪深し、五日は西塞り、六日は悪日などといって、空しく数日を経過しているように見せかけ、その実五日の夜に、義経の軍は漸く三草山の東麓小野原という所に着いたが、平家もさるもの、その西麓には新三位中将資盛等を大将として、東軍を待ち構えて居た。

義経は奈何しても平軍を懸け散らして通らねばならぬ、七日の仏暁にはその軍を一の谷の西木戸に到らしめねばならぬのである。しかもこの場合また恐らく平軍の方が兵数も多かったらしい、もし多くないとしても逸を以て労を待つのである、尋常の合戦六ヶしと、義経は夜襲と決心した。

しかし義経は鎌倉の老武者を尊敬して、教を乞う雅量を有する大将である、彼は決して剛腹自から用いる人でなかった。ただ梶原景時のような奸侫(かんねい)な人物を悪むこと蛇蝎(さそり)よりも甚だしかったため、景時が軍奉行であっても、言葉さえ交わさなかったであろう、そして景時の口からそんな讒言(ざんげん)が出たか知れぬが、彼は竹を割ったような心持ちよき気象に、仁あり義ある武士であった。鎌倉武士の標本ともいうべき畠山重忠が、範頼を去って義経に附いたのもこれが為である。土肥実平が範頼に附けられながら、また義経の手に属したのもこれが為である。

三草山を攻めるに当たっても、義経は田代冠者信綱や、土肥実平に向かい、夜討にしようか、暁に寄せようかと相談した。両人とも、夜討こそ然るべし、夜にまぎれて押寄せ踏み散して通りたまえと勧めたとき、義経は、
「それは元より義経の所存なり、それど一義二義を出して皆のものに味はするは故実ぞ」といって将士を激励した。この一言は義経の戦略家としても、大将としても、その器量を備えた所以を観るに足るべきもので、彼の人物がたま躍如としてこれに見はれている。

三草山の夜討は、いうまでもなく東軍の勝利であった。資盛は一戦に追い散らされて、一矢も射らず、這々の体で落ちて逃れ、源氏は軍の手合わせに門出よしと、勇みに勇んで一の谷へと殺到した。が義経は本軍を実平に任せ、自ら三浦義連、畠山重忠等の精兵を引き連れて、途中から山路に分け入り、鵯(ひ)越の坂落し一の谷の背面攻撃に向かった。

この鵯越の坂落しは、平軍は固より、東軍の人々すら一人として想いも懸けぬ行動であった、いわば普通人の考えも及ばぬ奇襲で、実際非常な無理であった。がこの無理を断行したるところに義経のえらいところがある。すべての事情が我に不利なるとき、思い切って無理をすると、時に死中活路を開くことが出来る。彼は決して物好きにこの絶壁を下さんとするものではない、彼を以て向こう見ずの大将となすものあらば、未だよく義経を知ったものといえぬ。義経は一の谷の要害を研究した結果、この奇襲を行う外に必勝の算がないことを自ら覚悟していたのである。彼が搦手の大将として京都を発したとき、その胸中は既に決していた、その勇気と膽力とは自らその成功すべきを信じて疑わなかった。そして彼はこの場合衆に先んじて山中に分け入り、将士を励ましつつ一の谷の死命を制せんとしたのである。義経は吾々にすべての事に成功すべく大なる教訓を与えている。

義経がかくの如く肝膽を砕き、必死の覚悟を以て一の谷にかかったのに、平家はこれに対し、如何なる方策に出でたであろう。彼等の中には、知盛の如き、教経の如き人物がなかったではない。しかし全軍を統率する宗盛は武将として極めて無能な人であった、何等の戦略も苦心していなければ、敵軍の動静をも探るような様子が見えなかった、ただ多勢を恃(たの)み、要害を恃んでいたに過ぎぬ。それに屡々(しばしば)義仲の軍と戦って、既に幾たびか勝利を得、軍気も多少驕(おご)っていたし、彼等の恐れた義仲は滅亡し、何時でも京都を回復することが出来ると思って、まづ一安心といった体である。また義仲と同じく、彼等は義経を黄口の豎子(じゅし)何をか為さんと、まだ彼の義仲以上に恐るべき手並をもっていることを知らなんだ、そして悠々と構えて源氏の攻め寄せるのを待っていた。

彼等は城中に、或いは船上に、詩歌管弦の遊に耽り、義経に追い落とされることよりも、多くはハヤ都に還った夢を見ていた、その運命は既に決しているのである。

もっともここに今一つ、平家に油断させたことがある、それは朝廷の煮え切らぬ態度であった。元来朝廷では公卿(くぎょう)などでも、必ず平家を族滅せねばならぬと考えていたのではない、彼等に取っては、平家も源氏も、左まで軽重すべきものでなかった、ただ何れにしても、武家の勢力を得るのが、面白く感じられなかった位である。故にこの際朝廷で第一に痛心されたのは、前にいった通り、実に三種の神器を無事に迎えることであった。『玉葉』によれば、正月二十七日、既に追討の院宣を下しながら、源軍が京都を出発した二十九日、また彼の静憲法印を使者に遣はされる仰があったのを、静憲が辞退したということである。しかしそれが全く沙汰止みとなった訳ではなかったらしい。

一の谷の戦後、生捕になった三位中将重衛に手紙を書かせて、後白河法皇から宗盛に降伏を勧められたことがある。これに対する宗盛の返事を読めば、多少その辺の消息が分かる。

その一節によれば、「二月六日修理大夫親信卿から来た手紙に、八日和平のために使者を下向せしめられる筈である、その使者が京都に帰らぬ以前には、狼藉(ろうぜき)の振舞なきよう、関東の武士に仰せられたから、その旨を平家の軍にも触れて置くようにとの事であった、この仰によって平家は法皇の御使を待っていると、七日になって、東軍が天皇の御座船を襲うて来た、しかし院宣恐れ多しと、平家の軍は進んで戦わず、皆引き籠もっていれば、関東方は勝に乗って戦い懸かり、たちまち合戦となって平家の軍兵多く討たれることとなった。これは院宣を待って事をなすように、関東の武士に仰せられなかった為であろうか、或いは院宣を下されても、武士が承知しなかったのであろうか、もしくは平家の軍に油断せしむるため、詭謀を廻らされたのではあるまいか」といっている。これは敗北の原因を美しく飾ったものであるとしても、院宣の下ったことだけは確かであろう、そして之がために幾分気を緩くしていたかも知れぬ。要するに平家は大軍を擁していながら、一の勝味を有っておらなかった。

義経が山奥に分け入った記事は、『源平盛衰記』に面白く書いてあるので、その困難を想像することが出来る。山々遙に連って、人跡は殆ど絶えている、ただ由々しき険難の石巌、まず鹿などが通る位、それを義経、「よも馬の駆け得ぬことはあるまじ、急げや急げや夜の中に」と、まず先に打てば、我も我もとつづく精兵、心ばかりははやれど、六日の日既に暮れて、山は険しく木は茂り、岩高く道幽なれば、手綱を引へて休み休み進んで行く。
義経がその臣鷲尾経春を得たのは、またこの折りと伝えられている。義経は余りに木立茂って道なきまま、武蔵坊弁慶を召して、山の案内者を尋ねよと命じた。弁慶は的当もなく乾の方へ十町計りも下って谷底を伺えば、幽かに火の光が見えたので、行ってみると一軒の萱屋に七十余の老人夫婦火にあたっている、弁慶主命を述ぶれば、
「若き折は摂津丹波の山々知らぬ所も候はざりしが、今は年寄りて歩行さへ叶ひ申さず、幸い子息の小冠者は不敵の奴、案内もよく知りて候う。召させたまえ」
と老人は答えた。やがて呼び起こされて立ちいづる壮士、柿の衣物に同じ色の袴、節巻の弓に猿皮靱、鹿矢あまた指して足半を穿(うが)いている。弁慶に伴われて義経の前に畏(かしこ)まるを見て、年はと聞けば十七という、居所は鷲尾、名はまだ附かず、親には三男であるとのことに、さらば鷲尾三郎と呼べ、我片名を取って経春と名乗れと、義経はここに烏帽子親となって引出物を賜った。

『源平盛衰記』には三草山の夜討ちに捕虜となった一人播磨安田庄の下司多賀菅六久利というものを案内者としたとも伝えている。『長門本平家物語』には賀古菅六久利となっているが、或いは鷲尾経春の話よりも事実らしく思われる。ただしこの経春の義経に仕えた事には、義経の人物が『源平盛衰記』の作者により、如何にもよく描かれている、そしていづれにしても義経がこの険路を越すに苦心したかは想像に余あるであろう。
その苦心は、また義経と鷲尾との問答によく現われている。義経は、
「如何に鷲尾、山の案内は」
と問えば、
「この山は鵯越と申す極めたる悪所、上七八段は屏風を立てたらんように候が、白砂まじりの小石ばかり、草木も生いず、馬の足も留め難く候、夫より下五六段、これは岩磯の事とて人も通り難くこそ候へ」
これを聞いて、義経、
「さてこの山に鹿はなきか、彼の悪所を鹿は通らぬか」
と尋ねるに、経春、
「鹿こそ多く候へ、寒くなれば丹波の鹿が一の谷へ渡り、日影暖に成れば、一の谷より丹波に帰り候、御察し候へ、馬も人も通る所ならねば、落とし堀の用意など、いかでか候べき」
義経この答に、勇みたち、
「殿原さては心安し、やをれ鷲尾、鹿にも足四つ、馬にも足四つ、西國の馬は知らず、東國の馬には、鹿の通るところは馬場ぞ、打てや殿原」
と、また自ら先に立って、岩の鼻、岸の額、馳せ落とし馳せ上り、七日の朝まだほの暗きころ漸く鵯越の上に辿りつけば、この下こそ一の谷よ、汀につづいて平家の陣の篝火いと興ありと、暫し人馬を休めていた。

大手の源軍は摂津の昆陽野に陣していたが、六日の夜我れ先にと、手毎に松明を取って急ぎ、所々に火を放って進軍する、そして七日の暁には土肥実平も一の谷の西の城戸口まで時刻違えず攻め寄せた。熊谷次郎直実、同じく小二郎直家、平山武者所季重の三人は、はじめ義経に従って鵯越に着いたが、この度の合戦に先陣せんと、夜中に抜け出で山を下り、須磨から一の谷の正面に進み、まだ暗い内に城門に迫って名乗りを揚げると、平家の軍には、越中前司盛嗣、上総五郎忠光、悪七兵衛景清など、一騎当千の武士が門を開いて渡り合い、ここに合戦は始まった。そして実平以下の総勢また直実等と相応じ、入替わり立替わり戦いは漸く酣(たけなわ)となって来た。

東門の方では、範頼後陣に控えて下知し、武蔵相模の壮士、我先にと城戸口に競いかかり、河原太郎高直、同二郎盛直の兄弟二人、真っ先に逆茂木乗越え門内に進んで討死する。続いて梶原父子駆け入って奮闘した後、景時多勢に敵せず引き上げたが、源太景季の姿が見えぬのに、それ景季討たすなと、また二たび平家の軍を集散せば、景季は甲も打落されて大童になり、この所を最後と切り合っている。景時景季を後になして防ぎ戦いつつ、鎧を着せ暫し休めて、寄せつ返しつ戦ったが、やがて父子打連れ城戸へ出て来た。これが梶原生田の森の二度の集と伝えられている有名な話で、この時咲き匂う梅が枝を箙(えびら)にそえて指していたので、集くれば花は散っても、匂は袖に残ったり、優にやさしき花箙(えびら)と、平家の公達まで感心したということである。

義経は鵯越からいよいよ一の谷の後にかかり、山の上から見下ろせば、東西二門の戦は正に酣(たけなわ)である、喚き叫ぶ声、射違う鏑矢の音、者凄まじい有様、機は既に熟したり、馳せ下って本軍に力を合せん、各落せと命令一下、軍兵我も我もと馬を谷に打向け、心に先陣とはやれど、見下すばかりの絶壁に、流石の勇士も顔見合わせて躊躇へば、馬も恐れて後退りするばかりであった。まず試みに二頭の馬のみを落としてみるに、一頭は足打折って死んだけれど、他の一頭は這い起きて身震いしつつ篠草を食っているのを見届け、乗り手さえ心得て落としたら過はるまい、義経の馬の立て様見習えと、馬の後足を折敷かせて、流に落に下って行く。

一同もこれに続いて手綱かい繰り鐙ふんばり、手を握り目を塞ぎ、馬に任せ人に随って劣らじ劣らじと落とした有様は、殆ど人間の所為とも思われぬことであった。

義経は落としもはてず、白旗さと捧げて、一度にどっと閧を作り城内に乱入した、堅横蜘蛛手十文字に馳せ廻って戦う程に、平家は不意を討たれて周章騒ぎ、中には味方討をするものすらあった。しかし城郭は広大なり、兵数は衆し、尋常の戦叶はじと、義経は早速假屋に火を放けさせると、折節西風烈しく、猛火たちまち城中を吹き襲い、平家の軍兵煙に咽び火に攻められ、今は敵を防ぐに及ばず、取るものも取りあえず、浜辺をさして逃げ出す。
或いは馬を鞭って渚を走り、或いは船に乗らんと競い争う。そして逃げ迷うて討たれるもの、船に乗り損じて水に溺れたものも非常に多かった。

かくて合戦は午前四時ごろに始まり、午前八時ごろには、流石堅固の要害もいよいよ落城した。もっとも宗盛父子は安徳天皇を奉じて、女院、二位尼以下の人々と共に、早くから船中にあったから、直ちに宗徒の者と四国の根拠地たる屋島に引き上げたが、平家一族のものも討たれたり、生け捕られたものが少なくなかった。重衡は浜伝いに明石の浦に志すところを、梶原景時、庄家国等の手に捕らえられ、通盛、忠度、経正、業盛、盛俊、知章、敦盛など、皆討死の中にあった。ただしこれらの人は、城を防いで討死したのではなく、多くは逃げ損じ、船に乗り損なったためであったのを見ても、宗盛が始めから多くの船を準備していながら、侍以下ならば兎に角、これら一門の人々すら収容することが出来なかったことは、その如何に不用意であったが、また平軍が如何に周章したかを推されるであろう。

この一の谷の落城については、平家に関する悲劇が少なかった、『源平盛衰記』によれば、熊谷次郎直実が出家することとなったのは、この折一子小次郎直家に手負わせ、無官大夫敦盛を討ったためであるといわれている。が、『吾妻鏡』に直実が久下権頭直光と法廷で争って、頼朝の裁判に服せず、怒って出家したとあるので、この敦盛関係の話を抹殺しようとする人もあるが、荒々しい、しかも一種の気象を有する鎌倉武士が、裁判の不平だけで直ちに出家するような心理状態を有っているであろうか、彼は果たして心の奥に物の哀れを感じていなかったであろうか、後黒谷の源空上人の門弟となって往生を遂げた蓮生坊は、実に直実その人である。

義経はかくて大勝利を得、翌八日飛脚を以て合戦の趣を奏聞し、九日には手勢だけを引き連れて京都に帰った。それはこの度討取った平家一族の首を、義仲と同様大路を渡した後、獄門に懸けたいことを奏聞するためであった。そこで法皇よりは大臣公卿(くぎょう)に御諮問(ごしもん)があったが、右大臣兼実の意見では、平家は義仲と同罪という訳には行かぬ、ことに一旦皇室の外戚として、公卿ともなり、近臣ともなったものである、假令誅罰せらるるとも、その首を渡し、獄門に懸けるは義に合わぬ、且つ又神璽宝剣もなお平家に奉ぜられるのを見れば、無事にこれを迎えることが急務である、首を渡しなどして、ますます平家の怨を買うのは得策でないというのであった。そして他の大臣公卿等も多くこれに同意し、義経の請は御許容になる様子がなかった。

義経は非常に憤慨した、彼は父義朝の怨を晴らさんため死を決して一の谷を陥れたのである、公卿等がこんな態度に出づるを黙過ごし得るところでなかった。彼は重ねて奏聞した、「父義朝は保元の乱に合戦の忠ありながら、その後人のために誤まられて、意はず勅勘を蒙り、その首は大路を渡されて、骸を獄門に曝(さら)されて候、平家昨日までは朝家の重臣なりしも、今は既に逆臣となり、臣等身命を捨てて合戦仕る、これ一は朝命を重んずるため、一は亡父の恥を雪がんがためにて候、もしこの討ち取れる平家の首、大路を渡されずば、向後何の勇あってか朝敵を誅し申さん」
後白河法皇も、義経等の心中無理ならずと、終にその請を許された。

で十三日、平家の首を六條室町なる義経の第に集め、更に六條河原に渡して、険非違使大夫判官仲頼以下の人々これを受け取り、長槍の先に貫き、赤札を附けて姓名を記し、大路を引き廻して獄門に懸けた、見物の人幾万とも知れず、廟堂(びょうどう)に袖を連ねた昔は、平家にあらねば人にあらぬ威勢、怖畏れる輩多かったが、巷に首をわたされる今日、その末路の哀れさに、誰か一滴の涙なきものあろう、ことに京都に残っていた平家の遺族や親類の悲嘆は目も当てられぬ有様であった。

この時首を渡された人々は、『吾妻鏡』によれば蒲冠者範頼の手に打取った通盛、忠度、経俊の三人、安田義定の手に打取った経正、師盛、教経の三人、それに義経の手に打取った敦盛、知章、業盛、盛俊等、合わせて十人であるが、この中能登守教経というのは一時の誤りであった。『玉葉』にも一定現存と記してあるし、『醍醐雑事記』や『源平盛衰記』によると、最後の壇の浦で討死したのが事実である。
 

第六章 
 


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2000.12.08 Hsato