十 義経の都落
  
義経が鎌倉に入るを許されずして、空しく帰洛の途に上るや、頼朝は、義経の彼を恨むこと更に深きを加え、必ずや反噬し来らんと予想し、義経が京都に着いた六月九日の後四日、大江廣元、筑後守俊兼を奉行として、兼ねて義経に分け与えて居た平家の洛官領二十四ヶ所を奪い、改めて皆これを他人に充て行うてしまった。

『吾妻鏡』に、義経は京都に帰るに際し、鎌倉に怨ある輩あらば、来たって義経に属すべしと高言を吐いた。それが頼朝の怒に触れて、この所分に及んだのであると述べてあるが、それはもし景時の讒言でなけば、無論義経を罪する頼朝の口実に過ぎなかったことで、また之によって関東の武士を、義経に従わしめぬように仕向ける手段であったろう。が、義経はどこまでもなお、頼朝を兄として事へねばならぬと覚悟している。鎌倉に楯突いて、かかる言詞を吐き散らすような人ではない。またたとえこの処分に対し、心の中に兄の無上を恨んだとしても、最早これを訴える便りも絶え果てて、ただ遣る瀬なき思いを、雲の上なる都の月に寄せるのみであったろう。

もっとも義経は情深い、涙もろい人であった。この際にあっても、もし頼朝の勘気を蒙った御家人にして京都に留まれるもの、彼に庇護(ひご)を請ものあらば、彼はその身に引き比べて、これを拒むことが出来なかったであろう。

そして彼を慕い心を寄せて、その傘下に集まり来るもの漸く多きを加え、ますます頼朝の嫌疑(けんぎ)を大にすることとなったのは、是非もなき成り行きであった。

されどいかに辛辣(しんらつ)なる頼朝といえども、この嫌疑だけで、直ちに義経を反逆人と誣(し)いるには、義経の声望あまりに高く、後白河法皇の義経を信ぜられること余りに厚かった。のみならず、その声望と兵略から打算して、その実力以上にまで義経を恐れたため、頼朝を軽々しい行動を取らず、なお暫く自重して義経を監視していたのである。

二月ばかり経過した。年号も文治と改まった八月十四日の翌々日、十六日の夜、平家追討の恩賞として、頼朝の推挙(すいきょ)により、源氏の人々六人の除目が行われた。
志田の三郎先生義範は伊豆守に、大内冠者惟義は相模守に、足利太郎義兼は上総介に、加々美次郎遠光は信濃守に、遠江守安田義定の男兵衛尉義資は越後守に任ぜられ、太夫判官義経また伊予守を兼ねさせられた。

頼朝がかく義経を推挙したことは、前挙げた所領没収と、一見矛盾しているようであるが、実はその所領没収より二ヶ月ばかり以前、去る四月の頃、院の別当大蔵郷高階泰経まで既に内々申し入れしたことで、その当時はまだ義経との関係が、かくまで急に変化しようとは、頼朝自身も思い掛けなかったことである。

それに義範以下の五人を国司に推挙した以上、平家追討の首勲たる義経を、今更何等の口実なくして除外するのは、表面名分を正しくせる頼朝のよくするところではなかった。しかも義経が後白河法皇の御覚目出たく、泰経との間また水魚の親しみありしため、この場合となっても、遽かに前の推挙を撤回する訳にいかず、ただ勅諚に任せ奉ると、極めて婉曲に言上した。

頼朝の意中では、勘気を蒙れる義経が、謹慎を表して必ず辞退するであろうと期待していた。少なくとも朝廷に於いて、勘気中の義経に任官せしめられるような事は、頼朝に対し御遠慮になるであろうと推量したが、朝廷では何等頼朝に気兼なく義経を伊予守に任じ、義経も進んでその恩賞に預かったのは、むしろ頼朝の意外とするところであった。
そして頼朝の眼には、義経の態度ますます驕慢不慎となり、兄を兄と思わぬように映じ来たって、断然義経をのぞかんと計画することになった。

が義経は頼朝の真意を了解せず、彼の玲龍玉の如き性格から推察して、この推挙を迫害の谷底から救い出されるかのように感じ、兄の怒りが全く解けるのも遠きにあらざるべしと確認し、喜んで伊予守に任ぜられたのであった。

そして後白河法皇に於いては、たとえ頼朝の真意を了解されたとはいえ、平家追討の受賞者から義経を除外するに忍ばれなかったのみならず、その恩寵日に厚く、頼朝の推挙を幸に、遂に破格の賞を賜ったのである。

それで義経が伊予守に任じて、なお検非違使の判官たることは、九條兼実も「未曾有々々々」と評している。恐らく先例がないことを指したのであろう。

義経が伊予守に任ぜられたことは、いはば頼朝から最後の引出物であった。されどこの最後の引出物も、頼朝は伊予の国務を義経に任せず、恣(ほしいまま)に地頭を補して、何等の実利なきものたらしめてしまったのである。

義経の悲惨な運命はかくてますます追って来た。そして最後の土壇場に追い詰めるような事件が忽ち起こって来た。これは頼朝と行家との衝突である。

行家は六條判官為義の末子、義朝には弟、頼朝義経の叔父で、以仁王の令旨を奉じて、諸国散在の源氏に伝へた人である。最初は頼朝と事を共にしたが、幾程もなく仲違いして義仲に投じた。されど彼はまた義仲と衝突して、後白河法皇に依ることとなったが、義経が頼朝の代官となって義仲を攻めるや、彼は恐らく義経と連絡を通じたであろう。

宇治河合戦の数日前兵を河内に挙げ、東軍に応じて、義仲の勢を割き、易々と義経をして京都に入らしめた。これが義経と行家とを結びつけた最初であると思われる。

義仲が滅んだ後、行家の動静は暫く不明となてしまう。多分河内和泉の間にいたのではあるまいか、或いは一の谷合戦以後、義経が京都に留まれる際など、二人の間に消息を通じていたかも知れぬ。そして義経が屋島に出陣した時は、和泉あたりの兵船を集めるに、或いは尽力したこともあったであろう。しかし彼と頼朝の間が、依然として快くなかったのも無論である。

彼は平家の追討にも身力を尽くした。また木曽征伐にも間接の功労があった。今義仲既に亡び、平家の全滅を見た以上、彼も恩賞に預かりたいことは山々であったろうが、かえって頼朝は、今や彼を除くに最もよい機会であると信じたので、八月四日、彼が西国にあって、関東の昵近(じっきん)でありながら、方々の人民を虐(しいたげ)るばかりでなく、謀反(むほん)の企て既に発覚したと揚言し、近江の佐々木太郎定綱に、近国の御家人を相催し、行家を討てと命じた。

元来行家は、兵略ある武将よりも、寧ろ小才の利いた政略家であった。彼は殆ど一度も戦争に勝った例がない。平家の軍にすら屡(しばしば)敗戦した。しかし彼が以仁王の令旨を諸国の源氏に伝えて、彼等を一斉に競い起らしめたのを見ても、如何に弁才あり、遊説に巧なりしかを想像せしむる。また彼が頼朝を去って義仲に属するや、木曽山中に育った率直な義仲は、全く彼に籠絡(ろうらく)されてしまった。頼朝が、彼を渡すか、人質を出すかと迫るに及んでも、義仲は義として行家を庇(かば)い、最愛の一子義高を鎌倉に送った程である。

ついで行家は義仲と共に京都に入ったが、やがて義仲に疎外せらるるを看破(かんぱ)また後白河法皇に取り入り、義仲をして遂に自暴に陥らしめたような、政略的手腕を持っている。言い換えれば、彼は小さき政治家なりしが故に、頼朝と衝突し、義仲と離れたのである。そしてまた頼朝をして義仲と仲違いせしめ、遂にまた義経を殺すに好辞柄を与えしむるものとなった。

頼朝の佐々木定綱に下した命令が行家の耳に入ったのは、恐らく八月半ば、丁度義経が伊予守に任ぜられた頃であったろう。

行家はその小政治家たりしだけ、頼朝が義経に対する態度を観てよく頼朝の真意の那辺にあるかを了解することが出来たであろう。そして行家の運命と同じ方向に、義経が追われつつあることを看破し得たであろう。また彼は義経が同情に富んだ性格の人であることもよく知っている。義経の外彼を庇護するものがないと信じている。彼は頼朝から兵を差向けられる報を得るや、直ちにその身を義経に投じた。

義経は行家には甥である。彼は父義朝を襁褓(むつき)の中に失い、その面貌(めんぼう)すら記憶に残っておらぬ。彼が初めて行家に遇ったとき、その亡き父に見ゆるような心地がしなかったであろうか。また叔父は猶父の如しという言葉を思い出さなかったであろうか。彼が終生の志、亡父の仇を報ずるにあったことから推しても、その亡父の弟であり、亡父の面貌を生寡したように感じられる行家に対し、必ずや彼は満腔(まんこう)の同情を有していたであろう。

それに宇治河の合戦には、行家が兵を河内に挙げたため、彼は容易に京都に進んで義仲を亡ぼすことが出来た。彼はその功を以て、或いは頼朝に推挙せんとしたかも知れぬ。しかも頼朝を動かす能はざりしがために、彼は心ひそかに気の毒に感じていたではなかろうか。

かかる所に、行家は京都に上って、密に義経を訪い、彼の弁口をもって、その進退谷まれるを説き、義経の庇護を求めたのである。窮鳥懐に入来る、義経はその身の既に兄の勘気を受けている事を顧みる暇がなかった。彼はむしろその境遇から、一層強き同情を行家に加えた。そしてあくまで行家をかばい、その身命を賭してこれを救わんと決心した。

がこの時、義経は忽ち、自ら兄の勘気を蒙っていることに心づいた。彼はまず自ら兄の怒りを解かねばならぬ必要に迫っている。また行家を庇護して、兄に楯を突くようなことは、昆弟の道に背いている。彼はどこどこまでも兄を兄として頼朝に従わねばならぬと気が付いた。彼は果たして行家を見殺しにせねばならぬであろうか。

彼はしばしの間、眼を閉じて考え込んであろうが、彼の性格は決して行家を見殺しにすることを許さぬ。彼は思い返した。頼朝は彼に兄である。世に弟を思わぬ兄があろうか。既に彼を伊予守に任じた兄は、その怒を解いて勘気を免すことも遠くあるまい。また彼の大功を想い起こす機会があるに相違ないであろう。

又、行家は、彼の叔父なると同時に頼朝にも叔父である。兄弟の疎隔が釈然として解ける時あらば、叔姪の間もまた旧に復する日があるに相違ない。もし叔姪の間なお解けざるあらば、彼が勘気を免されんその折、その間に立って仲直りをさすることも困難ではあるまい。よし遂に永く二人の関係を解くの機なしとするも、その身辺の危うきがために、叔父を見殺しにする甥となることが出来ぬと、彼は快く行家を庇護することに同意した。

やがて義経が行家を援けて、関東に叛くという風評が鎌倉に伝わった。また平大納言時忠が、五月二十一日、既に能登の国に流罪の身となりながら、なお京都に留まるのは、義経がその婿となっているためであるとの噂があった。

それで九月二日、梶原景季、義勝房成尋を使節として上洛せしめ、表面には南御堂供養導師の御布施、併に堂の荘厳具が大略京都で調えられてあるのを、奉行の為ということであったが、又同時に時忠などの配所に行かぬものを沙汰するよう、そして御使と称して義経の邸に赴き、早く行家の行衡を尋ねて誅戮せよと相触れて、まず義経の様子を伺えと、景季に内意を含めたのであった。

景季等は十二日入洛、配流の人々など一々沙汰して、時忠もその月二十三日に京都を出ることとなり、十月二日成尋は布施装束を装具して一足先に鎌倉に帰ったが、景季は四日後れて、六日帰参、直ちに頼朝の御前に出でて申すよう、

「伊予守殿の亭に罷(まか)り出て、御使の由を申し候いしに、病と称して対面し給わず、よって密々の仰事取次のものに伝え申すことは叶わずと、一応六條油小路の旅宿に罷帰り、一両日を相隔てて又参らしめ候えば、伊予守殿脇足に懸かりながら御対面あり、その体如何にも憔悴(しょうすい)の御模様、灸も数カ所すえさせ候と見受け申す。
さて試みに行家追討の事を達し候へば、伊予守殿御返辞に、所労更に偽りなし。義経の所存たとえ強盗窃盗如き犯人たりとも、直ちに追捕するは京都守護の役目、況して行家のこと、などそのままにさし置くべき、さりながら彼は同じく六孫王の苗裔、弓馬を掌(つかさど)って直也人に准じ難し、家人等ばかりを遣して即ち降伏せしむること容易のことにあらねば、早く治療を加え、平癒の後計略を廻さん趣、然るべく御披露頼むとの御事に候」

頼朝は疑いの眼を見張り、「行家に同意しているので、虚病を構えたに相違ない」といえば、景時傍にあってこれを承り、

「初めの日には面会を遂げず、一両日の後見参ありししその事を案ずるに、一日食わず、一日眠らずば、その身心らず痩せ衰え申さん、灸は何カ所なりとも、瞬く間にいえらるべしさらばこの一両日こそ怪しく候へ、左様の事相構えられしか、行家に同心用意あること御疑いあるべくも候わず」
と、彼は頼朝の気色を窺い、また義経を悪しざまに言い黒めた。

頼朝は、さては義経の叛意已に露顕したりと、いよいよ義経追討のことに決し、十月九日関東祇候の将士を集め、討手の人選に及んだが、義経の武勇を恐れたものもあったであろう。また内心義経に同情していたものもあったであろう。

和田、畠山、三浦、さては千葉、佐々木の面々、誰とて討手に向わんと申すものがない。
『源平盛衰記』にこの評定の有様を叙して、「義経が平家を誅罰して、天下を鎮めたのは神妙なれど、弟の身として兄に先ち、仙洞の御気色よければとて、頼朝に申合せず、推して五位の尉となれるさえ奇怪なるに、立ふぢ打ったる車に乗り、禁中花色の振舞、もってのほかの過分なり。我を我と思わん人々、九郎冠者を打て取れ」と、頼朝は殿中祇候のものを見回したが、皆口を閉じて返事を申すものがないので、頼朝腹を立て「いやいや誰彼とはいわんより、梶原がおるであろう。景時都に上って討ち進らせよ」と厳命に及べば、景時は人の上のことかと思っていたら、今は身の上にっかる一大事、のがれるだけはのがれて見ようと、袂かき合わせて申すよう、

「東は駒の爪の通い、西は艫棹(ともざお)の至らんまでも、君の仰なれば攻め申さん、さり乍ら判官殿の討手然るべしとも覚え申さず、梶原罷(まか)り上らば、火急の上洛心を得ず、中悪しき景時奴追討使を所望して上るなれと、判官殿も忽ち推量、還って逆打ちに討たれるは必定と存じ候。もし損ぜぬよう敵を亡ぼさん謀計(ぼうけい)とあらば、只思い懸けなき人にこそ仰付られ候へ」
賢しげに景時が辞退したのを聞いた列座の武士、いづれも顔を顰(しか)めて彼を悪まぬものはなかったということである。

そうすると、土佐房昌俊末座より進み出て、討手の大将仰せつけられたしと領状申したので、頼朝はここに始めて胸撫で下した。昌俊はやがてまた暇乞のため頼朝に謁(えつ)し、
「この度は昌俊打死と覚悟候が、ただ心残さるるは、下野に留め置候いし老婆嬰児の身上にこそ候へ、昌俊の亡き後、あわれ御憐愍(ごれんびん)を加えしめたまえ」
と申す。頼朝これを聞いて昌俊の志を感じ、即座に下野の國に中泉庄を賜り、昌俊面目を施して、弟三上彌六家季をはじめ、錦織三郎、門眞太郎、藍澤二郎以下の勇士八十三騎を相具して、京都に馳せ上った。

義経が景季を引見したとき、果たして虚病を構えて居たのであろうか、景季は景時の長子、前に佐々木高綱と駿馬生喰を争った折りの事から推しても、その人格が想像される。彼の復命に景時の相槌、どれだけその間に信ずべきものがあろう。しかもこれが義経に討手を遣す唯一の口実であったことを知らば、誰かまた義経に同情せざるものぞ。

武士の一諾は千金なお軽し、義経はよし頼朝の命があっても、行家を見殺しにするような無情漢ではなかった。そして景季を使いとして下されたことは、行家の追討を命ずるよりも、むしろこれをもって義経を試み、もし命を奉ぜぬとあらば、その口実の下に義経を討たん頼朝の真意を悟らず、義経は、頼朝がただ行家を討てと無理な注文をなし、彼を苦しめんとするのみであろうと、極めて善意に解釈して、行家を討つこと容易ならぬを告げ、差当り一時逃れの返事をしたに過ぎなかったのではあるまいか。これが実に頼朝景時の期待したところ、そして義経を最後の運命に陥れしむるものであった。

義経よりもより多く、頼朝を了解し得た行家は、景季が義経に頼朝の命を伝えたと聞いて、禍の巳に目捷に迫れるを覚ったに相違ない。彼はむしろ進んで頼朝に対抗すべき策を立てねばならぬと、義経に勧めたのではあるまいか。しかしこんな提議は義経に案外であらねばならぬ。彼は固より兄に楯突く考がなかった。

ここに於いて行家は得意の暗中飛脚を試み、内密に公卿や院北面の武士に運動し、少なくともまず大蔵卿泰経を説き、その同意を得て運動の手を広げなかったであろうか。泰経は毫大に法皇の親任を蒙り、機密の御相談にも預かったくらい、治承三年十一月、平清盛がクーデターを行ったときも、解官された一人で、殊に最も義経に同情を寄せ、常に院中にあって諸事斡旋するところがあった。今義経の危急を見て坐視することは、また彼の忍び得ることでなかったと想う。

刑部卿頼経、兵庫頭章綱、侍従一條良成、右馬権頭平業忠等も加わった。検非違使判官知康、同信盛、右衛門尉信実、同時成等も同意した。そして遂に後白河法皇を動かし、御内諾を得ることとなった形跡がある。しかも義経は、かくまで密謀が進歩しているのを少しも知らなかった。

後白河法皇は前にも言ったように、旧勢力を代表して、新勢力に対抗せんと努力されている。そして最後に現れた頼朝が、清盛よりも、はた義仲よりも、更に恐るべきを看破したまい、また之を除かんとの叡慮から、早くも義経に目をつけられたが、義経の人物毫も政治家的色彩を帯びず、天真爛漫な優にやさしい武将であったことは、殊に頼母しく思し召されたに相違ない。従って破格の思寵を加えられ、五位の尉に任じ、伊予守を兼ねしめられた程である。想うに泰経等の献言は、法皇の期待せられ、嘉納あらせられたところであろう。

そこで行家は更に二度義経を説いた。彼は頼朝に対して反旗を翻すから、義経もまた意えお決して起てと勧告し、密に後白河法皇や近臣などとの関係を打ち明けた。

義経は無論之に耳を傾けぬ。却って行家に思い止まれと忠告したが、行家が聞き入れぬので、十一日参院して法皇にこの次第を奏聞したところ、「まず成るべく制止を加えよ」との仰せ、かしこまってその邸に帰った。

がこの時頼朝の討手が上洛するという飛報が達した。義経は驚愕と悲嘆とに打たれて、ただ天を仰いで長大息するのみであった。そして行家は更に言葉巧にその計画の巳に熟せるを述べて、恐らく傍らから彼の決意を促したであろう。

義経の煩悶苦悩果たしていかなりしぞ。彼は弟としてどこどこまでも兄に事へねばならぬと覚悟している。といってその命に従い行家を討つ刀を有って居らぬ。彼には行家を見ること父義朝の如き心地がする。しかも行家の説に従わんか、弟として兄に弓を引かねばならず、もしまた法皇の叡慮に背かんか、彼は不忠の臣となるものである。

彼が身命を賭して、宇治川、一の谷、さては屋島、壇の浦に、木曽を討ち平家と戦ったのは、果たして何のためぞ、ただ亡父の怨を晴らし、源氏の再興を謀るばかりではないか。幸に薄手一つ負わず、平家を西海の水屑と消えしめた今日、兄弟叔姪互いに敵となる抑も何の因縁ぞや。

兄には背かれず、叔父に無情な刃は当てられず、法皇の御内旨も違うことが出来ぬとすれば、この際彼が、弟として、姪として、さては臣として取るべき道は、ただ死あるのみであるまいか。その人物性格から推して、彼は決して死をおそれるものでない。しかも彼にしてまた一度源氏の将来に思い及ぶとき、彼の心は掻き乱されて、ひと思いに死ぬ以上に苦しみ悶えて涙の滂沱(ぼうだ)たるものがあった。

保元平治の後、殆ど族滅せられんとした吾が家の悲運は、実に父子兄弟相争った結果でないか、幸いに驕る平家を滅ぼし、再び源氏の白旗天下を吹き靡(なび)かす時となり、もし前車の覆轍(ふくてつ)を踏みて、兄弟相背き叔姪相闘わば、また保元以後の源氏に立還るであろう。亡父の尊霊も見そなわせ、義経固よりその一死を惜しむものならねど、義経死なば行家も日ならずして殺されん。範頼なりとて安しと思われず、頼朝ここに孤立となって、源氏の運命忽ち窮まらん。義経既に身命を賭して父の亡執を晴し奉る。また何をか望むものあらん。ただそれ源氏の将来に暗澹(あんたん)たるものありとせば、義経果たして死すべきか。

否、死しても瞑目することが出来ぬと、彼が一たび死を決した心は直ちに鈍ってしまった。如何にこの窮地を脱して、その家のために謀ることを得るであろうかと、彼は漸く冷静に考え始めた。

頼朝に反抗もせず、自ら死にも就かずして、家の先途を見届けるには出来るだけ頼朝から遠かり、鎌倉から離れて、その衝突を避けると同時に、その地盤を堅固にして、時機の至るを待つ外はない、が、何れの所にかこの安全な隠家が発見されるであろう。ただ一所、然り天下にただ一所、九州のみこの條件を具備している。鎮西八郎為朝が勢力を養ったところ、平家一門が京都から落ち行いたところと、彼はその炯眼(けいがん)をこの九州に向けたのである。

しかし今や日本国中殆ど諸国の武士が鎌倉の下に屈して居る、鎌倉の勘気を蒙った義経を匿まうものがあるであろうか。もし追討の院宣頼朝に下らば、彼は忽ち朝敵となり違勅の臣となって、其依るところを失はねばならぬ。

一時兄には従わぬ汚名あらばあれ、真実兄に反抗せずば、心に疚(やま)しきものはない。折しも豊後の武士幸いに在京して居る。これを案内者として緒方惟栄、惟隆等に始終を見放たず、心を一にして力を合すべき由下文を賜り、一時九州に下って後圖をなさん。

行家また勅諚を蒙って四国に下ることともならば、暫く天下を三分してその一を有ち、行家と連衡(れんこう)して関東と鼎立(ていりつ)の姿をなすであろう。それに頼朝の背後には義経と関係最も深き奥州の藤原秀衡あり、頼朝をして東国を出ずる能はざらしむるまた難しとせぬ。かくて数年を送る間に、兄弟叔姪の誤解或いは釈然たるを得るか、もし釈然たる能はざるも、源氏の勢力、根底固くなる折りとならば、彼は喜んで自ら死に就き不弟の罪を頼朝に謝するであろう。

義経はここに最後の決意を定めた。その結果頼朝追討の宣旨が下ることとなったのが、実に義経に同情する人からさえ非難されるもので、どうして彼が弟として兄を討たんとしたというのは、道徳上怒すべからざるものと、多く認められているのである。

しかし事実の真相を洞察すれば、彼はただ九州に下って一時安全な隠家を求めんとしたのに過ぎぬ。その毫も兄に反抗的態度を取ろうとしなかったことは、この後の行動によって明瞭である。

もし彼が心から頼朝を怨み、頼朝を討たん考えがあったら、彼の如く常に機敏に攻勢を取った兵略家が、いかに退いて九州に拠り、何等関係なき豊後の武士に頼らんとしたであろうか。必ずや彼は進んで関東にに攻め下るか、或いは少なくとも京都に留まって、法皇を擁し天下に号令するか、二つに一つの途に出ねばならぬ。彼は明らかにこんな心のなかったことを法皇に奏している。

或いは義経が追討宣旨を請うたために、忽ちその人望を失い、勢力全く地に墜ちて、彼に応ずるもの一人もなかった。それに彼は、鎌倉武士の武勇を知っていたため、その手並みを恐れて東下するを敢えてしなかったという人がある。
が、頼朝は関東に於いてこそ非常な人望はあれ、足未だ京洛の地を踏まず、これに反して義経は既に二年に近く京都の守護となり、近畿の政治裁判を挙っていた。そしてその武勇と仁義とは、かの九條兼実すら口を極めて歎美しているほどであった。

また当時一般の武士がこの宣旨の下るを見て、直ちに義経に背く程、道義的観念に富んでいたかも疑問であり、諸国の武士にさほど不人望なる宣旨を義経が強いて請うたのも不思議である。

後に頼朝が南御堂の供養を終え、武士を召すや、集まるもの忽ち二千余人、しかも義経追討のために上洛せんと申し出たもの僅かに五十八人のみであった事実は、如何に義経の声望が、鎌倉武士の間に高かりしを想像せられる。従って彼にしてまず進んで東下せんか、翕然(きゅうぜん)として馳せ加わるもの必ず多かったであろう。そしてまた宣旨の権威によって、むしろその勢いを増したであろう。

しかし義経は進んで頼朝に反抗する意志がなかった。何等兵力を集中しようと試みなかったために、諸国の兵殆ど到らなかったのである。『玉葉』に近江あたりの武士が義経に応じなかったなどとあるのは、固より一の噂にすぎぬ。

また義経が宣旨を法皇に請うたことは、いかにも弟として兄に背いたことを証明しているように見えるので、或いは彼に政治的野心あって、鎌倉に反したのであるという人がある。
また或いは、義経がただその身命を惜しんで、自衛の必要上、朝廷に迫ったのであると推断する人がある。されどもし義経に政治的野心があったと考える人があるなら、それは義経の閲歴、人物、性格を少しも研究せぬものである。また自衛の必要から起こったろうと弁護するのも、かえって贔負の引き倒しである。

義経には自衛というような、自己本位の私心を認めることが出来ぬ。彼は死を恐れるものでない。彼の真意は宇治一の谷から屋島壇の浦の合戦に、到るところよくその行動に露はれて、腰越状に書されている。彼の真意の存するところを補足せば、彼の身命がすべて父のため家のために捧げられていることが明瞭であろうと思う。

もっとも義経が九州に下らんとせし計画は、政治的見地からいったら、或いは迂愚(うぐ)な考えであったかも知れぬ。が、それは成敗の跡に没頭した見方で、もし安全に九州に入ることを得たら、平家の先例を追い、鎮西八郎の故智を学んだこの方策は、少なくとも一時彼を窮地から脱せしめたであろう。後の尊氏を見よ、後の直冬を見よ。

頼朝と義経とが、その性格、人物、その手腕長所等、多く相反していたため、到底両立すべからざること歴然たるに、義経がなお兄の誤解を解くべき時機あらんと信じていたのは、彼が一歩は一歩と、いよいよ窮地に圧迫されるゆえんで、実に義経の弱点であったに相違あるまい。されどこの間に源氏を思い、兄を思い、また叔父を思った、彼の優しい人情と彼の麗しい性格とが流露(りゅうろ)している。

彼はかくて遂に決心の臍(ほぞ)を固めた。そしていよいよ最後の行動を取らんと十三日また参院し、
「あはれ義経頼朝の代官として、身命を君に奉り、平家の凶悪を討ち退け、父義朝が会稽(かいけい)をそそぎ、世を静謚に属せしめ候事、希代の軍功に候はずや。然るに適朝恩に浴し候伊予の国も、鎌倉より地頭を補せらて国務なり難く、没官二十余ヶ所の恩賞また既に没収せられ候のみならず、剰へ討手の兵向かうとの聞こえ候、東国に罷向いて過なき子細をも頼朝に申すべく候へども、今は叶い難き上、敵対すべきにても候はねば、東国へも罷り下らず候はばやと存じ候、御下文を賜り候へ、最後の所望ただこの事に候」
と法皇に奏して、その邸に帰り、勅命の下るを待っていた。

後白河法皇は、元より義経の頼朝に反抗するのを待っておられた。院の近臣は泰経をはじめ、むしろ義経が態度の余りに柔順なるをもどかしく思っていたのである。それでこの義経の奏言は、院中に於いて多少形を変じて、頼朝追討の宣旨となって現れ、遂に義経の真意が蔽(おお)われてしまった。しかし追討の宣旨は重事である。泰経は公卿の同意を得ることに苦心せねばならぬ。

そこで泰経は、十七日右大臣兼実を訪うてその意見を徴するにも、特に追討の専宣旨を下す口実として、京都から関東の兵を防ぐ第一線の地たる尾張美濃の堺なる墨俣河に、義経が馳せ向かって一箭を放ち、死生を決したいと奏聞したいといい、もし勅許なくば身の暇を賜り、鎮西に向かわん、その折は義経必ず主上法皇以下の公卿を相具して下向する気色なりと威嚇し、兼実がこれに反対すれば、さては兼実の態度頼朝に贔負するが如く見え、法皇の御覚え如何あらんと迫り、泰経は無理にも追討の宣旨を下すことに同意せしめんとした。兼実この事を『玉葉』に記し、天下の滅亡、結句この時にあらんと慨嘆している。

大蔵卿泰経が院旨を奉じて、兼実の外、左大臣経宗、右大臣実定等の意見を尋ね、かく頼朝追討の宣旨を下さんと斡旋したのは、十七日の事であるが、この日にはや土佐房昌俊が京都に入っている。そしてその夜水尾谷十郎以下六十余騎を率いて、義経の六條室町の弟を襲うた。

この時義経の郎党は外出して、邸に残ったものは幾人もなかったが、義経は佐藤忠信等を相具し、自ら門を開き、駈け出て防戦していると、行家之を伝え聞いて、後の方から昌俊の兵を攻めたので、昌俊は挟み撃となって這い々の体で逃げ出し、鞍馬の山奥に隠れた。
が、鞍馬は、元来義経と親密な関係もあり、その僧徒等義経の家人と共にたちまち昌俊を捜し出して義経に引き渡したのを、二十六日斬って六條河原に梟首した。

義経はこの事変があると、直ちにまた参院してこれを奏した。法皇は表向きに、すべて責を義経に帰し、義経の外京都を守護するものなき今日、もし狼藉(ろうぜき)におよぶこともあらば、誰とて禦(ふせ)ぐものがないから、まず彼に頼朝追討の宣旨を賜り、その内然るべく関東に沙汰せんと、漸く朝議をまとめて、十八日いよいよその宣旨を下された。

『玉葉』によれば、この時京都にはいろいろの風評が風評を生んで、洛中の貴賤上下が騒動した。或いは義経が付近の国々に使いを出して軍兵を催したが好結果でなかったとか、或いは義経に法皇以下を奉じて、九州に下らんとする企てがあるが、法皇御許容の様子がないなどと、巷説区々(まちまち)であった。右大臣兼実の如きも一時は、義経が法皇以下の人々を相具して西国に下ると信じ、その女房など加茂雲林院の辺に避けしめた程である。

かかる計画は、既に平家も試みた、また義仲も試みた。それで義経もこれらの先例を追うであろうという想像から、まず噂が生じたのである。或いは行家などにそんな考えがあったかは知れぬが、義経は毛頭最初から法皇を奉じて九州に下ろうと思っていなかった。彼はただその身を京都から退いて、徐ろに時期を待つという決心をしていたばかりである。

それで再三法皇に起請文を上って、さる計画がないことを誓い、御心を安じようとした。義経にしてもしそんな計画を決していたなら、彼は一気呵成(いっきかせい)に法皇に迫って、これを実行するに何の躊躇するところもなければ、何の恐れ憚(はばか)る人もない。それに泰経をはじめ院の近臣も既に義経に同意している。義経の如き機敏な行動を取るものが、猶予逡巡すべき筈ないではないか。

二十二日昌俊失敗の飛報が鎌倉に達した。折しも二十四日に頼朝は義朝の廟南御堂の落慶式を控えていたが、京都の形勢の容易ならぬを見、その沈重なる性格から、じっと堪えてその日となり、供養が済んで営中に帰るや否や、彼は侍所別当和田義盛、所司梶原景時を召し、頼朝自身上洛の旨を告げて、急ぎ軍勢を召せよと命じ、且つ明朝早く先陣に進まんと思う者あらば、その人数書を別に注進すべしと言い含めた。

恰度南御堂の供養で、関東の武士多く鎌倉に集まっていたので、千葉常胤以下宗徒の面々たちまち馳せ参ずるもの二千九十六人に及んだ。しかも進んで上洛せんと申し出たものがただ僅かに小山朝政、結城朝光等五十八人に過ぎなかったことは、如何に鎌倉の将士が、或いは心を義経に寄せ、或いは義経を恐れていたかが分かるであろう。

頼朝は兼ねて義経の常に攻勢を取る手並みを知っている。そしてまた義経が彼に反抗するものと誤り信じている。従って義経が必ずや東国に攻め下るに相違ないと予想し、この五十八の勇士に「一刻も早く墨俣河の渡を固め、なお進んで行家義経を容赦なく誅戮せよ、もし、両人京都に居らずば頼朝の命を待て」と命じて先発せしめ、彼は二十九日鎌倉を出て上洛の途に就いたが、十一月一日駿河の、黄瀬川に至り、京都の模様を聞き定めるまで逗留すると号し、乗馬や兵糧の用意をすることとなったが、これは恐らく、一は思うように軍兵が集まらなかったのと、一は義経の兵略を恐れたためであったろう。
この黄瀬川は、彼がはじめて義経に会し、互いに手を執って懐旧(かいきゅう)の涙に暮れ、八幡太郎に於ける新羅三郎の如しとまでいったところである。夜半夢驚くの時、彼は果たしていかなる感慨に討たれたであろうか。

偶然にもこの十一月一日は、また義経が既に西下の準備を終え、京都を辞せんとする日であった。
然るに摂津に下って船の用意をしていた郎党伊権守兼資が、その国の武士太田太郎等に襲われて敢えなくも討死したためであったろうか、また一両日延引することとなったが、前にもいったように、義経には頼朝追討の宣旨は何の必要もなければ、無論その本意でもない。それよりも安全に九州に下って勢力を養うことが彼に緊要なことであった。

それで翌二日義経は参院して、いよいよ明暁出発する趣を奏し、さて申すよう、
「君を始め九州に伴い奉るよし天聴に達し、いかにも恐れ多ければ、さきに起請を奉り候いつれど、なお院に祇候に輩発向の用意あると承る。左様の事、郎従或いは申すもの候いしかど、義経の内心に於いては更に叡慮に背き候はず、ただ最後の御願、山陽と西海の両道、荘園公領と申さず、義経の管轄に属せしめ、租税年貢等、義経に沙汰せしめらへ候へ、且つ豊後の武士等に、義経行家に合力すべき旨御下文を賜わらば、生々世々の御恩にて候」
とて、最初の嘆願を繰り返したので、その夜遂に、義経を九国の地頭に、行家を四国の地頭に補し、なお四国九州の住人等両人の下知に従うべしと院庁の下文を賜った。

かくて義経等は明三日西国に下るべしと聞ゆるや、洛中の貴賤上下、今夜こそ義経等の部下必ず狼藉を働き、或いは放火或いは乱入、思うままなる振舞あらんと、逃げ惑いつつ驚き騒ぐ。兼実はこの夜の事をその日記『玉葉』に述べて、「春日大明神を念じて何処にも逃げず、ただ運命に任すのみであった」と書いている。しかしそれは全く杷憂であった。
義経の兵は、平生の修練と主将の性格とによって、敵に対する外は、慈悲に富み情深く、秋毫といえども犯すところなき精兵である。

三日となった、午前八時、義経は赤地錦の直垂に萌黄織の甲を着け、行家は桜織の甲を着て、旅装全く整いたり。
いで都を後ちに西国に下らんと、その邸を立ち出たが、今はの際に最後の御暇申すべく、使者を院の御所に遣わして、
「鎌倉殿のせん責を免がれん為、ただいま鎮西に落ち行き候。今一度龍顔を拝したく候えども、身の装異体に候へば、是にて御暇乞申候」
と奏し、そのまま京都を出発した。

相従うものは誰々ぞ、平大納言時忠の息前中将時実、侍従良成(義経の異父弟、一條大蔵長成の男)、伊豆右衛門尉有綱、堀弥太郎景光、佐藤四郎兵衛尉忠信、伊勢三郎義盛、片岡八郎弘経、弁慶法師以下同勢凡そ二百余騎、いと静粛に駒打並べ、振り返り振り返り都を出ずれば、洛中みな安堵の思をなし、随喜の涙を浮かべて、秋毫も犯さぬ義経の所行に感嘆せぬものはなかった。

この都落を見ても、誰か義経の人格を偲ばぬものがあるであろうか。想うに、かくの如く静粛に、かくの如く殊勝(しゅしょう)に、京都を立ち退いたものは、これまで殆どなかったといってよい。

保元平治の乱に、京都が戦塵の巷となったときはいうまでもなく、平家の都落には、一門の家々に火を放ちて余炎数十町に及び、法皇は逃れて叡山に御幸せられ、宮中も公卿もはたまた市中も、その騒動は名状することが出来なかった。

義仲が宇治河の合戦敗れたと聞いて、甲冑を鎧い、随兵六十余騎を率いて院の御所へ馳せ参じ、剣を抜きかけ、目を怒らして砌下(さいか)に立ち、御輿を寄せて臨幸を迫ったときは、上下色を失い、公卿殿上人各々藁沓(わらぐつ)を穿(は)いて、扈従の用意をした次第であった。

これに較べて、義経が身の装畏れ多しとして、遙かに御暇を申しし殊勝さ、いかにも奥ゆかしい態度ではないか。彼の容易に人に許さなかった、しかも頼朝に好意を表していたと思われる九條兼実すら、「義経等の所行実に以て義士というべき」と評しており、『源平盛衰記』の著者が、「凡そ義経京中守護の間、威あって猛からず、忠有って私なく、深く叡慮に背かず、遍く人望に相叶う」といい、また「今度の奏聞、次第の所行、壮士の法を乱さず、生きては嘆められ、死しては忍ばれけり」と嘆美の声を放っているのでも、義経の人格と性行とが武士の鑑として尊ぶべきことを了解するであろう。

この後義経が亡命して近畿の間に潜行せし時、世の同情を失わず、京都付近のものが、表面頼朝を憚(はばか)って謀叛人呼ばわりをしながらも、最後まで密に義経を庇護した形跡があるのは、誠に所以あることと言わねばならぬ。
 
 

第十章  了
 


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源義経研究

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2001.04.12
2001.06.22 Hsato