九 頼朝の不興
  

壇の浦の捷報を斉した義経の飛脚が、京都に着いたのは四月三日の夜、引き続いてまた源兵衛尉弘網を以て、生捕死人手負等の人数書を注進せしめたのが翌四日、後白河法皇叡感浅からず、直ちに右大臣九條兼実、内大臣徳大寺実定等と議したまい、五日大夫尉信盛を勅使として西海に下し遣はさる。

信盛院宣を蒙って宿所にも帰らず、鞭を上げて馳せ下り、「征伐既に武威を顕し、大功の至り殊に感じ思し召される所なり」と、有り難き院旨を宣べて厚く義経の功を労い、又神器の儀、一日も早く無事京都に入れ奉るべしとの御諚(おんじょう)を伝へた。

同じく義経の使者が鎌倉に着いたのは、京都よりも七八日遅れて四月十二日、恰度頼朝が父義朝の新廟南御堂の柱立に臨場している折りであった。

藤判官代邦通頼朝の御前に跪(ひざまづ)いて注進の一巻を読み上げる、大江廣元、筑後守俊兼、筑前三郎等その砌(みぎり)に候う。頼朝は感極まれるが如く手に受け取ってこれを巻き、鶴が岡八幡宮の方を伏拝み、暫(しば)しは出す言葉もなく座っているのみであった。そして柱立上棟の式を終わって営中に帰るや、彼はまた使者を召して、再び合戦の有様などを委細に尋ねた。

頼朝は翌十二日人々を集めて善後のことを評定し、雑色時澤、重長を飛脚として、「範頼は猶暫く九州に留まって、平家方の所領没収など、それぞれ後始末をつけよ、義経は生捕等を相具して早く上洛せよ」と言って遣った。

想うに、頼朝がはじめて義経の報告を耳にしたとき、彼は恐らく思いもかけぬ大捷に驚いたであろう。彼は壇の浦海戦前十余日、三月十二日には、平家追討のため遙々伊豆国から兵船三十二艘を解覧せしめて兵糧を運び、範頼の窮状を救わんとした程で、義経がかく急に大功を奏することは夢にも考えなかったことである。

まして彼ははじめ義経に四国を討てと命じ、九州の方面は範頼に任せていたのであったから、義経がたちまち四国を平げ、進んで、平家最後の根拠地に向かい、壇の浦にこれを全滅せしめたことは、全く意外であったに相違ない。

さらば彼が捷報に接し。暫し出す言葉もなく座っていたのは、平家追討の宿志を達して驚き喜んだばかりであたろうか、また果たして義経の死を賭して戦ったのを感じたためであったろうか、またこれによって義経に対する疑雲を晴らし心中釈然たるものあったのであろうか、否、彼はこの時既に義経を呪わんとしていた。恐らく義経を排斥せねばならぬと決意したであろう。

宇治河一の谷の戦功すら、彼は危惧の念に打たれ、景時の讒言その虚につけ入ったではないか、彼は自ら義経を推挙せざりし非を悟らず、義経が法皇の恩命により左衛門尉に任ぜられたるを怒って、直ちに義経の平家追討使を止め、義経をして孤立せしめんとしたではいなか。

義仲と断ち、行家と離れた彼が、義仲既に亡び、行家また勢力を失った後に、また義経を疑い、これを除かんとするに至ったのは、殆ど予定された行動として差支えない、後日範頼が悲運の最後を見るのも、決してただの富士の巻狩における出来事のためのみではない。

平家の一門はここに滅んだ。そして今や頼朝が天下を自由に進退すべき時機は到来した。が、同時に彼の眼には義経が一敵国の如く映じて来た。

さきに一の谷の逆落し、既に鬼神の所為とも見えたではないか。河尻の大風に兵船を出した豪胆果決、また人間の所行とは想われなかった。まして壇の浦に平軍を掩撃(えんげき)して、之を全滅した手並み、心は剛に謀は勝れたり、法皇の御覚え日に目出たく、公卿の間に声望ますます高し、もし関東の将士義経に心を寄せるものあらば、必ずしも鎌倉に枕を高くすることが出来ぬと、頼朝は彼自身が政治家たり、権略に長じたりしが故に、その色眼鏡から、ただ兵略家たる義経を、政略家なるが如く誤解したのである。そして骨肉の親、同胞の義は既に忘れられてしまっている。

然るに義経は、どこどこまでも兄を兄とする弟であった。親なき後は兄、その兄を親と思って、彼は少しも頼朝に楯突く考えはなかった。頼朝が政治家的眼光を義経に向かって放ったのに対し、義経は常に頼朝を兄とも親とも見て、骨肉の血潮が二人の間に通じているかのように感じている。

彼は去年の任官によって兄の怒に触れ、多年の宿志であった平家追討の印綬を奪われたとこを如何にも心外に思った。そして悲哀の涙を袖に包んで、京都に憂き半年を暮らしていた。

されどやがて、範頼の無能無策、平軍のために窮地に陥ったため、頼朝も再び義経を起たしめねばならぬこととなった。義経は、潔く戦場に討死して申訳をするか、偉功を立ててその罪を償い兄の感賞に預かるが、二つに一つと思い定めて京都を出陣した。

幸にも屋島の奇襲に、壇の浦の海戦に、やっと平家を亡ぼして積年の素志を達し、父の亡執を晴らしたとき、彼はその報告を得る兄の喜びを想像して、独り快き微笑を洩らし、頼朝が彼を見んこと、また一の谷合戦以前の昔に復るであろうと信じて疑わなかったのである。

悲しいかな、二人の間には遠い隔たりがあった。頼朝は最早黄瀬川の陣で、初めて未見の弟に対面した兄ではなかった。彼は今鎌倉幕府の創立者、武家政治の棟梁である。幕府の勢力を張り、武家政治を確立するには、兄もなければ弟もない、寧ろ一族の中に勢力を有するものがあっては、その武家政治の中心を危うくするものと思ったのである。彼はまず義経を排斥する前提に着手した。

この月十五日頼朝は一令を発し、関東の御家人はすべて頼朝の推挙を得ねば、朝廷の官に任ぜられることが出来ぬこととしてあるのに、その内挙を経ずして、京都で検非違使などに補せられたものがあるのは奇怪千万である、こんな面々は本国に下ることは決して相成らぬ、京都に留まって警固陣役を勤めさせよ、もし尾張の墨股河以東に還るものがあったら、その所領を召し上げ、斬罪に行うであろう、と厳重に申し渡した。

この人々には、義経股肱の臣佐藤忠信もあった。宇治河の合戦に殊動のあった渋谷右馬允重助もあった。その数は二十余人。無論その内には梶原景時の子友景景高なども加わっていたが、多くは義経と親密な関係者を含んでいたであろう。そして此等の人を勘発したのは、一面において多少義経の勢力を殺ぐ所以であったかも知れぬが、それよりも更に、義経をしてその大夫判官となったことを、いかに鎌倉に対して不都合なるかと、自覚せしめんと試みたのであろう。

しかし頼朝もまた一箇の人である。兄弟の情、骨肉の親、半夜夢覚めて、かの率直にして純潔なる義経の性格に思い及ぶとき、その心が動かなかったであろうか、しかも彼はまたよく諌を容れる度量をもっている。

もしその左右に侍するもの、その間に斡旋したら、或いはまた畴昔(ちゅうこん)の兄弟となったかも知れぬが、老獪(ろうかい)なる北条時政は後の方で微笑している。冷酷なる大江廣元は心地よげに傍観している。そして奸佞(かんねい)なる梶原景時の讒言ますますその勢いを逞(たくま)しくして、頼朝の骨まで喰い込んでしまった。

それで忠誠な和田義盛、土肥実平、畠山重忠、さては結城朝光などの輩も、却って禍の身に及ばんことを恐れ、誰とて口を出すことが出来なくなった。義経の数奇な生涯の第三期は、かくてここに始まったのである。

もっとも景時の佞邪な人物で、頼朝の恩寵(おんちょう)に傲(おご)り、人を人とも思わぬ振る舞いは、当時鎌倉武士が殆どすべて唾棄していたのである。

畠山重忠が一の谷合戦に義経に付いたのも、全く彼を嫌ったためであった。が彼は頼朝を石橋山に助け、頼朝の信任を得ていたので、多くの人々も恨を呑んでこれを忍んだに過ぎぬ。

義経が竹を割ったような気象は、こんな佞邪な人を軍奉行として共に軍陣に立つには、余りに潔癖であった。それでしばしば彼と衝突して、ますます彼の憎悪を受けることとなったのは、また義経の人物がいかに立派であったかを反証するものである。

正治元年頼朝薨去(こうきょ)の後、結城朝光が「忠臣二君に事へず」といったのを、景時が頼家に讒言して、朝光を謀戮せしめようとしたことがある。三浦義村はこれを聞いて大いに驚き、「文治以降、景時の讒に遭って、命を失い身を滅ぼしたものは数え切れぬ程で、既に安達景盛などもその一人であった、世の為め君のため退治すべし」と、激を飛ばして、千葉常胤、和田義盛、畠山重忠、葛西清重以下三十八人の宿老を鶴岡八幡宮に集め、神前に血誓して、景時放遂の訴状を認めた。

やがてだんだん馳せ加わって、連判状に名を署するもの六十六人、義村義盛の両人これを大江廣元に付して幕府に訴えたところ、廣元元来景時以上の大奸で、いわば景時と一つ穴の狢であった。

この訴状を受け取って、心中非常に周章てたが、頼朝以来親しく左右に御奉公申したのも、いまたちまち罪に所するに忍びぬとの理由で、彼は訴状を握り潰さんとしていた。

十一二日過ぎた、廣元は音沙汰もせぬ、と義盛は営中で廣元に出遇って、まだ将軍家の御覧に入れぬと聞き、眼を嗔(いか)らし詰め寄せて、
「貴殿は将軍家の爪牙とも耳目とも申すべき方に候はずや、永い年月の御奉公、君の信任を忝(かたじけの)うしながら、景時一身の権威を怖れ、諸士の鬱憤を開かれざるや如何に、御披露の有無この席に於いて承り切りたく候」
と責めつけられ、廣元はその権幕に恐れて漸く将軍頼家に取次いだ。

その結果景時は遂に鎌倉を追放されたが、平生怨を含んだ人々、彼を追討にして駿河の狐崎で殺してしまった。

こんな人物の言葉に、どれだけの事実を含んでいたかは、ここに言う必要がない。しかもそれを頼朝は信用した。よし信用しなかったにせよ、彼はこれを口実として義経を苦しめることとなったのである。

四月二十一日景時の使者が鎌倉に参着した。景時はまず屋島壇の浦に於ける源軍の勝利を吉瑞に帰し、出来るだけ義経の戦功を没して自ら利せんと試みた。

「西海の御合戦には吉瑞多く候いき、事平安に帰し申せしは、兼ねて神明の祥瑞を示し給うところに外ならず候。去る三月二十日の夜、郎従成光の夢に、石清水八幡大菩薩の御告ありしが、壇の浦の合戦少しも違わず、味方の勝利となりて候。又屋島の戦場に於いて平家の人々には味方の小勢幻のごとく数万騎とも見えたりと申す。

「次に去年、長門の国にて合戦候いし時、大亀一つ出て来て海上に浮かびしが、やがて陸に上りしを捕えて、参河守殿の御前に持参せしに、参河守殿制禁を加え、簡をつけて放たれしこと候いしが、平氏の最後に件の亀源氏の兵船に浮かび出で候いしは、その簡にて知られ候。」

「また白鳩二羽、源氏兵船の屋形の上に舞い候とき、平氏の一門海底に入りしと申す」など、数々の奇瑞を並べ立てた後、

「さて判官殿、君の御代官として、御家人の面々を副え遣はされ、合戦を遂げて勝利を得られ、頻(しき)りに一身の功と存ぜられ候えど、これ偏に多勢の合力に依るところにこそ候へ、所謂多勢の人々と申すもの、一人として判官殿のためを思わず、君に従い奉らん志深くて、同心勲功を励ましたる次第、御推察たまわれかし。

「なおまた平家討滅の後、判官殿の形勢、日来の儀に超えて暴々しく、士卒軍兵如何なる憂目に遭うことかと、皆薄氷を踏む心地、真実和順するものなく候。景時御所近侍の士として、憖じい厳命の次第を承り候へば、判官殿の非違を見るごとに、関東の御気色に違い申さんと、諫(いさ)め申し候へども、返って身の仇となり、動もすれば刑罰を招かん程にて候。幸い合戦勝利に帰し候上は、判官殿に従いおり候こと心もとなくこそ候へ、早く身の暇を賜り、関東に帰参いたしたく候」
と言葉を飾り、如何にも婉曲(わんきょく)に義経を讒した。

元来幕府の制では、侍所という役所で、兵事に関することを統べしたもので、範頼義経を大将として西海に下したときも、軍奉行として、別当の和田義盛を範頼につけ、所司の景時を義経に付けた。

範頼は頼朝の仰に背かず、大小の事々すべて義盛や老将千葉常胤などに相談したが、義経は大抵の事を自身で決行する。それが第一景時の気に入らなかったことである。そしてたまたま口を出せば、古今独歩の兵略家たる義経から、一言の下に排斥(はいせき)せられてしまう。のみならず義経は、最初から奸侫(かんねい)な景時の人物を嫌っている。そしてどこどこまでも頼朝の弟として彼を家来扱いにしたが、景時は元来頼朝に諂(へつら)って勢力を得た人である。義経を主君として仰ぐ考えがない。

自分でも言っている通り、合戦をするのは頼朝の為である。必ずしも義経の命令を奉ずるに及ばぬと思っている。しかも彼は一の谷合戦には生田森の二度の懸け、チョット勇名を歌われたが、彼が屋島に着いたときは、最初合戦が済んだ後の祭であった。もし逆櫓(やぐら)の論争をしたのが事実であったら、彼が義経にすっかり鼻を明かされたことは、さぞ忌々しく思ったことであろう。彼はその時既に義経に復仇せんと決心していたに相違ない。

『源平盛衰記』に、彼が壇の浦で先陣を承りたしと申し出で、また義経から揆ねつけられたことを述べてある。それもすべて信用される記事であるか分からぬが、少なくとも景時が軍奉行として何等の活動をし得なかったのは事実であろうと思う。

従って彼は屋島合戦に後れた怨未だ晴れぬに、壇の浦で更に義経を怨むことになった。そしてこの屋島壇の浦二度の大捷を、事々しく誇大せる奇瑞に帰し、義経の偉功を没し去らんと試みたのみならず、影形もなき義経の亡状を並べて、頼朝の嫉怨心を激発せんとしたのが、快くも頼朝の意に投じたのである。

義経の高名何事ぞ、頼朝こそ軍兵を差上せて、平家を亡ぼし、天下を穏にしたのである。義経一人の巧ではない、義経は頼朝の代官たるに過ぎぬ、彼が頼朝の御家人を相具して勝利を得ながら、屋島合戦も、壇の浦合戦も、これを己一人の偉勲なるが如く考えるは、不都合である、不埒である、と頼朝は赫(かく)と怒った。

もっとも義経が壇の浦に大捷した後は、九州の事が、元来範頼に支配されることになっていたに拘わらず、範頼の無能なる僅かに豊後に留まり、何等なすこともなかったので、義経が九州の事までいろいろ取り計らったことは事実であろう。
そして義経のきびきびした裁判振りは、戦勝に誇り乱暴を働く武士の上にヒシヒシと加えられたであろう。或いはこの輩も窃(せつ)に鎌倉に不平を訴えたかも知れぬ。これが頼朝をしてまた義経を勘当せしめた所以で、且つ最もよい口実となったのである。

四月二十九日、頼朝雑色吉枝を使として西海に遣り、田代冠者信綱に一書を送って、「判官は関東の御使として、後家人を相副へ西国に差遣われしに、自立の儀を存じて、侍共を私に召し仕う思を成し、御家人の面々これを恨む趣聞こえたり、この後志を関東に存する輩は義経に従うべからず、この旨内々触れ申し候へ」

といって遣ったが、五月の四日景時の使者が還ったときの手紙には、明らかに義経を勘当して、今度は義経の下知に従うに及ばぬ。平家の生虜既に京都に着いたということであるが、大事な罪人ゆえ、その罪名の決するまで、景時以下の御家人心を合わせて守るよう、各意任せに関東に帰ることを相成らぬと言い渡している。

義経は鎌倉に於ける風雲の暗澹(あんたん)たるものあるを露知らなかった。彼は叡感に預かって面目鎧の袖に包みあえず、神鏡神璽を奉じ、生虜の人々を相具して長門を出発し、播磨の国明石の浦に着いたのが四月十六日、名にし負う名所の月は、隈なく冴え渡って雲の上にもあらん心地、やがて同月廿五日、まず神鏡神璽御入洛、義経は郎等を従えて前行す。朱雀を北へ行き、六條を東に行き、大宮を北へ行いて侍賢門に入御、御朝所に着御したまい、神剣は海底に沈みたれど、神璽と神鏡とは三年ばかりの後、芽出度ここに還御あらせられたのである。

宗盛、時忠以下の生虜は二十六日入洛、宗盛父子は、武士百余騎に車の左右を警固され、大路を渡して後、義経の宿所六條堀河の邸に預けられた。建禮門院は東山の麓吉田の辺に入らせられ、伴いまいらせた女房達も皆散り散りになって、後は御心細さに消え入らんよう、今はかえって波の上船の中、同じく底の水屑と成っていたならばと、心に思し召されるも哀れであった。

『源平盛衰記』にはこの間の事を詳叙し、義経が如何に好く建禮門院をはじめ、宗盛、時忠などの生虜を遇したかを述べている。或いは帰洛の途、明石の浦の明月の夕、彼は時忠夫妻を様々に慰め労はり、或いは建禮門院の御上痛わしく思いて、女房達の装束まで調進まいらせ、或いは当の敵宗盛父子をすら、その境遇に同情し、彼が勲功の賞に命乞いすべしとまで、憑し気に慰めた程である。軍にかけては鬼神の如き彼も、戦一たび終われば敵なく味方なし。光風霧月、優にやさしき武将であった。

彼は都人の眼にも、仁義の武士として、東男に似ず情ある人と映じた。ただに味方の勇士に募われたばかりでなく、永い間武士と侮(あなど)って、共に肩を並べるを恥じていた京都の朝臣にさえ、その声望の高かったのは、実に彼が玲龍王の如き性格の為であった。

しかしそれが今や彼を九顛直下(きゅうてんちょっか)千仭(せんじん)の谷底に落とすこととなったのである。

元来義経は頼朝の命によって、河越重頼の女と結婚し、去年九月その妻も既に上洛していた。然るに平大納言時忠は当時の公卿中にあって、政治的手腕のあった人で、はじめ清盛と結託して勢力を得、平家一門と共に都を落ちたのであったが、壇の浦合戦に生虜となり帰京するや、彼は義経の人物を看て取り、その声望によって、ここに活路を開かんとし、その女を義経に与えて、また親密なる関係を結ばんとした。

世が世なれば女御后にも立たせられる大納言の姫君、如何にも臈たげに華やかなる風情、或いは土臭い河越太郎の娘よりも好かったかは兎にも角にも、義経は例の単純率直な性格から、この問題を重大視せず、既に時忠に同情し好意を有する以上、喜んでその女を迎えた。

が頼朝には、かく義経と公卿との関係親密になることが、彼の政治的見解から頗(すこぶ)る重大視せられた。人もあろうに平大納言の婿になるとは心得ぬ次第、又世を憚(はばか)らぬ時忠の婿取沙汰も奇怪至極であると、彼は義経に対して、更に一層不快の念を起こしたのである。

義経は鎌倉から、今日にも喜びの使者が来るであろう、明日にも恩賞の沙汰があるであろうと待ち設けていると、図らざりき、四月二十九日には既に頼朝の勘当を受けていたのであった。

この報を得た彼の驚愕は、恐らく喩えるに物がなかったであろう。早速亀井六郎を使いとして、五月七日鎌倉に馳せつけさせ、全く異心を存ぜぬ次第を、起請文にして頼朝に差し出したが、その取り次ぎは後に景時放遂の訴状を握り潰そうとした、冷酷なる大江廣元であった。頼朝は義経の状を見て、

「三河守は西国から連々飛脚を進めて、事々自由に振る舞はず、その志神妙なれば、頼朝また懇(ねんご)ろに思うこと浅からぬに、判官は動きもすれば専断の計を為し子細を申さず、今頼朝の気色快からぬ由を伝え聞き、始めて飛脚を遣わし起請文をまいらするは、許されぬ判官の仕打ちぞ」
と、彼の不興はかえってますます加わるばかりであった。

義経はこの度の勘当が既にその身の一大事であることを知った。そして一介の飛脚、一封の起請文が頼朝の怒を解く能はざらんことを危ぶみ、彼は自ら頼朝に対面して、一々申し開かんと決心した。それで亀井六郎が鎌倉に着いた五月七日、彼は宗盛父子を相具して六條堀川の宿所を出て立ち、十五日相模の国酒匂の宿に着いた。

前触として堀彌太郎景光を遣し、明日鎌倉に入るべきよし幕府に注進したが、頼朝は北条時政をして、武者所宗親、工藤行光等を従えて酒匂に至り、宗盛父子を迎えしめ、義経へは結城朝光使節となり、直ちに鎌倉に入るを許さず、暫く其辺に逗留(とうりゅう)して召てら待つべしと沙汰に及んだ。

ところが十六日ここに一事件が出来した。義経と一緒に京都を出立った一條能保の侍後藤基清の家来が、義経の郎党伊勢三郎義盛の僕と斬合を始めた。恰度義盛の宿舎の前を基清が通って、その後から旅具を持つ人夫が付いて来ると、義盛の馬が之を踏んだというのが喧嘩の起こりで、まず基清の家来が刀を抜き、馬の手綱を切り放して往ってしまう。義盛は走り出て、竹の根の蟇目を以て、残っていた人夫を射る。基清引き返して義盛と勝負を争わんとする。それを能保が宥(なだ)める。聞き入れぬ。報知を得た義経は馳せつけて、ヤッとこれを鎮めることができたのである。

一條能保は頼朝の妹婿である。そして義経と共に京都を守護し、頼朝の耳目となって、公卿と鎌倉との間に立ち辣腕を振るった人である。されば無論義経よりも政治的の方面に活動していた。或いはこの度の下向また頼朝が義経を排斥(はいせき)せんとする議に加わるためであったかも知れぬ。
その闘争の事も、別に能保が訴えた訳ではなかったが、自然頼朝の耳に入っては、義経の郎党など驕慢など振舞如何にも奇怪なりと、頼朝の怒は激しかった。

それからまた一つ不利なことがあった。伊豆守仲綱の子で、義経の婿になった伊豆冠者有綱、多く近国の荘園公領などを掠(かす)め領していることが幕府に聞こえて、この月十九日に評定あり、いよいよ奏聞を経てその罪を糾弾することとなった。

かく義経に関係深きものが、折りも折頼朝の不興を蒙るようなことになったのは、義経に取り大なる不仕合であった。彼は鎌倉に入ることも叶わず、凡そ一週間ばかり腰越駅に日を送っていたが、何たる沙汰も鎌倉から下らぬ。彼は如何に煩悶(はんもん)したであろう。また如何にその不運を悲しんだであろう。彼は遂に堪え得なくなった。そして疑状を認め、大江廣元に依って頼朝に差し出した。

これが世に有名な腰越状である。その全文が『吾妻鏡』に載っている。左に仮名交じり文に訳してまずこれを揚げる。
 
 

左衛門少尉源義経恐れながら申上候
意趣は、御代官の其の一に選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け累代弓箭の藝を顕し、會稽の恥辱を雪ぐ、抽賞せらるべき所に、思いの外に虎口の讒言に依って、莫大の勲功を黙止せられ、義経犯すこと無うして咎を蒙り、功有って誤無しと雖も、御勘気を蒙るの間空しく紅涙に沈む。情事の意を案ずるに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らう、とは先言なり。

ここに因って、讒者の実否を正されず、鎌倉の中へ入れられざるの間、素意を述べること能はず、徒に数日を送る。此時に当たって永く恩顔を拝し奉らずんば、骨肉同胞の義既に空しきに似たり。宿運の極まる所か、将又先世の業因に感ずるか。悲しきかな。此の條、故亡父の尊霊再誕し給はずんば、誰人か愚意の悲歎を申抜き、何れの輩か哀憐を垂れん哉。

事新しき申状、述懐に似たりと雖も、義経身体髪膚を父母に受け、幾の時節を経ずして、故左馬の頭殿御他界の間、実無し子となって母の懐中に抱かれ、大和の国宇多の郡龍門の牧に赴きしより以来、一日片時も安堵の思に住せず、甲斐なき命を存ふ許と雖も、京都の経廻難治の間、諸国を流行せしめ、身を在々所々に隠し、辺土遠国に栖まんが為に、土民百姓等に服仕せらる。

然り而して幸慶忽ちに順熟して、平家の一族追討の為めに、上洛せしむるの手合に、木曽義仲を誅戮するの後、平家を攻め傾けんが為めに、或時は峨々たる大海に、風波の難を凌ぎて、身を海底に沈め、骸を鯨鯢の鰓(えら)に懸けんことを痛まず。加之、甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併せて亡魂の憤を休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外に他事無し。剰へ、義経五位の尉に補任せられるの條、当家の面目、希代の重職、何事か是に加へん。然りと雖も、今憂深く歎切なり、佛神の御助にあらざるより外は、争でか愁訴を達せん。ここに因って、諸神諸社の牛王宝印の裏を以て、全く野心を挿まざる旨、日本国中大小の神祇冥道を請じ驚かし奉って、数通の起請文を書き進ずと雖も、猶ほ以て御宥免無し。我国は神国なり、神は非禮を稟けたまふ可からず、馮む所他にあらず、偏に貴殿廣大の御慈悲を仰ぐのみ。

便宜を伺い、高聞に達せしめ、秘計を廻らされて、誤無き旨を優せられ、芳免に預らば、積善の余慶を家門に及ぼし、栄華永く子孫に伝へ、仍(よ)って年来の愁眉を開き、一期の安寧(あんねい)を得ん。

愚詞を書き尽さず、併せて省略せしめ候い畢んぬ。賢察を垂れられんことを欲す。義経恐惶謹言。

    元暦二年五月  日              左衛門少尉源義経
  進上因幡前司殿

この腰越状なるものは、普通の披露文や、申し文などと、様式文言等が異なっている。恐らく歎状(たんじょう)そのものの原文ではないであろう。併(あわ)し、如何によく血を吐くような義経の心情が描かれて、惻々(そくそく)人を動かし再び読むに忍びざらしむる心地がする。たとへ原文がこんな名文でないにせよ、もしその原文に接するを得たら、これ以上もっと率直に彼の真情を吐露したものであろう。

まず義経がどこまでも弟として兄に服従する態度を明らかに写している。兄の態度が変っても弟の心は変わらぬことを最もよく告白している。また義経には、政治的野心もなければ、利己的私心もない。ただ父義朝の亡魂を休めるというのが、すべて彼の事功の目的であったことが、よくこの状に見はれている。そして彼が武士道の権化たる所以のものは、また実にこの状に流露し、この腰越状は武士道の教訓書としても価値を有することを示している。しかしこの義経が畢生(ひっせい)の心血を注いだ歎状も、遂に頼朝の心を動かすことが出来なかった。

頼朝には、もはや骨肉に濺(そそ)ぐ涙が乾いていた。彼は武家政治の前には何物をも犠牲としたのである。彼は義経に対面しなかったのみならず、鎌倉にすら入ることを許さなかった。

義経は六月九日また宗盛父子を引き連れて酒匂を出発し、快々として京都に向かった。そして彼が勲功の賞にかけて、敵人ながらも宗盛父子の命乞いをしようと思ったことも水泡に帰し、罪名既に定まって、宗盛は近江国の篠原宿で橘左馬允公長に討たれ、清宗は野路宿で堀彌太郎景光に斬られた。

狡兎(こうと:かしこいウサギ)尽きて良狗(りょうく:良い犬)煮られる運命は、今や義経に迫ってきたのである。
 
 

第九章  了
 


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源義経研究

義経デジタル文庫

2000.03.30
2001.04.09 Hsato